修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

善悪の決めつけを止めると自分の視野がかなり広くなり、毎日が楽しくなったりする・・

私たちは義務教育を経て
正しい事、間違った事を学びます。

ルールを設けて
そのルールを守る事を
正しい事としなければ
集団生活の社会の秩序が保てないし
社会も発展して行かないからでしょう。

ルールを守らない人ばかりだと
メチャクチャな社会になりますしね~

では、人が創ったそのルールは
本当に正しいのだろうか?
そもそも、正しいとは何だろうか?
何に対して正しいとするのか?を
よくよく考えると
自分達に都合の良い事のみが正しい事
もっと言えば
自分達が満たされる事が正しい事
そして、自分が辛く苦しい事は悪い事
ではないのだろうか?

煩悩が人の苦悩を生み出すのならば
煩悩に忠実な、その正しさにこだわると
どんな人も苦悩を招いてしまうのでは?

実際に私の所に相談に来る方々の多くは
この善悪呪縛が原因で苦しんでいます。

ようするに自分からの視点のみで
物事を判断し、自分が辛く苦しいと感じれば
その苦悩を与えた相手は、全て「悪」にしてしまうのです。
とても愚かで、自分勝手な解釈をしているのですが
誰しも無意識に自分は正しい前提で物事を
捉えようとしうるので
そんな事すら全く気づけないのです。

誰しも自分が間違っていると
常々思いたくはないですからね~

私自身も自分の中にある
自分勝手で身勝手で利己的な思考が
多くの悪を作り出し、自らの心身を崩壊させましたね~
自分が悪と認定したものとはとことん戦い
結果として、理不尽な苦悩をたくさん体験しました。
自分に厳しいから、周りにも厳しんだと
そんな風に思っていたのですが
実際は、ただゆるす心が欠如していた
だけだったのです。

まわりの人より
ゆるす事が出来なかった為
自分が生みだした悪と戦った・・w
悪自体を自分が生み出している事にも
全く気づく事が出来ず・・
気付けば自分の周りは悪だらけとなり・・
なんて最低な世の中なんだ!
くらいに思っていましたね~ww

当時と同じ現実を見て感じて体験しているのに
今の私は、この世の中は素晴らしい!と
そう思っているのです。w

いや~結局は自分次第という事を
長い時間をかけて学びましたね。w

悪をゆるせず、人を恨んだり、自分を責めたり・・
幼い頃からの洗脳が私にはピッタリはまり
自分の心を壊してしまったわけです。


自然界のルールからすれば
ゆるす事が正しい事なんですが
なんでもゆるせば、社会の秩序が保てないほど
人間と言う生き物は愚かなんでしょう。

そして、幼い頃からの洗脳が
ゆるす事をできなくさせてしまっているわけです。

まぁ~私たちは社会の一員であり
社会のルールの中で過ごしているので
そんな事を考える機会もないですしね。

ただ、その仕組みがあるおかげで
私たちはゆるす事を学ぶ事が出来る
ゆるせない出来事があるおかげで
ゆるす事を学べるのでしょう。



しかしながら、これだけ心を壊す人が増えると
そろそろ自分の価値観を変えてみた方がいいのでは?
と、そう思ったりするわけです。
自分以外の事を深く思いやり
その思いを言動に移すだけで
簡単に苦悩から解放される自然の法則がありますしね~







私自身、善悪の判断を止めてしまった事で
かなり自分の視野が広くなった経験をしました。


例えば、他人を傷付ける事は
本当にいけない事なのか?
私は、愛を持って他人を傷つける事は
とても素晴らしい事だと思っています。
自分の心にダメージを受ける事で
心が強くなって行きますしね~
怒ると叱るの違いです。


そもそも、他人に傷つけられるのは
それまでの自分の言動が原因なので
簡単に人を傷つける行為を悪としてしまえば
自分自身の成長の妨げになり
更に辛く苦しい現実を
大自然に突きつけられてしまいます。

現代社会ちょっとした一言で
自殺してしまう心の弱い人もいますが
ひょっとしたら人を傷つけてはいけないという常識がある為
どんどん人の心を弱体化させてしまったのかもしれません。


とは言え、人を傷つける行為が無くならないのは
私たちの心の成長に必要不可欠な行為であり
それが、自然界のルールなので
何をどう足掻いても、人間ごときの身勝手なルールでは
どうしようもないんでしょう~


本当に笑っちゃうのですが
「あなたの〇〇という言葉で傷ついた!」
と、怒る人が、結構いるのですが
それを言われた方は
「あなたの〇〇という言葉に傷ついた!」
という言葉に傷つくわけです。w
自分の事しか考えていないので
それを言われた側の気持ちを考える事などせず
自分が傷ついた!という主張しかできないのです。

こんな事を言うと「最初に傷つけた方が悪い!」
くらいの事を言う人までいますしね~w

一方通行な視点で物事をみていると
常に悪を生み出してしまうので
しんどい人生になってしまうのですが
自分の視点のみという狭い視野が
その事さえ気づけなくなるわけです。


自然界の法則からすれば
常日頃から相手の事を理解しようとしていなければ
自分が傷つく言葉をたくさんの人に向けられるのは当然なのですが
善悪の決めつけが、その事に気づかなくさせてしまうのだと
私は、そう思っています。

人が傷つく言葉は「悪」というルールが
自分が傷ついた→傷つけた相手が悪い、としてしまい
相手を理解するという思考を停止させてしまうのです。



言動には動機があるので
なぜ、そんな言葉を自分に向けたのか?
また、なぜ?自分はその言葉に傷ついたのか?
どんな言葉を向けられたかったのか?
その為にはどうすれば良かったのか?
自分は周りの人を理解しようとしていたか?
などと、考える事を繰り返すと
どんどんと自分は成長して行くものです。
他人の言葉に傷つく人は
ほぼ100%他人を理解しようとせず
自分の気持ちばかりを優先しているからですし
それに気づかせる為の苦悩なんですよね~

ひとつひとつの苦悩を悪とせず
善としてとらえると、同時に視野が広くなって行き
毎日が楽しくなったりもします。

結果として、自分を傷つけた相手に感謝できるのです。
自分を傷つけた相手がいたおかげで色々と気づく事ができたのですしね~
コレ本当にマジです!(-_☆)

まぁ~善悪に囚われている以上
自己の成長もなく、辛く苦しい事ばかり起きるでしょうし
気付けば、自分の周りに「悪」を探すようになり
常に、誰か何かを否定批判していないと自我を保てなくなる・・
そして、その事実に全く気づけないまま
心を壊すが、重い病気を患う事になるわけです。




また、不倫などもそうでしょう~ね。
『不倫はいけない事』とするだけでは
不倫した人は、いけない人・・で終わらせてしまいます。
なぜ不倫はいけない事なのか?と問えば
妻を傷つけてしまうから
夫を傷つけてしまうから
子供が悲しむから、両親が悲しむから
と、答えるのが一般的でしょうし
それ以上深く考えたりする事もなくなってしまいます。
だって、それが社会の常識ですからね~
常識に囚われた狭い視野しか持てなくなってしまうわけです。
本当に妻や夫が傷ついているのか?
本当に両親や子供が悲しんでいるのか?
そう考える人と
不倫にも色々なケースがあり
一言で不倫は悪い事としてしまうのは
とても浅はかな考え方でしょう。



例えば、夫が不倫をした事で
夫の大切さを再認識できた。
また、夫に毎日ガミガミ言っていた事を反省し
以前より、優しく接するようになり
穏やかな夫婦生活を過ごせるようになった。

父親の不倫により両親が離婚し
毎日の夫婦喧嘩がなくなって
子供の非行がおさまった・・
とか・・?w

出来事に対して自分が何にどうフォーカスしているかで
自分の心のありかたが全く違うものになったりするわけです。




人に優しくする事が良い事・・・
人を傷つける事は悪い事・・・

私に言わせれば、常識ってのは
社会の秩序を保つための一般論であり
自分たちの煩悩を満たす為に最低限必要な
人の意識に過ぎないんじゃないの?って感じです。w
そんなモノに拘ったら、みんな不幸になる!
と、思ってしまうわけです。
現に精神を患う人たちが増えていますし
実際に善悪の判断を止める事で心の病が
治ったりする人もいます。

善悪の判断を洗脳されている私たちは
なかなかその洗脳を解呪できないのかも?しれませんが
時に自分がフォーカスしている所を
変えてみるのもいいかもしれません。






重い病気になった、大きな怪我をした・・
というのも全く同じで
病気になったり、怪我をしたりする事で
気付ける事は沢山あります。
例えば、利き腕をケガをする時は
身近な人に感謝が足らない時ですし
足を怪我すれば、立ち止まって自分を省みる時だと
私はそう思っています。

病気になって、普段の生活に支障が出る時も
同じように、感謝が足らない時だったりします。
ただひたすら我欲を満たす事ばかりで
家族や友人、社会の為に尽くそうとしなければ
100%どんな人も病気になるのが自然の法則です。

ちょとした頭痛や腹痛、風邪をひくのも
至らない自分に対してのメッセージなのですが
病気や怪我=「悪」としていると
その事に、全く気づけないわけです。

病気になったお陰で、気付ける事は山ほどある。
私自身、ちょっとした嫌な事、辛い事のおかげで
日々、成長できているので
辛く苦しい事がない世界なんて真っ平ゴメンです。

そもそも、辛く苦し出来事の全てが
自己の成長の為にあるので
その辛く苦しい出来事を「悪」としつづければ
自らの成長はストップしたままであり
大自然は、成長を促す為に
更なる苦悩を与えて来るわけです。

そして自分は不幸な星の下に生まれたのだと
勘違いし、自分の不幸を嘆き続ける・・

この呪縛は善悪の決めつけを止める事で
いとも簡単に解呪できるのですが
幼い頃からの洗脳が、邪魔をするんですよね~



なので、私は「悪」こそが神だ!とマジでそう思っているんです。
悪を拒絶する事は、神を拒絶する事となり
幸せを拒絶している事に等しいので
幸せになれるはずがないのです。

しかし、「悪」は神からのメッセージと受け止めれば
自分自身はどんどんと成長できる
辛く苦しい現実を乗り越える事で
とても大きく成長できた自分に感激し
「悪」というメッセージに心深く感謝できるわけです。


嫌な事、辛い事、苦しい事が続くのは
それらの出来事を「悪」として排除しようとしているだけだからでしょう。
重く自分にのしかかる苦悩は
今までちょっとした苦悩と向き合う事をしなかった・・
ただ、それだけの事なんでしょう。

幸せのきっかけを自ら排除していれば
幸せになれるわけもありません。

ならば、たった今より善悪の判断を止め
目前の出来事から多くを学び自らを成長させる努力をすれば
同じ現実でも、毎日が楽しくなるのではないだろうか?



善悪の判断を止めるのは、悪を善として考えてみると
そんなに難しい事ではないのですが
そう簡単に、出来ない!なんて言われる事が多々あります。^^;)

出来ないのであれば、自分の言動の動機を見つめてみるといいと思うのです。
往々にして、煩悩を満たそうとするから嫌な事が起きますしね~
とは言え、これも煩悩の何が悪い!となってしまうのです。w

でも実際問題、自分が何処にフォーカスいるか?だけなんですよね~
言動の動機が放つエネルギーが目前の現実を創り出しているので
そこに着目し直い限り、目前の現実は好転しませんしね~


ホリエモンが寿司職人の修行に10年もかかるのはバカだ!と
そんなネット記事を読んだことがあるのですが
お金儲け、生産性、これらにフォーカスすると
おっしゃる通り、馬鹿げた事ですよね~
冷凍寿司だって、びっくりするほど旨いですしね。w

ただ、心の成長という視点で考えてみるとどうだろう?
10年間、面白みのない作業を延々と繰り返す作業はかなり苦痛なので
私なら、同じ作業の中で、色々と模索すると思うのです。
時間を無駄にしたくないですしね~
普通に過ごしていれば、全く気づけない事にも着目できるようになりますし
それはそれで、自分の人生でかけがえのないものになるような気がするんです。
まぁ~何年も修行して、体験したから、そう言うんですけどね。

何が言いたいかと申しますと
結局は、自分が何を求めているか?次第で
善悪などどうにでも移り変わると言う事です。


辛く苦しい現実も、結局は
自分が何を求めているか?よって
善にも悪にもなるわけで
早い話、悪にしなければ、毎日を楽しく過ごせるわけです。

苦悩から多くを学ぶと言う体験が出来れば
自分の中で、苦悩=悪という思考が薄れて行きます。

また、辛く苦しい出来事を楽しむ事も出来たりします。

人生で最も大切なのは『悪』を生み出さない事でしょうね。
まぁ~これも持論ですけどね。w