修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

経典や念仏を唱えるだけで、本当に救われるのか?

リクエストを頂いたので
経典や念仏について、私の考え方を記してみたいと思います。




私は、真言密教を長く修行した経験があります。
色々な宗派を学びましたが
宗派によって、教義も色々で
結局は空海の教えに惹かれて
真言宗にはまったわけです。
まぁ~アホなくらいやりました。


修行した理由は、極度の霊障から解放されたかったからです。
経典や念仏を唱えると救われる!と言われながら
結構激しく修行してしまいました。^^;)

だって、一時的に霊障が治まるんですから!

ただ、私の場合は
『経典を唱える⇒体が楽になる』を繰り返すようになり
どんどんと『強い霊が憑依する⇒激しく修行する』を
繰り返すようになりました。

気付いたら、社会的不適合者の出来上がりですわ。w

それに気づいた時は、何てバカな事をしていたんだ!
と、思いましたが
今では、それはそれでいい経験だったと思っています。













これから記す内容は、あくまでも私の考え方なので
何卒、ご容赦ください~!








まず、【経典や念仏を唱えると救われる】と
よくお寺の住職さんなんかは、おっしゃいますが
この『救われる』とは?
を深く考えた方がいいと私はそう思っています。



『救われる=苦悩から解放される』となりますが
苦悩から解放される意味を履き違えている人がとても多いと
私は、そう思っているわけです。
まぁ~私も勘違いしてましたしね。w

一般的には、『苦悩から解放される=快楽が満たされる』と
無意識にそう思っています。
私の場合は、経典+真言霊障がなくなる!そう思っていました。
実際にかなり軽減しましたしね~
一時的にですが(^^;)


そもそも、苦悩とは、煩悩が生み出すものとするのが
仏教教義なわけですから、いくら経典や念仏を唱えても
快楽が満たされるわけはないのです。

苦悩をなくす為には、煩悩を捨てる事とするのが仏教の教えなので
『苦悩から解放される=煩悩を捨てる』と言う事になります。

いや~この事に気づくのに10年以上かかりましたね~^^;)



一般的に、救われるとは、望んだモノが手に入る事をさします。
お金に困る⇒お金に困らなくなる
事業が窮地に陥る⇒事業が順調に進む
病気で悩む⇒病気が治る
結婚が出来ない⇒結婚が出来る
人間関係がうまく行かない⇒人間関係がうまく行く
などなど・・

実際にこれらの状態を救われたと言いますが
仏教的に言えば、煩悩が満たされた事をさし
救われた事にはならないわけです。


従って、いくら経典や真言、念仏を唱えた所で
そもそも、初めからこれらが満たされる事はないわけです。

仮に満たされたとすれば
それは、魔性の力で、後々代償を払う事になるはずです。
飲食店で経典を唱えたらお客が増えた!
宝くじが当たった!
出世した!
病気が治った!
など、よく耳にしますが
経典を唱えるだけで快楽が満たされれば
人間社会がどうなるか?
ちょっと考えれば解るものですが
なかなかどおして、人間とは煩悩に溺れてしまうと
痛い目にあうまで
現実が見えなくなるものです。
まぁ~痛い目に会っても気づけない人もいますが・・w



本来、与えられた苦悩自体に意味があるので
その意味を理解し乗り越える事が救われた事になるわけです。


従って、救われた状態と言うのは

お金に困る⇒
お金に困っている原因を知る⇒
お金に困って学ぶべきものを学ぶ⇒
自己改善し成長する⇒
お金に困った状態に感謝する。

病気で悩む⇒
病気になってしまった原因を知る⇒
病気になって学ぶべきものを学ぶ⇒
自己改善し成長する⇒
病気で苦しんだ事に感謝する。


私の場合は

霊障で苦しむ
霊障で苦しむ原因を知る⇒
霊障になって学ぶべきものを学ぶ⇒
自己改善し成長する⇒
霊障で苦しんだ事に感謝する。

という状態が救われたと言う事になります。



しかし、アホな私は・・
霊的苦痛から解放される事が
救われる事と思い込んでいたので


霊障で苦しむ⇒
経典・真言を唱える⇒
霊的苦痛が和らぐ⇒
何も学習しない⇒
更に強い霊的苦痛⇒
激しく修行する⇒
霊的苦痛が和らぐ⇒
何も学習しない⇒
更に強力な霊的苦痛⇒
更に激しく修行する⇒
・・・
・・
・・
と言った感じで、堂々巡りを繰り返してしまったわけです。


霊的苦痛と言う私自身に対してのありがたいメッセージを
『霊的苦痛を与える存在=悪』として排除していたわけです。

なので、一向に救われる事などないわけです。

なんとも愚かな行為ですよね~w










ただ、経典や真言の力というモノは
確かにあるとそう思っています。


私は、名前から感じるエネルギーを読取り
その人の人となりが解るのですが
経典には、この世の真理について書かれていると
そう感じるわけです。


以前、般若心経を1080回唱えると言う事をした事があります。
約10時間ほど読経し続けるので
喉は潰れ、体力的にヘロヘロになってしまいましたが
唱え終わると、清々しい気持ちになるわけです。
その後も、しばらくは体が軽く
心身の毒素が抜けた感じになりました。

経典の持つエネルギーを心身に纏う為なんでしょうが
まぁ~その行為をした所で、私自身に心の成長がない為
結局は、元の状態に戻り
相変わらず、霊的苦痛は絶えませんでした・・^^;)




ただ思うのは、経典には、この世の真理が書かれているので
そのエネルギーの影響を受け続ける事で
何となくこの世の真理を理解し始めるように感じます。
これは、経典に限らず、神道祝詞も同じだと思っています。

凝りもせず、数万回唱えれば
何だかんだと、色々と学ぶ出来事が起きるようになるのでは?
と、そう思っているわけです。

般若心経一つとっても、ただ意味も解らず唱え続ける事で
この世の理が見えてきます。
これが、経典が持つエネルギーの力なのではないでしょうか?



経典や真言を唱え続けると
苦悩から単に解放される救いではなく
この世の真理に近づく事が出来るので
苦悩から多くを学び、自分自身を成長させる。
従って、その苦悩に感謝する事が出来る訳です。

これが仏教が示す『救い』という事でしょうね。




まぁ~毎日10回般若心経を10年ほど唱え続けると
そこに書いてある、意味がなんとなく解るのでは、ないでしょうか?

この世の真理に近づけば、どんな人でも救われるはずです。


私の場合10年では、何も学べませんでしたが
15年ほどやってみて、なんとなくですが
この世の真理が見え始めたように感じています。


まだまだ、入口が見えてきたくらいですけどね~^^;)