修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

ひょっとしたら自分の人生は他人が創るものなのか?

他人を理解しようとすると
自然に自分自身がよく見えてくるものです。

また、他人の存在なくしては、自分自身を知ることは出来ず
他人と自分を比較して『あぁ~自分って○○なんだ・・』と理解します。

何が得意で、何が不得意なのか?も
他人と比較して自分で理解するものですし
結局、今の自分の価値は、自分ではなく他人が創り上げているものなんでしょう。

俺が!俺が!私が!私が!と
いくら主張した所で、自分の価値など自分では決められないわけです。


とは言え、優秀な生徒が集まる学校で成績が最下位でも
学力の必要の無い学校に行けば、成績はTOPかもしれない・・・

どれだけ広い視野で自分自身を見つめるか?によっても変わってしまい
自分の今居る環境によって全く違うものになるのかもしれない。




どんな人も、自分自身の日々の言動は、エネルギー化しその身にまとい、そのエネルギーにより様々な『縁』が創られ、目前の現実が起きる。
と、私はそう思っているのですが
その『縁』が多くの出会いを創り、何かしらの刺激を受けるものです。

『好きこそものの上手なれ』とよく言いますが
この世には、自分の好きな事をしていない人もたくさんいます。
というか、自分の好きな事をしているだけで生活できる社会などないのでは?
と、そう思っている人も多いのではないでしょうか?

これも、ただ自分の好きな事をするのではなく
もう一歩深く、自分の好きな事で、何か世の中の役に立てないか?と
こう考えてみると、何か当てはまる者があるのかもしれません。
いや、必ず何か当てはまるモノがあるのが人間だと思うのです。

ただ、それを自分ひとりで探しても見つかるものではないのでしょう。
上に記しているように、自分の価値は他人が決めるものですから。


なので、多くの人と接する事を嫌がらず
また、多くの人を理解しようと努力する事で
自分自身の人生が大きく変わってくるものなのだとそう感じています。


ただただ、自分の価値観のみで物事を判断し
他人の価値観を理解する努力もせず過ごしていれば
閉ざされた未来しかないのは、当然なのですが
なかなか、そうも思えないのが人の性でしょう。



自分の価値を他人が決めているのであれば
自分の人生は、他人が創り上げていると考えてもおかしくないのでは?
と、そう思ってしまいます。

また、そう思うと他人がいかに大切な存在なのか?も理解できるし
他人を大切にしない人に限って、自分の人生において
いろいろと躓くもののようにも感じます。

『どうして自分ばかりが、こんな思いをするのか?!』
と、そんな相談を受ける人の多くは、他人という存在を軽視しているように感じています。



長い人生、いろいろな出会いがあり
その出会いによって、自分の人生の方向性が変わったりします。
自分の人生を変えるような出会いも、結局は他人から与えられるものなので
やはり、自分の人生は他人によて創られてゆくものだと思ったほうが
過ごしやすいのではないでしょうか?


まぁ~自分の人生なんだから、どう想い過ごそうが自由なんですけどね。


なんとなくですが、そんな気がしています。