修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

自分が何を求めているか?で善悪も正否も大きく変わる事を知っておいた方がいい!

人間社会では、秩序を保つために
善悪の判断を強いられていますが
この仕組みを無くす事はできないでしょう。
集団生活にはルールが必要ですしね。
ルールがなければ混乱を生みますし・・

ただ、この善悪の判断基準は
私たちに都合よく決められている事を
忘れないようにした方が良いと思っています。

ロシアからすれば
ウクライナ侵攻は「善」であり「正義」なのですが
民主国からすれば「悪」となるように
基本的に自分の目指す方向により
「善悪」は変わり
自分の立場が「善」となります。


私たちの社会には
多くの「善」があり
多くの「悪」があるわけですが
基本的にルールを守れば「善」であり
ルールを破れば「悪」となる。

しかし、そのルールは
人が創ったものであり
私たちに都合よくつくられているのですが
残念ながら私たちは
苦悩の中でしか成長できない法則の中で
過ごしているわけで
いくら自分たちに都合の良いルールを設けようが
新たなる苦悩が生まれるだけなのです。

コロナウイルスなんて良い例ですよね。




では、このルールに基づく
自分たちの「都合」とは?と考えると
あくまでも私たちの快楽を満たす事が
主となっているのです。

わざわざ自分たちが苦しむような
ルールを設けませんしね。


なので、ここでも
ルールを設ける動機が重要だという事です。
ルールを守る事が「善」ではなく
ルールが設けられた理由を知る必要があり
その理由が、今の社会に見合ったものか?で
「善」「悪」が逆転する事もあり
これを見誤ると、社会が崩壊してゆくんです。


例えば、日本には非核三原則なる法律があります。
これは、日本が被爆したからつくられた法律ではなく
アメリカの傘下になる為の法律だと私は認識していますが
トランプ氏が、日本の核保有を容認した以上
すでに、意味のない法律となります。
アメリカは、もう日本を守りませんよと
公言しているわけですから。

まぁ~竹島にしろ北方領土にしろ
アメリがが日本を守らないのは
今更なんですねどね。


なので、非核三原則を持ち出して
核所有の考えを排除する考え方は
すでに通用しなくなっているわけです。

ルールを守る・守らない
そこだけ見れば、核保有
ルール違反となり「悪」なんでしょうが
そこだけで考えるのは
ちょっと稚拙な思考だなぁ~
なんて思ってしまいます。


生活環境が変われば
当然ルールを変えなければ
社会の秩序は保てませんし
そんなルールに固執する前に
そのルールが出来た経緯を知るべきでしょう。

ルールとはその程度のモノなのですが
それを無意識に「善」「悪」に置き換えてしまうので
ややこしくなるわけです。


私は「核なき世界」は
子供じみた発想に感じるのです。
広島や長崎は、率先して
保有を訴えて欲しいですね~
皆が皆、核保有国になれば
世界が平和になると思いますし
核を持たないと
我々のようになる!と
そう訴えれば、説得力がありますしね。

世論的にはこんな事言うと
叱られそうですがw
現状では「核なき世界」を訴えれば訴えるほど
保有国が有利になるだけだと
そう思っていますし
ウクライナは、核を廃棄した結果
多くの国民の命を失ったのが
紛れもない事実でしょうしね。

と、まぁ~
何が正しくて、何が間違っているのか?
何が「善」で何が「悪」かは
結局の所、自分が何を求めているか?に
左右される訳です。

私の場合、人々の心の成長を求めているので
社会一般の世論とは、全く異なるので
考え方も異なっているという事です。


私は長い間、修行の中で
「正解」を求めていました。
強度の霊障による苦悩は
自分の中の何かが、きっと間違っているからだ!
と、そう思っていたからです。
「正解」を見つけ出し
その方向に進むべきだ!と
そして、その「正解」を教えて欲しい!と
切に願っていましたね~

自分の思考の中に、善悪の判断が
沁みついていたので「正しい事」を探していたのす。
そんな思いで修行していた当時は
どんどん霊障が悪化していきました。


結局、一人で山で修行するようになり
善も悪もなく
正解など、どこにもない事を知り
全ては自分次第なんだという事を学んだ事で
徐々に苦悩から解放されて行ったんですけどね。

初めのころは、血肉に染み付いた
「善悪」の判断から
なかなか脱する事は出来ませんでしたね~


例えば、人の苦悩は利己的な我欲が
原因なので、苦悩を排除するのではなく
利己的な我欲を無くせばいいんだ!とか・・
そう思ってしまう訳です。
思考の中で「苦悩」=「悪」としているんですよね~

やっぱ、辛く苦しい人生なんて嫌ですよね?
なので、苦悩は排除対象としてしまうのです。
まぁ~これは人間の構造上仕方ない事なのですが
では「苦悩」は何のために存在しているの?
と、考えると、私自身が「苦悩」の中で大きく成長できたので
別に「苦悩」は「悪」じゃないじゃん???
と、なるわけです。
しかし、人の「苦悩」を推奨する事などすれば
狂人扱いされる社会で生活しているので
そんな事はできないと考える。
思考のどこかで善悪や正否の判断をしている
状態だと、こんな感じで思考が混乱していくんです。

で、正解を求めるのを止めると
心を成長させる為には、「苦悩」は必要不可欠であり
快楽を満たす為には、「苦悩」は排除しなければならない。
と、なるわけです。
色々な事に辻褄が合ってくるんですよね~

私の場合は、心の成長を求めているので
快楽を求めている人とは、価値観が大きく異なるわけです。
「善」も「悪」も「正しい」も「間違い」も
全く違う判断となるでしょう。

例えば、私の未来は、あと20年くらいの人生でしょうが
1兆円もらう条件が、心の成長を止める事であり
その条件をのんで死ぬまで豪遊するか?
逆に、刑務所の中で死ぬまで生活する代わりに
己の心を成長させる事を許され
そのどちらかの人生しか選べないとしたら
私は、間違いなく刑務所人生を選ぶと思います。
それくらい自分の心を成長させたいんです。
刑務所には、心を成長させる為の素材がいっぱいありますしね~

この話を知人にすると
はぁ?頭おかしいんじゃね?
と、言われますね~w
まぁ~自分の人生で求めているモノが
一般的なものと異なっているだけなんです。
生きる目的が人それぞれで
その為、価値観も人それぞれで
私たちは、そんな人が集まった社会で
過ごしているわけです。

そりゃ~ネット上や国会でも
あ~だ!こ~だ!言い合いますよね。


会社の場合は、企業理念なるものがあり
会社の存在意義を明確にします。
会社の進む方向を明確にし
業務の判断基準を明確にするためです。
社長が自分の快楽を満たす為に会社をつくると
社員それぞれが己の快楽を求めるので
会社の進む方向が定まらなくなり
人間関係もぎくしゃくしてしまいます。

知床遊覧船の運営会社も
理念を明確にし、その理念通りに会社を運営していたら
こんな悲惨な事故は起きなかったと
そう思っています。

要するに、進む方向が明確になっていないと
業務に対して正否の判断が
人それぞれ異なってしまうので
しっかりとした運営が出来なくなってしまうのです。

例えば、「お客様に喜んで頂く事」という
経営指針があれば
クレーマーのお客様への対応も異なります。
クレーマー=喜んでいない
という判断になり、業務の何に問題があったのか?考えるでしょうし
また、同じクレームが入らないように業務改善もするでしょう。
クレーマー客に対しても、そんな対応をする事なるのですが
理念も営業指針もなく「お金儲けの為の業務」となっていると
クレーマーのお客様は、会社にとって
害悪でいかないので、排除するような対応となります。
ここに企業間の大きな差がでます。


企業理念があれば、それを指針とした
判断が出来るので、人それぞれの正否の判断がなくなりますし
業務が明確化されて行きます。

概ね、理念のない会社や
理念を掲げているだけの会社は
長く継続できませんし、大企業にはなれません。


今の日本の社会は
日本と言う国の進む方向が明確でなく
国民の快楽を満たす為だけに運営されているので
このままでは、間違いなく衰退してゆくでしょうね。

国会を見ても分かるように
政治家の意見がまとまらないのも
見ている方向がバラバラですしね。
それぞれの「善」がぶつかり合うので
当然の結果なんですが
私には、夏休みに
海に行くか?山に行くか?を
揉めているような討論に見えてしまうんです。

日本は戦後を乗り越え
生きるのに精一杯の国ではなくなったので
そろそろ、日本の位置づけを明確にして欲しい所です。
途上国の発展に努め
世界を豊かにするという目的を掲げるとか?
そんな目標を掲げれば
間違いなく、日本は素晴らし~国に発展すると
思うんですけどね~


自分の人生も何か目標をもって過ごすと良いでしょう。
それがないと、ストレスを溜めまくる日々を
過ごす事になります。
その理由は、自分と他人の違いも分からず
「善悪」や「正否」の判断が
定まらないからです。