修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

他人の価値観を知って行くと、自己の価値観が見えてくる・・

他人の価値観を理解しようとしても
よく解らない・・
何かいい方法は?ありませんか?と
質問を頂きました。

確かにかなり難しい事でしょうね。
そもそも、理解などできませんしね。
価値観は、その人の経験体験に基づいて
創られてゆくので
経験値が違えば、価値観も異なるし
自分が経験していない事は
やっぱ理解できないでしょう。
なので、あくまでも自分の想像で良いのだと
私は、そう思っています。
大切なのは、他人の価値観を受け入れる努力・・
知ろうとする努力であり
なんでもかんでも拒絶しない事であり
拒絶するのであれば、それなりの理解が必要だと
そう思っています。

個人的には、自他ともに
言動の動機を探っているうちに
何となく、わかるようになるような気もします。


私は、電車や飛行機などでの移動時には
時間つぶしにジャンル問わず
色々な雑誌や本を読むのですが
筆跡している方々の
生きながらに求めているモノによって
意見が全く異なっていると感じています。



多くの人は、国の方向性と同じで
「豊かな生活」という快楽を求めていますが
人によっては生きながらに目指すものがあり
「豊かな生活」を求めていない人とは
当然、考え方が異なります。
生きる目的がある人は
流されて自己の快楽を求める生き方をしませんしね。


昔の私は心が腐っていたので
人間の本質は、醜い心に支配されていると
そう思っていました。
善意のない自分を自覚しそれを肯定する為です。
なので、「人の善意」を否定する考え方が
私の中の根底にあり
その上で、私の思考が働いていました。
まぁ~私の中に善意が存在していないので
「善意」が理解できず
他人の「善意」を見聞きするだけで
自分が否定されたとそう感じていたのでしょう。

当然、自分の中に「善意」がある人は
昔の私のように感じないので
出来事に対して感じ方が全く異なるのです。


ウクライナ千羽鶴を送る事に
ネット上で話題になっていましたが
これも、過酷な生活を強いられ
生活必需品が欲しくて欲しくて仕方ない時に
千羽鶴を送られても迷惑だ!
と、そう思う人と
そう思わない人がいるだけの事でしょう。

昔の私も間違いなく
ウザイ!キモイ!迷惑だ!と、そう思ったでしょうが
今の私なら、気持ちを受け取る事はできるようになりましたし
純粋に心が温まると思うのです。
また、修行してきたので
千羽鶴の効力も知っていますしね。

要するに、何を求めて生きているか?
によって、価値観の本質が大きく異なるわけです。


日本の戦後教育では
強固な社会を創るために
画一的な価値観しか認めない教育かされていました。
その為なのか?常識とか当たり前とかで括られた
一つの価値観で物事を捉える人が
とても多いように感じています。

悪く言えば「和」という聞こえの良い言葉を使い
周りと同調するように圧力をかけているのです。

ネットやTVなどのやり取りを見ていても
自分と異なる意見に対して
怒りを向ける人が多いのも
周りと違う=悪とし
自分と異なる価値観を
拒絶してしまうからでしょう。
私たちは、そうするように教育されてきましたしね。

まぁ~その和に入れなかった私は
当時気が狂いましたが
今まさに精神を病んでいる方々も
同じ状態のように感じています。

昔は、今のように精神を病む人が
少なかったのですが
それは、生きるための選択肢が
少なかったからでしょう。
社会の同調圧力も凄まじかったですし
違う事は悪い事でしたしね。

現代社会は、昔より豊かになり
多様化が進み、生きる選択肢も増えてきているわけで
目の前に生きる道が沢山あるのに
自由に選択しようとすると
社会からの同調圧力が襲ってくる。

学校に行かない”ゆたぽん”も
社会からの圧力が凄まじいですよね~
学校に行って虐めにあったり
精神を病んでしまうより
よっぽどましだと思うのですが
社会からすれば「和」を乱す行為になってしまうのです。

これだけ多様化が進んでいるのに
その社会の中で暮らす人々が
その流れについて行けないのです。
自分たちで多様化を進めておきながら
多様化を認めない心が働いてしまう・・・

我が子が就職もせずに
YouTuberを目指したい!
と言って、それを認めて応援する親は
どれくらいいるんでしょう?

やはり、血肉に刻まれた
経験値は恐るべし!ですよね~






で、他人の価値観を知る方法ですが
私は、結構がんばって努力しました・・
と、自負しています。w

私の場合は、自分の感覚が普通じゃない事を
頭で理解していても、心が理解していませんでした。
自分の思考では、自分が「普通じゃない」事を知っているのですが
自己の我欲が、物事を自分に都合よく解釈するんです。
周りの人と感覚が違うのであれば
当然、周りの人たちの感覚を知る必要があるのですが
そんな事は全くせず
自分を理解してくれない社会にブチ切れしていました。w

要するに俺様思考で
自分は何の努力もせず、周りが自分に合わせるべきだ!と
そう思っていたわけですが
当時の私は、他人の価値観など完全無視で
なおかつ、自己の言動の動機を考える事をしなかったので
そんな言動を繰り返している自分に気づけなかったのです。

でも、我欲に逆らったボランティアという
行動をするようになり
新たなる経験をし、新たなる発見があり
自分の中に新たなる価値観が生まれました。

要するに、自分の視野が広くなったのです。
そのおかげで、ダメダメな自分に気づき
他人を理解しようと頑張るようになったのです。

結局、他人の価値観など理解など出来ない!と
思うようになったのですが
自分以外の価値観を知る努力もせず
拒絶や否定するのではなく
知る努力をして行く事で
心がどんどん軽くなりましたね~


私の場合、人は同じ言動でも
その動機が様々だという事は
幼いころから肌で感じてきたので
私の中では常識として捉えていたのですが
この感覚が解らない人は
考える癖をつけると良いと思います。



例えば、コロナワクチンを打つ人は
動機が様々なはずです。
会社から強制的に打たされる人
周りの人に迷惑をかけたくないから打つ人
感染の不安を解消したくて打つ人
打たないと周りに迷惑がかかる恐れがあるから・・
家族の為に打つ人・・などなど
その動機は色々あり
それぞれの人が
その動機に基づいた考え方をします。
打たない人も同じでしょう。


マスクをする行動についても
人それぞれでしょう。
感染の不安を解消するためにする人
周りから嫌な目で見られたくないからする人
周りの人への感染を防ぎたいからする人
マスクをしない人を見ると不安に思う人がいるからする人
買い物など行動が制限されるから仕方なくする人
その動機も様々です。

鼻マスクで問題になった市会議員の方が
票が3分の1に減り落選しましたね。
「理解してもらえなくて残念です。」
と言っていましたが
自分の価値観を理解して欲しくて
議会に反発していたという事になります。
「鼻マスクはNG」という考え方を
理解した上で、反発していたら
発言の内容も変わっていたでしょうし
少しでもマスクをしないと
不安に思う人の事を考えて訴えれば
選挙の結果も違ったものになったかもしれません。





これら様々な言動の動機を自分自身にも当てはめ
自分はどのグループなのか?を
知って行くと、賛同する意見を言う人と
そうでない人との価値観がなんとなくわかり
社会の動きは、人々の心の動きの影響を
強く受けている事がよく解ると思います。


同じ言動に対して人それぞれ動機が違い
その動機に基づいた考え方になる。
従って、意見が分かれるのは当然の事です。

人それぞれ価値観が異なれば
意見が分かれるのは当然なので
自分と異なる意見は
他人の価値観を知るチャンスなのですが
残念ながら自己の承認欲求などの我欲が
そのチャンスを逃すのです。

様々な価値観を知ると
普段から物事を自分都合で
解釈している事にも気づけます。

例えば、千羽鶴の件でも
「善意の押し付けだ!」と
そう思っていれば
善意の押し付け=価値観の押し付けであり
千羽鶴を送るな!」という
価値観を押付けているわけで
全く同じ事をしている事に気づけます。

神道的に言えば「現実は鏡」というやつで
自分の思い通りにしたい!という欲求が
この事実を見えなくするんですよね~

私は、自分と異なる価値観を否定批判する事は
何も問題がないとそう思っています。
誰しも何事も自分の思い通りにしたいですからね。

ただ「否定批判」という言動に対しても
なぜ否定批判するのか?という
その動機を知る事が重要だと思っています。

言動の動機がエネルギー化して
自己の未来に強い影響を与えますしね。

快楽を満たすための自己主張で
否定批判するのか?
社会の発展の為に否定批判するのか?で
その先の未来は大きく変わります。

当然、社会の発展の為に
否定批判するのであれば
自分と異なる価値観を
とことん知る必要があります。
それをしないで社会の為!と言っているのであれば
自分都合の解釈をしているに過ぎません。

ただ単に自分自身の思う
理想の社会にしようとしているだけならば
それは、利己的な欲を満たそうとしているに過ぎない。
なぜならば、社会とは価値観の異なる者たちが
集団で生活する場だからです。
一部の人だけが満たされる社会を
つくりたいと言っているようなものですしね。




激論と言われる感情論の応酬を
注意深く観察すると
その動機が実に下らない事だと
そんな事をよく思ったりします。

自己の感情が先走り
相手の価値観を知ろうとしないから
感情に振り回されているだけだからです。
即ち、己の我欲に事実を見る目を
塞がれいる状態になっており
もはや議論ではなくなっている・・
実に不毛な事なのですが
昔の私もよく感情が抑えられなかったですね~
まぁ~徳がないと我欲が制御できなくなり
そうなる事が多くなります。w


こんな感じで
色々な人の言動の動機を知って行くと
人の言動の動機と我欲の結びつきが
良く分かるようになり
また、その人の価値観も
なんとなくわかってきますし
自分と異なる考え方は
自分と求めているモノが違うからです。

我欲にも利己的な我欲と
利他的な我欲があるのですが
大きくこの二つに分けて
物事を捉えて行くと
人の苦悩は利己的な我欲が
生み出している事に気づけると思います。

とは言え、利他的な欲求を知らないと
利己的な欲求の中だけで
物事を判断する事になり
どうしてこんなに嫌な事が続くのか?もわからず
ムカつく出来事ばかり起きていると、そう感じるようになり
いつまで経っても嫌な出来事ばかりの中で
過ごす事になります。




まず、生きる目的もない人は
己の我欲を満たす為だけに生きてしまいます。
人間の構造がそうなってますしね。
で、生きる目的がある人は
その目的が己の我欲を満たす為だけのモノなのか?否か?
を知る必要があると思っています。
どんな目的も己の我欲を満たすものなのですが
それが、利己的な欲求なのか?利他的な欲求なのか?で
未来が大きく変わるからです。

自分でもよく解らないと思いますが
利他的な欲求だと思っていても
自分自身の様々な言動の動機を振り返ると
利己的な欲求だったりするので
それを知る為にも
自他ともに言動の動機を見つめる事を繰り返し
色々な人の価値観を知る事が大切だと思います。

TVなどの報道やネットの情報
また、書籍や雑誌の記事などを見て
発言者、筆跡者は、人生の中で何を求めているのか?
を知って行き、賛同できる意見と
そうでない意見の違いを、そこに当てはめると
自分が何を求めているか?もよくわかり
理不尽だと感じる出来事もなくなり
概ね、自分を改めなければ!と焦るんです。w

まぁ~私がそうだっただけで
皆さんは、当て嵌まらないかもしれませんが
少なくとも、社会の仕組みに
気づくきっかけになると思います。