修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

憎しみの感情を解消する方法

人間であれば、人を憎んだりする事もあるでしょう。
ただ、憎しみの感情を抱き続けると
その感情は、自らを蝕み、次第に自分自身が朽ち果てしまう。


憎しみを解消させるために
「そんな事は忘れなさい」
「余計なパワーを使うだけだ」
「時間が解決してくれる」
などと言われていますが
私は、そんな簡単なモノではないと
そう思っております。

憎しみを抱くような出来事は
心に深い傷を負っているので
その傷を治さなければ
簡単に忘れる事など出来ないのです。

また、目前の現実は自身の心が生み出すエネルギーが
創り出しているので
いくら思考で忘れていても
自分の心の中で解消できない限り
目前の現実に強い影響を与え続るのです。

憎しみの感情は自分の人生の足を引っ張り続けるでしょう。



そもそも、憎しみを抱くような出来事は
自分自身を改善させるために
とても重要なメッセージが含まれているので
それを見つける事が必要不可欠だとも思います。
復讐が報われる事がなく
更に悪化するのも同じ仕組みからでしょう。


すなわち憎しみを抱くような出来事は
己を改善しろ!と言う
大自然からの警告なので
忘れようとしても忘れる事が出来ず
そして、己を省みて改善するまで
自らを蝕み続けて行くわけです。


我々人間にとって都合の良い社会のルールで
物事を解釈している以上
憎しみの感情は解消できないものだとも思います。


例え愛する人
理不尽に殺されたとしてしても
殺害した相手を「悪」とするのは
我々人間が都合よく作った社会のルールに
過ぎないと言う事です。

そのルールに準じて相手を憎んだ所で
大自然からすれば、その出来事は、自らへの「警告」の為
更なる苦悩を与えられるだけなのです。





私は、多くを憎んで
自分の心を一度、崩壊させて
そんな仕組みがあるのだと
そう思うようになりました。

憎む相手は、感謝する相手であり
自分自身は多くに謝罪する必要があったのです。

多くの人に謝罪しなければならない事を
積み重ねて行くと
憎しみを抱くような出来事が
我が身に降りかかるのです。


こんなこと言っても
「こいつ何言ってんだ?」
と思う人が殆どでしょうけどね。w










憎しみを解消する為には
憎しみを抱くような出来事が起きる仕組みを理解すれば
良いと私はそう思っています。

以前にも記したような気がするのですが
再度、その辺を記して見たいと思います。








まず、私たちは私たちの創ったルールの中で生活をし
そのルールに基づいた善悪の判断をしています。
そして、憎む相手は「悪」としています。

しかしながら、大自然のルールは
私たちのそんなルールとは
無関係に現実を引き起こします。
善悪などどこにも存在していないわけです。
ただただ、慈愛の精神を学ばせようと
自分の目の前に様々な出来事を引き起こし
そこから学べるように仕向けているのです。


要するに、自分が憎む相手は「悪」ではなく
自分の至らない部分を教えてくれる為の「警告」と言う事です。
その警告を無視していれば
自分自身が朽ち果ててしまうのも致し方ないでしょう。

警告に気づく事が出来れば憎む相手に感謝できるのです。
そして、自分自身の至らない所にも同時に気づけるので
多くに謝罪しなければならない事にも気づけるでしょう。


憎しみを抱くような出来事は、自分が抱いた怒りや
否定批判、不平不満の感情の積み重ねが引き起こします。
また、無意識に他人を不快にさせたり傷つけてしまう行為からも
負の感情のエネルギーを自分に向けられるため
不快に思ったり、傷つけられる出来事が起こります。

従って、憎しみを抱く出来事が起きた直前から
過去に遡り、自分自身の言動を振り返ると良いでしょう。
自分が深く傷つくと言う事は
自分自身が他人を傷つけてきた代償なのです。
目前の全ての出来事が、自らの成長を促しているのが
大自然の法則と言う事です。


過去に憎しみの感情が自らを蝕んでいる人からの
相談を何度か受けてきましたが
殆どの人が、自分が他人を傷つけてきた事に気づけません。
その理由は、他人の立場になって物事を捉える事が
出来ないからです。
出来ないと言うよりは、しようとしないと
言った方が正しいかもしれません。

私は、こんな酷い事をされた!
私はこんな酷い事を言われた!
と、自己主張するばかりで
なぜ?そうされたのか?そう言われたのか?
と言う事を考えようとしないのです。

相手の立場を普段から考えようとしないので
無意識に他人を傷つけていても
全く気づけないし
自己主張ばかりすると言う事は
常に自分が正しいと思い込んでいるので
自分が他人を傷つけているなどと
どうしても思えない・・
普段から、自分が気に入らなければ
全て「悪」なのです。


自分の主張が、だれかを傷つけているかもしれません。
自分が良かれと思ってした事が相手を傷つけているかもしれません。
正義感が強ければ強いほど、多くの人を傷つけるでしょう。
そもそも「悪」とは、自分で創り出すモノですから
「悪」とされた相手は、それだけで傷ついているものなのです。



人間社会のルールに囚われていると
なかなか、その事に気づけませんが
どれだけ相手の気持ちになった言動をしてきたか?を
振り返り改善する必要があるのです。

社会的に「悪人」とされる人たちの
気持ちを理解しようとしない限り
人間関係がうまく行かないのが自然の法則なのでしょうね。



私は、少年時代に集団リンチを受け
鉄パイプで頭を殴られ重傷を負った事があります。
当時は、「所詮一人では何もできない奴らだ!怒」
くらいに思っていたので
人生で2度も集団リンチされました。^^;)
でも、おかげさまで今では1人ずつ謝罪すべき相手だったと
そう思っています。

まぁ~そこまでされないと
気づけない愚か者だっただけですけどね・・w

自己を省みて、至らない己に気づけると
謝罪しなければならない事ばかりでした。-_-;)










憎しみを抱く出来事は人それぞれなので
その出来事の経緯を振り返る必要があります。

「裏切られた」
「騙された」
「傷つけられた」
「利用された」
などなど・・
自分は、何に傷ついたのか?
何が嫌なのか?
それらを明確にし、自分が似たような事を
他人にしている事に気づかなければなりません。
殆どの場合、至らない己に気づけないので
憎しみを解消できないわけです。



例えば、自分に酷い言葉を向けた相手に対して
「私は、あなたの〇〇という言葉に傷ついた!」
と、主張すれば、相手はその言葉に傷つくでしょう。
しかし、愚かにも自分都合でしか物事を捉える事が出来ないので
その言葉で、相手を気づ付けている事に全く気づけないのです。

他人を傷つけている事に気づけず
そんな事を繰り返していれば
自分の心が深く傷つく出来事が起きるのも当然なのです。



また、他人と接する事に恐怖心があり
自分自身の感情を常に押し殺して
偽りの自分で他人と接していれば
常に他人に嘘をつきながら過ぎしている事となり
その内、誰かに騙されたりするでしょう。
そんなつもりはなくても、他人を騙して過ごしている事に
変わりはないので、その代償を支払う事になるのです。
自分の気持ちに嘘をついている人と接するのは
誰だって嫌なものです。



強欲な人も深く心を傷つけられたりします。
自分がどうしても〇〇したい!とそう思った出来事に対し
周りや相手の気持ちを全く考慮せず、そうする為の手段をいとわず
強引に進める人は、多くの人を不快に思わせている為
自分が大きく傷つく出来事が起きるでしょう。
当の本人は自分の事しか考えていないので
自分の言動で他人が不快な思いをしている事に気づけず
自分は何も悪い事をしていないのに
どうして、こんな嫌な出来事が起きるのか?と
自分を苦しめた相手を恨んでしまうわけです。



「悪」をゆるせない人も同じです。
ルールを守らない人に対して、注意する=ダメ出しする。
これを繰り返していると「悪」を生み出しているだけなので
その内、自分が生み出した「悪」のエネルギーに蝕まれてしまいます。
憎しみを抱くような出来事が起きるのも当然でしょう。
「悪」が「悪」を生み悪循環がはじまると
「悪」を敵視し続ける事となり、憎しみを抱きながら
自らの命を絶たれる事さえあります。

本来、ダメ出しではなく、どうすれば良いのか?を考えて
行動する必要があるわけです。
ダメ出しではなく「どうしたら良いのか?」
「自分に出来る事は何か?」と考え行動する行為は
自らを成長させる為に必要不可欠な行為なのです。
逆に、ダメ出しや否定批判は、自分の成長を止める行為になる為
その警告が自然界から出来事として通達されるのです。


こんな些細な事の積み重ねが
憎しみを抱くような出来事を引き起こしているわけです。

納得できない!と
思われる人も多いでしょうね。^^;)



とは言え、人生とは心を成長させる為にあるので
我々の過ごすこの世界では、自分の心が生み出すエネルギーが
目前の現実に強い影響を与えてしまうわけです。

従って、心の成長を止める行為は
どうしても辛く苦しい出来事が起きてしまう。
苦悩とは、自身を成長させる為のメッセージなわけです。
苦悩の度合いによって
指導→注意→警告→最終警告・・と言った感じでしょうか?
憎しみを抱くような出来事は「警告」されていると
思った方が良いでしょうね。




私は、憎しみを抱く相手を理解しようとしない限り
自分が抱く憎しみの感情は解消されないと思っています。

憎しみを頂く相手は
どんな気持ちでその行為に至ったのか?
相手は何を求めて、その言動に至ったのか?
心無い言動は、どんな価値観からされているのか?
その価値観は、どんな経験から創られたのだろうか?
自分は、その相手に何を求めていたのか?
その求めるモノを手にするだけの権利を得る言動をしていたか?

などなど、深く観察し続けると
目の前に起きる出来事がヒントをくれるはずです。

「悪」を生み出して終わりでは、何の解決にもならず
また似たような出来事が繰り返されるでしょう。
何度も繰り返し言いますが
その理由は、憎しみを抱くような出来事は
大自然から自分に対しての大切なメッセージが含まれているからです。

従って、憎しみを抱くような出来事を
切り取って考えるのではなく
過去の自分の言動と繋げて考え
深く自分を省みる事で、必ず辻褄が合うと思います。

個人的に、憎しみを抱くような出来事の多くは
過去に「謝罪」しなければならない行為を
繰り返しており
それに気づかせる為のメッセージだと
そう思っております。

また、それに気づけると
憎しみを抱きている相手に
深く感謝できるでしょう。



まぁ~そんな事を言われても
なかなか、そうは思えませんよね。^^;)