修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

「幸せとは、苦悩のない状態である」それを継続する方法

「幸せ」とは?と考えると
多くの人は、快楽が満たされる事だと
そう考えると思います。

それは、人間がそう創られて
生まれてきているからだと
私は、そう感じています。


しかし、大自然は私たちが快楽を求め続けると
必ず、苦悩と言う現実を突きつけてきます。

なかなか、どおして面白いもので
私たちは快楽を求めるよう創られているのに
私たちが過ごす、この世界では
快楽を求め続けると
辛く苦しい現実に直面するのです。

その理由は、私たちが
利他的な心を育む為に生かされており
様々な苦悩の中で、「利他的な心」を
学ばされているからだと
私は、そう思っています。

そう考えると
様々な現実での出来事の辻褄が合うからです。




私は、快楽が満たされなくても
苦悩のない状態で毎日を過ごす事が出来れば
幸せな日々を送る事ができると
そう思っています。

いくら美味しいモノを食べても
いくら贅沢な暮らしが出来ても
いくら大金を手に入れても
いくら多くの人に称賛されても

嫌な出来事ばかりの毎日では
幸せな状態だとは言えないからです。

なので、所詮「快楽」は「快楽」で
一時的な幸せという幻想なんでしょう。

まぁ~私も、毎日
「快楽」に浸りたいとは
思いますけどね~
人間なんで・・w






「苦悩」のない状態とは?
嫌な出来事がない状態なので
どんな出来事が起きようが
自分が「不快」だと思わなければ
「幸せ」になれるのでは?
と、私はそう考えるようになりました。
要するに自分が変われば良いわけです。


しかし、人は傲慢な生き物で
自分を変えようとせず
自分以外を変えようとしてしまう。

傲慢、強欲であればあるほど
自分を省みる事が出来ないのです。

なので、傲慢、強欲であればあるほど
嫌な出来事が増え続けます。

それは、利己的な思考であり
利他的な心に反しているからです。




そこで、私は「不快」について
よく考えるようになりました。

どうして「不快」だと感じるのか?
どんな時に「不快」だと感じるのか?と
自分自身を省みると
ただただ、我欲が満たされない時に
そう感じている事を知りました。

実に下らない理由ですが
人間である以上
我欲を無くす事など出来ないでしょう。


しかし、私はボランティア活動を
続けて行くうちに我欲が薄れていく事を
実感し始めました。

人は、生まれた時点で誰
我欲を満たす為の言動を繰り返します。
そのまま心の成長がなければ
行動、利己的な行動しかしませんが
ボランティア活動では
真逆の利他的な行動となります。

自分の人生に新たな経験を刻み
この経験により
新たなる喜びを得たからだと
私は、そう思うようになりました。

私の場合
自分を認めてもらう為の「共感」
自分を受け入れてもらう為の「共感」ではなく
他人の喜びを「共感」する事で
自分の存在が確立するからのような感覚になり
自分の「無知」が人を不幸にするのだと
そう確信したのです。



要するに「不快」な感情は
己の「無知」が生み出しているのです。


人の苦悩も「無知」が生み出しており
また、人の苦悩は人間関係の中で生み出される。
従って、「他人を知る」事で
苦悩から解放されて行くのです。

例えば、車を運転中に
わき道から飛び出してきた車と
衝突しそうになり
「危ないな!ざけんな!バカヤロー!」
と、ムカついたとします。
これは、わき道から飛び出してきた
車の運転手の事を何も考えていない状態です。
ルールを守る事が正しく
自分自身は正しいので
危険な運転をした相手が間違っている!と
無意識にそう思ってしまうのです。

仮に、その運転手は
交差点に差し掛かる直前に足が攣って
車を上手く操作できなかった状態だったと
したらどうでしょう?
その事実を知っていれば、ムカついたりは
しないでしょう。

「無知」な状態ではなくなると
負の感情は、薄れて行くのです。


負の感情が減れば減る程
負のエネルギーも減るので
嫌な出来事との「縁」も減るのが
大自然の法則ですしね。


「病気」や「怪我」は?
と、そう思う人もいるでしょうが
全ての人が、自分と同じ病気だったら?
全ての人が、自分と同じけが人だったら?
と、考えると
不幸感は大きく違ってくると思います。

結局は、己の我欲が
自分自身を不幸にしているに過ぎないのです。



私自身、実際に「他人を知る」という
行為を繰り返して行くうちに
負の感情がどんどん薄れて行く事を
体感してきました。

他人の価値観は
その人の経験から来るものなので
100%理解する事は不可能でしょう。
理解できないとそう思った方が良いとも思います。

しかし、他人の価値観に寄り添い
認める事は出来ます。

自分と異なる他人の価値観を
自分の中で消化する為には
それなりに、その相手を知る必要があるので
その努力を続けるのです。

10人いれば10人分の価値観があり
それを、知ろうとする事を続ければ
当然、自分の視野が広くなります。
10人分の価値観という知識を得る事になりますしね。
価値観の異なる人たちが集団で過ごす
我々の社会では、大きなメリットとなるのです。

他人を知る事を続けて行けば
当然、人間関係もスムーズになり
人間関係がスムーズになれば
嫌な出来事も減って行く・・・
何より、負の感情が減って行くので
自分にとって良い「縁」が増える為
毎日が過ごしやすくなるのです。


もう、これだけで「幸せ」ですよね?w





ただ、人間どうしても「快楽」を求め
「我欲」を満たそうとしてしまうんですよね~
いざ実践しようにも、己の「我欲」が邪魔をするんです。w



で、私が実践して行く中で
特に注意していた事を3つ記してみます。





①人は、無意識に我欲を満たそうとしている。
人は、無意識に支配されていると
言っても過言ではないと私はそう思っています。

コップに入った水を手に取って飲む時は
自分の位置を把握し、コップとの距離を測り
手に取って口に運ぶわけですが
その行動は、無意識に行っています。

べろべろに酔っぱらって、翌朝自宅で目覚め
どうやって帰って来たか?記憶にないのも
肉体が自宅への帰り方を知っているからでしょう。

朝、起床と同時にトイレで用を足しながら
目覚める時も、肉体が自分の位置と
トイレの位置を把握しているからでしょう。

この無意識の行動の中に
「己の我欲を満たそうとする意思」があり
無意識の大半が、それにあたります。

なので、自分の思考は
主に、己を我欲を満たそうとしている事を
意識して物事を判断するんです。

要するに自分の思いの根底には
己の我欲を満たす為の動機が必ずあり
それと向き合わない限り
自己都合の判断を自分自身がしていても
全く気付くことがなく
他人と向き合う事などできないと
私はそう思っていますし
それをする事により
他人を深く理解できるようになります。

と言うか、それが出来ないと
常に自己都合で物事を判断し
下らない事にムカついて過ごす事になるのです。w

嫌な出来事が繰り返されれば
幸せに過ごす事など出来ませんしね~








②人は、誰しも「共感」を求めている

人間の脳には、「共感」を求める機能があるので
自分の価値観を認めて欲しい、受け入れて欲しいと
無意識にそう感じてしまうものです。

そして、それは自分に限らず他人も同じで
自分の価値観を認められるだけでも
「安心」するのが人間の正常な姿でしょう。

従って、「他人を知る」為には
まずは、相手が「共感」を求めている上で
自分と接している事を深く理解する必要があります。


例えば、コロナワクチン接種でも
他人に迷惑がかかるので接種すべき・・
ワクチンの安全性に不安なので接種したくない・・
人それぞれ、価値観は異なるでしょう。

そして、人は「共感」を求めているので
自分の価値観を他人に押し付けようとするのも
至って自然な行為なのです。

それを不快に感じるのは
自分自身が、相手に「共感」を求めており
相手に自分の価値観を押し付けたいからなのです。



ワクチンを打つべきだ!と言っている人は
どんな立場の人なのか?
どんな職場環境なのか?
どんな生活環境なのか?
逆に、ワクチンは不安だから打たない!と言っている人は
どんな情報を何処から得て何が不安だと言っているのか?
同じように、職場環境や生活環境はどうなのか?

人は、無意識に己の「共感」を優先してしまうので
この辺の思考が働かずに
ただ自分と異なる価値観に対して不快に思ってしまうのです。
正しさなど、自分の立場によって異なるんですが
「共感」を求める思考が、「無知」を拡散し
人間関係を拗らせるわけです。

ネット上の誹謗中傷も
「知ろうとしない 」愚かさが
引き起こすのだと、そう思っています。



なので私は、他人と接する時は「聞く」に徹する思考を
なるべく心がけるようにしています。
「共感」を求める機能が
自己の判断を狂わせるからです。

そして、いつも言っているように
他人の言葉から、その動機を探り
その人の事を「知る」ようにしているのです。

言動の動機・・即ち
自分を不快にさせる相手の言動の原因を
知る事で、不快に感じる事が無くなるのです。
逆を言えば、相手を知ろうとしないが為に
不快に感じるだけなのです。

まぁ~いくら気を付けていても
血に刻まれた経験値による「無意識」に
振り回されるんですけどね。w




③社会のルールと大自然のルールは全く別モノ

私がいつも言っている事なのですが
社会のルールは、私たちに都合の良いものなので
それのみで物事を判断していると
苦悩の呪縛から解放されなくなってしまいます。

その理由は、あくまでも大自然のルールが
優先され出来事が引き起こされているからです。

正しい事、間違った事、良い事、悪い事は
あくまでも、自分都合の判断なので
他人をジャッジしないで物事を判断する思考が必要です。

例えば、他人に口撃されて不快感増し増しならば
自分を口撃してくる相手を「悪」として
排除しようとするのではなく
自分がどう変われば良いのか?を考えるわけです。
上に記した①と②を踏まえた上で・・
ジャッジしない事に徹するんです。

色々と考えて行動しようにも
まずは、自分を口撃する「相手を知る」必要があるでしょう。
その上で、自分はどうすれば良いのか?を
考えて行動するわけです。
「知る」という事は、「無知」ではなくなるという事なので
不快感が無くなります。







これ、実際にやってみると解るのですが
最終的に生き着く所は「利他的な心」なんですよね~
自分をどう変えて行けば良いのか?って
考えて行動し続けて行くと
結局、他人に尽くす行為に行きついてしまい
結果として、社会貢献するしかなくなるんです。w

で、実際にそう行動すると
どんどん自分の視野が広くなり
出来事が好転し始めるでしょう。
今まで気づけなかった事にも気づけるようになります。

そして、ふと・・気づくのです。
今までの自分は、利他的な思いが無いが為に
嫌な出来事ばかり起きていた事に・・・www



する事は「知る事」の努力だけでいいので
皆さんも試してみて下さい。




私がスピ系方々をデスるのはw
目の前の現実につて「知る事」を怠り
現実逃避しているからです。

そりゃ~人生が改善するはずないですよね~
自分の人生は、他人が居て初めて成り立つのに
その他人について
何も知ろうとしないんですから・・w