修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

勇気は、人を信じれば信じるほど大きくなる

気が弱い・・
なぜか怖い・・
こんな気持ちが多い人の特徴は
『他人を信用しできない』
人だとそう感じています。

過去に人に裏切られたり
酷い目に合されたりする経験がそうさせるのでしょう。

自分を信じない相手を信じる事はなかなか出来る事ではないので
信じる他人がいなければ、孤独な人生となり
委縮し続ける日々を送る事になってしまう・・

人に裏切られるのは
自分が他人に嘘をついていきた証であり
ひどい目に合わされるのは
自分が他人を傷づけてきた証だとそう思っているのですが

人間が作ったルール上で判断してしまえば
そんな事が納得できるわけもない事をも理解しています。



しかし、無意識に人を傷つけていれば
そんな事に気づけるわけもなく
『私は、人に優しくしてきた』
『誰にも迷惑などかけていない』
自分は被害者だ・・と、そう思ってしまうはずです。


また他人を理解する努力を怠り
目先の現実のみで判断しながら過ごしていると
他人に迷惑をかけている事さえ気づけないものです。
ほとんどの人が自分がされて嫌な事を他人にしていなければ
それでいいと思い込んでるからです。

ようするに自分がされて嬉しい事でも
他人にとって嫌な事が無限にある事
を理解しようとしないまま過ごしているので
目先の現実に囚われてしまい
自分の言動が、他人を気づ付けていたり
他人に迷惑をかけている事に気づけないわけです。


仮に通り魔に後ろから刺されれば
自分は、被害者となり
悪いのは、通り魔となるのが現代社会です。

しかし、大自然の法則には善も悪もなく
刺される側と、刺す側の通り魔には必ず因果関係があり
『縁』があるのですが、そこを見ようとしないのが一般的でしょう。
そんな所を見ていれば、社会の秩序は保てませんからね~

通り魔は、犯罪者であり『悪』
刺された側は、被害者であり『悪ではない』
そうしなければ、ならないのが
我々の過ごす、人間社会です。

しかし、加害者と被害者は、同質のエネルギーを持っているので
お互いに引き合うのですが、そう考える人はなかなかいないでしょうね。
あくまでも私の感覚での話なので、ただの思い込みと
言われても、仕方ない事ですけど・・^^;)



私は善悪の判断基準が原因で、人の心は壊れて行くのだとそう思っています。
しかしながら、その判断基準がある事で
我々の過ごす社会の秩序が保たれているのも事実なので
やはり、善悪の判断はあくまでも自分に都合が良いか悪いかの判断であり
全ての存在が共有できる価値観ではない事を理解し
そして『ゆるす心』を育む事が大切なのでしょうね。


我々日本人には、この因果関係をよく理解した文化があったのですが
いつしか、なくなってしまいましたね~
『全ての現実は神々がしている事』とするなど
欧米からすれば、クレイジーな考え方なですし
現代の日本社会からしても、おかしな考え方となります。


しかし、私個人としては
人の心が生み出すエネルギーは膨大な量があり
そのエネルギーが様々な『縁』を創り出しているとそう思っていますし
常々それを強く感じています。
否定批判を止め、深く理解する事で
物事がスムーズに進むのもだと感じており
実際に実践すれば、その通りになるはずです。

人の心は経験によって創られている。
すなわち、体験や経験によりどう思い、どう感じるか?
が、その先の未来を生み出しているわけです。

まるで、自分の過去の言動を
神々が見透かしているかのように
目前に現実を突きつけられるのが、大自然の法則なのでしょう。


また、どんな人も常に他人と呼吸するかの如く
エネルギー交換していると感じています。
言葉など交わさなくても、他人の存在がある事で
我々は正常に過ごす事が出来る訳です。

他人を強く思いやる気持ちはエネルギー化して
接した他人から、活力の源となるエネルギーをもらえる
そこに会話など必要ないのです。


どんな恐怖も理解する行為で解消され
多くを理解する事で、多くを思いやる心が生まれる
そして、その思いは自らの大きな力の源となり
どんな苦難をも乗り越える勇気になるのではないだろうか?

と、そんな事を思うわけであります。


ん~・・・なんか、とりとめもない・・バラバラな・・~~
文になってしまいたしたが・・^^;)


ようするに
他人を強く信じれば信じるほど、勇気をもらえ
強靭な精神を身に付ける事ができる仕組みが存在していると言う事です。

ではでは・・・

スピリチュアル的行為は、ただの現実逃避だったりする

最近、スピリチュアル的な行為にハマっている人から
の相談をよく受けます。

相談内容の多くは
スピ系組織から抜けられない・・
抜けようとすると禍があると脅される。
ひどい場合は、呪いをかけてやるとか
会社を潰してやるとか
まぁ~言いたい放題言われて
恐怖に脅えての相談です。

私との会話も覗かれていると言い
怖くてちゃんと話ができない人もいました。

その他は、神に祈りを捧げて
大金をつぎ込んだのに何も改善されないとか
こんなに神々に尽くしているのに
霊的現象がなくならない・・とか
スピリチュアルマスターとして
多くの人に尽くしてきたのに
心身共にボロボロで、お金もなくなってしまった・・
とか・・そんな感じです。


なので、ここに少しばかり
持論を展開したいと思います。



まず、スピリチュアル的行為は
ともすれば現実逃避をしていると思った方がいいでしょう。
これを言うと、スピ系の人はみんな怒り出すんですよね~^^;)


スピリチュアル的行為にハマっている人の多くは
その世界に救われたと思っている人が多いのですが
私に言わせれば、辛く苦しい現実からの
逃げ場所を与えてもらっただけであり
何の解決にもなっていない場合が多いはずです。
と言うかほとんどが救われてなどいないでしょう~ね。

長年患っていた病が治った。
予期せぬお金が入り潤った。
子供を授かった。
などなど・・確かに現代科学では証明できないような
出来事が起きる事もあります。
そんな事が起きれば、救われたと思ってしまうのも
仕方のない事なのかもしれませんが
そもそも、辛く苦しい現実は
自らの成長の為に存在しているので
それを取り除いてしまえば
新たなる苦悩と向き合う事になるのが自然の法則です。

すなわち、一時的に逃げ場所を与えてもらっただけなわけです。

まぁ~それを理解した上での事なら
何も問題はないですけどね~

『先祖供養をすれば救われます』と言われ
ご先祖様を大切にするだけで体が軽くなる事もあるでしょう。
かといって、ご先祖様を大切にしないから
禍が起きるなんてありえないですよ。w

現に先祖供養を止めさせて商売がうまく行った人もいるし
健康になった人もいますしね。
何の為の先祖供養なのかが大切なのだと思います。

お墓や仏壇を移動して禍があるのは
自分たちの都合を押し付けている傲慢さに
気づかせてくれているのだと思った方がいいでしょうね。

ご先祖様を大切にしていないから禍が起きるなんて
考え方は、どう考えても普通じゃない。
神や先祖が恐怖の対象になってしまえば
それは、もはや悪魔と同義ですよね。


そもそもスピリチュアルマスターと呼ばれる多くは
現実逃避したままの状態を続けているので
『神様が○○とおっしゃっているので
○○しなければなりません!』とか
『貴方のご先祖様が○○とおっしゃっています。』とか
『良くない霊が憑いているので
浄化してあげます』とか・・
そんな事ばかり言ってくるはずです。

まぁ~自ら現実世界から逃避し続けているので
現実離れしてしまっても仕方ないのですが
現実社会で過ごしている人まで、巻き込んではいけませんよね~
まぁ~まともに生きられない人の
そんな言葉を真に受ける方にも問題がありますが・・

私自身も多くを感じるので
そんな世界を否定するつもりはありませんが
そんな言葉を気にしていたら
我々の人間社会でまともに生きられなくなります。
五感の世界で生きている人は
その感覚がないので、言われた言葉を信じるしかないわけです。

霊能者に向かって『貴方から魔物が見える!』と言い放てば
だいたいが『そんな事はない!』と怒り出すんです。w
『貴方が悪霊に取り憑かれて、そう見せられているんだ!』
と、あくまでも自分が正しいという立ち位置でしか
物事を見る事ができない・・
自分がそうかもしれないんですけど自分を疑う事はしないんです。w

何も感じない人の立場を考慮して言葉を選ぶ事もできない・・
現代社会では相手の立場をしっかりと考えて人付き合いするのは
当たり前の事なんですが、それが出来ないが為に
現実社会で普通に過ごせなくなり
現実から逃避した精神世界が唯一の居場所になるわけです。


冷静になって『神』とは、なんぞや?と考えれば
『神』=『本人の思い込み』として、存在しているのにw
何も感じない人は、特別な存在として認識してしまうのです。


私自身、その世界に囚われて
気が狂った事があるんですよね~
まぁ~上に書いた通り
他を理解する心が欠如していた為です。^^;)

なので、そんな世界はお遊び程度にしておくのが一番だと
そう思っています。


神々の言霊を聞くのは、神に選ばれた証拠とか
人々に尽くすお役目がを背負っているとか
そんな言葉を耳にしたら、関わりを持たない方が賢明でしょう。


なぜならば、神々の言霊=本人の思い込みだからです。
神と思っていた相手が、ただの霊体かもしれませんし
自分が神だと思えば、ペットのワンちゃんでさえ神ですからね~
飼い猫が神の使いだなんて言い出したら
もう現実が見えていない人の証でしょう。
私に言わせれば、そもそも全ての生き物が神の使いですしね。
(まぁ~これも私の思い込みなんですけどw)

あと、『お役目』ですが
多くの人に尽くすのは、全ての人のお役目のはずです。
この世で生きている以上、自分以外に尽くすのは当然の事であり
そうやって生きて行かなければ、苦しい現実と向き合う事になるのが
大自然の法則でしょう。


そんな奉仕の精神がないために辛く苦しい現実と向き合う事になり
スピリチュアル的世界を逃げ場所にしてしまう為
スピ系で集まっている人は、他人に尽くすお役目があるという言葉に
誰も違和感を感じないわけです。
そもそも初めから、自分本位な考え方しかできないので
見えている世界が狭すぎて、自分の滑稽さに気づけないまま
『ああ~!私は、神様に世のため人の為に尽く事を特別に命じられたんだ!』
と、そう思ってしまうわけです。

私に言わせれば、世のため人の為に尽くす行為が足らな過ぎて
神様に罰として強制されているに過ぎないんですけどね~w


スピリチュアルな世界にいる人は、とても広い世界で生きていると
思われがちですが、実際は現実世界から逃げている人が多いので
現実世界に目を閉ざし、とてもちっぽけな世界で生きている人が
多いと思った方がいいでしょうね。

現実逃避を続けると、ろくな事が起きないのは
普通に生きていれば誰でも理解できるのですが
本人たちは、現実世界+αでもっと広い世界で過ごしていると
そう思い込んでいる為
オーム真理教しかり新興宗教の教祖が逮捕されるような
出来事が起きてしまうわけです。



どうでしょう?
冷静になって考えると、極めて幼稚で滑稽な事だとは思いませんか?
そんな世界に恐怖を感じる必要は全くないと思います!


大切なのは、今を一生懸命生きる事でしょう~
誰かの為に何かを成し遂げようと努力しながら過ごしているだけで
毎日が楽しく、充実した日々を送る事が出来、不安など無くなるものです。
同時に、欲が消え、見栄もなくなり、謙虚になれます。

恐怖や不安を感じるのは、ただひたすら求め続けて過ごしているからであり
失う事に恐れを抱いているだけなんです。

その恐怖から逃れるには、与える喜びを知ればいい...
たったそれだけの事で、どんな人も幸せを掴むことができると
私はそう思っています。^^)

物事がうまく進まない、理不尽な出来事が多い、不運だ、不幸だ、そう思うなら・・

物事がなぜか空回りする・・
理不尽な嫌な出来事ばかり起きる・・
会社の経営がどうしても上手くいかない・・
やる事なす事、失敗ばかり・・
不運だ・・不幸だ・・
どうして、こんなにも嫌な出来事が多いのだろうか?
何か目に見えない力が働いているのではないだろうか?
先祖からの因縁のせいか?
悪霊に取り憑かれているのか?
土地因縁があるのか?
祟りか?
・・と、そう思っていしまう人も沢山いるでしょう。

私もそんな一人だったのですが
物事がうまくいかなかったり
理不尽な出来事が多かったりするのを
霊や因縁のせいだと思っている以上
私は、100%改善しないと確信しています!

実際に霊が見えて、霊と話が出来て
物理的に苦しめられてもです!

そして自己改善できれば
物事は必ずスムーズに進むものです。


ですが、なかなか自己改善出来ないのが現実であり
それが、人生というモノなのかもしれません。

私たちは、常日頃から自分に都合よく
物事を判断しているので
何も悪い事をしていないのに・・
ちゃんと普通に生きて来たのに・・
誰にも迷惑をかけていないのに・・
どうして、自分ばかりがこんな目にあるのか?
そう思ってしまいがちなのです。

どんな人も自己の潜在意識のほとんどが煩悩で
支配されており、誰しも心の奥底で
『楽をしたい』『面倒はイヤ』『認められたい』
などと思っており、それに従った判断基準をしてしまうので
とても狭い世界しか見る事ができないものです。



また、嫌な出来事ばかり起きると言う事は
それだけ、周りに嫌な思いをさせている証なのですが
自分自身で、それに気づけないだけだと思った方がいいでしょう。
これも、己の思考を支配した煩悩がそう思わせてしまうわけです。

また、『嫌だ』と思う感情は自分が生み出しているだけなので
『嫌だ』と感じなくなれば、嫌な出来事ではなくなります。
辛く、苦しい事も同じでしょう。

不味いと感じた食べ物がいつしか美味しいと思うように
嫌だと感じている出来事が、楽しいと思う事もあるわけです。

結局は、目前の現実をどう受け止めるかだけなのが
人生というモノなのでしょうね。



自己改善したくても、なかなか至らない自分に気づけないものです。
自己の価値観を改善するのは、なかなか大変な事でしょう。

どんな人も自己の煩悩に従い物事を判断しているので
煩悩に反した行動をした経験がないものです。
経験がない為にそういった考え方を理解できないままでいる人が殆どでしょう。
そして、その経験がない為に、苦悩の中で経験せざるを得なくなるわけです。

自分が人生にもがき苦しみ、絶望している時に
自分を犠牲にしてまで手助けしてくれる人に出会って
そういった行為の大切さを学ぶ人が殆どかもしれません。

私は、他人に尽くす大切さを学ぶのに手っ取り早い方法が
ボランティア活動だと思っています。

モンスターボランティアという言葉があるように
いざ、やってみると善意の押し付けだったりする事が多く
まずは、相手を理解しなければ何もできない事も学べるでしょう。
普段の生活の中で、自分以外を理解しようと努力する事が
全くなかった事にも気づけると思います。






私たちの人間社会では、暮らしやすくする為に
一定のルールを設け、それなりの秩序を保っています。

法律を定め、それを遵守しなければ
犯罪者として罰せられる。

また、法律を守って過ごす事は良い事であり
それが当然の事として疑わないのが
今の我々の社会なのでしょう。

なので、法律を守っていれば
何も悪い事をしていない・・と
勘違いしてしまうのです。

ちょっと前の舛添知事の問題が良い例で
私個人としては、舛添知事を責められる人など
今の日本の社会にはいないのではないか?
と、そう思うほど
みんながみんな、法律を守っていれば
悪い事をしていないと思い込んでいるはずです。

良い事、悪い事など所詮は
自分時都合が良いか悪いかだけであり
我々人間社会での判断基準なわけです。


我々人間社会のルールは
人間にとって都合よく創られているので
いくらそのルールを守って過ごしていても
大自然の法則は無関係で私たちに働きかけます。


自然界のルールでは
己を磨き続ける事が我々の価値観で言う良い事となります。
従って、犯罪者となる事が悪い事とは限らないのです。

何事にも感謝する事
常に努力する事
自己を省みる事
他を思いやる事
他を理解する事
他人に尽くす事
他人の幸せを願う事
慈愛に満ちた心を持つ事などが
自然界では良い事となるんでしょうね。

我々の社会では
悪態をついたりしても
法律に触れなないので
悪い事でも何でもありませんが
自然界のルールでは
その分、嫌な出来事が起きてしまいます。

また、我々人間は常に自然界や周りから
奪い続けなければ生きて行けないので
その分、自分以外に与え尽くさなければなりません。
そうしなければ、必ず何かを奪われるのが大自然の法則です。
奪い続ければ、我々は生きて行けなくなるのですが
今より不便な生活は誰もしたくはないので
見ないふり、聞かないふり、他人事としてしまうのも
人の性なんでしょうね。

人間社会という枠組みの中での自然の法則が働いています。
24時間コンビニで売っているおにぎりは
誰かがどこかで作っているおかげで
我々は、購入し食べる事が出来る訳ですが
そこに感謝し、自分自身も社会に貢献しなければ
その分、必ず何かを奪われるのが大自然の法則です。


ちょっとした商売を初めて
経営が行き詰るのも、そう言った事が原因のはずです。

私は、経営が行き詰ってしまったという
相談をよく受けるのですが
お客様を見る事をせず、お金儲けという仕組みばかりを
気にしている人が殆どです。

どうやったら儲かるのか?を優先してしまう為
お客様や社会が求めているモノが見えなくなってしまう。
与えた分しか手に入らないのが大自然の法則なので
求めるだけでは、何も手に入らないのは当たり前なのですが
そんな事さえ見失ってしまう・・
『だって、お金がなければ生きて行けないじゃん!』
と、皆さんそうおっしゃるのですが
破産してもコンビニなどで働けば生きて行けるのが
豊かな日本の社会なのです。

ビジネスの競争が激しい資本主義社会では
お客様や社会が求めている流れに乗るだけで
何だかんだとうまく行くものです。


このブログで何度も繰り返し記して来ましたが
嫌な出来事が、多いのなら徳を積めばいいだけなのです。
どうすれば徳を積めるのか解らない人は
楽をして徳を積む方法を探しているからでしょう。
そもそも楽をして徳を積めること自体ありえないんですけどね~w

常に求めている心の中で
与える行為は、しんどいモノなんです。
与えたいと思えるようになるまで、ず~としんどいでしょうね。