私は、日本神道という思想を学んできましたが
我々のご先祖様にあたる日本人の方々は、すべての自然現象を神々がしている事として自分自身を常に見つめる習慣の中で生活していたようです。
密教や修験道も激しく修行しましたが
日本神道の、この慎ましく、謙虚な思想が、私はとても好きなのです。
古神道の修行を始めた頃は、よく理解できませんでしたが
今となっては、日本人で良かったと思うほどです。
正直、好きなだけで、まだまだ謙虚にはなれないんですけどね。
私の場合、自分が怒りを覚える時、何に対して怒っているのか?
また、どうなれば怒らなかったのか?自分は何を求めているのか?
と、我を振り返ると殆どの場合、自分自身の傲慢さが原因です。
謙虚な己でいる事ができれば、多くに感謝できるのですが
己の傲慢さや慢心が、否定批判の感情を生み出してしまう。
たった今も、携帯電話の着信履歴に気づき
登録していない番号だったので、お客様かもしれないと
その着信に返信電話をしてみたのです。
私:『伊藤と申しますが、着信履歴があったので電話しました。』
相手:『えっ!だれ!私は貴方に電話なんかしてませんよ!なんですかいったい!あなたは!』
と、怒鳴られてしまった。
着信履歴にそのまま返信しているので私が番号を間違えるはずもなく
『こちっが、なんですか!ダヨ~!』
と、未熟な私は、またしても己を蝕む負の感情を生み出してしまった。
人間に都合のいい私たちの社会ルールの中で
しかも私の一方通行のみでの話で判断すれば
着信履歴という証拠ある限り、私が正しく、相手が間違っていると
そう思うのが、一般的でしょう。
しかし自然界のルールで考えると、『悪』は自分自身で生み出すものであり
この世の中には、善も悪も存在しない。
自分に都合の良いものが『善』であり、都合の悪いものが『悪』となる。
そんな日本神道の思想に基づいて
私にとって何が都合が悪いのか?と考えてみた。
私の中で生まれた、この負の感情は
『着信を確認して、わざわざ電話してあげたのに何でそんな言い方なんだ!』
という、ものでしょう。
ようするに、言い方に不快感を覚えたわけです。
わざわざ返信し良い事をしている自分のはずだったのに、結果として裏切られた気持ちなのでしょう。
しかも、良い事をしているという自己満足と『お客様からかもしれない!』という、《私はお客様を大切にしていますよ!》アピール付きでした。
よくよく相手の立場になって考えてみると
私に電話をした本人じゃない人が出ていたのかもしれない。
携帯電話の番号でしたが、子供がなんとなく押してしまったのかも?しれない。
そう考えると、相手は間違い電話をされた気持ちになり
私の折り返し電話に不快な思いをするわけです。
その通り、不快感を思いっきり伝えられましたしね。
相手側から見た人間ルールでは、私自身が『悪』なわけです。
そう思うと、着信に電話を返して良い事をしているなどと思うのは
あまりにも傲慢すぎるわけで、しかも、無関係な相手に善意の感情を押し付けていた事になる。
善意の押し付けなどされれば、迷惑極まりないわけです。
恐らくは、その傲慢な自分の思いが、不快感を生み出す結果となったのでしょう。
なるほど!と、自分の中で満足しながら納得し
こんなつまらない事で、不快になるとは情けない!
と己を戒めるわけですが
至らぬ己に気づけると、なにか自分が成長できた気持ちになり
『本日も不愉快な思いをさせて頂き誠にありがとうごいざます。』
と、大自然様に感謝してしまう自分がいる。
もう、ここまで来るとただの変態の極みとしか言いようが無いのですが
そんな戒めの懺悔道という生き方が、かなり楽しいのである。
そして、楽しいから懺悔になっていないぞ!と、そこに悩み苦しみ
結果として、悩み苦しんでるから懺悔じゃん!とホッするのです。
旧ブログから引っ越してきたばかりで記事が少ないので
しばらく、マメに更新しようと思っています。