修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

快楽を求めるより、不快感を減らした方が幸せになれる。

最近、長時間車を運転すると
足腰が固まってしまい車を降りた時に
しばらくの間、爺さんのような
歩き方になってしまうのですがw

肉体が老化しているのを痛感すると
結構長く生きてきたなぁ~
なんて、思ったりしています。

で、自分の人生を振り返り
今まで自分が生きてきた中で
大切な経験はなんだったか?と
改めて考えてみると
他人の価値観を知ろうとした事かな??
なんて思うのです。



自分の中で辛く苦しい出来事の原因は
全て自分の【無知】が
生み出していただけでしたからね~
【知る】ことで
どんどん苦悩から解放されてゆく体験が
私の人生を大きく
変えていったのです。

で、己の苦悩は人間関係から
生み出されているので
「他人を知る事」を怠った結果
嫌な出来事が積み重なっていっただけ
のような気もするんです。

私自身、他人を理解しようと努めたことが
きっかけで利他的な思いが生まれましたし
嫌な奴も、その人の価値観や因果を知れば
嫌な奴じゃなくなり
「他人」を知れば知るほど
ムカつく事も減り、嫌な出来事も減って行きました。


社会に対しても同じです。
「人」という生き物の本質を知れば知るほど
社会から嫌な出来事がなくならないのは
当然の事だと思うようになりましたし
詭弁を繰り返す政治家
自分の立場を優先する公務員
利益の為に嘘の情報を流すマスコミ
理不尽な言いがかりを押付ける税務官
そんな相手でさえ、「人間らしさ」を
感じるようになって行ったのです。

どう考えてもおかしいだろ?と
思うような出来事が繰り返される
社会構造にも納得できるようになり
それらを受け入れる事で
自分自身がどう生きれば良いのか?が
見えてきて、その方向に生きてゆくことで
充実した日々を送る事が出来る。





私自身、自分の生きざまを振り返ると
昔の私は他人の価値観を全く理解しようとせず
ただただ、自己主張し続けていました。

「自分が正しい」を絶対条件とした上で
物事を判断し、そして自己の正当性を
思いっきりぶちまけて過ごしていたのです。



たとえば
車の運転中、横っ腹に突っ込まれたら
突っ込んできた運転手に激怒し
責めまくっていました。
どうして、しっかり前を見て運転しないんだ!怒!と・・

なぜ?よそ見して運転してしまったのか?
どうしたら、よそ見運転しなくなるのか?
突っ込んできた相手はどう生きてきたのか?
生活環境は?家族は?性格は?
とか、一切考える事をしませんでした。

当然、「自分が正しい!」絶対思考が
炸裂しているので
どうすれば
この事故を避ける事ができたのか?とか
もう少し、注意しながら運転するべきだった?とか
そんな事など考えないのです。

私の運転する車に
横から突っ込んできた事実という
相手を「悪」とする所しか
見ようとせず
そんな一部の事実のみで判断し
憤りを感じていたのです。


不注意運転=悪とし
それは、相手のみにあてはめ
それ以上、自分の思考を
働かせる事はありませんでした。


運転免許を取得するときに
「かもしれない運転」を習いますが
交差点では前方不注意の車がいる
「かもしれない」ので
私自身も左右の注意しながら
運転をしなければならないのですが
しっかり、左右の不注意運転をしておきながら
交通ルールのみで判断し、相手にぶちキレるんです。

まぁ~我欲が強すぎて
自分が不利になる判断などできるわけもなく
視野がせまく心に余裕のない
過ごし方しかできなかったわけです。




自分自身を不快にさせる言動をする
人たちに対しても
全く、同じ判断をしていたました。
「自分が正しい絶対主義」の元で
自分が不快になった出来事だけを
切り取って判断し
その相手を断罪していたのです。

要するに我欲が強いので
自分が不快に感じる事は全てNGなんです。

価値観の違う人たちが暮らす社会で・・
価値観の違う人たちで組織された会社で・・
価値観の違う人が共同で暮らす家族で・・
自己の我欲を満たす事ばかりで過ごしているので
自分が不快に感じる他人の言動を
そこに至る相手の思考や動機などすべて無視して
しかも、自分に都合の悪い出来事のみを切り取り
否定批判するわけです。

そして、それがどれだけ傲慢な事なのか?
当時の私は、全く気づきませんでしたね~

なので、今は傲慢な自分を自覚して
否定批判するようにしています。w







私は「理解」を怠っていたので
物事を「善悪」で判断していました。
自分に都合の良い事が「善」だなんて
微塵も考えませんでしたね~
社会では、「善悪」の判断がなければ
秩序が保てませんしね。

なので、「他人に迷惑をかけない」
「他人を傷つけない」
「自分が嫌だと思う事は他人にしない」
それくらい守れば、何をしても大丈夫!
「自由」は良い事!
「正義が勝つ!」
くらいに思っていたんです。

いや、ホント情けない限りなんですが
他人の迷惑は、他人が決める事ですし
他人を傷つける事も、他人が決める事であり
私自身が決められる事ではないのに
自分の価値観で、それらを決めつけていたのです。

また、私の中では
「自由」と「自分勝手」が同義であり
「正義」を、自分都合の価値観で定めていました。
「自分」が「正義」だったんです。

ここまで来ると笑うしかないのですが
我欲が強すぎて、自分に不都合が生まれる考え方は
無意識に拒絶しまくっていました。

「無意識」に繰り返していたので
自分がこんなにも愚かな言動を
繰り返していたなんて全く気づけませんでした。w






今では「理解」とは
すばらしいモノであり
逆に「理解」を怠る事は
とても恐ろしい事だなぁ~と
そう思うのですが
当時は、誰かにそう言われたとしても
「ふ~ん・・そうなんだ」
で、終わっていたでしょう。

なぜならば
自分が「理解」を怠っているなんて
微塵も思っていなかったからです。


当時は、沢山の本や雑誌を読み
情報収集は怠らなかった・・
ネットが始まった頃は
簡単に情報収集できる
ツールに歓喜したものです。

なので自分が「理解」を怠っているなんて
全く思えないのですが
今思えば、当時の私は
自己の快楽を満たすための
「理解」しかしようとしていなかったのです。

ようするに、思いっきり偏った
情報収取しかしていなかったのに
その事実に気づいていなかった・・・

無意識に物事を
自分にメリットがあるか・ないかで判断し
その上で「理解」しよとする対象を
決めていたのです。

まぁ~簡単に言えば
我欲を満たす事を優先し
その為の「知る」は出来ても
他人のメリットに対しての
「知る」は、できなかった・・
利他的な心が欠如していたという事です。



なので、当然
他人の価値観が理解できない・・
他人の価値観を理解できないので
自分の価値観に沿わない人にムカつく。

そして、自分の価値観に
沿わない接し方をする他人に
不快になったり、傷ついたりする。

私の場合は、傷つくというより
ぶちキレしていましたね~w


という事は、他人の価値観を
理解しようと努力すれば
不快になる事が減って行くわけで
私は、実際にそれを実践して
不快な出来事が減って行く体験をしています。







そんな体験から・・

人は、快楽を得る事により
幸せになろうとしますが
実は、不快感を減らした方が
幸せになれると
私は、そう感じています。


まぁ~幸せの定義が
「快楽を満たす事」の人には
全く当てはまらないと思うかもしれませんが
私は、【無知】のままでは
「快楽」ですら満たすことが出来ないので
不快感を減らす努力が
結果として快楽を満たす事に
つながるような気もしています。