修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

目前の現実の受け止め方次第で、未来は大きく変わるもんだ~

嫌だな~と思う出来事は
嫌だな~と自分が感じなくなった時点で
その出来事は、嫌な出来事ではなくなるわけです。
即ち、自分次第で嫌な出来事など消えてなくなるのです!w

至極当然の事なのですが
なかなかそんな風に考える事はしないですよね~w

でも、実際はそんなモノなんです。

同じ食べ物を美味しいと感じる人
不味いと感じる人がいるように
目前の現実をどう感じるか?も
自分自身の経験次第で自分の価値観など
どうにでもなってしまうのがこの世の仕組みだと
私は、そう思っています。





私たちの社会は、他人を傷つけるような言動は
「いけない事」としています。
集団生活に支障が出る為に、そんなルールがあり
私たちは、そんな教育を受けています。

では、「他人を傷つける言動」とは?
と、考えるとなかなか難しい~・・
褒めているつもりの言葉に傷つく人もいるし
傷つける言葉に歓喜する人もいる・・w
結局は、相手を理解しなければ、どうしようもない。
そして、相手を理解しようとする事で
自分の感情と向き合う事が出来る。
自分がどう受け止めているかを知る事が出来なければ
自己改善できませんしね~

まぁ~どんな出来事も受け止める人次第という事です。
しかし、なかなかそんな考え方に至らないのが人間なんでしょう。





どんな人も優越感を無意識に求め
どんな人も劣等感に苛まれている・・・
それが人という生き物だと思ってます。

優越感に浸りたい欲望が強ければ
自分を否定する相手に、ムカついてしまう。
時にブチ切れしたり、心を壊したりする人までいる。

また、誰しも心のどこかで劣等感を抱いているので
自分を否定する相手を攻撃してしまう・・
そして、自分の下に見る理由を探してしまう・・
自分が見下す誰かがいると安心できるのです。
優越感は劣等感を補う作用があるので
優越感が得られないと劣等感に苛まれる・・・

劣等感が強いと怒りっぽくなると言いますが
ネットで自分の意見と違う考えの記事に対して
ついつい否定的なコメントを書いてしまうのも
劣等感が強いからなのかもしれません。

周りを否定する事で、安心感を得るのです。
というか、そうしないと不安になるのでしょう。
他人をバカにしたりするのも同じ理由です。
誰かを見下す事で、優越感を得て劣等感をなくしている・・
その心の裏側には、認められたい、褒められたいという
欲望があるのでしょう。

普段の生活の中で、認められる事や褒められる事が少ないか
認められたいと言う欲望が強い為
なんだかんだと否定的になってしまうのですが
否定の多い人が、周りに認められる事などないでしょうね。
せいぜい、同じ穴の狢で傷を舐め合うくらいのものです。
傷を舐め合う事で安心できる・・・
そして、傷を舐め合っている事実に気づけない・・・


誰しも、周りに認めて欲しいし、褒められたい生き物なので
この感情が、多くの苦悩を生み出しているように感じる事が多々あります。







で、苦悩から解放される為には、目前の出来事に対して
自分がどう受け止めているかを知る必要があるのですが
その為に自分自身をよく知らなければなりません。

誰しも、自分の事は自分が一番よくわかっていると
そう思ってしまうのですが
実際は、他人と比較して初めて自分の位置づけを知る事ができるので
他人を良く理解しなければ、自分の事などわからないのです。
自分の事を理解していると思う、その位置づけは
往々にして、自分に都合よく他人も自分も理解しています。
煩悩の操作で何一つ見えていないのが、人と言う生き物なんでしょう。

なので、まずは他人を理解する事が必要になるわけです。
これ、やってみると解るのですが
他人を理解しようとすると至らない自分を知る事が出来るんです。
そんな大自然の法則があるんですよね~
自分の価値観で他人を位置づけしている事に気づければ
かなり未来が変わるでしょう~

他人を深く理解する事が出来ると
怒りや憎しみ、不平不満を向ける事が出来る相手など
この世に1人もいない事に気づけますしね~


誰しも、「自分はこうだ!」というポリシーにようなものがあって
それと違う考え方だと、自分を否定された気持ちになったりします。
ただ単に価値観の違いに過ぎないのですが
自分の信念を否定された気分になるわけです。
そう解釈してしまうと自分の中に劣等感を抱き
対手を攻撃して自分を守ろうとする
もしくは、その劣等感に苛まれるわけです。

例えば、喫煙所でタバコを吸っているのに
喫煙所の外にタバコをポイ捨てするのを見て
ルール違反だ!と注意すると
注意された人と注意した人が喧嘩になったりします。
この喧嘩は、ルール違反いけない事だ!という価値観を
相手に押し付けた事が始りなんですが
注意した人は自分が正義だと思っているでしょう。
一般的にはそう解釈されます。
しかし、注意された方は
無意識に自分の価値観を否定されたと感じてしまい
劣等感からくる自己防衛の無意識が
相手を攻撃してしまうわけです。
自分の価値観を押し付け合っているわけです。w


心の成長を促す大自然にとっては
そもそも正義など自分都合なので
そんな社会のルールなど関係なく
「もっと他人を理解しろ!」と嫌な出来事を引き起こします。
自分は正しい!と強く思えば思うほど
トラブル続きの現実を突きつけられるでしょう。

正しい事をして何処に問題があるんだ??
と、普通はそう思ってしまうでしょうが
正しさなど所詮は自分都合でしかありませんからね~
社会のルールは人間に都合よくつくられていますしね。

大自然は、相手がなぜ喫煙所の外にタバコをポイ捨てしてしまったのか?
を、考えようとさせるために、何度も嫌な出来事を突きつけるでしょう。
要するに、自分自身が悪を生み出しているわけです。


人間関係のいざこざは、ほぼ100%価値観の相違なので
相手の価値観を理解して受け止める心があれば
ポイ捨てした人を注意しても喧嘩にはならないのです。
自分の心から出ているエネルギーが全く違うので
初めから相手の感じ方も違いますしね。

要するに、正義をかざしてダメ出しするのではなく
なぜ?ポイ捨てしたらいけないのか?を理解してもらう事が
大自然にとっては重要な事なんでしょうね。

まぁ~ポイ捨てする人の価値観を理解できれば
どうすればポイ捨てする人がいなくなるか理解できますし
その為に自分がどうすれば良いかも?理解できす。
ポイ捨てしてしまう理由があるわけですからね~
それを無視して、ただ自分の正義を振りかざしているだけでは
揉め事が増えるだけで、何一つ解決しない事も理解できるのですが
常日頃から相手の価値観を理解しようとしていなければ
そんな事すらわからいのも仕方ないのかも?
というか、そんな考え方に至らないのでしょうね。

シリアで拘束され帰国した安田さんの事件も
紛争地まで行ってリアルな情報を持ち帰る事が
世界にとって重要だと思っている人と
そう思わない人の意見が異なるわけです。
私が思うに、世界平和を真剣に考えて行動している人や
社会構造に大きな問題があると感じている人は
安田さんを批難しないでしょうね。
世界や社会に貢献しようと
考えて行動している人の方が圧倒的に少ないので
「自己責任論」の方が多数のはずです。

結局は、思いから来る行動による体験の違いであり
それによって生まれた価値観の相違という事でしょう。
体験経験していない事は、理解などできませんからね。


とは言え、マジ民主主義社会ってマジ怖いですよね~
まぁ~これも私の価値観に過ぎませんがw






私は、ダメ出ししたくなる相手や
嫌だと感じさせる相手、ムカつく人などは
神々が憑依した状態で自分に接しているとそう思ってます。w
通常なら悪魔や魔物が憑依していると
そう思うのでしょうが、私の場合は、真逆です。w

強い憎しみを抱くと自己崩壊してしまうのがその証で
(悪=神なので)神を冒涜する行為を続けているから
この世から排除される事になるんだと思いません?

そして、そう思うようにした方が
色々と苦悩の原因が理解できるようになりますし
自分の未来が明るくなりますしね~


ようするに、目前の現実の捉え方なんだと思うわけです。


どういう事かと言えばストレスを感じる出来事を
今までと違った視点で捉えて考えるわけです。

今まで、悪魔のようだと感じていた人が
実は神だったら?とか?・・w
悪魔なら排除しなければと思って終わりですが
神だと思えは、どんな試練なんだろうか?
自分は何を乗り越えなければならないのか?
と、考える事が出来るので、自己成長にに繋がるわけです。


また、社会の常識に囚われる事無く
広い視野で、自分を見つめ
今の自分が何を求めているのか?を知る事でも
目前の現実の受け止め方が大きく変わると思ってます。


この世の仕組みはなかなか面白いものなんですよね~^^)