修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

解っているのにどうしても出来ない・・そんな自分を変える方法

長年、相談ボランティアなどをやっていると
『ダメだと解っているのにどうしても出来ないんです!』と
ちょくちょくそんな言葉を頂きます。

まぁ~人間なんてそんなモノだと思います。w


とは言え、至らぬ己を知りながら改善できず
それが原因で嫌な出来事が続いていれば
自分を変えなきゃ!と焦る気持ちも理解できます。

私もそんな一人でしたしね~


と、言う事で
私自身が自分を改善させるために
やってきた事を記してみたいと思います。




まず、自分で自分を変えられない理由の
一番は、経験不足だと思います。

誰しも自分は思考で考えて
行動に移していると思っているでしょうが
実際には、それだけではなく
血肉に刻まれた経験値の影響を
強く受けているわけです。

なので、いくら言葉や文章で
知識を得ても
実際にそれに基づいた経験がなければ
自分を変える事は出来ない。

また、どんな人も煩悩を刻まれており
無意識に自身の快楽を求めてしまう。
そして、この世は快楽だけを求めた言動に対して
苦悩というダメ出しをしてくる・・

なぜ?そんな仕組みがあるかと言えば
苦悩の中で、慈愛の心を育ませる為だと
私はそう思っています。

ゆるす心を育む為には
『ゆるす』事を知る必要があり
ゆるせない出来事が必要不可欠だと言う事です。

ようするに慈愛の心を育む為には
どうしても利己的な思考が必要不可欠なので
私たちは、快楽を求めるように創られて
生まれてくるのでしょう。

ちなみに、なぜ?慈愛の心を育む必要があるのか?は
全くわかりません。w
ですが、そのエネルギーが
世界の循環に大きな影響を与えているように感じてます。



話しが若干それましたが^^;)
自分を変えられないのは
利己的な思考が経験値の幅を狭めており
物事を見極める視野を狭めているからでしょう。


ならば、利他的な言動をし
経験値として自らの血肉に
刻み続けて行けば良いわけです。


私が、偽善で構わないので
ボランティア活動を推奨しているのは
その経験値が、自らを大きく変えて行く事を
体験したからです。

とは言え、言動の動機に基づいて
目前の現実が創られるので
苦悩から解放されたいと思いながら善行を積むのと
自分を見つめ自分を知る為に善行を積むのとでは
結果が大きく変わってきます。

1年間一日一善をしてきましたが何も変わりません・・
という人もいれば
たった3日、ゴミ拾いをしただけですが
人生観が大きく変わりました!
と言う人もいます。


この差は、善行を始めるまでの
徳の量と善行を行う動機によって
違ってくるのだとそう思っています。

先日も記しましたが
欲深く生きてしまうと
真実が全く見えなくなりますしね~

個人的には、誰かの為
何かの為にお金や労力、時間を
使い続けてみるといいと思います。

Z*Z*の社長のように
名誉欲でお金を使っても
ろくなことがないのですが
それはそれで、自分を成長させる為に
必要な事だと思えば良いでしょう。


私自身も善行の中で大きく学び
善行がなければ今の自分はいないと
そう思っています。

ボランティア活動から学んだ事 - 修行バカの懺悔道

↑興味のある方はご覧ください。




このボランティア活動は
自分を知る為にとても良い経験が出来ます。

私は、瞑想など色々な
内観の修行をかなりやってきましたが
ボランティア精神がなければ
内観などできないと思っています。



その理由は、『縁』という仕組みが
この世にはあり
自分を成長させるために必要な
出会いしかなく
誰しも人間関係の中でしか
自らの心を成長できないという
大自然の法則があるからです。


従って、自分に必要不可欠な相手しか出会わず
その人の為になる事をしようとすれば
当然その相手を知る必要があります。


まず、自分にとって何の得にもならない相手を
知る事で、自分自身の視野が広くなります。
誰しも無意識に快楽を満たされるか否か?という
損得勘定の中で行動していますしね~
自分に利のない行動をする事で視野が広くなるわけです。

そして、自分の視野が広くなれば
当然、今まで以上に自分を知る事が出来る訳です。

私の場合、自分の視野が狭いまま
いくら激しく内観の修行をした所で
何の成長もない事を教えられましたね~

なので、『相手を理解する』
と言う行為を繰り返して行けば
誰しも自分の至らない所に気づく事が出来る
と言う事になります。


これは、体験しなければ気づけない事だとも思います。
誰しも煩悩に忠実に過ごしている為
自分に何のメリットもない事をしようとしない。
即ち、本当の自分を知らないまま過ごす事になり
嫌な出来事、辛い出来事が起きる仕組みが理解できず
誰か何かのせいにしてしまう・・・
そして、そこに怒りや憎しみの感情が生まれ
そのエネルギーが更に自分自身を蝕んで行く。

なので、私はボランティア!ボランティア!
と何度も言い続けているのです。w




自分の視野が狭く、ちっぽけな世界で生きている・・
と、そんな事を言われても
自分の視野が広がった経験がなければ
理解できないのも当然でしょう。


いくら内観の瞑想を繰り返した所で
大自然との一体感を経験しなければ
得るものは少ないのですが
大自然との一体感を経験する為には
今私たちが過ごす、この世界が
本当に素晴らしいものなのだと言う事を
理解しなければ、できない経験だとも思います。



例えば、前回行った飲食店の椅子の色を覚えていますか?
スタッフはどんな衣服を着ていたか覚えていますか?
レジ周りに何が置いてあったか?覚えていますか?
殆どの人が記憶にないと思います。
記憶にあるのは、美味しかった、不味かった
スタッフの対応が良かった悪かった・・
など、自分にとって利があるか?否か?の
事柄だけでしょう。


しかし、知人に飲食店の経営者がいて
その人の為に何かできる事はないか?と
常々考えていれば、自分が入った飲食店を
観察して、多くの情報を得ようとします。

多くの人の役に立ちたいと思えば思うほど
自分が得ようとする情報は多くなり
自分の視野が広がるわけです。

その人の事を知らなければ
何一つ与える事なんてできませんからね。

そして、この過程で、たくさんの至らない自分に気づけるのです。

実際に行動して、誰かの役に立つ経験をする解るのですが
毎日が楽しくなり、健康になります。
また、自分の隠れた才能が芽生える事もあります。
要するに、今まで出来なかった事が出来るようになるのです。


この行動を阻害する思考は『我欲』です。
強欲であればあるほど、出来ない事だと思います。
強欲であればあるほど、自分都合で物事を解釈するので
善行をやらなくていい理由を探しまくるでしょう。w
強欲であればあるほど、視野が狭くなっている事にも
なかなか気づけませんしね。

そもそも、自分を成長・改善させる為には
まず、自分を知る必要が必要不可欠なのですが
自分を知る為に存在する他人に興味がなければ
いつまで経っても、心が幼稚ななのは仕方ないのです。



なんかよく分からんな~
なんて、思ってしまうでしょうが
これも、経験しないと解らないんですよね~^^;)
特に快楽を求めている以上
なかなか経験できない事ですし・・
しかも、多くの人は快楽=幸せなんで・・
まぁ~だからこそ、苦悩に直面するのですが
なかなか難しい所です。





自分を成長改善させるためには

①煩悩に逆らった経験を繰り返す事
②世の為人の為に尽くす事

この二つが、必要不可欠だと思います。

感情や思考は、自身の経験値が創り出しているので
あらたな経験体験をしなければ、何も変わらない。
また、自身の煩悩が真の自分の姿を隠しているので
煩悩に従って過ごしている以上、自分を成長させられない。

しかし、①②の行為がこの二つの問題を
解決してくれるわけです。

そして、自分の徳の量によって
現実が移り変わるスピードが変わります。
ただ、自分の至らなさに気づけば
それだけで、自己のエネルギーが変わるので
多少なりとも現実がかわると思います。


また、どんな人も、煩悩を植え付けられて生まれてくるので
始めは、偽善でしか善行を行えないはずです。
偽善を自負した行為を繰り返す事で
はじめて、善行が出来るようになり徳が積めます。
間違っても自分が良い事をしていると己惚れない事です。
自分がしている事は偽善であり、善意の押し付けだと理解しましょう。
それでも、感謝してくれる人はいるので
それを繰り返していると、感謝のエネルギーが
自分自身を変えてくれます。


自分の価値観がかわり、目前の現実が変わってきたと
実感できるまでになる為には
他人に感謝される経験を何度も繰り返す必要があるのです。



すなわち!どうしても自分を改善できない人は
ただ単に自分に『徳』がないからなのです。w

私もまだまだ乗り越えられない血がいっぱいあるので
人の事は言えないんですけどね~w

我欲が真実を見えなくする・・・

人は、誰しも様々な欲望を抱きながら過ごしている。
欲のない人など存在せず
また、欲を抱かなければ生きて行けないわけです。

様々な欲を持ち、毎日過ごしているわけですが
自分自身が抱く欲によって
人生というモノは大きく違ってくるわけです。


利己的な欲が強ければ苦悩が付きまとい
利他的な欲が強ければ、歓喜の多い人生となる。

ビジネスにおても、ただ単に儲けたい!と思って
会社を経営していれば長続く経営する事はできず
社会に貢献したい!と思って経営していれば
会社は発展し続けるモノです。

人生も同じで、利己的な欲望のみで過ごしていれば
苦悩が付きまとう人生となり
利他的な思いが強ければ、幸せな日々を過ごす事ができる。

たったこれだけの事で
自分の人生の未来は大きく違ってくるわけです。






とは言え自分の本心など気付けない・・
ただ、自分の本心を見つめるようにすれば
誰でも自分の心持ちに伴って
目前の現実が起きている事に気づけるのですが
往々にして、我欲の強い人は
自分の本心に全く気づけない・・・

なぜならば、常日毎から
自分の我欲を満たす為に
物事を自分に都合よく解釈し続けているからです。


誰しも自分に都合の悪い事実は
無意識に無視し続けるものです。
『焼肉を食べたい』と思っても
『牛を殺して、肉を捌いて、焼いて食べたい』
とは思う事はしないでしょう。
実際に、焼肉を食べるには、その過程が必要なのですが
いちいちそこを直視していると
『焼肉を美味しく食べる』という欲求が満たされない。
なので、その事実を知った上で無かった事にしているわけです。
しかし、目前の出来事は真実(その過程)に基づいて起きています。

強欲であればあるほど
これらの事が自分の中で頻繁に行われて
どんどんと真実から遠ざかった意識を
自分の中に植え付けてしまうものです。

自分を良く魅せたい!
多くの人に認められたい!
なんて欲の強い人は
その事実をたくさん隠し過ぎて
受入れる事ができないくなくなり
自分の心を壊す人もいます。




色々と真実に目を向けると
ハッとするような事が、沢山ありますし
至らない自分に気づけたりして
なかなか面白いものです。

例えば、お金に困っている人に
お金を出してあげるとします。
これは、本当に相手に尽くしている行為なのでしょうか?

困っている人を救済するのは
一般的に良い人とされますが
その行動の動機が何処にあるか?によって
その先の出来事という結果は大きく変わります。

要するに相手の事を思ってお金を出すのと
自分は良い事をしていると言う自己満足の為
もしくは、困っている人を見下して優越感に浸る為
または、見返りを求めてお金を出すのとでは
その後に自分に降りかかる出来事は全く違った結果になるはずです。

私も、お金に困っている人に
お金を貸して、数千万単位で失ってきたのですが
よくよくその時の自分の気持ちを振り返ると
驕りや慢心がいっぱいでしたね~

お金を出した相手に裏切られ
『あんなによくしてやったのに!』くらいに思ったもんです。w
初めから見返りを求めていたので
『してやったのに!』くらいの言葉がでてくるわけですし
裏切られたなんて思うわけです。


初めから相手の立場になって考えていれば
まずは、なぜ?お金に困る状態になっているのか?
また同じ事を繰り返さない為にどうしたら良いのか?
その為に、自分はどんな協力ができるのか?
と、そうやって考えて行動しなければならないのですが
我欲を優先していた私は、お金を出して終わり・・
で、結局多額のお金を無駄に失ったわけです。^^;)

要するに相手に尽くしているのではなく
我欲を満たしたに過ぎないわけです。
無くなって当然だと今ではそう思えますね。


おかげで、今では、お金に困っている人には
その原因を追究し、一緒に改善するようにしています。
困っている人が、心を成長させ現実を徐々に好転させる喜びを
一緒に共有できると言う事は、いいものだとそう思うようになりました。





他にも周りの人たちに喜んで貰いたい!と
そう思っている行為も
その動機によって、未来は大きく変わります。

よくあるのが
相手に認められたいと言う欲の強い人が
有難迷惑を振りまいているケースです。
そんな人は、自分では全く気づけないんですよね~
いつも良い事をしまくってる!くらいに思っています。w


本来、尽す行為は、見返りがないことを指すので
相手に何かを求めている以上
尽している事にならないのです。

周りの人に尽くす事は良い事なのですが
問題は、尽くす相手をしっかりと理解しているか?
善意の押し付けをしていないか?
また、尽くす相手に見返りを求めていないか?
よくよく自分を振り返る事ができなければ
モンスターボランティアなんて呼ばれてしまうかもしれません。


まず、相手の為になる事をするには
相手を理解する必要があるので
理解しないまま尽くす行為は、
自分本位なエゴを押し付けている事になります。


私は、別にそれでもいいとは思うのです。
色々と行動を起こさないと
相手を理解することなどできませんしね~
ただ、自分のエゴでしているという自覚は必要でしょう。

自覚がないと
自分は、こんなにも他人に尽くしてきたのに
どうしてこんなに嫌な事ばかり起きるのだろう?
という結果になります。


自分は尽くしているとそう思っている行為が
実際は自分のエゴを押し付けているので
その先に明るい出来事が起きるはずもないのです。




この事は、夫婦間でもたくさん学べます。

妻は、夫の健康のために
玄米を毎日食べさせようとするのですが
夫は、白米大好き人間で
玄米など食べたくないわけです。
毎日毎日玄米を食べされられて
夫は、ストレスが溜まり夫婦仲が悪くなってしまった・・
妻は『あなたの健康を思っての事なのに!』と
口にはするものの、よくよく振り返ると
夫の健康の為ではなく、自分の健康のために
夫を巻き込んでいたのです。


夫は、妻の誕生日に
高価な服をプレゼントしました。
とは言え、妻はこんな服着たいと思わないのです。
ありがとう!と言葉で伝えても
一度も袖を通しません。
夫は、妻のためにと奮発したのに!
と、その事が不満なのですが
よくよく考えると、自分が妻にその服を着て欲しかった思いを
妻の誕生日を利用して、押し付けたわけです。


まぁ~よくあるすれ違いなのですが
自分の本心に気づけないと
こんなすれ違いが原因で
夫婦仲がめっちゃ悪くなります。W




普段から欲深く過ごしていると
我欲を満たす為にあれこれ理由付けを探してしまいます。
また、あれこれ理由をつけて自分が正しいとする方法を
常日頃から探しているので
知らない内に善意を利用する事に長けてしまいます。

そして、その事実に気づけないので
人間関係もままならない・・
ようるすに自分視点という
一方通行でしか物事を解釈する事が
できなくなるわけです。
そして、自分に都合の悪い事は
理解できない!解らない!
と、判断して終わらせるのです。w

『〇〇さんが、こう言うんだけど理解できないんですよね~』
『そうする事が良い事だというのが解らないんです。』
自分の我欲を満たす為に邪魔になる判断を
全て、理解できない・解らないで済ませていれば
常に自分は正しい状態でいられるのは当然ですよね。w


そして、そんな事を言う人に限って
やたら自意識過剰なんです。w
都合の悪い事は解らないですませているのにです。w
まぁ~解っているけど解ろうとせず
解らない事にできるほど図太いから
自意識過剰なんですけどね~
外見は謙虚に見えて弱弱しかったりもします。w

でも本人は
自分を正当化する能力に長けている為
真実が見えないままになっている・・
そして、その事さえもわからない・・・
要するに、自分の本心を隠し過ぎて
自分自身で自分の本心を認識できなくなっているわけです。


仮想の正しい自分を意識しすぎて
その仮想の人物になりきっているに過ぎないのですが
周りの人は本人の真実の人格で接するので
そのすれ違いに気づけなくなるわけです。
ウザイ事をしているから
ウザイと思われているのですが
自分はこんなにも相手の事を思っているのに
酷い事をされた!と認識してしまうのです。


自分の本心も認識できず
相手を理解する事もしない・・
当然、自分の人生が空中分解していきます。


いや~欲とは怖いですね~



最近、相談でこのパターンの人からの多かったので
我欲が、自分を壊して行く仕組みについて記してみました。



個人的には、我欲があって
人は苦悩し葛藤し成長できるので
我欲を満たそうとする行為は大切だと思うのですが
ほどほどにしないと、辛く苦しい人生となってしまいます。

そうならない為にも
自分自身の本心を常日頃から見つめる癖を
つけたほうがいいでしょうね。

私自身も内観をかなりやりました。
人生観が変わるほどに~
誰しも言動には動機があるので
その動機を見つめるようにするだけで
目前の現実と自分自身の心が
同調している事に気づけるでしょう。


そこを見ないから
理不尽だ!不幸だ!と思うわけです。


そもそも怒りの感情は
我欲が満たされない時に生まれるものなので
ムカつく、イラッとする、腹が立つ事が
多い人は、欲まみれだと言う事です。w






京セラの稲森氏が
経営には、私心のない判断が必要だと
説いていますが
私は、人生も同じだと思っています。


物事を損得でしか図れない人は
快楽で満たされても
幸せを掴む事はできないでしょう~ね~

憎しみの感情を解消する方法

人間であれば、人を憎んだりする事もあるでしょう。
ただ、憎しみの感情を抱き続けると
その感情は、自らを蝕み、次第に自分自身が朽ち果てしまう。


憎しみを解消させるために
「そんな事は忘れなさい」
「余計なパワーを使うだけだ」
「時間が解決してくれる」
などと言われていますが
私は、そんな簡単なモノではないと
そう思っております。

憎しみを抱くような出来事は
心に深い傷を負っているので
その傷を治さなければ
簡単に忘れる事など出来ないのです。

また、目前の現実は自身の心が生み出すエネルギーが
創り出しているので
いくら思考で忘れていても
自分の心の中で解消できない限り
目前の現実に強い影響を与え続るのです。

憎しみの感情は自分の人生の足を引っ張り続けるでしょう。



そもそも、憎しみを抱くような出来事は
自分自身を改善させるために
とても重要なメッセージが含まれているので
それを見つける事が必要不可欠だとも思います。
復讐が報われる事がなく
更に悪化するのも同じ仕組みからでしょう。


すなわち憎しみを抱くような出来事は
己を改善しろ!と言う
大自然からの警告なので
忘れようとしても忘れる事が出来ず
そして、己を省みて改善するまで
自らを蝕み続けて行くわけです。


我々人間にとって都合の良い社会のルールで
物事を解釈している以上
憎しみの感情は解消できないものだとも思います。


例え愛する人
理不尽に殺されたとしてしても
殺害した相手を「悪」とするのは
我々人間が都合よく作った社会のルールに
過ぎないと言う事です。

そのルールに準じて相手を憎んだ所で
大自然からすれば、その出来事は、自らへの「警告」の為
更なる苦悩を与えられるだけなのです。





私は、多くを憎んで
自分の心を一度、崩壊させて
そんな仕組みがあるのだと
そう思うようになりました。

憎む相手は、感謝する相手であり
自分自身は多くに謝罪する必要があったのです。

多くの人に謝罪しなければならない事を
積み重ねて行くと
憎しみを抱くような出来事が
我が身に降りかかるのです。


こんなこと言っても
「こいつ何言ってんだ?」
と思う人が殆どでしょうけどね。w










憎しみを解消する為には
憎しみを抱くような出来事が起きる仕組みを理解すれば
良いと私はそう思っています。

以前にも記したような気がするのですが
再度、その辺を記して見たいと思います。








まず、私たちは私たちの創ったルールの中で生活をし
そのルールに基づいた善悪の判断をしています。
そして、憎む相手は「悪」としています。

しかしながら、大自然のルールは
私たちのそんなルールとは
無関係に現実を引き起こします。
善悪などどこにも存在していないわけです。
ただただ、慈愛の精神を学ばせようと
自分の目の前に様々な出来事を引き起こし
そこから学べるように仕向けているのです。


要するに、自分が憎む相手は「悪」ではなく
自分の至らない部分を教えてくれる為の「警告」と言う事です。
その警告を無視していれば
自分自身が朽ち果ててしまうのも致し方ないでしょう。

警告に気づく事が出来れば憎む相手に感謝できるのです。
そして、自分自身の至らない所にも同時に気づけるので
多くに謝罪しなければならない事にも気づけるでしょう。


憎しみを抱くような出来事は、自分が抱いた怒りや
否定批判、不平不満の感情の積み重ねが引き起こします。
また、無意識に他人を不快にさせたり傷つけてしまう行為からも
負の感情のエネルギーを自分に向けられるため
不快に思ったり、傷つけられる出来事が起こります。

従って、憎しみを抱く出来事が起きた直前から
過去に遡り、自分自身の言動を振り返ると良いでしょう。
自分が深く傷つくと言う事は
自分自身が他人を傷つけてきた代償なのです。
目前の全ての出来事が、自らの成長を促しているのが
大自然の法則と言う事です。


過去に憎しみの感情が自らを蝕んでいる人からの
相談を何度か受けてきましたが
殆どの人が、自分が他人を傷つけてきた事に気づけません。
その理由は、他人の立場になって物事を捉える事が
出来ないからです。
出来ないと言うよりは、しようとしないと
言った方が正しいかもしれません。

私は、こんな酷い事をされた!
私はこんな酷い事を言われた!
と、自己主張するばかりで
なぜ?そうされたのか?そう言われたのか?
と言う事を考えようとしないのです。

相手の立場を普段から考えようとしないので
無意識に他人を傷つけていても
全く気づけないし
自己主張ばかりすると言う事は
常に自分が正しいと思い込んでいるので
自分が他人を傷つけているなどと
どうしても思えない・・
普段から、自分が気に入らなければ
全て「悪」なのです。


自分の主張が、だれかを傷つけているかもしれません。
自分が良かれと思ってした事が相手を傷つけているかもしれません。
正義感が強ければ強いほど、多くの人を傷つけるでしょう。
そもそも「悪」とは、自分で創り出すモノですから
「悪」とされた相手は、それだけで傷ついているものなのです。



人間社会のルールに囚われていると
なかなか、その事に気づけませんが
どれだけ相手の気持ちになった言動をしてきたか?を
振り返り改善する必要があるのです。

社会的に「悪人」とされる人たちの
気持ちを理解しようとしない限り
人間関係がうまく行かないのが自然の法則なのでしょうね。



私は、少年時代に集団リンチを受け
鉄パイプで頭を殴られ重傷を負った事があります。
当時は、「所詮一人では何もできない奴らだ!怒」
くらいに思っていたので
人生で2度も集団リンチされました。^^;)
でも、おかげさまで今では1人ずつ謝罪すべき相手だったと
そう思っています。

まぁ~そこまでされないと
気づけない愚か者だっただけですけどね・・w

自己を省みて、至らない己に気づけると
謝罪しなければならない事ばかりでした。-_-;)










憎しみを抱く出来事は人それぞれなので
その出来事の経緯を振り返る必要があります。

「裏切られた」
「騙された」
「傷つけられた」
「利用された」
などなど・・
自分は、何に傷ついたのか?
何が嫌なのか?
それらを明確にし、自分が似たような事を
他人にしている事に気づかなければなりません。
殆どの場合、至らない己に気づけないので
憎しみを解消できないわけです。



例えば、自分に酷い言葉を向けた相手に対して
「私は、あなたの〇〇という言葉に傷ついた!」
と、主張すれば、相手はその言葉に傷つくでしょう。
しかし、愚かにも自分都合でしか物事を捉える事が出来ないので
その言葉で、相手を気づ付けている事に全く気づけないのです。

他人を傷つけている事に気づけず
そんな事を繰り返していれば
自分の心が深く傷つく出来事が起きるのも当然なのです。



また、他人と接する事に恐怖心があり
自分自身の感情を常に押し殺して
偽りの自分で他人と接していれば
常に他人に嘘をつきながら過ぎしている事となり
その内、誰かに騙されたりするでしょう。
そんなつもりはなくても、他人を騙して過ごしている事に
変わりはないので、その代償を支払う事になるのです。
自分の気持ちに嘘をついている人と接するのは
誰だって嫌なものです。



強欲な人も深く心を傷つけられたりします。
自分がどうしても〇〇したい!とそう思った出来事に対し
周りや相手の気持ちを全く考慮せず、そうする為の手段をいとわず
強引に進める人は、多くの人を不快に思わせている為
自分が大きく傷つく出来事が起きるでしょう。
当の本人は自分の事しか考えていないので
自分の言動で他人が不快な思いをしている事に気づけず
自分は何も悪い事をしていないのに
どうして、こんな嫌な出来事が起きるのか?と
自分を苦しめた相手を恨んでしまうわけです。



「悪」をゆるせない人も同じです。
ルールを守らない人に対して、注意する=ダメ出しする。
これを繰り返していると「悪」を生み出しているだけなので
その内、自分が生み出した「悪」のエネルギーに蝕まれてしまいます。
憎しみを抱くような出来事が起きるのも当然でしょう。
「悪」が「悪」を生み悪循環がはじまると
「悪」を敵視し続ける事となり、憎しみを抱きながら
自らの命を絶たれる事さえあります。

本来、ダメ出しではなく、どうすれば良いのか?を考えて
行動する必要があるわけです。
ダメ出しではなく「どうしたら良いのか?」
「自分に出来る事は何か?」と考え行動する行為は
自らを成長させる為に必要不可欠な行為なのです。
逆に、ダメ出しや否定批判は、自分の成長を止める行為になる為
その警告が自然界から出来事として通達されるのです。


こんな些細な事の積み重ねが
憎しみを抱くような出来事を引き起こしているわけです。

納得できない!と
思われる人も多いでしょうね。^^;)



とは言え、人生とは心を成長させる為にあるので
我々の過ごすこの世界では、自分の心が生み出すエネルギーが
目前の現実に強い影響を与えてしまうわけです。

従って、心の成長を止める行為は
どうしても辛く苦しい出来事が起きてしまう。
苦悩とは、自身を成長させる為のメッセージなわけです。
苦悩の度合いによって
指導→注意→警告→最終警告・・と言った感じでしょうか?
憎しみを抱くような出来事は「警告」されていると
思った方が良いでしょうね。




私は、憎しみを抱く相手を理解しようとしない限り
自分が抱く憎しみの感情は解消されないと思っています。

憎しみを頂く相手は
どんな気持ちでその行為に至ったのか?
相手は何を求めて、その言動に至ったのか?
心無い言動は、どんな価値観からされているのか?
その価値観は、どんな経験から創られたのだろうか?
自分は、その相手に何を求めていたのか?
その求めるモノを手にするだけの権利を得る言動をしていたか?

などなど、深く観察し続けると
目の前に起きる出来事がヒントをくれるはずです。

「悪」を生み出して終わりでは、何の解決にもならず
また似たような出来事が繰り返されるでしょう。
何度も繰り返し言いますが
その理由は、憎しみを抱くような出来事は
大自然から自分に対しての大切なメッセージが含まれているからです。

従って、憎しみを抱くような出来事を
切り取って考えるのではなく
過去の自分の言動と繋げて考え
深く自分を省みる事で、必ず辻褄が合うと思います。

個人的に、憎しみを抱くような出来事の多くは
過去に「謝罪」しなければならない行為を
繰り返しており
それに気づかせる為のメッセージだと
そう思っております。

また、それに気づけると
憎しみを抱きている相手に
深く感謝できるでしょう。



まぁ~そんな事を言われても
なかなか、そうは思えませんよね。^^;)