修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

人間が持つ「我欲」をたくさん知っておくべきだ!

私たちは、善悪のルールに
縛られる社会で過ごしている為
どうしても物事を善悪で判断してしまう。

そして、自分を「悪」としたくないので
自分の悪いとされる部分を直視できない。

しかしながら、この世には「善」も「悪」もない事が
解ってくると、今まで自分の「悪い」とされる部分が
良く見えてくるわけです。
今まで自分の「悪」としていた部分を
「悪」としなくなるからです。


自分の「悪い」とされる部分を
直視できるようになると
嫌な出来事、辛い出来事と
自分の「悪い」としていた部分が
直結している事に気づけます。

その事実に気づけると
自分自身を改善してゆこうと思うようになります。
そして、改善できれば出来るほど
嫌な出来事、辛い出来事がなくなって行くのです。

今までは、自分が「悪い」としていた部分を
直視していなかったので
その事実に気づけなかった事を知る事が出来るでしょう。










という訳で・・
殆どの人が人間の醜いとされる心を
見ようとしないので
そんな所に注目してみたいと思います。





誰しもが持つ、自分勝手で傲慢な心は
醜くもなく悪でもないのですが
善悪の判断で成り立つ社会で過ごしている為
どうしても「醜い心=悪」としてしまいがちになり
自分自身の本心を押し殺し
そこから目を逸らしてしまう。

その為、他人の言動に傷つきムカつくのだと
私は、そう思っています。

そもそも、醜い心満載なのでが
人間である証なんですけどね。







ネット上の誹謗中傷が社会問題になっていますね。
嘘偽りを書き込んだりするのは
問題があるので、法的措置は当然だとは思いますが
否定批判や悪口などは、人間という生き物の仕組み上
致し方ない事だと思っています。
人間の正常な姿なんだと私はそう思っています。


私も、このブログに「死ね」と書き込まれたり
批判炎上したとしても
誰もが目にする事が出来るブログという機能を
使用している以上仕方ない事だと思っています。

有名人の方々が
批判コメントに傷ついた!やめてくれ!とか
いう記事をよく見かけますが
皆が皆、自分にとって都合の良い人間であってくれ!
と、そう言っているように感じるんですよね~

人の心は傷つくことで
成長できるんですけどね。

「あなたの言葉で傷ついた!」
と言われれば、言われた方も傷つくのですが
そんな事は、お構いなしで
先に言ったもん勝ちで
そんな風潮が社会にあるのも
人間の思考構造なんでしょうかね?


「人を傷つけるのは悪い事」っていくら訴えたところで
人それぞれ価値観が違う訳ですし
自分の記事をどんな人が見ているか?知らないわけなんで
同意を強要しているように感じてしまうのです。

要するに「共感してくれ!」と
強要しておいて
批判されると「傷つくからやめろ!」
と言っているのですが
はっきり言って
自己承認欲求剥き出し状態なわけです。
でも「他人には優しくしましょう!」
「他人を傷つける事はやめましょう!」
などと、綺麗に感じる言葉で
御託を並べて、本質を隠してしまうのが
人間なんですよね~w



私は、人のエネルギーに敏感過ぎて
これらの仕組みを感じまくり
気が狂いましたがw
でも、それが人間と言う生き物なんだと
いう事がよく解り
今に至っては
普通に過ごせています。

大切なのは
人間という生き物は
誰しも我欲満載で醜い心を
刻まれて生まれてくるのだと
その事実を受け入れる事なんだと
そんな気がしています。




亡くなった石原元都知事
ざまぁみろ!と言われて死にたいと
言っていたそうですが
私は、その気持ちがよく解るんです。

私自身、嫌われ願望が強かった時期がありましたしね~
当時の私は、褒められたり賛同されたりすると
ブチ切れしてましたね~w

私の場合、性格が屈折し過ぎており
5感以外の感覚が強かったので
上辺だけの言葉に辟易し
他人とコミュニケーションがうまく取れず
自己承認欲求が全く満たされませんでした。

その為、誰も受け入れてくれない事に対して
周りの人たちは自分を理解できない
低能な人たちだと見下す事で
優越感に浸るようになってしまったのです。w

要するに、拒絶され否定ることで
満たされていたわけです。
従って、褒められたり認められたりすると
欲求が満たされなくなり
イライラしてブチ切れしていました。
そんな傍迷惑なガキだたんですが
褒められたり、賛同されたり
優しくされたりすると
不快に感じる人もいるわけです。



なので、他人から悪口を言われて、喜ぶ人もいるし
逆に褒められたり、賛同されたりすると
不快に感じる人もいるわけで
どんな言葉を向ければ、その人を傷つける事になるのか?は
相手によって異なるものです。
一言で、誹謗中傷と言っても
何をもって誹謗中傷とするかは、相手次第という事でしょう。



私の場合は
そんな事を考えてしまうので
「誹謗中傷はやめてくれ!」は
「私の承認欲求を満たしてくれ!」
と言っているように聞こえるんです。

でも、やめて欲しいと思うのは人として
正常に機能していると思うので
問題はないでしょう。
人間にはそう言った一面がある
という事を知っているかで
日々の過ごし方が大きく変わると思うのです。



前回の記事にも記しましたが
そもそも、人は善悪と好き嫌いを
ごっちゃにしてしまう生き物なんで
価値観の違う者達が集まるSNS上で
誹謗中傷がなくなるわけがないでしょう。
自分都合の誹謗中傷なんで
どうしようもないと思うんですよね~

誹謗中傷されたくないのであれば
コメント機能を止めてしまえばいいんです。
応援して欲しい!
賛同して欲しい!
と、自己の承認欲求を満たす事だけ
求めるなんて、都合が良すぎますよね。
そもそも、ありえない事を
強要しているから
アンチコメントに心が傷つくわけです。

「賛同コメだけお願いします!」
とか、注意書きを書いておくとか?w

批判されるのが嫌なら
有名人にならなきゃいいでしょうし
YouTubeなどSNSツールなんて使わなきゃいいと
そう思ってしまうんですよね~
有名になりたい!認めてもらいたい!
自分に賛同して欲しい!
そう思うなら、自分と異なる価値観の人たちを
まずは、認める必要がありますし
一方的に自己の欲求を求めている以上
それと同等の一方的な反動があるのが
大自然の法則なんですよね。

他人の価値観を認めないから
アンチコメに傷つくわけです。

私が、このブログで
私の体験を配信しているのは
この世の理を知る事で
人生が好転する仕組みを
たくさんの人に知ってもらいたいと
思っているからなんですが
これって、私のエゴなんですよね~

なので、当然アンチコメが
あって当然だと思っていますし
逆にアンチコメwelcomなんです。

スピ系を中二病なんて
書き方をすれば
スピ系信者からすれば
かなり不快に感じると思いますが
アンチコメにより
その人の価値観を知る事ができますからね。


まぁ~
見ている人が不快になるような
ただの嫌がらせコメを繰り返されると困りますが
それはそれで「縁」なので
自分の糧にしたいと思っています。
まぁ~ウザコメの動機が解れば
見ている人が不快にならないよう
ブロックしますけどね。



SNSは情報共有ツールとして
始まりましたが
明確な目的もなくSNSを使用している人の
ほとんどが、承認欲求を満たすためだと
私はそう感じています。

また、SNSにより承認欲求が満たされるのは
素晴らしい事だと思っているのですが
「承認欲求を満たす」という動機を
自覚する必要があると思うのです。

「人には優しい言葉で!」とか
「人を傷つけてはいけない。」なんて
綺麗な言葉で、人間の本質を隠すから
その事実に気づけない・・
逆を言えば、自分の本心を知っていれば
そんなに心は傷つかないんですよね~



私が、何度も人の言動の動機を知るように
告げているのは
人間という生き物の本質を知るメリットは
多大にあるとそう思っていますし
自分の人生にとって
とても大きな影響を与えていると
そんな体験をしているからです。


例えば、著名人や政治家の発言で
「???」と感じるものがあれば
その発言の動機や根拠を探ると
過去の発言と辻褄が合わない事があります。
まぁ~人間なんて
コロコロ考え方が変わる生き物なので
当然の事なのですが
辻褄が合わない発言なので
その動機の辻褄がよく合うんですよね~w

これは、私の経験なんですが
そんな事を繰り返してゆくと
人間という生き物の本質が見えてくるんです。

で、人間なんて所詮自分勝手で傲慢な生き物なんだと
その事実を深く知る事が出来たおかげで
「ゆるす心」が芽生え始め
自分はこの先、どうやって生きてゆけば良いのか?
考えるようになり
生きる目的を見つける事が出来たのです。


例えば・・
タバコや空き缶
コンビニのおにぎりや食べ物の包みとかを
ポイ捨てする人がいますよね。
そんな行動をする動機は
どこにあるか?と考えてみるのです。

色々なケースがあるとは思いますが
ポイ捨てしたゴミは
誰かが掃除するわけですが
掃除する人の事を考えないから
平気で捨てるでしょう。

要するに道端に捨てたゴミを
片づける人の気持ちが
理解できないだけなんです。
または、道端に落ちているゴミが
全く気にならない人なのかもしれません。

でも、道端に落ちているゴミを
片づける人の気持ちや
道端に落ちているゴミが気になる人の
気持ちが理解できれば
その人は、ゴミをポイ捨てする事は
なくなるかもしれません。

そうやって少しでも
不快に感じる出来事について
人の言動の動機を知って行くと
ムカつく事がどんどんと減って行くんです。



私は、長い間
「街のゴミ拾いは良い事」
と、そう思っていたのですが
当社のプログラマー
デスク周りが散らかっていないと
落ち着いて仕事が出来ない!
と言われて
キレイな事が良い事じゃないと知りました。


とは言え、公共の場所を
キレイに片づけるのは
社会のルールなので
ゴミ拾いする事は問題はないでしょう。



では!
公共の場でゴミをポイ捨てする人を
少しでもなくすために
自分は何ができるか?
と考えると・・

日本神道的に言えば
「背中で示せ!」という事です。

ただ、ひたすらゴミ拾いをすれば良いのでしょうね。


でも、誰しも
そんな面倒な事をしたくないので
「ポイ捨てするな!」って注意するんです。

でも、注意された側は
そもそも、ポイ捨てゴミを
片づける人の気持ちなんて理解していないし
道端にゴミが落ちていても気にならないんで
その事を理解した上で注意する必要があるんでしょう。



「ゆるす心」を育ませようとする
大自然の法則上、不快感を込めて注意すれば
逆切れされたりしますしね。
要するに「ルールを守らない=悪」として
「悪」を生み出した分、自分に跳ね返ってくるわけです。

ちょっと前に
電車内で加熱式タバコを吸っている若者を
注意した学生が、ボコボコにされた
ニュースがありましたが
普段から「悪」を生み出しまくっていた
結果なんんでしょうね。
まだ若いので憎しみの呪縛に囚われて
心を壊さないかちょっと心配です。


私自身も昔は、超絶傲慢に生きていたので
ルールを守らない奴や
ズルい奴、ルーズな奴によくムカついていましたが
よくよく考えると自分も同じ一面があるんですよね~

自分は、どうしてこんなにムカつくんだ?と
自分がムカつく動機を改めて深く内観すると
ただ単に「ゆるす心」が欠如していただけでした。w
要するに自分の思い通りにしたいという
強い欲が原因だったんです。
自分の強欲な性格がストレスを生み出していたわけです。

即ち・・
「ルールを守らない=自分の思い通りにしたい」
「ルールを守れ!=自分の思い通りにしたい」
という、お互いのエゴがぶつかって
いがみ合っていたんです。
私自身、ルールを守らない人を理解しようと全くせず
己の正義をぶちまけていた事実に
なんとも情けない気持ちになった事を記憶しています。w


まぁ~どこまで行っても
嫌な出来事は、人間の我欲が原因なので
人間が持つ我欲をできるだけ
たくさん知っておいた方が
不快な気持ちになる事は少なくなり
また、負の感情が少なければ
健康でいる事ができますし
清き良き縁も増えるので
人生が楽しくなるという事です。