修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

私が学んだ「大自然の法則」

先日、コメントにも頂きましたが
今の考え方に至った経緯は?と
再度質問を頂きましたので記させて頂きます。
まぁ~色々わけの分らない苦悩を経験したのと
他人の言葉をそのまま受け止めない性格のせいでもあると
思うんですけどね~w








私は、幼い頃から霊的現象に
悩み苦しんできて、最初に
救いを求めたのは宗教でした。
自分を受け入れくれた所が
そこしかなかっただけなんですけどね。
現実を直視できない私が
現実を直視しない集団に受け入れられた
という訳です。w


結局、修行しかないと言われ
初めは仏教の修行をたくさんしました。
かなり真面目に取り組んだのですが
一時的な改善しかならず
トータル的にかなり悪化しました。w

ただ、大自然に触れあっていると
癒されたので、水と空気の美味しい
信州に引っ越しました。
引っ越した当初は、全てを諦めていましたね~
(懐かしい~w)
宗教にも辟易し修行する事もやめて
過ごしていると、日本神道との出会いがありました。
自分が修行した真言宗の常用経典に
神道祝詞があったので
少し興味を抱き、再度学んでみる事にしたのです。



日本神道では、自然を神とし崇め祀り
全ての自然現象を神々がしている事とします。
これは日本の古来からの考え方であり
日本の武道、茶道、華道、書道
サムライスピリッツなんかも同じ考え方で
「日本の心」と言っても過言ではないと思います。

まぁ~現代日本人には
縁遠い考え方になっていますし
現職の神職の方々でさえ忘れている人が多いです。

要するに全ての出来事は、神々がしている事で
否定批判は許されず、己を省みろ、という考え方なので
今の時代に合っていないという人もいます。

ただ私が、この神道の修行で重きを置いたのは
この教えの探求です。
色々な宗教やスピ系にドはまりしましたが
こんな考え方をするのは神道だけだったので
とても新鮮でした。

自己を正当化する為のソースを探すスピ系や
何の根拠も示さず「祈りは届く」「信じる者は救われる」と
言い切る宗教などとは全く違い
「全ての応えは己の中にある」という神道
惹かれていったのです。
全ての自然現象を「神」とし
八百万の神々と称する所も
なんかしっくり来ましたね~


全ての自然現象を神々とするのであれば
どんな嫌な事が起きても
受け入れなければならない。
どんなに辛く苦しい現実であってもです。


当時の私は、肉体的な苦痛に苛まれており
吐き気や高熱、激痛や痺れ・・
定期的に起きる日常生活もままならなくなる
この現象をなんとかしたかったのです。

辛くて苦しくて、たまらず
神にすがろうと、神棚に手を合わせると
「己を見つめよ!」
言わんばかりにご神体の鏡が目に入る。

自分自身の中に答えがあるんだと
そう思い、自らの言動を振り返る・・

しかし、自分が過ちを犯しているなどと思えない
「自分は何も悪くない!」
「どうして自分ばかりがこんな目に合うんだ!」
そう思えば思うほど、痛みや眩暈に飲み込まれる。
呼吸困難に陥り、よく気絶しましたね~w

それらの苦悩さえ神々がしている事であれば
どうしても、至らない自分を見つけなければなない・・
と、そう思い必死に自分を省みる・・
至らない自分に気付けば、苦痛が和らぐ体験をし
苦悩とは、至らぬ己を教えてくれるシグナルなんだ!
と、そんな仕組みがある事をしりました。


肉体を蝕む苦痛→自分を省みて解放
また、肉体に苦痛→自分を反省し解放
そんな事を繰り返すようになり
概ね、霊的苦痛は自分が負の感情を
抱く事が原因なんだと
そう思うようになりました。
とは言え、負の感情を抱く自分を
変える事は出来ませんでした。
人間ですからね~w

そして心のどこかで負の感情を「悪」認定していました。
怒りや否定批判の感情は「悪」だ!と・・
なぜならば己の心身を蝕むから・・
負の感情に対して、負の感情を抱いている
自分に全く気付けなかったのです。
アホですよね~w

でも、仏教の修行では、どんどん悪化した霊的苦痛も
神道を学ぶようになり若干改善されたので
もっと深く学ばなければと思うようになりました。

しかし、神道は、聖書や経典のように
教義を文章に記しているわけでなく
「感謝しろ!」「世のため人の為に尽くせ!」と
ただそれだけなのです。

なので、私は敬神生活の綱領の実践を心がけました。
でも、心に留めているだけで
なかなか行動は出来ませんでしたね~
神棚に手を合わせ気持ちだけ
実践しているつもりになっていたんです。w
毎日、神棚に手を合わせ
感謝の祝詞を唱え「良し!今日も一日良い事をするぞ!」と
そう心に誓い、それで一日を過ごすのですが
己を振り返れば、誓っているだけで
何もしていないんです。
そして、自分はちゃんと実践していると
思い込んでしまう始末・・
いや~思い込みって怖いですよね。
自分はちゃんとやっている!と
信じて疑わないんですからね~w

結局、次から次へと押し寄せる
辛く苦しい理不尽な出来事・・
これすらも神々がしている事ならば
神を憎もう、神を恨もう、とさえ思いました。
だってちゃんと敬神生活で過ごしていると
そう思っているわけですから~・・w
実際に、当時からボランィアはしていましたが
我を振り帰ってみれば
感謝の心など微塵もありませんでした。
神棚に向かって感謝の言葉を告げる事が
感謝する事だと思っていたんです。w

敬神生活をちゃんと実践していると思い込み
上辺だけで何もできていない自分に
気付いた時は、自分の愚かさに情けなくなりましたね~
自分自身をちゃんと省みる事の難しさも知りました。

で、高熱を出してぶっ倒れる度に
自らを省みて、深く反省する・・
そんな事を繰り返していれば、やっぱ
ダメダメな自分が許せなくなるわけです。

そもそも神棚に毎日、感謝の祝詞を唱えているのに
感謝などしていないんですからね~
していないと言うより感謝の気持ちが皆無なんです。w
とりあえず、感謝できるようにならなければ
何も始まらない!とそう思い
感謝できる人間になるために
一生懸命修行しました。
これも的外れでしたね~w
いくら修行した所で感謝できる人間になれるはずもなく
定期的に肉体的精神的苦痛に襲われるわけですが
でも、その度に自分を省みるので
一歩一歩、少しずつ心が成長していったのです。

で、そんな日々を繰り返しているうちに
ふっと気づいたのです。

全ての事象が神々がしている事であれば
自らに降りかかる様々な苦悩も
神々がしている事であり
それを排除しようとしている私は
そもそも、神道の教義に
反しているじゃないか!
こんな事にも気づけないとは、何と言う事だ!と。

自分の思考では、苦悩は至らぬ己に気付かせるシグナルだ!
と、そう思ってはいるものの
やっぱ、辛く苦しいのって嫌なんですよね。w
嬉しい事や楽しい事がいっぱいの毎日がいい!
もっと快楽を満たされたい!と思っちゃうわけです。w

なので、苦悩を拒絶している自分に
全く気付けなかったのです。
ようするに自分に都合の良い事だけ
を受け入れていたんです。
自分に都合の悪い所は、拒絶か無視・・
そりゃ~視野が狭くなり
何も気づけませんよね~

で、そんな自分を戒める為に
戒めの修行をするようになりました。w
我に戒めを!と祈願するんです。
まぁ~苦悩を認め受け入れる練習でもあり
煩悩に流されないようにする為でもあるんですが
面白いように嫌な出来事ばかり起きるんです。w

どんだけ自分はダメダメなんだ!と
笑えるほど、至らない自分に気づきましたね~

自分の生き様を振り返り
自分の犯した過ちは、一生かかっても
返せないくらいある事に気付かされたのです。

我欲を捨てよう!一生かけて罪を償ってゆこう!そう思いました。
私の懺悔道の始まりですね。w
反省の意味でボランティア活動にも力を入れるようになりました。
反省ボランティアなので100%の偽善行為と
した上で、活動を繰り返しました。

でも、そのおかげでとても多くを学びました。
自分の心がどんどん成長している事を実感しました。
ただただ、己を省みて自己改善するだけでは
何も見ず、何も知らずに死ぬ事になるんだ・・
一生懸命修行してきたという自負はあったのですが
内観をし自己改善を繰り返すだけでは
心は赤子同然だった事を思い知ったのです。
徳を積む行為に比べれば
厳しい修行など無意味だったのでは?
と思うほど、雲泥の差で目前の現実が
移り変わっていったのです。

心の成長と共に、目前の現実が
どんどん移り変わって行く
体験をたくさんしました。
幸せは、生まれた時から自分の中にある事も知りました。
懺悔の人生を送ろうと心に誓ったのに
自分が幸せで本当にいいのか?と悩みましたね~w

敬神生活の綱領にある
「感謝」と「世の為人の為に尽くす」
これだけで、全ての人が幸せになれる仕組みが
この世の存在している事を体験したんです。

そりゃ~聖書や経典など必要ないわな~
体験しないと絶対に解らない事だし・・なんて思いました。
なかなか難しいんですよね~
「感謝」しなければならないとすると
「感謝しない事」を否定する事になる。
「世のため人の為に尽くせ!」とすると
「世の為人の為に尽くさない人」を否定しなければならない。
「善」を作れば同時に「悪」が生まれてしまうので
全てを受け入れる事など到底できないのです。

結局、自然現象を神とするのであれば
何一つ否定する事はできないので
「教義」として掲げ、それを守るように強要できないのです。
なので、敬神生活の「綱領」なんです。
別に、感謝しなくても世のため人の為に尽くさなくても
咎める事はしませんよ~
自分の人生ですからね~って、事です。

神道は、仏教やキリスト教などのように
布教活動などしないでしょ?
人の生きる道を教え導く事もしない・・
「ただ、在る」これを知る事が
幸せになる道であり
それを示しているのが日本神道なんです。

そう考えると、日本神道は宗教じゃないんじゃないかな?と
思ってしまいます。







この体験を経て、私は
社会への目の向け方が大きく変わりました。

だって、我々の社会は
人々の快楽を満たす事が良い事であり
それを「幸せ」とし、皆が皆そこに向かって過ごしているからです。

負の感情は、己の我欲が生み出すモノなので
快楽を求めている以上、負の感情はなくならない・・

なるほど!だから人は苦悩から解放されないんだ・・と、そう思いました。
要するに、我々の過ごす社会は「苦悩を拒絶」する社会なんです。

苦悩を拒絶すれば、更なる苦悩を生み出すのが大自然の法則です。
例えば、性同一性障害の方が社会から酷い仕打ちを受けた!
と、訴える報道をたまに見ますが
これは、性同一性障害を理解できない価値観の人を否定して
傷つけている行為になるんです。
「苦悩」は自然現象なので、いくら拒絶しても
新たなる「苦悩」が生まれるだけなのです。

しかし、社会全体が苦悩を拒絶しているので
苦悩を無くす事が良い事となり
その結果、新たな「苦悩」を生み続ける。
そして、それがどんどん大きくなる。
平和で豊かな世の中が続けば続くほど、「苦悩」が増え続ける
そんな社会構造が存在しているわけです。

大自然は、私たちの心を成長させる為に出来事を引き起こしており
その出来事で最も重要なのは、「苦悩」から学ぶ事なのに
社会全体、世界全体で「苦悩を拒絶」し「増幅」させているのです。

苦悩から学ぶ事を怠れば、更なる大きな苦悩に苛まれる
という大自然の中で過ごしているのにです。

あぁ~我々のご先祖様は、この大自然の法則を
よく理解していたから、自然現象そのものを神として崇め祀ったんだ!
その教えがあったから、日本人は自らを省みる事を美徳とし
常に反省を繰り返し、努力を続け発展してきたんだ!
そう思うと、ご先祖様に感謝せざるを得なくなりましたね~

なので、現代社会で起きているいろんな出来事をみると
当時の私は、なんか凄くおかしな事をしているなぁ~と
そう思ったのです。
自分自身が苦悩の呪縛から抜け出せなかったのも
こんな社会構造に飲まれていれば
ある意味、仕方なかったんだと、そう思いました。

しかし!そこで神道的教義を思い出すわけです。
「全ての事象は神々がしている事」
ならば、この不毛に感じる社会の構造も神々がしている事なのか?と・・
そう受け止めるようになりました。

私は、たまたま相談ボランティアをしていたので
多くの辛く苦しい現実に直面している
方々と接する機会がありました。
全ての方が、苦悩から解放されたわけではありませんが
苦悩から解放された方々は100%自らの心の成長が伴っています。


苦悩の中で、自らを省みる事が出来た人だけが
今抱えている苦悩から解放されているのです。


自らの苦悩は負の感情を抱いた分だけ重くのしかかってきます。
それは社会のルールなど全く無関係で起きる現象です。
いくら自分が正しくても
いくら自分が正義でも・・です。
なぜならば、我々の社会は大自然の中にあり
全ての出来事は、人間社会のルールではなく
大自然のルールに基づいて起きているからです。

「どうして自分ばかりが・・」
そう思ってしまうのは、人間社会の善悪でしか
物事を判断していないからです。

辛く苦しい現実に直面している人は
皆が皆、負の感情が生み出すエネルギーを
沢山その身に宿しています。

また、人が抱く負の感情は
利己的な欲求が阻害された時に
誰しもが抱く感情です。
即ち、人の利己的な欲求が、苦悩を生み出していおり
我欲が強ければ強いほど、苦しい出来事が増えるわけです。

初めは、負の感情が生み出すエネルギーを取り除けば
人の苦悩はなくなると、私もそう思っていました。
確かに、除霊や加持祈祷などの行為で
負の感情のエネルギーは取り除く事ができ
一時的に苦悩からは解放されます。
除霊や加持祈祷を受けた結果
大金を手にする事もあるでしょう。
私自身も言の葉に従い大金を入手した事は何度もあります。
しかし、その後はどうだったか?と考えれば
所詮は一時的な快楽に過ぎず
手に入れた以上のモノを失う事になりました。
私以外の周りを見ても、みな同じ結果になっています。
気付いていない人やその事実を受け入れられない
人も多いですけどね。w


私が、相談者の負の感情が生み出すエネルギーを
取り除けば長年の体調不良が、その場でなくなったり
足を痛めて立てなかった人が歩けるようになったり
するので、多くの人に泣きながら感謝されました。
ただ、それも一時的な解放に過ぎず
その後に、更に大きな苦悩が待ち受けていたのです。

私は、無料相談をしていたので
相談を受けた方々と何度も相談を受ける事が多いので
加持をした後も、引き続き相談を受けていました。
その結果、いくら苦悩を取り除いても
第二の苦悩、第三の苦悩が襲ってくる現象を
目の当たりにしたのです。

当時の私は、自分が原因で起きているのか?と
凄く悩み苦しみましたが、自己改善で
苦悩から解放される仕組みは知っていたので
負のエネルギーを取り除く行為は止めて
相談者の自己改善が、できるきっかけを探すようになりました。

結局、負の感情を抱くのは、自分自身の我欲が原因なので
自己改善無くして完全に解放される事がない事を学んだのです。


しかし、よくよく考えると
誰しもが生まれた時から我欲にまみれ
自分勝手に己の欲望を満たそうと生きている。

という事は、全ての人が人生の中で辛く苦しい
現実に直面する事は生まれた時から確定事項じゃないか!
と思いました。
しかし、その苦悩の大きさに個人差があるのはなぜだ?
と、考えると
負の感情が生み出すエネルギーは
感謝される時に受け取るエネルギーで中和されるので
「感謝する」「世の為人の為に尽くす」
これが、出来ているかいないかで
人の苦悩の大きさが変わっている事に気付いたのです。

もう、まさしく敬神生活の綱領なんですよね~

人間社会ではルールは必要不可欠ですが
人生には、ルールなど不要だという事なんです。
私たちは生まれた時から社会のルールに
縛られて生きているので
なかなか理解できないとは思うのですが
この世の中に善悪など何処にも存在していないのです。

私たちは、生まれた時から「自由」であり
自分を縛るのは、私たちがつくったルールでしかない。

何でも自分の思い通りにすればいいんです。
嫌な事は、しなくてもいいんです。
皆が皆、そうしたいと思うように
創られて生まれ来ていますしね。w

ただ、自分自身の言動の動機が
利己的なモノであれば、苦悩を突きつけられる。
そんな中、利他的な心の大きさに基づき
苦悩の大きさも変わってくるだけなのです。


結局、行きついた所は今の所・・
私たちは苦悩を乗り越える経験が必要不可欠であり
その経験がなければ、心は成長できない・・
心の成長がどうして必要なんだ?と考えれば
恐らく、そのエネルギーがなければ
我々は、存在できないのだろう~と
根拠もなくそう感じています。


利他的な心が生み出すエネルギー・・
このエネルギーをもっと探求すれば
また新しい世界が観えるのではないか?と
妄想しております。w









と、まぁ~こんな感じで学んできたのですが
普通やらない事も色々やったので
「どうしてそこまで出来るんだ?」
と、よく言われました。
で、私としては、私と同じ苦痛を味わえば
誰でもやると思うんですよね~

相談ボラを始めた頃は
絶望を感じている人の相談を受けても
自分と替わって欲しい~って思ってましたしね。w

結構、キツかったんで
その分、沢山の人に迷惑をかけまくって来たんだと
自負しております。


あとは、私の感覚のせいもあるでしょうね~
同じ場所にいても、人の五感は人それぞれ違うので
感じ方は、人それぞれだと思うのですが
私の場合、かなりズレがあると思っています。
子供の頃から耳鳴りがキーンって
鳴りっぱなしですしね。
場所場所で、耳鳴りの音が変わりますし。

なので、人の言葉より感覚を優先するので
他人の話をそのまま受け止める事ができないんです。
誰しも言葉と思っている事では大きく違いますしね。

五行説なんて良い例ですよね。
普通は、そのまま受け止めるじゃないですか?
私は、初めから嘘っぱちだと思ってます。w
5.7.9この数値に意味があるようなので
なんとなく当てはまっているように
感じてしまうんだと思ってます。


高野山結縁灌頂を受けた時も
ちょっとワクワクして参加しただけに
裏切られた気持ちになりましたね~
そんな気持ちになりながらも検証の為
胎蔵界金剛界の両方受けてしまいました。
検証なので複数人で・・w
で、その結果、マジでムカつきましたしね~
金儲け詐欺の行事じゃないか!
金返せ!
詐欺行為で免税とかふざけるな!
って、その時はそう思いました。
今思えば、ただの中二病集団の
中二病行事って思えば良かったんです。
よくよく考えれば、御仏との縁を結ぶ事の出来る
僧侶なんて普通にいるわけないですしね~

でも、普通は、感動するそうです。w
実際、泣きながら感動してる人もいましたし。

まぁ~仏教は「信じる者は救われる」という
煩悩を利用して呪いをかけますしね~w


こんな事を言うと、バチが当たると
普通はそう思うんでしょうが
だてに呪術を学んでいないので
「そんな事ありえない!」と言い切りましょう~!w

確かに「祟り」と呼ばれる現象はありますが
これもエネルギー的な法則があるんですよね~
祟られる側に感謝の心や利他的な心が無いと起きるんです。







・・という訳で
よくよく考えてみて下さい。
こんなバチ当たりな事いう人いないでしょ?w

なので、私の今の考え方は
たぶん、この感覚のせいもあるんだと思います。