修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

思い込みに支配された思考の中で生きている・・と、思い込んでみると世界が変わって見えたりするかも?

どんな人も、自分が間違った生き方をしているなどと思いたくないので
無意識に自分自身を正当化してしまうのが、人というものでしょう。

そんな思考を操作する思いは、恐怖心であったり、虚栄心であったりと
自らの煩悩が無意識を支配し目の前に起きる現実を自分都合で判断させてしまう。

よくよく観察すると人間とはなかなか滑稽な生き物なのです。

『私は怒ってなどいない!』と、ブチキレし怒り狂ってみたり
『否定批判はいけない事だ!』と、否定批判する人を否定批判してみたり
『ゆるす心を持たなければならない!』と、憎しみを持つ心をゆるせなかったり
『愛がないからいけないのだ!』と、愛を持たない人を愛せなかったり
先日記した、動物愛護を訴えながら焼肉大好き!も同じですよね。

と、こんな感じで自分で自分を知る事は、なかなか難しいものなのです。
それは、誰しも物事を自分に都合よく判断し
思い込んでしまうという、そんな仕組みがあるからでしょう。


認知バイアス』という言葉をご存知でしょうか?

認知バイアス - Wikipedia
ウィィペディアには、色々と興味深い事が書いてあるのですが
私の個人的な偏見という視点でいいますと
『血の記憶』が起こしている出来事だとそう思うのです。


何度もブログに記してきましたが
自身の思いや言動は、自らの血肉に記録され続けており
自分という人間は常に無意識に支配されているのです。

旅行に行くとウ○コが出にくくなるのですが
帰宅すると、とたんにウ○コがしたくなる経験をした事はないでしょうか?
自宅でウ○コをする行動が、経験値として自らの血肉に刻まれ
無意識に『ウ○コは、自宅でするもの』と、記録されているから起きる現象だと
私は、そう思っています。

私の場合、自宅にいるより会社に居る時間の方が長いので
『ウ○コは、会社でするもの』と、記録されていますけどね。

お風呂でオ○ッコをする行為を繰り返している人が
認知症になると、お風呂とトイレを間違えるのも経験値の記憶が
そうさせているのではないでしょうか。


この無意識と向き合う修行が『内観』というものなのですが
私がやってみた結果、殆どが自身の煩悩にぶち当たりました。
無意識という意識の中に隠された煩悩を見つけ出し
自分自身を知り、改善してゆくという修行ですが
知れば知るほど、誰しも思い込みの世界で生きているんだ!と
そう思うようになってきました。
別にそれがいけない事ではなく、それが私たちが生きている世界なのだと
そう思うことで、自分自身が救われたような気がしたのです。


どんな人も煩悩を刻まれ、この世に生れ落ちる為
自分本位に生きてしまうのが人というものですが
ただただ自らの快楽のみを求めて生きていると
この呪縛に囚われてしまい、目前の現実が空回りしてゆく
という自然の仕組みが存在するように感じています。



回避する方法は
自らの血に逆らった行動を繰り返し、その新たなる経験により
新たなる価値観に目覚める事なのですが
そうしようと思っても『それをして何になるの?』で止まってしまい
行動に移せない人が殆どでしょう。

なぜならば自分自身に刻まれた過去からの経験値が思考をそう操作するからです。
無意識に打ち勝つ強い自己意識が必要になるのですが
日々を流されて過ごしているようでは、そんな自己意識など芽生えないものです。


しかし誰しも苦しくて辛い状態でいると、そこから脱しようと必死になります。
この時、初めて強い意志を持つ事ができたりするものです。

血に記録された経験値による思い込みに支配され
自らの快楽のみを求め続けた結果、苦しくて辛い現実にぶち当たり
それを乗り越えようと必死になり、強い意志をもてたりするのも
大自然の循環のひとつなのかもしれません。

結局、道は違えど、誰しも同じ方向に生かされているんでしょうね。



・・・・と
本日も会社の便器に座りながら、そんな事を思い耽ってみたのでした。