修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

他人と意見が対立する法則は極めて単純である

恥ずかしい話・・
私は30歳過ぎるまで、言葉や文章が伝達の道具だと思っていたので
それまでは、自分と他人と話が噛み合わない理由が全く解りませんでした。

霊が見えたり、会話したりできなくても
五感以外の感覚で皆が皆、判断していると思っていたからです。

しかし、そうではない事を知り
五感のみで物事を判断する訓練をしているのですが
やればやるほど、多くの人が
不毛なコミュニケーションを繰り返していると
そう思うようになりました。


人の言動には、動機が必ずあるのですが
私は、その動機をエネルギーとして受け止めて
相手の思考を判断しています。

しかし、五感のみで相手を判断しようとすると
言葉、動作、表情などで判断する事になります。
実際には言っている事と思っている事が
全く違う人が殆どなので、やり取りがうまく行かなかったりする。
また、出来事は人の心のエネルギーに左右され
言動の動機によって出来事が左右される事になるので
不毛なやり取りに思えてしまうわけです。

とは言え、それが人と言うものであるのなら
そんな中でも、うまくコミュニケーションを取る方法を
見つけた方がいいわけで
そんな事を考えて見ると
やはり、相手の言動をそのまま直に受け止めるのではなく
その動機を見極める努力をする必要があるのでは?
とか、思ったりします。



人と人との意見が食い違う原因は極めて単純です。


人間は、常に何かを求めていなければ
生きて行けないのですが
人それぞれ、求めるモノが違います。
常日頃の生活の中での判断基準も
自分自身が求めているモノによって異なるわけです。


例えば、登山したい人は、テントなど登山道具を準備しますし
海水浴をしたい人は、水着やマット、サンダルなどを準備するでしょう。

では・・
お互いに、登山したい、海水浴したい、という思いを知らない状態で
一緒に出掛けようとすれば?・・
意見が食い違うのは当たり前ですよね。


でも、こんなやり取りが、至る所で起きているのが
我々が生活する社会なのです。
TVで討論番組が、成り立ってしまうくらいに・・

昔の私は、討論番組ほど「謎」なものはなかったのですが
それが当たり前なのが、世の中だという事に
気づくのが遅れて、ちょっとしんどい思いをしました。
みんな狂ってると思ってたんですよね~
まぁ~社会的には私が狂人認定されてましたけど。w




他にも、自分と他人のエネルギーによる理屈ではない対立もあります。
利己的な思いが強い人は、無条件に他人と意見が対立してしまうのです。
愚かにも自己顕示欲が強ければ強いほど、対立を求めるのが人という生き物です。
本人は、その事実に全く気づけないのが厄介なんです。
他人をねじ伏せる事を求めているので、やたら対立するわけです。
お隣のK国なんかは、いい例ですね。
初めから対話など出来ないという事になります。









私は、普段から多くの人の相談を受けているのですが
苦悩の中にいる方の殆どが、他人の思いを無視しています。

なので、自分が何を求めている上で言動や発言なのか?を
良く考える癖をつけるといいのかなぁ?とか思ったりします。

自分が何を求めているか?を確認しながら
相手と対話をすると、相手と自分の違いがよく解るからです。
自分が何を求めているか?を相手に伝えるだけでも
他人とのコミュニケーションは、全く違うものになりますし
逆に、自分の進んでいる方向がおかしい事に気づけたり
自分が超自分勝手な思いを抱いている事にも気づけたりします。

また、自分と意見の食い違いに対して不快感を抱かなくなります。
だって、求めているモノが違うから意見が対立しているだけだと
そう思う事ができますしね。
不快に思うのは、自分の思い通りにしたいという
欲求が阻害されているからであり
相手を理解しようとしないまま
自分の価値観を押し付けようとするからです。

初めから思い通りに出来ない事を知っていれば
不快に感じる事は、なくなります。


私が、不毛なやり取りだと感じるのは
お互いに自分が何を求めているのか?に気づかないまま
言い争いをしている人が、めちゃくちゃ多いからです。

K国の外交などは、初めから日本をねじ伏せて
優越感に浸りたいだけなので
初めからまともな交渉などできる相手ではないわけです。
そう思って接すれば、ムキになって腹を立てる事もありません。



オリンピックで金メダルを目指している人は
それを基準に物事を判断しています。

人それぞれ、生きる方向に従った判断基準があるのです。

しかしながら、物質的に豊かな社会になった為
多くの人が生きる目的などありません。
そんな人たちは、だたひたすら快楽を求めてしまうのが人の性でしょう。


多くの人が、幸せになりたい!と
そう思いながら、快楽を満たそうとして過ごしています。
我が国の方針も、「快楽を満たす」という民意に耳を傾けます。

しかし、大自然の法則の上
私たちが、快楽を求めれば求めるほど
辛く苦しい現実を突きつけられる事になります。

そして、各々が異なった快楽を求めて対立するわけです。w


では、どうすれば良いのか?

私は、生きる目的を見つけて、そこに向かいながら過ごす事が
人生で最も重要だと思っています。
それが、利他的な思いでの目的であれば
大自然に断罪される事もありませんし
コロナ被害も最小限に抑える事ができるでしょうね~
エネルギー的にそんな仕組みがあるからです。


企業が経営理念を重視するのは
同じ方向に向かう事で、業務上の判断が基準が定まるからです。
自分の事ばかり優先する従業員が集まれば
会社は間違いなく倒産してしまいますしね。

会社の存在意義が、快楽を満たす為では
その会社は大自然に抹消されてしまいます。

組織とは、違う価値観を持つ人の集まりなので
組織の進む方向を決めなければなりません。
進むべき方向が違えば、同じ出来事が善にも悪にもなり
結果として、お互いの正義をぶつけ合い争う事になるからです。

私が、大自然には善も悪もないと言っているのは
どんな出来事でも、善にも悪にもなりうるという意味です。


今の日本政府は、日本が進むべき方向を示していないので
国が不安定な状態なのは致し方ないと思います。
そして、人間同様、国という組織も
苦悩の中でしか、改善できないものなのです。

日本と言う国は、世界に貢献する国であって欲しいなぁ~
とは、思いますし、一部の企業が世界に貢献しているので
見習わなければ!とも思います。




話が、それてしまいましたが
他人と意見が食い違うのは、自分と相手が求めているモノが違うからです。
たった、それだけの事であり、極めて単純明解です。
何が「善」で何が「悪」かではないという事実を忘れなければ
他人とのやり取りの中で自己を成長させる事が出来ます。

我々の社会は、人々の快楽を阻害するものは「悪」としています。
その判断に囚われると、自分の人生を見失う事になるでしょう。

理由は簡単で、大自然は快楽を満たす行為に対して
苦悩を突きつけてくるからです。

私たちが「善」としている事に対して、苦悩を突きつけられれば
どうやって生きて行けば良いのかが分からなくなるでしょう。
また、「善」にも「悪」にもなる出来事に「善」を定義付けると
人生の中で立ち止まって過ごす事になるでしょう。
どちらに進んでも、「悪」になりうる可能性があるので
何処にも進めなくなるからです。
正しさや良い事を求めれば求めるほど、息苦しい人生になるでしょうね。

私たちが「良い事」としているモノは
概ね、私たちを苦しめている事柄で間違いないでしょう。
だって、人間の本質は醜い心で成り立っていますからね~

なので、利他的な心を持つ事や
徳を積む事、奉仕の心を抱く事が難しいんです。

そんな美しき心のない人間が「良い事」「正しい事」など
出来るわけがありません。



なので、正しい事、良い事をするのではなく
自分自身の中で生きる目的を見つける事が大切です。
その目的がなければ、善悪に囚われて過ごす事になりますしね。
醜い心を持ったまま、正しい事をしようとすれば
何が何だか分からなくなり、いずれは心が壊れてしまうしょう。

どんな人も生きる目的がなければ、煩悩に流される日々を過ごす事になり
ただただ惰性で、快楽を求めてしまう。
そして、その生き方に対して、大自然から苦悩を突きつけられる。
更に我々は、苦悩を排除する事が「善」とする社会で生活しているので
必死に苦悩を排除して、大自然から更に大きな苦悩を突きつけられる。

スーパーな悪循環ですね。w




これだけ豊かな社会で生活していると
生きる目的を見つける事は、大変な事かもしれません。
しかしながら、生きる目的がなければ
善悪に囚われてしまうのも人の性。

ならば、どうすれば良いか?


ボランティア活動です!

煩悩に逆らった経験は、自身に強い影響を与えます。
先祖代々の価値感は、誰しも血肉に刻まれており
その価値観に基づいて、物事を判断し過ごしてしまいます。
従って先祖代々、同じような禍が繰り返されたりするわけです。
これが、先祖からの因縁と呼ばれているヤツですが
先祖供養や因縁消滅祈願で、なんとかなるモノではないのでご注意を!w


自分の価値観に反した経験は
新たなる経験値として自身の血肉に刻まれエネルギー化します。
そして新たな価値観を生み出し、自分の目の前に新たなる世界が広がります。

これを繰り返す事で
どんな人も、利他的な思いが芽生える事になり
必ず生きる目的を見出す事が出来ます。

逆を言えば、利己的に過ごしている以上
生きる目的を見出す事など出来ないでしょう。

せいぜい、煩悩満載の生きる目標くらいなもので
そんな目標など、最終的に大自然に消されてしまうでしょう。

今、自分の人生の指針がないのであれば
毎日を利己的な思考で過ごしているという事です。

結果として、人である以上
利他的な心を育む必要があるので
そこに向けて努力する事をお勧めします~


利他的な思いの中で生きる目的を見つけその方向に進んで行けば
どんな人も善悪の判断に囚われる事がなくなります。
なぜならば、同じ出来事でも人によって
善悪が入れ替わる体験を繰り返す事になるからです。
他人との意見の対立は、相手と自分の
求めているモノが違うだけだとよく解りますしね。

そして、相手が求めているモノもよく解るようになるので
自分がどう立ち回れば良いのか?も明確になります。

また、他人を知ろうと努力すると
自分で自分を知る事が出来るという大自然の法則があるので
今、自分が煩悩に流されて生活していると思っているのであれば
他人が何を求めて発言しているか?を良く観察してみるのも良いでしょう。



例えば、コロナ騒動で色々な意見がありますが
それぞれの意見に耳を傾け、その人が何をお求めているのか?
を、察する事を繰り返すと、その人の人となりが解るようになります。

これ、やってみると解るのですが
殆どの人が、自分も含めて、ただ単に
自己の快楽を満たす為だけの判断をしています。w
まぁ~それが人の性ですからね。

昔の私は、人間は、なんでこんなに愚かなんだ!と
自分が神にでもなったような事を思いましたがw
人の心は、そうやって磨かれて行くんでしょうね。


他人が求めているモノや言動の動機を探りながら
ネット上の意見を読みふけっていると
極まれに、利他的な判断の上で情報配信している人がいます。
全体の1割もないと思うので
そんな感じで情報収集するといいでしょうかね?

まぁ~客観的に物事を判断できなければ
結果として善悪に囚われたまま
曇った現実しか、見えませんけどね。

澄んだ目で物事を判断する為には
どうしても利他的な心が必要で
利他的な思いで過ごす必要があるという事です。

簡単に出来る事ではないのが
人生の醍醐味なんでしょうね。