修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

誰にでも苦悩は必ず訪れるものである。

どんな人も、辛い事、苦しい事は避けたいものですが
残念ながら、どんな人も、その現象から逃げる事は出来ないものです。


世の中では、辛い事、苦しい事を『悪』として排除しようとする風潮がありますが
そんな事をいくらしても、我々は苦悩から逃れられないものです。
『悪』をいくら排除してもなくならない理由は簡単で
『悪』を生み出しているのは、自分自身だからです。

自分自身が『悪』だと思わなければ、初めから『悪』など
何処にも存在しないんですからね~w

とは言え、辛い事、苦しい事を『悪』としなければ
苦悩は、なくなるのか?と言えば・・残念ながらそうではないのです。

なぜならば、この世の中は我々の成長を望んでおり
人は苦悩を乗り越える事により成長するからだと
私はそう思っています。


問題は、辛く苦しい現実を、悪とするか?善とするか?であり
『悪』として、ただ排除しようとしても
無くならないのが大自然の法則だと言う事です。
『善』として受け止め、自分自身を大自然が
教育してくれているのだとそう思った方が過ごしやすいでしょう。




苦悩にもがき疲弊している人に手を差し伸べ救ってあげる事は
良い事であり、時に美談となる事もありますが
なぜ、苦しんでいるのか?を明確にし
その原因を改善しない限り、更なる苦悩が押し寄せてくる事が多くあります。

従って、善意で手を差し伸べたはずが
更なる大きな苦悩を与えている原因になったりするわけです。


私自身も昔は、人の苦悩を解放させてあげる事が良い事だと
そう思っていました。
しかし、それは私自身のエゴに過ぎなかったと今ではそう思っています。
とても浅く上っ面だけの思考能力しか持ち合わせていなかったのです。w

要するに、私は人の苦しむ姿を見たくなかった・・
人の苦悩を取り除く善人でいたかった・・
まぁ~別にそれがいけない事ではないんですけどね~

過去に涙を流しながら『救われた』と私に告げた人は沢山いるのですが
その後の人生を本当に幸せに過ごせている人が
いったい何人いるのだろ?と・・そんな事を思っていしまいます。


人の成長を望んでいるこの世の中では
自力で苦悩を乗り越える手助けをするべきだったのです。

時には突き放し、時には憎まれ口を叩き
心の中で励ましていればいいのかもしれません。
本当に手を差し伸べる時は、しっかりと見極める必要があるのでしょう。


オリンピックで金メダルを取るような人は
多くの苦悩と向き合って、乗り越えてきた人でしょう。
偉業を成し遂げた全ての人が、多くの苦悩を乗り越えてきたはずです。



辛く苦しい現実がない社会がある事が幸せな事だと
私たちがそう思うのは、そもそも大きな間違いであり
何かを勘違いしているのかもしれません。





私の所に相談に来る方々で
今まで、辛く苦しい出来事がなかった為に
今、苦しんでいるという人が沢山います。

両親に守られ、社会に守られ
何不自由なく過ごした結果・・年齢を重ね、この先の未来が不安になる。
今まで守られてきた訳ですから、守る側の年齢になれば
不安に襲われるのも当然でしょう。
自分が守るのではなく、守ってくれない社会を
否定し、批判しながら壊れてゆく・・

今までの人生で、苦悩と向き合い自力で乗り越えた経験がない為に
ちょっとした事で傷つき、落ち込み、疲弊してしまうわけです。

心が弱い為に、精神病を患い、自殺する人まで出てきている・・
とても悲しい事実です。
イジメの問題でも、イジメる側のみを問題視してもなくならないではずです。
イジメられる側にある問題を解決した方が、得策のようにも思えます・・
イジメを乗り越えたとき、きっとかけがえのない未来が
待っているはずですしね・・



私は、マジメに生きてきた人には
一度、万引きでもして警察につかまってみたら?
不倫でもして、妻や旦那を裏切ってみたら?
と、よくそんな話をします。

その代わり、万引きをして迷惑をかけたお店には
しっかりと償ってください。
10倍以上にして返すのが条件です。
店主が感謝してくれるまで償うのです。

浮気をして妻や旦那を傷つけたのなら
しっかりと償ってください。
いままで以上に妻に尽くしてください。

・・と。

これらの経験は、お互いの人生で
かけがえのないモノになると私はそう思っているのです。






日本神道大祓詞という古くからの祝詞があります。
色々な方が、色々な訳をしているのですが
基本的に祓い清める為の祝詞という解釈が一般的で
古事記日本書紀に記してある神話を元に解釈する場合もあります。
私もはじめはそう学びました。
除霊などでも、唱えられる祝詞ですしね~

しかし、修行を重ねれば重ねるほど
『祓う必要などない』・・と書いてあるとしか思えなくなりました。

10万回以上も唱え続けると、そんな風に解釈できるもので
ひょっとして修行のしすぎなんでしょうか?w

こんな事を言うのは、私くらいなのかもしれませんが
大祓詞は、この世の中は、祓いの循環の中に存在しているのだと
そう書き留めた記録だと、私はそう思っています。


これは、私が勝手に解釈しているだけの事なのですが
大祓詞の中に
己が母犯せる罪己が子犯せる罪 母と子と犯罪子と母と犯罪・・
という詞があります。

誰しも人と言う存在は、罪を犯すものであり
そう創られているのだと、そう記されていると解釈しています。

法律に従っていれば、罪ではないとされるのが我々の社会ですが
自然界からすれば、法律など無関係で
だれしも、自分を誤魔化したり、嘘をついたりと
なんらかの罪を犯すのが人と言う生き物です。

そして、どんな罪穢れも大自然の循環に従えば祓い清められる・・
そう記してあるのが、大祓詞でしょう。

要するに故意に祓い清める必要などなく
罪や穢れの意味を知る事の方が大切なんだろう~と
そう思っています。



自分が犯した罪は、しっかりと償う事で
どんな人も成長できるのがこの世の中です。
犯した罪は、しっかりと償い
また、それをゆるす事で、必ず浄化される。

罪を背負い償う事で、幸せを手にする事ができると言っても
過言ではないと私はそう思っています。

我々が生活するこの世の中は、どんな罪も穢れも浄化されてゆく・・
罪や穢れに押しつぶされるのは、罪や穢れを生み出し続けているからであり
常に己を磨き、慈愛の精神を抱きながら生活していれば
大自然が浄化してくれるのが、我々の生活する世界なんでしょう。



やっぱ、この世の中は素晴らしいですね!(^^)