修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

仏教の教義のおかしいと思う所

仏教離れという言葉を数年前から
耳にするようになり
私の所へも離檀したい・・
墓を移したい、墓じまいしたい・・
なんて相談がよくあります。

また、私は長らく仏教を修行していたので
知り合いの住職から
空き寺の面倒をみてくれないか?
とか、言われたりもします。




仏教離れの原因は
やはり葬儀などにかかる
費用対効果なんでしょうかね~?

高齢化社会なので
葬式仏教はウハウハのはずなんですが
葬儀屋の社長さんにお話をお伺いすると
最近では、葬式をせず
火葬場直行の直葬が流行っているそうで
葬式を行いお経を読んでもらうという時代が
終わりつつあるそうです。


浄土宗、浄土真宗なんかは
戒名をつけるのに〇〇万円かかります。
そして戒名がなければ
極楽浄土へ行けない・・と言われる。
私の母は、お金で行く極楽浄土なんて
貧乏人には窮屈だろうし
死んでまでそんな苦労をしたくない
だから葬式なんてしなくていいと遺言に書いておく。
なんて言ってます。w

費用をかけた分の結果を見定める術がないので
やっている事が霊感商法と同じなんですよね~
でも、戒名を付ける行為の費用であって
極楽浄土に行ける行けないは別の話なので
違法じゃないって事なんでしょうかね?

冷静になって考えると
詐欺と同じじゃね?とか思っちゃいます。w
人の恐怖心を煽り、金儲けしてるんですから
大自然に断罪されても仕方ないでしょうし
逆に檀家の皆さんに貢献していれば
仏教業界は繁栄するでしょう。


私としては・・
そもそも極楽浄土なんてないだろ!
って、声を大にして言いたいです。w
仏教系の人に言わせれば
罰当たりな事のようですが
「罰当たり」とは質問に対して回答せず
質疑を終わらせる都合の良い言葉だと思ってしまいます。

戒名に高額なお金を払うくらいなら
新興宗教で販売している壺を買った方が
その効果は体感できますね。
統一教会系の方が持っていた壺は
確かに邪気を吸い取りましたし・・・w
密教の釜焚きと同じ仕組み何ですかね~?


私の知人で実際にあった話ですが
母一人子一人の母子家庭で
母を亡くした時、葬儀を行うお金もない状態で
先祖の墓のある寺に連絡をしたそうです。
お金がないなら葬儀するなくらい言われて
嫌な思いをしたそうですが
それでもと頼みこんで
棺桶の前で、般若心境を読んでもらったそうです。
般若心経を1回読んで40万払ったと嘆いていました。
ちなみに浄土宗です。
仏教をしこたま修業した私としては
とても悲しい出来事で・・
仏教でいう「慈悲」はどうしたんだ!
とか、言いたくなりましたね~
ここまで来ると社会悪と言われても
仕方ないような気もします。


まぁ~こんな事を繰り返すから
仏教離れが増えているのでしょう。


私自身、長らく密教を修行していたので
仏教の教義をそれなりに学ばせて頂きました。
自分の中では、まじめに取り組んできたつもりなんですが
疑問がいっぱい沸きましたね~

先日記事にしましたが「成仏」についても疑問でしたし
五行説についても、でっちあげだろ?と思ったりw
何だかんだとよく解りませんでした。
本当は素晴らしい教義なのかもしれませんが
私には、意味不明な内容が多かったです。

なぜ?疑問に思ったか?は
色々な教えを説かれてなるほど~と思い
で、具体的には?どうすれば?いいの?って伺うと
最後は念仏や経典を唱えれば
御仏が救ってくださる・・・なんです。

今思えば、笑っちゃう内容なんですが
私は、まじめに取り組みましたね~
念仏を唱え、経典を唱え、写経をし
瞑想し、滝行をし、断食をし、登山をし・・
ありとあらゆる修行をしました。
いつか御仏が救ってくださる・・そう信じて。

確かに経典や真言には不思議な力があるので
摩訶不思議現象も多々体験しました。

が、しかし!
念仏や経典を唱える事ばかりしていると
清々しい気持ちになり身体も楽になり
これが御仏の力か?救われているのか?
と、そう思ってしまうんです。

で、実際には
心の成長が止まっているので
目先の嫌な事がなくなったとしても
更に嫌な出来事と向き合う事になる・・
それが、どんどん酷くなる・・
そして思うのです。信心が足らない・・と。w

果たして、本当に
御仏が救ってくれているのだろうか???



昔、この疑問を
私に密教呪術を指導してくれた住職に投げたら
明確な回答を頂く事が出来ました!

その住職は言いました・・
住職「お前、一生懸命修行したよな。」
私「はい、必死にやりました。」
住職「なら、わかるだろ?」
私「え?わからないです。」
住職「は?バカなのか?」
私「え?」
住職「御仏が救ってくれたのか?って話だ。」
私「いえ・・」
住職「だろ?それが答えだ。」
「えぇ~!!!」
住職「お前な~よく考えて見ろ
そんな簡単に御仏が救ってくれたら商売にならんだろ?
俺たちどうやって食べていくんだ?
寺だって、人が集まらないと食べていけないわけだ。
いろいろな説法で心に響く言葉を並べて
最後は、寺に通っていれば救われると思い込ませるわけだ。
それが仏教ってやつだな。」
「えぇ~!!!」
住職「7年に一度の御開帳だって人を集める為だぞ」
「えぇ~!!!」
住職「そもそも秘仏にする必要なんてないだろ?
ご本尊は公開して、沢山の人に拝んでもらった方が
力を付けるのに、なんで秘仏にするんだよ。
力のないご本尊を公開してなんの意味があるんだよ。
金儲けの為に決まってるだろ!」
「・・・マジで?」
住職「どうして秘仏にするのか?その寺で聞いてみろ
適当な事しか言えないから。
そもそも明確な文献なんてあるわけがないんだよ!
うちの寺もそうだしな。笑」
私「なんか、今まで疑問に思っていた事が
全て繋がったような気がします。酷い話ですが・・」
住職「そりゃ良かった。笑」

と、まぁ~こんな感じで
寺の住職とは思えないような答えを頂き
でも、スッキリしたわけです。
仏教の闇をたくさん教えてくれましたね~
仏教の教義と真逆の話ばかりで
それを信じていいのか?とさえ思いましたが
納得できる話ばかりでした。

もう20年以上前の話ですが
その住職は、当時から仏教は衰退の一途だと言っていました。
その理由は、人もバカじゃないからいつまでも騙せない・・
歴史を見れば、よくわかる。
比叡山焼き討ち・・廃仏毀釈・・
ちゃんと世の為人の為に尽くしていれば
そんな事件が起きるわけないだろ?
そもそも、これだけ化学が発展した現代で
疑問に思わない方がおかしいだろ?!だそうです。


聖職者とは思えない住職でしたが
確かに仏教離れが始まっていますね。

その住職の印象に残った言葉が
「寺の坊主だって人間だって事だ。
どうやって金儲けすればいいのか必死なんだよ。
聖人じゃないんだよ。」
という言葉です。



とは言え、私は仏教から多くを学んだのも事実です。
特に密教呪術からは、今の私が語る大自然の法則の
根本になる考え方を学びました。
呪術は自然の法則を利用する呪法なんですよね~
最終的に、呪術なんかやるもんじゃない・・と思いましたが。w





仏教には、人を苦しめるのは「煩悩」である
という考え方がありますが
私からすれば、あえて対処方法をわかりにくくしている
表現に思えてなりませんでした。
と言うか、なんとなくカッコよく表現しているんですよね~
難しい漢字が並んでいる中で
それなりの説明があると、中二病的感覚が刺激されるんです。w


例えば、「三毒」貪・瞋・癡
欲、怒り、嫉妬という心のありかたを指しており
仏教において代表的煩悩です。
多くの経典に「貪・瞋・癡」という言葉が出てきます。

お釈迦様は言いました・・
「貪・瞋・癡」を受け入れなさいと・・
しかし、不動経では
「大智の剣を執って貪・瞋・癡を害し」とある
なんで?と聞けば
「お不動様をその身に宿し三毒に負けない心をもちなさい。」
と言われるわけです。
え?受け入れるんじゃないの?
って、思いません?w
なので、修行すればするほど訳が分からなくなりました。

でも、密教呪術を教えてくれた住職は、違いましたね~
その住職に同じ質問をすると
住職「は?そんなの解る住職なんているわけないだろ?
坊主なんて受け売りばかりなんだよ!
解ってれば、文字通り成仏してるわ!wwww」
と、明確な回答をして頂きましたね。
そもそも出家もろくに出来ない
寺の坊主が、お釈迦様の教義が理解できるわけがない。
という事だそうです。
聞いても無駄なんだと思うと
なんだかスッキリしたのを記憶しています。w




まぁ~こんな質疑が繰り返された結果
私は、自分で色々と検証するようになったわけです。


私は、これら三毒のエネルギーを感じ分ける事が出来るのですが
怒り、嫉妬は、我欲から生まれてるんですよね~

仏教では、貪・瞋・癡、は並列に見なされて
解釈される言い回しが多いですが
私の中では、それ自体が納得いかない・・w

で、検証しましたよ。
実際には我欲を知る事で、怒りの感情も嫉妬心も抑えられます。
そして怒りや嫉妬心自体は、我欲が生み出しているので
我欲を認めない限り、生み出され続けるわけです。

面白いのは、我欲が我欲を抑制したりするんです。
なので、我欲を排除する必要はありません。

例えば、怒りの感情は自分の思い通りにならない時に生まれますが
自分の思い通りにならないだけで、怒りをぶちまけている自分を知ると
恥ずかしくなり怒りの感情が鎮まったりします。
この状態は、怒りの感情が羞恥心に入れ替わったわけですが
羞恥心は、自己承認欲求から生まれます。
即ち、我欲が怒りの感情をなくし、羞恥心へ変換したのです。
羞恥心という「欲」は、自らの心を成長させてくれる
「我欲」という事にもなるわけです。
気付きにより怒りの感情が減る事で、自らのエネルギーが変わり
目前の現実は、確実に好転します。
即ち「我欲」が己を救ってくれた事になります。

「貪・瞋・癡」と並列に並べてしまうと
具体的にどうしたら良いのか?よく解らないままなのですが
この並列で考える事をやめるだけで色々解ってくるわけです。

仏教の経典に頻繁に出てくる「三毒」・・・
こんな言い回し必要なんでしょうか?


己の我欲を知れば知る程、怒りの感情や
嫉妬の感情をなくす事が出来る。
しかも、別の我欲によって、その現象が起きる。
即ち我欲が己を成長させてくれる仕組みが
この世の中に存在している事になります。

仏教で「煩悩」とは、人に苦悩を与える原因とされていますが
逆に、人の苦悩を緩和する力もあるわけです。
矛盾してますよね~
という事は、「煩悩」が人を苦しめる原因という考え方は
おかしいんじゃないか?って思ってしまうのです。


他にも「五欲」
眼・耳・鼻・舌・身の五境
または色・声・香・味・触の五塵

ようするに
人は、財欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲
この5つの代表的な欲が原動力となり
苦悩を生みだしているという考え方です。

いやいや!色欲、食欲、睡眠欲は
生理現象だろ?呼吸と一緒でどうにもならんから
一括りにするなよ!
そもそも、利他的な欲も原動力になるだろ?
こんな表現するから
御仏の救いを待つしかなくなるんじゃん。
それとも、あえてそう表現しているわけ?

五塵六欲なんて考え方もありますが
五行説と同じで、カッコよく表現しようとしてるだけだろ?
中二病を患わせて信者を増やそうとしてる?
とか、思っちゃうんですよね~

まぁ~寺でそんな事を口走ると
最低な奴って目で見らるんですけどね~
でも、私は純粋な疑問を抱いているだけなんです。


まだ他にも、仏教の教義で疑問に思う事が沢山ありますが
まぁ~今とは時代が違う
食べるのに困った時代の教義なんで
長い年月を経てお釈迦様の教えが
伝言ゲームのように解釈が変わってきたのだろう~
と、そう思うようにしています。w



仏教のやっている事は詐欺だ!
洗脳による金儲けに過ぎない!
なんて思った頃があったんですが
よくよく思い出すと
仏教での救いは、極楽浄土へ行けるとか
成仏できるとか
死んでから救われるという話ばかりだったんです。
死後の世界なんて証明できないので
一種の洗脳なんでしょうか?
巧みですよね~詐欺ではないんです。w

当時の私は
どうして、それに気付けなかったのか?
と、自問しましたが
他にすがる場所がなかったと記憶しています。
当時の自分の状況を振り返ると必死でしたしね。
また、寺の存在は社会に浸透していたので
疑う事をしなかったのです。
教義の内容は、仏教系の新興宗教と全く同じなんですが
おかしな話、新興宗教はダメで寺はOKでしたね。
やっている事は同じなのに。w
切羽詰まると、何も見えなくなるのは
人の性なんでしょうね。

そして、私に修行をつけてくれた
住職も悪意など全くありませんでした。
信仰宗教の方々も同じです。
ただ、良かれと思って、親切に
ご先祖様から引き継いだ
受け売りを繰り返しただけでしょう。
教義に対して何故疑問に思わないのか?
不思議だとは思いますが
「寺の住職」である事が目的であり
仏教により人々に貢献する事が
目的ではないので、そうなってしまうんでしょうね。





こんな事言うと仏教協会から
クレームが入りそうですが
私の経験では、念仏や経典を唱えて
御仏の救いを待っているより
己の欲を直視する努力をし続けた方が
救われるスピードが速いと確信しています。
我欲が己を苦しめている仕組みに気付けますからね。


なので離檀結構、墓じまい結構
と言うのが、私の考え方です。

ただ、ご先祖様を敬う思いは無くしたらダメだと思います。
今の便利な生活は、ご先祖様が積み上げて来た功績があって
出来るわけですからね。
その事実に感謝を捧げる場所は、必要だと思います。
偽善だろうとその感謝の習慣をなくしてしまうと
どんな人も幸せになれなくなるでしょう。
初めはご先祖様に感謝できないのが人の性なので
感謝をする練習が必要なんです。
感謝できる事で、人は幸せになれますしね。
個人的に護国神社靖国神社への参拝は行って欲しいです。

また、死者を弔う気持ちも大切だと思います。
弔い方は、別に「供養」じゃなくても構わないでしょう。
直葬の葬式で問題ありませんが、今できる精一杯の方法で弔いましょう。
大切なのは、どんな気持ちで弔うかだと思います。



相変わらず言いたい放題、記しましたが
社会的仏教離れは、どうにもならないかなぁ~
なんて思っています。

令和になり、与えなければ多くを失う時代が
訪れたという事なんでしょうね。
仏教離れも自然現象の一つという事でしょう。
仏教にはそんな教義はないので納得できないでしょうが・・w
まぁ~私たちは、ご先祖様の徳を食いつぶしてしまったので
そろそ徳を積まないとマズいぞ!って事でしょうね。

我々の子孫の為に頑張らねばなりませんね。