修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

いくら頭で理解していても、血肉に刻まれた経験値には逆らえない

至らない自分を見つけて改善する事を続けると
どんどんと成長している自分がよくわかります。

しかし、頭で理解していても
なかなか言動を変えられないのも人の性でしょう。


常に温和でいなければならない・・と
いくらそう思っていても
他人から嫌な言葉を向けられて
ムカっとしたり、イラっとしたり
してしまうものです。


どんな人も血の仕組みのは逆らえないんでしょうね。




過去私は、色々なカウンセリングを受けた事があります。

自分の状態を知り改善する事が目的だったのですが
解っていても出来ないものは出来ないわけです。w

ダメな自分、ダメな相手・・諸々を
全てゆるしましょう~!
などといくら言われても

そもそも世の中自体を憎んでいた私が
簡単にゆるせるわけはないのです。w

また、どんな状態が『ゆるす』事なのか?を
理解していないので、上辺だけゆるした気持ちになってしまう・・

自分は全てをゆるしているはずなのに
他人から嫌な言葉を向けられるとムカついてしまう。
そして、その度にゆるせていない自分に気づくので
自分の感情を押し殺すようになる・・



何度も繰り返し自分の本心を押し殺し
気付けば、自分の意識の中で
しっかり出来ている自分を作り上げ
何も問題はないと思い込んでしまうわけです。w

単に自分の感情を押し殺しているだけなので
何一つゆるせていないのに
感情を押し殺す=ゆるしている、と
勘違いしているわけです。

この思い込みは、自分を強烈に壊して行きましたね~w
地に足がついていない状態なんですが
どんどんフワフワと浮いていくんです。

周りの人から見て、一人だけ浮いている感じ?
他人とコミュニケーションが取れなくなっているのに
その事すらも気づけなくなるわけです。

それもそのはず・・
すでに私と言う自分が消滅しているんです。w


本心を押し殺す事により
偽装された幸せを創り出し
自分は大丈夫だと思い込むわけです。

辛く苦しい現実から目を反らす事ができれば
一時的に幸せを感じる事ができるのですが
本来の自分という存在にも蓋をしてしまうわけです。

そんな人がまともに他人とコミュニケーションが
とれるわけもないんですよね~


これは、私に限らず
スピ系の事柄にハマっている人に多いですね~








なんでこんな事になるか?と申しますと
思考でいくら意識したところで・・
頭でいくら考えた所で・・
意識のみで・・・
肉体は制御できないのだと私はそう思っています。


どんな人も脳から受ける信号で肉体は制御されていますが
脳自体も肉体から経験値の信号を受けているんです。

誰でも意識とは別に肉体が記憶している諸々を
体験した事があると思います。

朝起きて、目が覚めていないまま
トイレに行って、歯を磨き
顔を洗って初めて、思考が動き出す・・
反復された動作は、血肉に刻まれており
思考が正常に作動していなくても
肉体の記憶が、ちゃんと身体を動かしてくれるわけです。

ひどい火傷をした経験があれば
炎を見るだけで頭で考える前に拒絶してしまう。


無意識に人を傷つける言動をし続けた人は
いくら言葉や行動に気を付けていても
同じ事を繰り返してしまうわけです。


何度言っても解ってくれない!
と、いくら相手を責めた所で
言葉のみで理解できる事など限られているわけです。
肉体が言語を理解してくれませんからね~



ようするに、いくら自分を知り自己改善しようとしても
実際の言動が伴わなければ自分の全てを改善する事は不可能なんです。


いくら至らない自分に気づいた所で何も行動していなければ
時間と共に、血肉の経験値に支配されたまま
何も変わらない・・
そのうち、その気付きさえ忘れてしまうでしょう。



肉体の経験値は血により子々孫々と受け継がれてゆきます。
両親や両親の先祖から受け継がれた経験値も含まれるので
自己改善は、ちょっとした気づきだけで
簡単にできるモノではありません。





ならば、どうしたら良いのか?
と言う事になりますが
新たなる言動により経験値を上書きすれば良いわけです。

自己を苦しめる血肉の記憶は
必ず慈愛の精神に反した動機での言動の記憶です。

従って、慈愛の精神に基づいた言動を繰り返し
その経験値を血肉に刻み続ければいいわけです。

これが、『徳を積む』という事になります。


今、目前の現実が辛く苦しいものであるなら
それは、慈愛の精神に反した言動を繰り返した結果なので
その経験値は、すでに自らの血肉に刻まれているでしょう。
改善するには、なかなか大変な事だと思います。








私自身も、どうしても心から感謝できない自分に
うんざりした事があります。
感謝できないので、常に不平不満を口にして
自分の思うようにならない現実を否定批判していました。

事業に成功している人や
毎日豊かに過ごしている人を見ると
100%多くに感謝しながら過ごしているので
自分も感謝できるようになりたい!
と、常々そう思っていました。

当たり前の事なのですが
心から多くに感謝している人は不平不満がないのです。
常々自分を省みる事を繰り返し
変えるべきは自分自身と言う事を良く理解しているわけです。


しかし、私の場合
言葉や態度で感謝を示す事はいくらでも出来るのですが
心深く感謝しているか?と問えば・・
100%感謝していないと言い切れるわけです。

なぜならば、ちょっと気に入らない事があれば
ムカついていたからです。w

頭では感謝できても言動が伴わないのです。
私の感謝は、全て上辺だけのものだったのです。


感謝できるようになりたい!という思いから
疑似感謝を繰り返すようにしました。w

まずは、当たり前に感謝する事から始めたのです。

蛇口をひねれば、水が出る・・
水道工事に関わる方々へ感謝

夜、部屋の電気をつけると明るくなる・・
電気工事に関わる方々へ感謝

日本神道は感謝に始まると言ってもいいくらいなので
この辺は非常に助かりました。
日本と言う国が発展し続けたのは
皆が皆、常に感謝してきたからなのだと
私はそう思っています。

毎日唱える祝詞は、感謝を捧げるものばかりですしね~

毎日、神棚に向かい
不自由なく生活できる事に感謝を捧げる・・

食前、食後の感謝・・

『食前感謝』
たなつもの 百(もも)の木草(きぐさ)も 天照(あまてら)す 日の大神の めぐみえてこそ
『食後感謝』
朝よひに 物くふごとに 豊受の 神のめぐみを 思へ世の人

こんな歌まであります。^^)


私の場合、感謝できていない自分を良く知っていたので
毎日毎日、結構しんどかったですね~
感謝しているふりをするわけですから・・w



ただ、この疑似感謝を毎日毎日何年も続ける事で
少しずつ感謝できるようになってきたのです。
どうしても出来なかった事が、出来るようになってきたわけです。

感謝しようと努力する経験値が
血肉に刻まれ続けたのだと、私はそう思っています。



まだまだ、全然足りていないとは思うものの
昔に比べれば、雲泥の差の感謝を捧げる事が出来るようになりました。


心から感謝できるだけで、どんな人も幸せになれると
今では、そう思うようになりましたしね。








どんな現実が目の前にあろうが
今幸せだと思う事が出来れば幸せなのですが
なかなかそうは思えないのが人なんでしょう。


辛く苦しいと思う感情は
多くの快楽を求めているから生まれるもので
それを止めれば、どんな苦悩からも解放される。


苦悩をなくしたいのであれば感謝すればいい~


今目の前にある出来事ひとつ一つに
深く感謝できれば、快楽を求める思い以上に
多くに貢献したいと思えるようになる。
気付けば快楽を求める事を止めてしまい
目の前にあった苦悩さえも同時になくなっているでしょう。





この感覚を手に入れる為には
煩悩に逆らった経験を繰り返すしかないので
なかなか、大変な事なんですが
どの道、快楽を求めて生きて行っても
同じようにしんどい思いをするんですよね~w


そう考えると、どう生きても
人生はしんどいわけなんです。w

どうせ生きるなら、楽しく苦しんだ方がいいですよね?w



という訳で
私は、日々『我に戒めを!』と
祈願するようになってしまったわけです。w