修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

「徳を積む」必要性

どうして徳を積む必要があるのか?
という質問を頂きました。
また・・
徳を積むにはどうしたら良いのか?
徳を積もうとしたら不徳を積んでしまった・・
どうしても徳を積む気になれない・・
とか・・
1週間ゴミ拾いをしたけど効果がない・・
ボランティアに参加したけど人間関係が拗れただけだった・・
コミュ症でも出来る徳積みは何かありますか?
などなど、そんな質問も良く頂くので
「徳を積む」「善行」について
私自身の体験に基づいた考え方を記しておきます。









日本神道では
「感謝し世の為人の為に尽くす」
という事を子々孫々と伝え続けています。

仏教や他の宗教のように
色々と教義があるわけではなく
ややこしい作法があるわけでもなく
至ってシンプルです。

私にとって、日本神道の出会いは
カルチャーショックであり
霊的苦痛を乗り越える為の
大きなきっかけになりました。

なぜならば、それまでの私は
感謝する事、世の為人の為に尽くす事など
全く考えず、自分の事ばかりで
日々を過ごしていたからです。


実際に、感謝しよう!
世の為人の為に尽くそう!
そう思って過ごしていると
なぜ、昔の人は「徳を積め!」と
そう言っていたのかよく解るようになったのです。





我々の社会は、人と人とが協力し合って
成り立っています。
いくら「一人で生きて行こう!」と
そう思って行動しても
衣食住すべてを自分一人で賄う事など
出来るものではありませんし
人々が協力し合って発展し続けているのが
我々の社会です。

大自然の恩恵や
自分以外の人々の貢献によって
今の自分の生活は成り立っているわけです。


また、誰しも幼い頃は
両親や大人に育てられるわけで
生まれた時から
自分以外の人に支えられて
人生が始まります。


「今」という、目前の現実も
自分以外の人達に
支えられる事から始まっており
現在進行形で多くの人に支えられ
与えられ続けているのです。
その事実に感謝する事は
人として当然の事でしょう。

そして、心から感謝すれば
その感謝に報いようとする感情が込み上げるのも
正常な人の感情だと思います。

多くの人達に支えられて
今の自分は生きていられる事を知り
その事実に感謝していれば
当然、多くの人達に尽くしたくなるものです。


ただ、人は自分勝手で傲慢な生き物なので
なかなか「今」に感謝する事は出来ません。
感謝する事ができなければ
世の為、人の為に尽くそうとしません。

自己の我欲を満たす事ばかり考え
快楽を求め、過ごし続けてしまうのです。

そんな人たちも沢山いるのですが
それもひっくるめたのが我々の社会でしょう。
私自身そんなひとりでしたしね。

日々の生活の中で
心を磨き、社会に役立てるよう
成長して行くものなのでしょう。





もう一度、言いますが
我々が過ごす社会は、人と人とが
協力し合って成り立っています。

多くの人達が、社会に貢献しようと
日々努力しているおかげで
衣食住に困る事無く
便利に過ごす事ができるのです。


食べ物を作る人
道路を作る人
家を建てる人
電気を作る人
電化製品を作る人
必需品を販売する人
電話を作る人
電話の環境を作る人
多くの方々が、社会に貢献して
成り立っているのが
私たちの社会です。


従って、自分が社会で過ごしている限り
人として、社会の一員として
「徳を積む」事をし続けなければ
ならないのです。



逆に、「徳を積まない」という事は
自分以外の人達が、日々頑張って創り上げた社会
言うなれば人々の共同作業で
成り立っている社会の中で
周りに与えられ続けているにも関わらず
自分勝手に生きるという事です。
周りの人たちを自分都合で利用し続ける事になり
即ち、徳を積まない事が
「不徳を積む」事になります。


仮に、大災害で自給自足を強いられる
環境になってしまったとします。
そこに、自分を含めて10人いるとしましょう。
住む場所を確保する人
食べ物を確保する人
料理をする人
など、生きる為に手分けをして
それぞれの役割を担って
協力し合う必要があります。
そうしなければ生きて行けませんからね。
そんな状況の中、自分勝手で何もしなければ
不徳を積む事になるでしょう。

極端化もしれませんが
それと同じ状況だという事です。

そんな人に限って
こんな不味い飯はいやだ!
こんな場所で寝たくない!
とか、我儘をいうんですよね~w

そして、ここから出ていけ!と
言われると、酷い扱いをうけたと
被害者ぶるわけです。w

不徳積みまくり状態ですよね。

なので、社会に貢献しない
即ち徳を積まないという事は
不徳を積む事になるんです。


そんな人たちが
社会から迫害されるのは、当然の事でしょう。
皆で協力し合って成り立っている社会で
自分本位に過ごす事は
迷惑極まりないことですからね。

しかも、往々にしてそんな人たちは
社会から迫害される事に反発してしまう為
更に酷く迫害されてしまうのです。
これも、当然の事ですよね。



社会の恩恵をうけておきながら
自分の好き勝手に社会を使わせろ!と
言っているようなものなので
そんな人とは、関わり合いたくないものですし
排除したいとさえ思ってしまうのが人情でしょう。


また、そんな人たちが
自分の抱いた負の感情に心身を蝕まれ
病を患ったり、霊的苦痛に苛まれるのも
大自然の法則上、致し方ない事だと思います。

心身を病んでも
多くの人が支えてくれるのが
我々の社会なのですが
自分で、感謝せず、徳を積まない選択をし
社会から外れているのに
自分を理解し誰も受け入れてくれないと
そう思ってしまう。
社会の枠組みから外れて過ごす事は
苦難の人生を選択する事なのに
我欲が多くを求めるが故に
集団生活にも、社会にも馴染めない。

そりゃ~社会自体が
人と人とが協力し合って成り立っているので
己の欲望の赴くまま過ごそうとしていれば
集団行動が苦手になるでしょうし
社会に馴染めないのは当然でしょう。

そして、人として大切な事に気付けないまま
最悪な人生を過ごす事になるわけです。





恥ずかしながら
私は、この仕組みに長い間
気付けないまま、我欲を満たそうと
過ごしていたので
辛く苦しい日々を過ごす事になりました。w


しかし、日本神道との出会いで
この事に気付かされ
感謝しなければ!多くに尽くさなければ!
と、そう思うようになり
行動に移したのです。


とは言え・・
我欲に染まった私の思考は
物事を判断する為の情報が
隔たっていました。

普段から自分に都合の良い
情報しか得ようとしていなかったのです。
そして、自分に都合の悪い現実は
悉く記憶から無意識に抹消していたのです。

己を省みる事ができれば
良かったんですが
残念ながら我欲優先思考が勝って
しまったのです。


その愚かさが原因で起きた現象は
徳を積もうとして
不徳を積んでしまう事でした。

自分では良かれと思ってしている言動により
とても多くの人に
迷惑をかけまくってしまったのです。

かなりたくさんやらかしましたね~w

例えば・・
「お客様は、同じものを購入するなら
安い方が良いだろう」
そう考えて、人脈を駆使して
商品を安価に提供できる体制を作り
自社の業務と無関係の
商品を低価格で販売し始め
市場をひっかきまわしてしまいました。
その結果、その商材を本業としている方々に
大クレームを浴びせられたり・・

良かれと思って
片手間にやったHPの制作により
その会社の、取引先である
担当IT会社を怒らせて
逆に迷惑をかけてしまったり・・

まだ、今のようにネットが普及していない頃
個人情報を文書化しないよう
グループウェアを作って
無料で市に提供しようとして
迷惑がられたり・・


公共の施設の清掃したら
その施設の清掃担当者に怒られたり・・

まぁ~色々とやらかしました。


普段から自分の立場や価値観でしか
物事を判断していなかった私は
他人の立場や価値観を
全く理解しようとしていなかった
事に気付かされたのです。

善意の押し売りをして
相手に迷惑をかけてしまったわけです。



私の場合
「徳を積みたい!」という動機は
今まで、自分勝手に過ごしてきた事に反省し
少しでも報いたい!という所にあったので
すんなり己を省みる事ができましたが
どうしても「徳を積めない」という相談を頂く方々は
そこに動機がないからかもしれません。


例えば
「苦悩から解放されたい」
そんな欲望が強ければ強いほど
徳を積もうとすれば、直面する更なる苦悩に
堪えられなくなる事もあるかもしれません。


元々、苦悩は己の我欲が原因で、その我欲が
自分都合でしか現実を見ようとさせない為に
辛く苦しい現実引き起こします。

なので、その苦悩から解放される為には
視野を広くする必要がるので
視野の狭いまま、徳を積もうとしても
私の失敗のような事が必ず起きるわけです。

結果として
更なる苦悩が待ち受けているのですが
ここで、自分にとっての「良い事」が
他人にとっては、そうでないという事が学べます。

しかし、強欲であればある程
その現実を受け入れる事ができないのです。
なぜならば「苦悩から解放されたい」という
自分が望んでいる、そこしか見ていないからです。
初めから、尽くす相手を見ていないわけです。

自分が変われば現実は変わるので
自分が変われば、苦悩から解放されるのですが
我欲が強すぎて「自分が悪くない!」が先立ち
徳を積もうとしてもダメだった!・・
で、終わらせてしまうのです。





また、虐めに合い、普段から疎外感に
悩んでいる人の場合も同じです。
そもそも、虐めに合ったり
周りから迫害を受けるという事は
他人の思いを悉く無視してしまう言動が多いからなので
徳を積もうしても
初めは他人に迷惑をかけてしまうでしょう。

徳を積む動機が
「周りから認められたい!」という気持ちになり
それを優先してしまうからです。

相手に認めて欲しい、受け入れて欲しいと
そう思って、良い事をしようとしているのに
相手を理解する事が出来ない為
相手にとっては、迷惑な事となり
逆効果になってしまうのです。

これも、自分の「良い事」が
他人にとっては、「悪い事」になる事が学べるのですが
強欲すぎて、自分を省みる事ができない為
とても大切な学びに気付けないのです。

そもそも、自分を認めされる為の
善意ほど、相手にとって
気持ち悪いモノはないですしね。
そんな下心見え見えの善意など
受け取ろうとする人の方が少ないでしょう。


私は常々「徳を積む」ように薦めているので
中には「お前のせいで、こんな嫌な思いをしたじゃないか!」
なんて、言う人もいます。w


始めから徳を積む気なんて
全くないので、善行でもなんでもないのですが
当の本人は、我欲に思考が支配され
本当に善行をしようとしたと
そう思い込んでいるのです。

やっている事は
ただ、自分を認めさせようと
しているだけなのに
「善行」や「徳積み」だと
思い込んでいるわけです。

まぁ~こんな人は、自分に起きる辛い出来事の
全てが自分以外のせいなんで
何を言っても無駄なんですけどね~


という事で・・
徳を積もうと行動しても
簡単に徳など積めないという事です。
そして、往々にして不徳を積んで
しまう結果になるでしょう。


でも、少しでも
人生を好転させたいのであれば
やるしかないわけです。

逆に、どんどん悪化する人生を
望むのであれば
何もしなくて大丈夫でしょう。



私は、周りから認められる為に
徳を積みたかったわけではなかったので
徳を積もうとして不徳になった結果を
深く反省しました。

相手にとって何が良い事なのか?
これを知らない限り
当然、相手に尽くす事なんて出来ないのですが
そんな当たり前の事にさえ
気付けなかった自分が情けなかったですね。

そして、徳を積む為には
まず、相手を知る事が必要不可欠だと
いう事を学びました。

この徳積みの失敗という経験により
相手の立場や状況などの
物事を深く探るようになりました。


例えば、ゴミをポイ捨てする人は
どうして、ポイ捨てするんだろうか?
どうして、ゴミ箱に捨てないんだろうか?
他人に喜んで貰おうと
ゴミ拾いをしているのに
ポイ捨てする人に注意していれば
その人には、嫌な思いをさせるよな?
ポイ捨てをする人に対して
負の感情を抱く時点で
徳積みでも善行でもなくなってしまい
ただの自分正義を押し付けているだけになる。
これは、どう考えても不徳になるな~
やっぱ、粛々と拾う事に徹しよう~
とか・・


と、色々と考えるようになり
他人の言動の動機を知る努力を繰り返す事で
至らぬ自分に気付けるようになりました。

多くの人の価値観を知る事により
その都度、至らぬ自分を知る事となり
あぁ~他人を知ろうとしない限り
自分を知る事が出来ない仕組みが存在しているんだ・・
と、そんな大自然の法則がある事も知りました。


自己の経験の積み重ねが
エネルギー化して
目前の出来事を引き起こしているのであれば
自己改善をしなければ
現実は改善しない。

自己改善をする為には
まずは、至らぬ自分を知る必要があり
その為には、他人を知ろうとしなければ
ならないわけです。

その為には、「善行」や
「社会貢献」という「徳積み」は
最高の環境でした。


自分の思い通りにならない
相手を批判しているだけでは
現実は、なにも変わらない
という事を学んだ事で
更に視野が広くなったような気がします。
批判する必要がなくなったからです。


ムカつく奴、腹の立つ奴
見ているだけで嫌悪感を抱く奴
自分にとって
そんな人たちを、しっかり観察し
深く知ろうと努力しました。

なぜ?こんな事を言うのか?
なぜ?こんな事をするのか?
言動の動機を探りまくったのです。

自分に対して嫌な態度を取る人は
自分の事が気に入らないわけで
何が気に入らないのか?
どうして、気に入らないのか?
自分は、どうすれば良かったのか?
などなど、色々と思考の海に潜って行くと
必ず自分を知る事になるのです。

また、徳を積もうとしているで
その対象は、自分を嫌う人も
含まれているわけです。
自分を認めて受け入れてくれる人だけを
尽くす対象としているわけ
じゃないですからね。

当然、自分を嫌う人や
自分が嫌悪する人の為にも
尽くさないといけないのです。

なので、徳を積もうとすると
嫌悪する人がいなくなるんです。


とは言え、ウザイ奴はウザイんで
関わり合いたくないのですが
嫌悪する事はなくなります。
憎しみの感情が消えてなくなるって事ですかね?

ゆるす事を学ぶ為に
ゆるせない出来事が起きる
という仕組みもこの時に気付かされました。

この世の仕組みは、なかなか面白いですよね。



私は、自分の至らない所を
知りたくて知りたくて
自分が嫌悪感を抱く人が現れると
一時期、興味津々になりましたね~w


至らぬ己に、いくつも気づいてくると
本当にダメダメだなぁ~と
愕然とするんですが
同時に自分の視野がどんどん広くなっていく事を
自覚できるので、なんだかんだと
自分を磨く為に頑張れるのです。

失敗も楽しめるように
なりましたしね。

この世は、己の心を成長させる為に
創られていると、そう感じ始めたのはその頃です。

出来事の全ての根本に
人々の心の成長があると考えると
目前の現実の辻褄が合ってくるのです。


今までの自分は
自分の価値観でしか物事を
判断していなかった事に気付き
自分の価値観で物事を判断している以上
狭い世界でしか、物事が見れておらず
その状態では、多くの人に
迷惑をかけ続ける世界で
過ごしている事にも気づきました。


「戦争は、勝てば官軍」なんて
言葉があるように
正しさなど一方通行の価値観に過ぎず
そんなモノに拘っていれば
視野の狭いまま一生を終える事になる。

せっかく命を授かったならば
そんな一生で終わらせたくないので
もっと多くの価値観を知りたいと
そう思うようになりました。

そして、他人を価値観を知れば知る程
この世の仕組みが、少しづつ解るようになり
それが解ると、同時に負の感情を抱く事が
減って行き始めました。

当然、負の感情が減ると
嫌な出来事、辛く苦し出来事も減ります。

気付けば、毎日を楽しく
過ごす事が出来るようになっていたのです。


私が、大自然の法則を
伝え続けているのは
ちょっとしたこの世の仕組みに気付くだけで
毎日が、楽になったりするからです。

実際に私は、人生が逆転しましたしね。


昔の私は、世の中を憎んでいましたが
それは、「徳」がないからだったと
痛感しています。
不平不満や否定批判の繰り返しでした。w

なので、報道やネットで
繰り返されるネガティブキャンペーン
社会貢献しようとする人たちが
減っている証なんだろうなぁ~
なんて、思います。

我欲を満たす為だけに
生きる人が増え続けると
大自然はバランスを保とうとするので
結果として
徳を積もうとする人が増えるんですけどね。

でも、その為に
苦境を強いられるわけですけどね。

まぁ~どんな苦境も
楽しんでしまえばいいだけですけどね。

失うものが無くなってしまえば
あとは、楽しむ事しかできなくなるんです。

人間って上手く創られていますよね。