修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

霊能者の言葉に惑わされるな!その1

霊能者に〇〇と言われた・・
〇〇が神のお告げだと言われた・・
など、自分では何とも確認のしようがない言葉を告げられ
不安になってしまう人の相談が相変わらず多いです・・

結構な金額を請求されて困っている人も多いですね~
そもそも霊感商法って言う犯罪なんですけど
被害届が出ない以上、犯罪にならないので
こんな事態が社会現象化するんでしょう~ね。

自分が犯罪を犯しているという自覚がないまま
請求している人を信用する事態、愚かな事なのですが
そんな自分だから
スピリチュアルな世界にどっぷりつかってしまうわけです。

かく言う私自身も霊的苦痛に悩まされて来たので
その言葉を信じ切った愚か者の一人です。w

なので気持ちはとても良くわかります。
未知の世界の探究は結構楽しいですし
五感で感じない世界は確かにありますしね。

私は『信じる者は救われる』
この言葉の意味を履き違えて
その世界に愚進してしまいました。w

宗教に依存し、他力本願に邁進する事で
最終的に自力で人生を歩む必要性を学んだわけなので
別に後悔はしていませんが
冷静になって考えれば、誰でも解る事に気づけない自分に
落胆したのは、否めません。w
自分を省みる事ができなかったので
その世界から脱する事が、なかなかできませんでした。

なぜ?自力で生きる事を選択できなくなるのか?
と、考えると、楽をして快楽が満たされるからでしょう。
神々に祈りを捧げれば、願いが叶ったりするわけですから~
現実的な努力を怠り、願いが叶うなら
誰しもそうするでしょう~!

実際に私もそんな体験を沢山してきましたしね。
『奇跡だ!』『救われた!』とか思っちゃうわけです。w

が、しかし!
世の中は、そんなに甘くないわけです。
冷静になって考えれば解るん事なんですけど
そもそも、煩悩に思考を操られた状態なので全く気づけないわけです。w

楽をして得たものは、やはり最終的には
何倍にもなって支払わされるので
ほどほどにいた方がいいでしょう~ね。






で、霊能者に言われた事が気になっている方々の為に
私が実際に体験してきた事なんかを記してみたいと思います。







『先祖供養をすれば救われる』

本当に救われるのか?
そもそも、救われるとはどういった状態なのか?

一般的には、苦悩から解放される事なのでしょう。

しかし、この言葉を初めて告げた人は
恐らく先祖を敬う心が芽生えた時に
自らは救われると伝えたかったのだと思うわけです。

ご先祖様のおかげで今の自分がある事に
心深く感謝できれば、自分自身はそれだけで幸せですからね~

ご先祖様に感謝できれば、先祖供養したくなるものです。
また、その感謝の思いが自らを守護してくれる・・・
ご先祖様が守ってくれるわけではなく
ご先祖様を想うエネルギーが自らを守ってくれているのだと
私はそう感じています。


でも煩悩まみれの我々は
ここでも自分に都合よく解釈をしてしまうわけです。w
先祖供養をすれば、良い事が起きる!
先祖供養をすれば、苦悩から解放される!
先祖供養をすれば、悩みが解決する!
と、解釈して先祖供養に励むわけです。w

ご先祖様に守ってもらいましょう!・・と・・

冷静になって我を振り返ると、ウケますね~w

私自身も霊的苦悩をなくす為に
ご先祖様に守ってもらおうと必死に先祖供養をしましたよ。w
先祖を敬う気持ちなど、皆無でです!w

で、実際に先祖供養をしていると良い事が起きたりします。
マジか!こんな奇跡が起きるのか?
などと思った事のある方もいらっしゃるのでは?


私は、先祖供養をする時に唱える経典には
邪気を浄化する力があると思ってます。
なんとなく清々しい気持ちになり心が落ち着くのは
自らの心身の穢れが多少なりとも浄化するからだと思います。

負のオーラいっぱいの私が
先祖供養をする事で、若干穢れ軽減されれば少しは縁が変わるでしょう。
少しは、良い事があるのも当然かと思いますが
負のオーラを創り出す本質は何も変わっていないので
そのうち、先祖供養が止められなくなってしまいます。w

先祖供養をする→良い事が起きる→
良い事が起きなくなる、もしくは悪い事が起きる→もっと先祖供養をする→
良い事が起きる→・・・
という、自己の成長を完全停止させる最悪の循環人生が始まるわけです。w


長時間先祖供養に費やす時間と労力を
誰かの為に使えば、簡単に人生は好転するんですが
自分の不徳に気づけない愚かな私は
せっせせっせと、先祖供養に励むわけです。

そして思うのです!
先祖供養に救われた!・・と。w

厳密に言えば、先祖を敬う為にしていないでの
先祖供養でもなんでもないんですけどね~w


いや~自分のしてきた事を思い出すと笑えて来ます。wwww
アホの極みなのですが
当時の私は、真剣に取り組んでいましたね~w

まぁ~おかけさまで
今では、ちゃんと先祖供養を出来るようになったので
そんな体験も必要なのかもしれません。

自らを省みる事を怠ってきたので
心が幼稚園児のまま停止していたわけですから
仕方のない事でしょう。w









『魔が差す。邪魔が入る。弾かれる。』

除霊や加持祈祷、宗教的な行為を断ると
『魔がさした』とか『邪魔が入った』とか『弾かれた』とか
言われた事のある人もいるのではないでしょうか?

自分に憑いている魔物がそうさせいるんだ!
などと言われれば、チョ~不安になりますよね~

私も何度も言われました。w

私の場合、憑依現象に悩まされていたので
私に憑く霊=悪霊=魔物だと思い込んでいたので
簡単に信用してしまいました。^^;)

なので、そんな事を言われるとマジで不安になったし意地になるわけです。
これ以上しんどいのは嫌なので
無理してでも、時間を作って大金を払った記憶があります。w

で、因縁消滅祈願や除霊浄霊、加持祈祷などをすると
またしても奇跡が起きるわけです!w

もう~間違いなく神様は存在する!
そして、神事を続けていれば私の人生は安泰だ!
くらいに思ってしまうわけです。w

自分の未来は自分が創るものだと言う事を
完全に自らの思考から削除してしまい
信仰にどっぷり浸かってしまうので
もう私が私自身ではなくなっている事に全く気づけない・・・

もう、ここまで来るとバカとかアホのレベルではなく
自分自身が何かに取り憑かれている感じですね。w
地に足がついていない状態です。
自分の人生を自分で歩めないのです。
いやはや、恐るべし煩悩!!


そもそも、どんな人も常に守られているわけで
辛く苦しい現実が目の前にあるのは
ただ単に自分が至らないだけなわけです。

神道的に言えば
苦悩は至らない己の為にあり
神々からのありがたいメッセージと言う事になります。



今まで社会に尽くしたことがどれくらいあるか?
今まで他人様に尽くしたことがどれくらいあるか?
今までどれだけの事に感謝し、それを行動に表してきたか?
と、我を振り返れば、苦悩に直面している人は
徳のない自分に気づけるはずですが
霊能者も商売なので、現実的な話ではなく
しっかりと霊的な話をするわけです。
相談する私もそんな話を求めているので
ビジネスが成立するわけです。w


徳がないから嫌な出来事が起きているのに
徳を積まずして、祈祷などで改善させようとする愚かな行為を
しようとすれば、守護神守護霊様たちが、止めてくれるのも頷けます。
しかし『魔がさしている!』と言い切られると
そんな事など思いもつかなくなるわけです。

そもそも、初めから自らの苦悩を
先祖の因縁や悪霊のせいにしている自分がいるわけなので
冷静に考えれば、どちらが魔物なのでしょうか?w


まぁ~こんな事ばかり言っているので
霊能者と言われる人達から
私は、魔物扱いされるんですけど
自分が神であれば、私は魔物ですよね~w


なので、悪とは自分が生み出すものに過ぎない事を
知っていた方がいいかも?しれません。

全てを善と思えば、素晴らしい毎日になると思うんですけどね~











『先祖の因縁を消滅しないと不幸になる』


先祖からの因縁については、以前から色々記してきているのですが
相変わらず、このテーマの相談が多いので再度記させて頂きます。


まず、先祖からの因縁のせいで辛い出来事が起きる
・・・と言うのは確かにあると思います。

先祖からの経験値は子々孫々と受け継がれており
先祖の経験が子孫に影響を与える事はごく稀にあると思います。
自分自身の性格も、先祖の経験に基づいいて創られているわけです。

また、遺伝が隔世すると言われていますが
確かに両親より祖父母の性格を強く受け継いでいるようにも感じるので
家系図をつくり、自分に影響を強く与えている先祖を
スポットで供養する手法も理に適っているようにも思います。


ただ、先祖からの経験値が自らの性格を創っているに過ぎないので
その性格が日々の生活態度を生み出し
その繰り返してきた生活態度による経験値が
自らのエネルギーを創造する。

そして自らが創り出したエネルギーが目前の現実を引き起こすので
目の前にある辛い出来事は、自分自身の日々の生活態度によるものだと言う事になります。

先祖から受け継いだ経験による自己の性格=
自分自身の生活態度=目前の出来事=先祖からの因縁と言う事でしょう。

従って、常に自分自身を省みる事で
目前の現実は、どうにでもなると言う事になります。

今、辛く苦しいと思っている出来事も
勉強になる!ありがたい!成長できる!と思う事ができれば
何一つ辛い出来事ではないわけですしね。

免疫学の医学博士の先生がおっしゃっていましたが病気は遺伝しないそうです。
性格が遺伝する為に、同じような生活習慣になってしまい
同じ病気になるとおっしゃっていました。

目前に起きる辛い出来事も同じ事が言えるのではないでしょうか?





先祖からの因縁とは何でしょうか?

先祖が人に恨まれるような事をして
その恨みが子孫に影響を与えている・・とか
先祖が何か罪を犯し
その償いを子孫がする羽目になっている・・とか
一般的には、そんな事を言われています。


要するに、先祖から受け継いだ恨みの念を浄化する事が
先祖からの因縁を供養する事、因縁消滅などと言われているのですが
本当にそんな事をする意味があるのだろうか?
と、私はそう思うわけです。

ご先祖様が他人様から恨まれるようなことをしてしまう性格を
自分自身も受け継いでいるわけで、その自分の性格が先祖の因縁と
波長があっているだけに過ぎないと私はそう思っています。
従って自己改善が出来なければ、高確率で新たな因縁を自分が創り出す事になります。

私自身も先祖からの因縁が強烈すぎるとよく言われてきました。
子々孫々と不幸街道まっしくらだ!くらいの事を言われましたね~w
先祖からの因縁消滅についてどれだけお金を使ってきたか?わかりません。
因縁消滅の祈願、供養、加持など・・あらゆる事をしてきました。
その度に、心が浄化したような気持ちになり
一時的に改善したように思うのですが、時と共に元に戻ってきます。

供養や祈祷した本人に相談すれば
『他にも因縁があったようだ・・再度供養が必要だ!』とか
『道を切り開くきっかけを作ったのに、貴方が先祖供養を続けないからだ!』とか
『因縁消滅の祈祷後も、マメにここに通わないからだ!』
『そんなすぐに改善するわけがないでしょ?しっかりと先祖供養を続けなさい!』
などなど・・
今思えば、明らかにいう事が変わっているのに全く気づけませんでしたね~
因縁消滅の加持祈祷をすれば救われると言っていたのに
適当な言葉で誤魔化されてしまうわけです。
でも、当時は、真剣に聞いていましたね~w

結果が得られないと、また違う霊能者に相談に行ってお金を使いました。w
全くもって煩悩まみれで狭い視野でしか判断できなかったわけです。w


結構色々な因縁消滅プランを実行しましたがw
結果として、一時的な改善しか得られなかったですね~
よくよく考えると、自分自身を省みる行為を怠り
嫌な出来事は全て、先祖からの因縁のせいにしてるんで当然の結果なんですけどね~w


『俺が辛いのは、先祖のせいだ!』
『先祖が悪い!』
『お前のせいだ!』
『なんとかしろ!』
という本心を隠して
先祖を敬うフリの自称先祖供養を繰り返していました。w

第三者の目かでみれば
『頭おかしいんじゃないの?』
『悪いモノに取り憑かれているんじゃない?』と
思われても仕方ない行為を繰り返している事に
全く気づけませんでしたね~

『霊が見えない奴には解らないんだ!』
と、そう思っていました。w


いや~自分で書きながら笑えて来ます。w
自己中に生きると、ホント何も見えなくなるんですよね~・・・





本当に先祖からの因縁を断ち切りたいのであれば
まずは、生活態度を改める事であり
自分自身の性格を改善する事なんですが
なかなか簡単にはできないでしょう~ね。
血の記憶は、自分の意思で簡単にコントロールできませんからね~

ただ、自分の力で先祖からの因縁を消滅する方法はあります。
私自身が体験した事をしるしてありますのでご覧ください。
http://tenna-jp.hatenablog.com/entry/2016/09/21/174748





去年、急に高熱が出て歩けなくなったという相談を受けた事があります。
その方の両足は、血の滲んだ鱗ような模様が出ており
普通に歩く事もままならない状態で、ジンジンと痛むとおっしゃっていました。
病院に行っても原因不明だと言われ2週間が過ぎ、相談を頂きました。

霊視すると神社の障りのようなのですが
突然それが表れるのもおかしいと思い
誰か血族が亡くなっていないか?と伺った所
母の姉妹が亡くなった翌日から痛み出した事がわかりました。
その亡くなった方も、歩く事ができなかったようです。

まさしく先祖からの因縁が受け継がれた事態です。

神社の障りのようなので、神々を粗末にしているとか?
心当たりがないか?と伺ったら
神様のお世話はしっかりとやっているし
怖くて粗末にできないとも言っていました。

仕方ないので、映像で見える場所に車を走らせ
目的の神社に着くと、そこはその方の本家のある地域の氏神様を祀っている神社でした。
お参りしていると、言の葉が色々入ってきましたが全無視しておきました。w
そんなモノに依存してしまうとろくな事がないですからね~

神々の障りは感謝を忘れた時に起きる事が殆どなので
普段の生活の中で感謝すべき事をひとつひとつ思い出して頂き
この先の人生で感謝を忘れないようにする事を誓いました。
この神社に定期的に感謝の意を捧げに足を運ぶのもいいでしょう・・
自分を省みるきっかけになりますしね・・と、そんな話をしました。

帰りには、足が軽くなり、三日後には完治したそうです。
私は何もしていません。
ただ、感謝するように話をしただけなのです。
たったこれだけの事で、先祖からの因縁が一つ消滅したわけです。

私は、このような出来事を何度も経験しているので
因縁消滅の祈願や供養、加持祈祷は必要ないと思ってしまうわけです。


先祖からの因縁の影響で辛く苦しい現実があるのなら
自己を省みて、自己改善する必要があるという事なんでしょう。

そのありがたいシグナルを供養や祈祷で消滅させてしまえば
自己改善する事ができなくなるので
今度は、自分自身の手で新たなる因縁を創り出し
自分の子孫から『お前のせいだ!』という罵声供養の仕打ちを受ける事になるでしょう。
死んでから子孫に恨まれるなんて、最低ですよね。w

また先祖がどんな行いをしようが
敬う気持ちを持てる人になりたいものです。
それこそが、慈愛の心なのではないでしょうか?

そもそも私たちは、どんな人も、誰しもが、生まれた時からすでに幸せであり
その事にただ気づいていないまま人生を過ごし
そして、自分の人生の中で真の幸せに気づくように出来事が起きている。

従って、先祖からの因縁を消滅させた所で
幸せになれる訳がないのです。


先祖からの因縁の法則は色々あるので機会があればまた記しますが
自分の人生は、自分の力で切り開くものだと言う事を忘れないようにしましょう。


ちなみに私は、因縁の深い血を背負った事に感謝しています。
理不尽な現実に鍛えられ、今の自分がありますしね。
逆に徳の高い先祖ばかりでは、甘っちょろい自分が想像できてしまい
そんな人生は嫌だなぁ~なんて思います。

いずれにせよ、辛く苦しい出来事は、己を省みろ!という
シグナルだとそう受け止めた方がいいでしょう~














まだまだ、つづきます~♪


霊能者の言葉に惑わされるな!その2 - 修行バカの懺悔道

日本人で良かったと思う理由

私の携帯の着メロは君が代なんですが
国歌が流れる事で、たまに嫌な顔をされたりします。
右翼?とか?聞かれたりもします。w

祭日とか国旗を掲げようとすると
やめて~!とか言われたりもします。

なんでやねん!とか思ったりするのですが
愛国心を前面に出すと怪しい奴・・とか
思われたりするのも否めない事実でしょう。

でも、本心では、日本人で良かったと思っている人は
とても沢山いる事を私は知っています!(☆_-)



時に私が日本人で良かったと思う所なんぞを記してみます!



その1
天皇陛下 万歳!』

私は昔、天皇陛下なんて必要ないでしょ?くらいに思っていた事があります。
(今では、なんと不敬な事を考えていたのだと深く反省しております。m(_ _)m )

理由は簡単です。
天皇陛下の存在が、私自身の快楽を満たしてはくれないと思っていたからです。
ようするに私に贅沢をさせてくれる存在ではないと思っていたんです。
天皇陛下がいなくても、今の生活は何も変わらないだろう~
ならば必要ないのでは?と、思っていましたね~

天皇陛下の事を知ろうともせず
ただの思い込みで全否定するという愚者の極みだったわけです。
最低~な人間ですよね。^^;)

象徴とはなんぞや?と言う事を誰も教えてくれなかったですしね~


密教神道の修行を経て『祈る』行為の重要性を学んでからは
我が国日本は、天皇陛下の存在があって初めて成り立っている事を知りました。


他人の幸せを心深く願い祈りを捧げる事ができれば
その時点で誰しもが幸せなんです。

自分の事がちゃんとできていないのに
他人様のことなんて・・・
と、思うのが普通ですが
実際には、他人様の事をちゃんと想いやる事ができないから
自分の事がちゃんと出来ないわけなんです。
無意識に真逆の発想をして
物事が空回りしているのが人の性なのかも?しれません。

自分が幸せでなければ、他人を幸せにさせる事はできない・・くらいに
思っているうちは、理解できない事だと思いますが
偽善だろが、常に多くに感謝を捧げ、多くの人を願う祈りは
自分自身を大きく成長させてくれます。

いくら多くの人々の幸せを願っても自分自身の快楽は満たされないので
自分自身が快楽を求めている以上
なかなか、出来る事ではでないのですが
私たちの代わりに陛下が、毎日、世界中の人の幸せを願い
祈りを捧げて下さっているわけです。

世界中の人々の安寧を願い尽力する事が日本の心であり
世界中の人々の幸せを心深く願う行為が自らをも幸せにし
その行為自体が、日本の象徴そのものなんだと
私はそう思っています。

要するに天皇陛下は我々日本人のあるべき姿の
お手本と言う事になんでしょう。



実際にやってみないと解らない事だとは思いますが
毎日毎日、多くの人の幸せを心深く願い祈りを捧げていると
視野が広くなり、目の前にある現実の意味が良く理解できるようになってきます。

我々のご先祖様は、その事を良く知っていたのでしょう。
大和魂という日本を代表する言葉があるように
多くの人の幸せを願うのが日本人と言う事なのです。

国のトップが、毎日世界中の人の幸せを願い祈りを捧げている国が
世界にどれだけあるでしょうか?

天皇陛下が日本の象徴であるという意味を
我々国民はもっと深く知る必要があるように感じています。






その2
『日本神道

日本には八百万の神を祀り
全国に数万社の神社があります。

新しい年を迎え、初詣に行く人も多いと思いますが
この初詣にいく神社の共通教義は
我々日本人のあるべき姿だとそう思っております。

大和魂を持つ我々日本人は他の宗教をも受け入れます。
この世に存在するすべてが神々の思し召しなので
何ひとつ否定するものなど存在していないのです。

経験値が違えば、価値観が異なるのは当然の事で
価値観が違えば、様々な考え方があるのは当たり前なので
それらを否定せず、受入れる事で
自らを進化成長させるという教えです。


神道では、自然を神とします。
仏教などでは、観音様、お不動様など偶像崇拝しますが
日本神道には、崇拝する偶像がありません。
自然そものもが神ですからね~

全ての自然現象は神々がしている事となり
目前の現実は、全て神々がしている事とします。
従って何一つ否定批判する事は許されない・・
目前の現実を真摯に全て受け止め
自らを改善する行為を人生の中で繰り返すわけです。

この行為を続けていると
自分自身はどんどんと成長して行きます。

これが日本人の心でしょう。
日本の剣術、武術、柔術などにもしっかり表れていますし
サムライスピリッツも、本質は同じですよね~

自分の魂を磨き上げるには
全ての現実を受け入れて、その意味を知る事だという教えです。


神社共通の『敬神生活の綱領』という教義があります。

『敬神生活の綱領』
一 神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明き清きまことを以て祭祀(さいし)にいそしむこと
一 世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと
一 大御心(おおみこころ)をいただきてむつび和(やわ)らぎ、
国の隆昌(りゅうしょう)と世界の共存共栄とを祈ること

ここに記してある事は、簡単に言うと
1、全てに感謝する事
2、自分以外に与え尽くす事
3、世界中の人々の幸せを願う事

これが出来れば、その時点で誰しもが幸せになれる事を私は学びました。

なかなかできる事ではありませんよね。^^;)
誰しもが
心から感謝する事なんて出来ないし
周りに与える事より、自分が得る事を優先する・・
また、他人の不幸は、見て見ぬふり・・
だと思います。
だって、いくらそんな事をしていても
自分の快楽は満たされませんからね~

快楽を満たす事が幸せだと思っている以上
仕方のない事だと思います。

なので、なかなか幸せを掴む事ができないのですが
自分自身が幸せになる為に必要不可欠な
大自然の法則が明記されているわけです。

いくら快楽を求めても
何人たりとも幸せにはなれませんよ!と言う事が教義なわけです。


凄い!と思うのは私くらいですかね??^^;)






その3
『日本という国名の由来』

日本という国名について色々な解釈があるようですが
私自身は神道的解釈によるものではないか?
と、そう思っております。
(あくまでも私がそう思っているだけなのですが・・^^;)

私たちは、太陽がなければ生きる事ができない世界で生活してます。
地球上のあらゆる存在が太陽の影響を強く受けているわけです。
言い換えれば、太陽の恵みあって我々は生きる事ができる。

神道の中枢は伊勢神宮なのですが
ここには太陽神の天照大神が祀られています。
地球上のあらゆる自然現象の象徴と言えるわけです。

我々が生活するこの世界は
太陽に基づいた自然現象の中にある為
全ての自然現象を神とする神道では太陽神がその中心となります。



日本の事を『日の本』(ひのもと)と、よく言いますが
我々は、太陽を中心としたすべての自然現象を
神とする国に属する民族という事になり
言い換えれば、大自然の中で暮らす意味を
国名にしている民族なのです!


大自然の法則を知り、その上で暮らせば
誰しも幸せになれる!と思っている私としてはこんな国名を掲げる国に
生まれ育った私は幸せ者だ!とそう思うわけです。^^)



Wikipwdiaに国家である『君が代』は
天皇の治世を奉祝する歌」と記してありますが
日本神道をしっかり学べば、そんな解釈など出来るはずがないんですけどね~
まぁ~我が君を人物と称するのが一般的なので
仕方ない事なのかもしれませんけど・・

とても残念な事なのですが、これも神々がしている事と受け止め
この事態が何を意味するのか?しっかりと考える必要があるんでしょう~ね。





書きだしたら、まだまだ
色々あるんですが、今回は、この辺にしておきます。




皆さまにとって良き年でありますよう祈っています~^^)

ルールとは、自分たちに都合よく作られるもの・・

誰しも、自分に都合の悪いルールに縛られるのは嫌なものです。
私も、嫌です。w

しかし、集団生活においてルールを設けなければ
秩序が保てない・・・

何が正しくて、何が間違っているか?を定める事で
秩序を保ち過ごしやすい社会を創造する・・

では、秩序を保つ言う事とは?
過ごしやすい社会とは?
どう言った事なのだろうか?

まぁ~簡単に言えば争いを無くす事でしょう。
苦悩のない社会ってのもありますね~
社会を発展させる・・と言うのもありますが
人々がもっと贅沢に暮らせる社会の追求だったりして・・w


そして、誰しもが思う・・
争いなどない方がいい・・と。
苦しみなどない方がいい・・と。
もっと贅沢な暮らしがしたい・・と。w
だから、ルールに従うのでしょうね。




しかし、ルールに囚われてしまうと
人生を破滅に追い込む事もあるわけです。
正義を貫き通し
間違いや悪をゆるさない生き方が
自らをどんどんと苦悩の淵へ追いやってしまいます。

その理由は簡単な事で
善も悪もこの世に存在していないからです。

ルールを守らない=悪
ではなくて
ルールを守らない=私たちにとって不都合
と言う事なんでしょう。


常に正しく生きて来たのに・・・
誰にも迷惑をかけた事はないのに・・・
どうしてこんな酷い目にあうのだろう?
と、いう相談を受ける事が良くあります。

これは、ルールに囚われてしまった典型的な例だと
私はそう思っています。


正しい事は、自分にとって好都合な事でしかなく
誰しも周りに迷惑をかけながら生きているのですが
正しい自分という思いが、その事実を見えなくしてしまう・・

要するに、常に周りに迷惑をかけながら過ごしている私たちは
常に、周りに気遣い、気を配り、尽くしながら生きて行かなければ
確実に嫌な出来事に苛まれるわけです。

正しい事に拘ってしまうと
誰しも、この苦悩の渦に囚われてしまうのが
自然の法則なんでしょう。




大自然の法則には、善も悪もなく
我々にただひたすら慈愛の精神を育ませようとしていると感じています。
目前に起きる、全ての出来事がその為にあるような気がしてならないのです。

人類の歴史を振り返れば争いが繰り返されているわけですが
争う事で、慈愛の精神を学ぶ事が出来るからだとも思います。
ゆるす心を学ぶ為には、どうしてもゆるせない出来事が必要であり
慈愛の精神を学ぶ為に我々は
利己的に生きる本能を植え付けられ
どうしても他人と争ってしまうわけです。


従って、いくらルールを作りそれを守って過ごした所で
人は争い続けるのも自然の法則でしょう。

世界が平和になればなるほど
人は堕落して行くのも自然の法則だと思います。

なので、堕落せずに平和を目指す
仕組みが必要なんでしょう~ね。



争いの原因となる事象に対してルールを設けて悉くつぶして行くと
どんな人も、慈愛の精神を学ぶきっかけを失う事になるのでは?
と、そんな事を思ったりします。


実際に相談に見える方々に
『今までの人生の中で、どれだけ他人や社会に尽くして来ましたか?』
とお伺いすると
『そんな事、考えた事もなかった!』
と、殆どの人がそう答えます。

まぁ~実際に他人や社会に尽くす言動が足らない為に
辛く苦しい出来事が起きるので仕方のない事なんですが
ルールに縛られた我々は、どうしてもルールさえ守っていれば
幸せになれると勘違いしてしまうわけです。

そんな教育を受けて育ってきていますからね~





先日、私が顧問をしている会社の会議で
『働く』とは?どういう事なんでしょうか?
と言う質問を受けました。

道を作る人、自動車を作る人、家を作る人
食べ物を作る人、電気を作る人・・などなど
それぞれの人が社会の役割を担い貢献する事が
働く事なのですが

働く=生活費を稼ぐ
くらいに思っている人が多いわけです。


日々の暮らしをもっと贅沢にしようと
毎日必死に働いている人と
日々の暮らしに感謝し、社会に恩返ししようと
毎日一生懸命働いている人では
どちらが幸せなのか?
ちょっと考えれば解る事なのですが
常に多くを求め、己を振り返るという習慣を忘れ去ったが為に
なかなか気づけないのです。


与えなければ手に入らない自然の法則があるので
いくらせっせと働いても
その行動が利己的なモノであれば
自らへの苦悩を育てているに過ぎないのですが
なかなかどおして、与えて得る体験をしない限り
そんな事を言われても理解できないでしょう。






また、ルールに囚われると
過ちを許せなくなります。

そもそも正しい事とは自分に都合の良い事なので
常に自分都合の解釈に拍車がかかってしまうわけです。

他人の過ちをゆるせない為に
自分にも厳しい~なんてよく耳にしますが
結局、これも自分都合の解釈なんです。
他人をゆるせないから
自分もゆるせない・・
単にゆるす心が欠如しているだけなんです。w

何一つ、自分に厳しいわけではなく
常に自分に言い訳ばかりしている人が多いですしね~w
(私もその一人ですが・・w)
そもそも、本当に自分に厳しい人は
自分の至らなさをよく知っているので
他人に厳しくする事なんて出来るはずがないんです。

正しさ(自分都合)にこだわるから
自分都合解釈を積み上げてしまう・・・

ゆする心が無い為に
どんどん自分の視野が狭くなるわけです。
なんでもかんでも自分都合でしか
解釈できなくなっている事に全く気づけない・・

結局は、自分の思いがどこにあるのか?
で、正しさなんて移り変わるんですけどね・・

これは、私自身に良く言い聞かせた事なんです。^^;)




大学の無償化より
待機児童対策を!というニュースを見たのですが
これも、目先の利益を優先すれば
まずは待機児童対策をとなるのですが
世界を視野に国益につながる優秀な人材を掘り起こす
目的であれば、論点が全く違うわけです。

オリンピックの膨大な予算も同じでしょう。
この先、世界各国関わり方で日本の未来が大きく変わる為
オリンピックを機に日本の素晴らしさを
世界にアピールし、他国との関係を優位にする事が目的なら?
膨大な予算も致し方ない・・?
でも、国内だけの視野で考えれば
無駄遣いにしか思えない・・・

それぞれの視点で
どちらも正しいわけです。

まぁ~一般国民程度では
日本と世界各国の関わりなんてわかるはずないので
仕方のない事なんですけどね。



なかなか難しい事かもしれませんが
私は、自分視点の正しさを主張する前に
まずは、相手が正しいという視点で
物事を考えるように努力しています。

極端な話、犯罪者=悪ではなく正義?とか?w
悪で終わらせるのではなく
なぜ?犯罪を犯してしまったのか?
どんな理由で?何が原因で?

不倫やいじめも
それをルール上の悪とするのではなく
それらの体験から、何を学ぶ必要があるのか?
と、考えるわけです。

そして、色々な仮説を立てて
日々を過ごしているのですが
何だかんだと毎日穏やかに過ごせるようになったような気がします。w


時に、物事を斜めに見てみるのも
自分の視野を広げる助けになるのかも?しれません。w


まぁ~色々と大変な時代だと言われていますが
滞りなく衣食住にありつける事に、まずは感謝ですね。
いや~本当にありがたい事です。^^)