修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

利他的な心は感謝からはじまる

日本神道は、人生において「感謝」の重要性を
とても深く理解しているのだと
私はそう思っております。

仏教やキリスト教のように
愛や慈悲を説いた所で
解っちゃいても、そうできないのが人間ですし
慈愛の心のない自分を責めたり
上辺だけの慈愛の心に酔いしれたり
慈愛の心がない=悪としてしまう人もいるでしょう。
そもそも、利己的な心で埋め尽くされているのが
人間なのですが、なかなか難しいモノです。

「南無妙法蓮華経」「南無阿弥陀仏」念仏を唱えれば救われる・・
なんて、私はバカバカしいと思ってしまうのです。
仏教協会に怒られそうですが・・w

「感謝しろ!」「世のため人の為に尽くせ!」
という日本神道の方が、とても理にかなっていると思いますね。

なぜならば、利他的な心は「感謝」する事からはじまり
深く感謝する事で利他的な心、即ち慈愛の心が育まれるからです。

また、自分自身の利他的な心が目前の現実を好転させるという
大自然の法則があるので、念仏を唱えるより合理的ですよね。







私たちが過ごすこの大自然
私たち人間に利他的な心を育ませるように
様々な苦悩を与えてくれます。

なので、利他的な心へ向けて
心を成長させる事ができれば
目前の苦悩は無くなって行くわけです。

と言うか、物理的な苦悩もなくなりますが
今まで苦悩と感じていたモノが
苦悩でなくなる事が大きいでしょうね。

満たされたい事が満たされない時に
苦悩を感じるので
強欲であればある程、苦悩が増え
利他的な心が成長すれば
我欲が減り、同時に苦悩も減るという事です。


従って、いくら愛と慈悲を唱えた所で
利己的な己の心が、邪魔をするわけです。
利己的な思考が詰まっている意思で
愛と慈悲の心が無い自分を自覚すると
罪悪感に苛まれてしまう・・
また、私たちは自分に都合よく物事を捉える
スキルを身に着けて生まれてくるので
愛と慈悲のない自分を思考の中で抹消してしまう。

その為、真実と思考にギャップが生まれ
目前の現実に苦悩が増えてしまう。


では、どうすればよいのか?


私自身、利己的な思考でいっぱいな自分でしたし
そんな自分と向き合い、どうしたら良いのか?
ひたすら考えました・・・
激しく修行しました・・・
内観をし、経典を唱え続けました。
本職の僧侶に「私たちでも、そこまでしない」
と、言われるほどに・・・w

慈愛の心と向き合う事を決め一生懸命修行しました。
慈愛の心のない自分を戒める為に修行しました。
「経典を唱えれば救われる・・」
「内観をすればいい・・」
「霊山に登ればいい・・」
「滝に打たれればいい・・」
「断食すればいい・・」
「瞑想すればいい・・」
そんな事を言われて激しく修行しました。
聞いた事のない修行法を聞けば飛びつきましたね~w

修行すれば、心身が清まる感覚はある。
心身が清まれば、目前の現実も若干好転する。
しかし、しかし、しかし・・
修行を止めれば、また同じことの繰り返し・・
自分自身に慈愛の心があるなどと到底思えないのです。

「仏教なんて嘘ばっかりだ!」
と、よく悪態をついたものです。w


私は、アホですが
いくら悪態をついた所で
現実は好転しない事くらいわかるので
自分に対してのアプローチを変えるべきだと
そう思いました。


そして、考えたのです。
どうして、自分には利他的な心が皆無なのか?と・・
どうして、自分は損得でしか物事を判断できないのか?と・・


で、・・・一つ気付いたのです
自分は、今まで他人に尽くしたいと
そう思った事はあるのか?と思い返したとき
ない事はない・・ある?と・・

そして、それはどんな時なのか?と思い出せば
自分が困っている時に助けてくれた人に対して
恩返しをしたいと思った時だと!

即ち心深く感謝した時だったのです。


そして、更に自分を省みると
何事にも全く感謝できていない自分に気付きました。


なので、まずは感謝だ!とそう思った時
神道祝詞は、感謝を捧げるものばかりだと気付かされました。

神事と言われる行為の殆どが感謝を捧げるものばかりであり
それに、沢山参加している自分に
感謝の思いだと全くない事に気づき、そして恥じました。


しかし、そんな自分をいくら恥じた所で
感謝の心など芽生えないのです。w

いや~どうやっても芽生えませんでしたね。w

大自然の恩恵に感謝する神事に参加し
大自然に恩返しってどうすればいいんだよ?
なんて、思いましたね~w

いや~まったくもって感謝の心など皆無でしたね~
一生懸命、感謝する練習をしました。w
偽りの感謝を繰り返したのです。

そのおかげで、「感謝する思考」が創られました。
そのおかげで、ムカつく事が減りましたかね~
ただ、心から感謝しているわけではないのです。w

毎日、口にする食べ物に感謝する為に
畑なんかもやってみたりしました。w

農家の方々が大変な作業を毎日している事を学びましたね。
少しは、食べ物に感謝できるようになったと思います。


その内、感謝の思いを抱く練習をしていても
感謝できないのでは?と思い
ボランティア活動にも拍車がかかりました。

要するに感謝していれば、尽くしたくなるわけで
尽くしたくないのであれば、感謝していない事になり
それが、解っていても感謝できないし尽くせない・・

いくら偽りの感謝を続けても感謝できないので
今度は、偽りの心で周りに尽くしたわけです。w

この行為は、何度もこのブログに記してきた通り
本当に勉強になりましたね~
自分自身の価値観が大きく変わりました。

おかげさまで、少しづつ感謝できるようになったわけです。
感謝できるようになるとよく解るのですが
感謝の心を阻害するのは、自分自身の我欲なんですよね~

自信の我欲が、もっと!もっと!と求めるので
「今あるもの」目がいかなくなるのです。
本来感謝すべき物事がいっぱいあるのに
それが「あたりまえ」になっているわけです。


4日くらい断食すると食べ物のありがたみがわかるんですよね~
断食道場のように、何かを口にしたらだめです。
水だけで4日間断食すると体感できるでしょう。
空腹は最高の調味料と言われているように
くそマズイ料理も超美味しく思えますし
食べ物のありがたみを知る事になるわけです。

そして普段の生活の中で感謝すべき事が沢山ある事に気づかされる。
感謝すべきことが沢山ある事に気づくだけで心が楽になる。
心から感謝できれば、幸せになれるのです。

我欲は、満たされない心から生まれ
感謝は満たされた心から生まれる・・
即ち、感謝しているという事は心が満たされているという事なんです。
自分が幸せな状態だという事ですね。

そして、感謝するという事は、恩返ししたくなる事なので
世のため人の為に尽くしたくなるという事なんです。
即ち、世の為人の為に尽くしたくなるという事は
自分が幸せな状態だという事です。


昔の私は「世の為人の為」なんて口にする奴は
偽善者だ!人間の心は本来醜いものだ!なんて思っていましたが
要するに「感謝できない人間」だから、そう思ってしまっていたのです。
そして、感謝できないのは自身の我欲が邪魔をするから・・
要するに私自身の満たされていない心、枯渇した心が
不平不満を生み出していたわけです。w



私が断食を薦めてチャレンジする人が結構いるんですが
面白い事に、ほとんどの人が、途中でリタイヤするんです。
リタイヤするのは、食欲に自分の意思が負けてしまうからなんですが
「我欲」によって「感謝」を学ぶ機会を失うわけです。

これって、人生そのものの構図だなぁ~なんて思ったりしています。


私は、よく仏教行者を小バカにして中二病扱いしたりしていますがw
私自身、仏教の苦行の中で、人生において大切なモノを学ばせているんです。
仏教も良い所はたくさんあるんです。

私が苦行で学んだのは
「人間、苦しまないと大切なものは学べない」という事です。
自らの精神を負い込む事でしか、学べない事だらけなのが
我々の過ごす世界なんだという事です。

なので、目前にどんなに辛く苦しい現実あっても
自らの人生の糧にするべきだと、そう思ったりしています。

嫌な出来事、辛く苦しい出来事が多々あるんであれば
「感謝が足らない」とする日本神道は、理に適っていると思います。





私は、今現在システムの開発の仕事で
ユーザーの無茶ぶりに苦労しているんですが
「あぁ~感謝が足らんかったぁ~・・」
多方面に、ありがたいとは思っていても
恩返ししたいとは思っていなかったのです。

面白いもので、通常であればクレーマー扱いする案件なのですが
至らない自分を見つける事が出来たおかげで
「この苦境を乗り切るぞ!」と思えるわけです。

どんな現実も受け止め方次第とはよく言ったものですね。
そして、改めて「感謝する」という事は、素晴らしいものですね。