人生で求めるものといえば
「幸せ」でしょうが
その「幸せ」も人によって異なっている。
ほとんどの人が「快楽」を満たすことが
「幸せ」だと思っているでしょう。
人は、そう思うように創られて
生まれてきますからね。
私自身も長い間「快楽」を求め続けていました。
求めすぎと言っても過言ではないでしょう。w
しかし、人それぞれ人生の中での経験により
「幸せ」の価値観も移り変わってゆく。
私の場合は、感謝できる喜びを体験し
「幸せ」の価値観が大きく変わりました。
「幸せ」の価値観が変わる事により
日々求めるものも変わり
経験も変わってゆく・・
それに伴い現実も変わる。
日々修行している風景も
見え方、感じ方が変わりました。
清々しさが違うのです。
不治の病で余命を宣告されると
毎年見ている桜の見え方が変わる
という有名な話がありますが
自分が変わった事により
現実が大きく変わるのです。
要するに、自分が何を求めているか?で
人生も大きく変わる。
この仕組みは至って簡単なんですよね~
誰しも、自分が求めているものに
付随して、興味を示し知ろうとする。
逆を言えば、自分に興味のないものには
意識が向かいないのです。
目の前にある、同じ現実でも
自分の欲望に準じて受け止め方が変わり
見え方や感じ方も変わります。
野球の大谷選手の凄さも
野球をやっている人と
そうでない人では
その凄さの感覚は異なるでしょう。
社会でいう、「常識」「当たり前」「一般論」
これらも人それぞれ、解釈が違うはずです。
自分が当たり前だと思っている事が
相手は、そう思っていない事なんて
日常的にあるはずです。
でも、周りを自分の中での
「常識」や「当たり前」の枠に
はめて解釈してしまう。
これも、自分が何を求めているか?に
起因しているんですよね。
私は、ガキの頃から性格がひねくれていたので
「常識」「当たり前」に強い違和感を抱いていたのですが
大人になって、それは社会の秩序を保つための方便であり
人は共感を求めてしまう生き物なので
深く考えると矛盾していても仕方ない事なのだと
そう思うようになりました。
「常識」「当たり前」がなぜ?必要なのか?
を知ろうとした結果、自分の中で納得し
違和感を抱かなくなったという事です。
私の場合、ガキの頃「当たり前のことが出来ない」
「非常識なガキ」という理由で
よく大人に殴られたので
そこに、興味を抱いただけの事です。
でも、多くの人は
「常識」や「当たり前」の枠を通して
他人と接します。
人それぞれ、「常識」や「当たり前」の
解釈が違っているのにです。
その理由は、「常識」や「当たり前」に関して
深く考えるような経験をしていないからでしょう。
「常識」や「当たり前」の枠を通して
他人と接するのと
「常識」や「当たり前」の枠を外して
他人と接するのでは
後者のほうが視野が大きくなるのですが
人は共感を求めるので
「常識」や「当たり前」という枠内で
物事を考えたほうが、社会をまとめやすい。
私が仏教を学んでいた時も
よく僧侶の方々から嫌な顔をされました。
教義に納得ができない部分が多々あり
質問攻めをしたからです・・w
例えば、仏教でいう貪瞋痴という三毒
貪は、貪る思い・・我欲ですね。
瞋は、怒りの感情に振り回される事
痴は、愚痴・・知る努力をしない無知な事
と、学びましたが
私の解釈は、我欲に振り回されるから
怒りの感情が生まれると思っているので
貪と瞋を分ける必要はなく
言うなれば二毒なんです。
仏教で三毒と表現するのは
わざと難しく表現して
信者を離さないようにしているのでは?
なんて、思ってしまうのです。w
やたら貪瞋痴という言葉が出てきますしね。
貪と瞋を分けて考えず
貪という我欲に注目したほうが
早く心が成長しますし
そもそも、我欲が感情を操作しているので
瞋に注目しても貪がある以上
どうにもならないのです。
(私の持論です。)
まぁ~そんな話をされれば
僧侶の方からすれば
仏教を侮辱されていると思ってしまいますよね。
ただの疑問なのですが
教義を否定されたと、そう受け止める人もいました。
でも、仏教的に言えば
そんな感情を抱く事は
修行が足らんという事になるので
不憫だなぁ~なんて思ったり・・
仏教で学ぶ教義を鵜吞みにする人が多いのは
どうしてだろう?と考えると
やはり、仏教に求めているモノの違いなんでしょう。
多くの場合は、仏教に救いを求め
縋る思いで信仰するわけで
そんな動機であれば、教義に疑問を抱く事
自体が罰当たりになるのでしょう。
私の場合は、霊障をなくす事が目的で
仏教の修行を始めたので
そこが異なります。
経典を唱える事で
物理的に体が軽くなったことで
その仕組みをもっと深く知れば
自分の抱える霊的障害も全てなくなるのでは?と
そう思い、教義にのめりこんでいったのです。
求めているモノが異なれば
解釈も大きく異なるわけです。
ITの仕事をしていると
作っているプログラムが
うまく動かない事があります。
例えば1+1は2なのですが
1+1=1になったりするのです。
2にならない原因を探さなくていけなくなり
プログラマーという仕事は
これを解決する術が必要になります。
(1+1)×1×1=で2になったり
PCに原因があり別のPCだと
うまく動いたりします。
こんな感じで環境によって数値が変わる事を
体験していると
人生も同じだなぁ~なんて思ったりします。
物事の結果も環境によって異なる事がある・・
なので私は、統計結果や科学的根拠をも疑ってしまいます。
統計結果や科学的根拠には説得力がありますが
とはいえ、環境により正反対の結果が出る場合があるのでは?
なんて、思ってしまうのです。
なので、アンケート調査結果も
アンケートを行った手法や環境のほうが気になりますし
科学的な根拠も、そのデータを
どんな方法でどんな環境で
収集したか?が気になります。
科学的根拠にこだわりすぎる科学者は
マジで信用できないですね~w
「目前の現実の受け止め方は自分次第」という
言葉をよく耳にするかと思いますが
この言葉の受け止め方も人それぞれなんです。
人は、常に「快楽」を求めてしまうので
自分が変わるのではなく、現実を変えたいと
そう思ってしまいます。
従って「自分が変われば現実が変わる」と
いくら言われた所で、「そうなんだ~」と
他人事でしょう。
他人事のように受け止めている
自分にも興味を抱かない。
だって、変えたいのは自分ではなく
目前の現実ですからね~
話が通じない人っていますよね?
俗にいう、クレーマーって言われる人たちも・・
そんな人って、思いっきり我欲が強くないです?
我欲が強いと、自分の知りたくない事は
目に入らないし、耳を貸さなくなるのです。
全てを自分主体で解釈し
それを強引に押し付けてくる。
そうしないと、己の我欲は満たされないからです。
要するに己の我欲が
自分自身の知識を制限しており
我欲が強ければ強いほど、物事を知る機会を失い
狭い世界で過ごす事となり
嫌な出来事が増え続ける・・
そして周りからクレーマー認定されたり
虐めにあったりする。
でも、本人は狭い世界で過ごしているので
自分が「悪」認定されることに納得できない・・
人間であれば、誰しも我欲はありますし
我欲なしでは生きて行けないでしょう。
ただ、己の我欲が自分自身の生きる世界を
狭くしている事は、知っておくべきだと思っています。
また、利他的な欲望が己の視野を広げ
生きる世界をも広くする事も
知っておいたほうが良いでしょう。
まずは「自分は何を求めているか?」を
知ることから始めると良いと思います。
己が求める「快楽」をひとつ一つほじくり返すのです。w
私の経験では
これ、やり続けると
目前の現実と自己の思いが連動している事に
気付けるんです。
そして、辛く苦しい現実は
己の我欲のせいだ!と気づかされ
結果として、何事にも感謝する心と
利他的な心を創らねば!と
そう思うようになります。
とはいえ、そう簡単に
そんな思いなんて生まれないんですよね~
まぁ~あとは
そこに向かっての訓練次第でしょう。w