修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

霊的存在から学んだ事 その4

私が、まだ霊障に苦しんでいる頃
色々な霊能者を訪ねては、相談に乗ってもらう・・
と言う事を繰り返していた時期があります。


まぁ~毎回、祓えない・・と断られるか
除霊を試みても出来ない・・か?のどちらかで
そんでもって、ガッツリお金を払ってくるわけです。w


何度も繰り返せば
いい加減、諦めればいいものの
何とかしてくれる霊能者が必ずいる!と
信じて、そんな人を探していましたね~
私を苦しめる存在は『悪』として
それを疑う事をしなかったのです。

ようするに常に自分が正しくて
己を省みる事をしない・・
といった情けない状態だったわけです。

まぁ~自分を振り返る事が出来れば
霊能者に相談なんかしないですし
自分の人生がうまくいかないのを
誰か何かのせいしたいから
スピリチュアルな世界に走るのが
定番ですしね~w


で、『貴方は34歳で死ぬ!』なんて事を
複数の霊能者に言われたりもして
『もういいや!』なんて半ばあきらめで
信州に引っ越したわけです。

この霊障と一生付き合うなら
せめて空気と水の美味しい所が良い!
なんて思ったんですよね~

引っ越した所で
自分を変えようとしないので
同じだったんですが・・w



で、自分の事なので、やっぱ人に頼ってちゃダメだなぁ~
なんて、思い始め、色々な方について
しっかり修行するようになりました。

特に日本神道との縁は衝撃的で
その教義に心が震えた事を記憶しています。

【全ては神々がなさっている事です。】
と、そんな事を言われたのです。
『なにそれ?え??この霊的苦痛も神様がしてる事なの?』
って思いましたね~
その言葉のおかげで、現実から学ばなくては!
と、思うようになったのですが
でも、実際に、その教義を
教えてくれた方がやっている事は
悪霊退散!だの
土地の鎮魂だの
禊修法だの・・
心霊相談など
え?教義と違うじゃん!と
疑問を抱きながらお手伝いしていました。w

だって、全ては神様がしている事なんで
そこからも、学ぶ事があるでしょ?w

そして神道密教修験道
それぞれ、修行三昧の日々を送るようになりました。





神社や寺を拠点として活動をするんですが
どうしても、その場所を維持費というモノが必要になります。

で、奉仕と言う名の、お金儲けをするわけです。w
当然、私は奉賛会の役員をやらされたり
講をつくらされ講元をしたりする事になるわけです。
心霊相談という奉仕活動という名目の
お金儲けの筆頭もやらされましたね~
修行をさせて頂いているので私は奉仕なのですが
相談料〇万円、除霊供養一体〇万円、祈祷料〇万円・・
と、結構な金額の維持費が集まるわけです。

私に修行を付けてくれた方々は
みなさん初めのウチは質素に活動していたのですが
次第にお金が集まるようになり、その頃には
『神様が〇〇とおっしゃっています。』
『観音様が〇〇とおっしゃっています。』
なんてのが、日常茶判事となり
???と、思うようになった頃には
その言葉を求めて人が集まり
更にお金が集まりはじめました。w


私も霊感があるので
確かに同じ言葉が入るのですが
私の性格が歪んでいる為なのか?
『嘘だろ?その辺の霊が言ってるんちゃう?』
と思う事の方が多かったわけです。w



とは言え、実際に奇跡とも言えるほどの
願いが叶うと、さすがに皆さんのめり込むんですよね~

例えば
相談者『15年務めた会社をリストラされそうなんです!』
霊能者『解りました私が祈祷してあげましょう!』
で、祈祷して2週間後
相談者『ありがとごいざます!リストラされなくなりました!』
ってな事がしょっちゅう起こるわけです。

『はっ?マジか!祈祷のおかげなんか?』
と、普通はそう思うのですが
相談者からすれば、もう存在自体が神様なってしまい
皆さんそう思えないようなんです。


で、『ホントにこれでいいの?
完全に依存してるじゃん!・・アカンでしょ?』
と、日に日にそう思うようになってきたわけです。

そのうち私の知らない所で
100万円の壺とか売り始めてましたしね~w
お金儲けに走りだすと
除霊できるアイテムを扱っている業者とか
怪しい連中が集まってくるんですよね~

家系図を作るのに150万とか
で、クレジット払いもOK!w



もうコレアカンやつでしょ?w





まぁ~お金が集まるわ集まるは・・でしたね~
で、思うんです。

『私って、ひょっとして、この組織の幹部?』・・
『これって、犯罪だろ?』・・
霊感商法で逮捕!なんて新聞に載っちゃうじゃん!』
『ないわ~・・マジでないわ~』w|;゚ロ゚|w

と、思うようになり、一気に全部やめました。w
色々と学ばせて頂いた事には、感謝してるんですけど・・^^;)





それからというモノ
山で一人で修行するようになるのですが
その時、学んだのは
『欲に溺れると自分がおかしくなっている事に気づけない』
と、言う事です。
『世のため、人の為!』なんて、常々口走っていましたね~w
コワイコワイ・・
男でも女でも異性に惚れてしまうと周りが見えなくなってしまうのと
同じなんでしょう~ね~・・欲って怖いです!

相談する側もされる側も、はぁ~?と思うような事を
平気でやってましたしね~
あと『人間は我欲に溺れやすい生き物なんだと言う事も知りました。』


『その判断に進化成長はあるか?!』

と、問いただせば、霊的な事柄なんて
進化成長できる事などほとんどないって事も学ばせて頂きました。

依存!依存!依存!ばかりのような感じがしましたし
冷静になって考えると
現実から学ぼうとしていない行為なので
進化成長を止める行為じゃん!・・と思うに至るわけです。


『全ては神様がしている事です。』なんて言いながら
神様のせいにしてお金儲けは・・ちょっとキツかったかなぁ~^^;)




やっぱ霊的行為でお金など受け取ったらダメなんだろうな~
霊感を、戒めを実践する為の感覚とすれば
お金儲けのツールにしちゃうと戒める事できないし・・

もともと宗教的な行為をお金儲けにしてはダメという
記憶が私の中に刻まれているんですが
こんな体験をすると確信になりましたね~


で、私は組織の中でも心霊相談をしていたので
そこを出て1人修行するようになっても
相談に来る方がいるわけで、私の場合は
自然にボランティアの相談活動になるわけです。

で、いざ本当の奉仕活動を続けていると
この自らの時間とお金と労力を、他人の為に費やす行為は
かけがえのないモノをたくさん私に与えてくれました。

また、その行為をする為には
様々な犠牲を生み出す事も知りました。


現代の社会は、他人に無関心で過ごす事ができますが
誰しも一人では生きる事はできず
『人』という字のごとく
常にだれか、何かに支えられている事も知りましたね~


まさしく!
『陰陽交わりて万物を生ず!』
です。




今まで人について修行させて頂いた事は
人の過ちを見せられたんだ!と思うほどでしたね~
『全ては神様がしている事です。』という言葉通りだと感じました。
かけがえのないモノを学ばせて頂いたように思います。

また、悪徳霊感商法の現場に直面する事で
自分の人生は、自分自身で切り開くものだと実感しました。
霊的行為に溺れる人たちがいるからこそ
それに気付けたわけなので
何だかんだと、必要な出来事しか起きていない事も学びましたね~
『全ては神様がしている事』=『全ては必要不可欠な事』
=誰一人、何一つ、『悪』など、存在していない事を知りました。


人の過ちを責めるのではなく
そこから何を学ぶのか?つう事なんでしょう。
ひとりの人が過ちを犯す事で、多くの人が学ぶ事が出来る訳です。
と言う事は、間違いや過ちは、なくてはならないモノと言う事になります。
人の道を外れた人・・
すぐに悪態をつく人・・
超自分勝手な人・・いなくてはならない存在なんでしょうね。






自らの時間とお金と労力を
誰か何かの為に費やす行為をつづけてみると
どんな人も、目の前の世界が大きく変わるはずです。

だって、それが大自然の法則ですしね~


そんなこんなと、現在進行形で
色々と学ばせて頂いております。^^)










霊的存在から学んだ事 その1 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事、その2 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その3 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その4 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その5 - 修行バカの懺悔道

欲を捨てると得られるもの・・・

快楽という幸せを求める事により
幸せを遠ざけてしまうのが人であり
快楽を求める事で悩み苦しみ
多くを学ぶ事ができるのが
大自然の法則だと思っています。




私の場合は、霊的苦痛から解放されたいがために
霊感を無くそうと、必死に自分と向き合った事で
たまたま、己の未熟さに気づく事ができました。

と言うか、己の幼稚さに愕然とし
大きな過ちを犯し続けてきたと
思わざるを得なくなり、深く反省したものです。^^;)

その戒めと懺悔のしるしとして
己の快楽を優先する生き方を捨てようと決め
死ぬまで徳を積み続ける生き方を選択するしかないのだろう・・と
そう思うようになりました。

当時は、自分の幸せを捨てるつもりで
突き進んだのですが、その行為が幸せになる手段だと知った時には
なんだか・・どこまでも私は愚かで、恥ずかしい生き物だったと
情けなくなったのを記憶しています。w



仏教などで聖職者になる為に『出家する』と言いますが
出家とは、家族との縁を切る事をさします。
家族という守るモノがある以上、全ての人に平等に接する事はできなくなり
家族を守ると言う欲が、真理を知る妨げとなるからでしょう。
と言うか、家族との縁を切らない限り
真理を知る事はできないような気もします。

お布施も『志』とするのは、真理を知っているからだと思います。
供養や祈祷費用をビジネスのように定額でもらうより
その方が、寺も発展しますしね~







欲にも陰陽二通りあると思っております。
どんな人も、求めながら過ごして行くのですが
肝心なのは、何を求めて生きて行くか?という事のような気もします。




ここに、我欲が幸せを遠ざける理由を記しておきます。
あくまでも私が体験から学んだ持論なのでご容赦を!















我欲を捨てれば、恐怖心が薄れてゆく。
失う事を畏れるのが恐怖心なので
失うものがなくなる事で、恐怖心が無くなって行きます。



我欲を捨てれば、全ての人に平等に尽くすことができる。
守るモノがあると、それを優先に考える思考が生まれ
どうしても平等に接する事ができなくなるものです。
『尽くす』という行為でさえ中途半端になりますし
その行為に、見返りを求めている事に気づけなくなったりします。




我欲を捨てれば、与える喜びを手に入れる事ができる。
求めるが故に与える事が出来なくなるもので
求める事を止める事で、与える事が出来る。
与える事を実践する事でしか、その喜びを知る事は出来ないでしょう。





我欲を捨てれば、他人の幸せを願う喜びを手に入れる事ができる。
誰しも、自分の幸せ、家族の幸せを願うものですが
自分の幸せより他人の幸せを優先する事で
はじめて他人の幸せを心深く願う事が出来きます。
この喜びは、体験しないとわからないかも?




我欲を捨てれば、感謝できる喜びを手に入れる事ができる。
深く感謝する為には、深く理解する必要があり
深く理解する為には、自分に必要のないモノを理解する行為が必要不可欠です。
通常は、己の我欲が邪魔をして、利にならない物事を理解しようとはしないものです。






我欲を捨てれば、本当の自分を知る事ができる。
他人を深く理解しようとする事でしか
本当の自分の姿を知る事など出来ないものです。
他人に与える為には、その相手を理解する必要があり
相手に求めている以上、自分を知る事など出来ないでしょう。






我欲を捨てれば、生きる世界が広くなる
我欲を求めている以上、その快楽を満たす為の
情報しか得ようとしないものですが
与えようとする時は、より多くの情報が必要となり
自然と視野が広くなるものです。
物事に対しての興味も変わり
多くを知り学ぶ必要がある事にも気づけます。







我欲を捨てれば、怒りや憎しみが消えてゆく。
怒りや憎しみは、自分の何かを奪われた時に生まれる感情であり
初めから奪われるものがなければ、怒りも憎しみも生まれないものです。
怒りっぽい=欲深いという事になります。







我欲を捨てれば、他人を大切に思う事ができる。
普通は自分が一番で自分が大切なのですが
我欲を捨てる事で、他人を優先するようになり
自然に他人を大切に想う心が生まれるものです。
そして、そんな自分を大切に想う事も出来ます。






我欲を捨てれば、生きる目的を見付ける事ができる。
快楽をいくら手に入れた所で、満たされる事はないでしょう。
満たされないモノをいくら求めて過ごしても
生きる目的にはなりえないと言う事です。





我欲を捨てれば、心の自由を手に入れられる。
我欲を求めると我欲に縛られるようになり
その状態になかなか気づけないものです。
我欲に縛られるが為に、怒り苦しみ悩み孤独になるものですが
行動さえも制限され心の事由も失われるものです。
奉仕したくなる気持ちこそが、心が自由になった証でしょうね。






我欲を捨てれば、快楽と幸せの違いが明確になる
幸せは与える事でしか手に入れる事は出来ず
我欲を求めて生きている以上、どんな人も幸せにはなれないのが
この世の仕組みだと思っています。






我欲を捨てれば、無意味な事がなくなってしまう。
無意味だと感じる時は、求めるモノが手に入らないと
思った時に生まれる感情なので
初めから求めていなければ、無意味な事が無くなってしまいます。







我欲を捨てれば、どうでもいい事の大切さに気づく事ができる。
我欲を捨てると無意味な事がなくなるので
どんな出来事も自分にとって大切な事だと思ってしまうようになる。
また、どんな事にも意味を持たせる事も出来るようになる。






我欲を捨てれば、自分の全てを認め受け入れる事ができる。
嫌な自分、嫌いな自分は、理想の自分を求めるが故に生まれる感情なので
その気持ちがなくなれば、どんな自分も許せるし受け入れる事が出来るようになる。






我欲を捨てれば、ゆるす事がどんどんと増え続ける。
ゆるせないという感情は、自分の欲望を阻害する対象に向けるものです。
我欲を求める行為を止める事で、阻害される対象がなくなりますし
逆に、与えようとするようになります。
与える為には他を理解する必要があり
他を理解する行為が、本当の自分の姿を明確に映し出します。
本当の自分の姿を知る事で、至らない自分を知る事になり
ゆるせない相手と自分自身に同じ一面がある事に気づけるでしょう。






我欲を捨てれば、与える事でしか得られないのがこの世だと知る事ができる。
求めているうちは、与えようとしないので
与える事で得られる仕組みを体験する事さえできない為
そんな法則がある事すら知る事はできないはずです。
与え続ける事を行動すれば、誰でも身をもって体験できます。






我欲を捨てれば、常に与えられている事に気づく事が出来る。
求めているうちは、自分に利のある事しか知ろうとしない為
狭い視野で物事を判断する事になる。
しかも、それが全てだと勘違いしながら過ごしてしまう。
我欲を捨てる事で、視野が広くなり
常に与えられている事に、気付く事ができるでしょう。





我欲を捨てれば、感謝すべき出来事しか起きていない事に気づく事が出来る。
私たちは、快楽を求めるが故に、多くを見失っているのでしょう。
今ある物事が当たり前になり、さらなる快楽を求めるのが人の性であり
便利が当たり前を生み出し、感謝を忘れさせて行くわけです。
ただ、こんな便利な社会でも、我欲を捨てれば
視野が広くなり、様々な便利に感謝できるようになります。
出来事から学ぶ姿勢が生まれ、一つ一つの出来事に感謝するようになるでしょう。






我欲を捨てれば、幸せがいつも自分の中にある事に気づく事が出来る。
求めている快楽が満たされる事が幸せだと思っていれば
どうしても、自分の外側に幸せを探してしまう為
自分の中に幸せがある事に気づけない。
求める事を止めた時、自分を見つめるようになり
どんな状況においても自分が幸せだと思う事が出来るようになる。








まだまだ、書きだしたらいくつもあるのですが
この辺にしておきます~



私自身、奉仕活動の中からこれらを学んだのですが
社会の枠組みの中で生活してる以上
欲を捨てる事で、多くを犠牲にするという事も学びました。


特に家族に、自分の志を理解してもらえないと
不平不満を生み出す行為になります。

他人を大切にする前に家族をもっと大切にしろ!・・
と、言われるわけです。w
でも、困っている人を放置してまで
不自由のない家族を優先できないんですよね~
そんな家族が幸せになれるわけもないですしね。


ただ、その事により自分は多くの人に
支えられている事も知りましたね~
昔より、深く感謝できるようになりました。







ただ、幸せを手にする仕組みを知ったので
私は、死ぬまで幸せでいられますし
いつまでも、幸せ者だと思います。

ありがたいことですね~感謝!(^^)

霊的存在から学んだ事 その3

その1
その2
の体験から、霊的存在は自分の心の成長に伴って
見え方感じ方が変わる事が解るようになりました。

どんな現実も自分次第という事でしょう~


そうなると、見えるモノ、聞こえるモノの判断をどうすれば良いのか?
という悩みを抱えるようになります。w
霊感が無くなるわけではありませんしね~


当時の私が選択した行動は、『無視』です。w
とても安易な選択で、見えるモノ語り掛けるモノを
悉く無視すればそのうちなくなるだろう~
くらいに思ったわけです。

基本的に自分本位な考え方が染み付いているので
過去に霊感を無くそうと努力してきた事などすっかり忘れ
そこそこ学んだので、無くなるはずだ!と
決め付けた選択です。w


まぁ~結果的になくならなかったのですけどね。w


で、無くならないと言う
半ば諦めに近い判断をするのが嫌だったのでw
まだまだ、この感覚から学ぶべきものがあるのだ!と
そう受け止めるようにしました。


で、私が取った行動は、基準を作る事です。
所詮は思い込みの世界でも、一つの基準を作れば
私自身の世界の中では、何か見つかるのでは?
と、そう思ったわけです。


人が嘘をつくように、霊も嘘をつくわけで
まして実態のない霊体は、思い込みやすく
騙される事も多くあります。
キラキラを輝きながらいきなり神を名乗り
言われたと通りにしたら大金が入ってくれば
普通は、それを神だと思うでしょう~

人間でも美味しい話を持ち掛けて
そこそこ稼がせてから大金を奪う詐欺師がいるように
霊的存在も同じ事があるわけです。


霊自体を霊視して、霊に憑く霊→霊に憑く霊の霊視
なんて事もしてみました。
その行為を極める為に激しく修行までしましたね~w
(↑愚かな行為でした^^;)

で、結局、見える姿、聞こえる言葉は
まず、嘘であると疑うようにしました。w



次に、自分のエネルギーを含んた状態でしか
物事を感じられない世界にいるのに
自分が毎日同じではない状態で
物事を的確に判断できるはずがない
と、そう思ったわけです。

同じものを食べても
今日はいつもより甘く感じる・・って事や
別にイヤミっぽく言われてないのに
そう聞こえたり・・
なんて事があるように
霊的存在に対して見えるモノ
聞こえるモノも同じ事があるはずだと
そう思ったわけです。



それで、滝修行で自然と一体になる感覚を基準にしました。
まぁ~それすら自分の思い込みなんですが
何もしないよりいいだろう~という判断です。
見える姿、聞こえる言葉ではなく
霊体から感じるエネルギーをそれと比較する事を繰り返して
自分の中でデータベースを積み上げて行きました。


私の場合、修行は習慣でしたし
自分を見つめる為の修行だったので
週に1~2回滝に打たれながらそんな事を繰り返しました。

霊体だけではなく、人が放つエネルギーについても
情報収集を繰り返して行きました。

霊が見せる姿や言葉ではなく
霊体そのもののエネルギーを感じ取る方法です。


人が持つ経験値に伴うエネルギーを感じる事で
どんな経験をしてきたのか?もわかりますし
そのエネルギー自体が、この先どんな現実を引き起こすのか?
という縁が解るようになります。

それが解ったからと言って何になるの?
なんて、そんな事を思っていたりもしたのですが
ある程度、情報が集まると
ある、一つの法則に気づいたのです。


自分自身が成長する事に伴い
自分の目前に現れる存在も同時に移り変わるのです。


自分が生み出すエネルギーが変わる事で
当然、物事の見え方や感じ方も変わるのですが
それに伴い、目前に現れる存在自体も変わります。

目前に現れる存在だけが変わるのではなく
起きる出来事も変わります。

今まで出来なかった事が出来るようになったり
今まで結果が出なかった事で
同じ事をして結果が出たりもします。


解りやすく?言えば
自分自身の未来を創る『縁』が変わるのです。


昔からブログにくどくど
『自分が変われば現実が変わる』と記してきたのは
この法則を学んだからです。


至らぬ己を探していると
肉体的精神的痛みや苦痛などで
霊的存在が常々教えてくれている事がわかります。


誰しも、そんな世界に存在しているのですが
たまたま霊感が強いと見えてしまう・・
ただ、それだけの事なんでしょうね~

霊が見えたから・・
守護神、守護霊が見えたから
その言葉が聞こえたから・・と言って
それが、何か特別な事ではない事が解ります。

また、その世界に囚われていると
目前の現実がどんどん悪化している事に
気付けなくなる事も理解できます。









どんな人も強いエネルギーを放ちながら存在しています。
言葉を交わさなくても自分は周りに影響を与えているわけです。

何もしていないのに他人から責められらりするのは
他人から責められるようなエネルギーを放っているからであり
自分の過去からの言動に起因していいます。

他人に迷惑などかけた事がないのに・・
どうして、こんな嫌な事が起きるのか?
目に見えない何かが原因なのでは?
と、思ってしまう人も沢山いるでしょう。

確かに目に見えない存在が影響しているわけですが
悪霊や因縁のせいではなく
自分の過去の言動が創り上げたエネルギーが原因なわけです。


ただ居るだけで、拒絶されてしまう人は
そんなエネルギーを放っているわけです。
まぁ~自分の身体にウ〇コでもつけていると思って頂ければいいでしょう。

ウ〇コ臭い人には、近寄ってほしくないですからね~
いくらイジメは良くないと言われても
寄るな!触るな!近寄るな!と、言いたくなってしまうわけです。


なので、目前の現実を好転させる為には
自分自身が変わるしかない・・
自分の過去は変えられないので
過去の不徳を、徳で相殺しなければ
自らの生み出すエネルギーは変わらない
自分が放つエネルギーが変わらなければ
現実はかわらないわけです。



自分が常に正しいという位置づけにいる以上
成長などないわけで、常に至らぬ己を探し続ける
必要があるというように思いました。

自分が常に正しいと言う事は
嫌な出来事は、全て相手が悪いわけであり
様々な価値観が混ざり合っている現代社会で
そんな判断が、まかり通るわけもないですしね~

まぁ~そんな事も解らず
幼稚な思考のまま、自己主張し続けた自分を振り返り
愚かな自分に笑えて来ましたね~www
同時に、そんな自分勝手な人たちが
可愛く感じたりもしました。

そして、至らない自分に気づけると
ゆるす出来事が増える事を学びました。

その先の人生は、至らぬ己探しとなります。
気付けば、己がしでかした過ちの多さに
絶望を感じたりしました・・^^;)


で、このブログのタイトルのように
自らの人生は、懺悔で終えるしかない!
そうしなければ、自らの不徳が子々孫々と受け継がれてしまう・・
そうしなければ、私が存在しているだけで多くに迷惑をかけてしまう・・
そう思い、嫌だと思いながらも徳を積む方向に向かったのですが
結果として、徳を積む人生でしか
幸せになれない事も学びました。

なかなか、言葉や文章では伝わらない事ですが
常に求めていると、自分に都合の良い世界しか
理解しようとしなくなるので、なんだかんだと生きにくく感じたりする。

簡単に言えば、他人の為に、多くを学ぼうとすれば
多くを理解する事に繋がり、多くを知る事で
今過ごしている世界が、膨大な広さだと感じる事が出来る。
膨大に広い世界で過ごしている事を知ると
可能性が無限にある事を学ぶ事知る事につながるわけです。


また、自分の存在は常に周りに影響を与えている事に気づけないから
自分本位になってしまう。
誰にも迷惑をかけない人など存在していないのに
自分一人で何でもできると勘違いしてしまう・・
なので、自分自身が今あるのは、周りの存在のおかげだと言う事に
気付く必要があります。
『貴方には関係ない!』などと言いたくなる時もありますが
自分が生み出すエネルギーがどれだけ周りに影響を与えているかを知ると
関係のない人など存在していない事も理解できます。



霊的存在から学ばせて頂いた事はまだまだたくさんあります。

〇愛も慈悲も知らないのが人であり
それを学ぶのが人生である

〇感謝できるとそれだけで幸せになれる
深く感謝する為には、己の未熟さを知る必要がある

〇他人の幸せを心から祈り願えるだけで幸せになれる
その為には、多くを深く理解する必要がある

〇与えなければ、何一つ手に入らない

〇徳を積み続けるだけで
隠された自分の才能が芽生えてくる

〇言葉だけで価値観は変わらない
どうしても体験経験が必要である

などなど・・


書き出したらきりがないほど
色々と学ばせて頂きました。

ひとそれぞれ、いろんな現実があり
どんな現実からも色々と学べるはずです。
問題は、目前の現実をどう受け止めて
どう判断するか?なのでしょう~ね~


また、気が向いたらこの続きを記したいと思います。



ではでは・・




霊的存在から学んだ事 その1 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事、その2 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その3 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その4 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その5 - 修行バカの懺悔道