修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

社会のルールと自然界のルールの違いが苦悩を招く

我々日本の社会は、秩序を保つために
様々なルールが強いられている。

争いをなくし、平和な社会を保つために、法治国家とし社会のルールを定めます。
何が良くて、何が悪いかを決める事で、社会の秩序を保ちます。

このルールは、あくまでも我々日本人の為のモノであり
日本人以外を優先して作られたものではないわけです。

多くの日本人の経験や体験により出来上がった
価値観に基づいてのルールでしょうね~

まぁ~戦後アメリカが作ったルールとも
言われてますがw


◎争いを無くす事が良い事
◎人を傷つけない事が良い事
◎困っている人に手を差し伸べる事が良い事
◎他人に迷惑をかけない事が良い事
◎助け合う事が良い事
◎他人に優しくする事が良い事
◎ルールを守る事が良い事
◎正義が良い事

などなど・・これらは当たり前の良い事とされています。

何が良くて何が悪いのか?を明確にしなければ
集団生活を営む上で支障がでてしまいますしね~

この善悪の判断は、あくまでも国益を基準にしたものが多いですね。



我が国は国益を重視した政策のもと営まれています。
国益とは?国民ひとりひとりが今以上の
豊かな生活を過ごす為の利益とするのが一般的でしょう。


言い換えれば、国民ひとり一人が、今まで以上に
贅沢な暮らしをする事を重視して国は運営されています。w

もっと言えば、国民の快楽を重視した政策です。w

更にもっと言えば、国民に贅沢な暮らしをさせない政治家は
ダメな政治家であり、選挙で当選する事はないでしょう。w


まぁ~贅沢する事は別にいけない事ではないですけどね~






で、自然界のルールとは?
朝が来て夜がきて
雨が降って、四季がきて・・
生を受け、死が訪れる・・
といった感じの、我々が逆らえないルールです。

我々人間社会のルールは、自然界の中にあり
自然界のルールが優先されて
様々な出来事が起きていると言う事です。


多くの聖職者が慈愛の大切さを訴えているように
人が生きる目的は、慈愛の精神を育む事だと私はそう思っています。

というか、様々な出来事は
我々に慈愛の精神を学ばせようとしているとしか思えない。

慈愛の精神に反した言動に対して、必ず禍が起き
[それ、ちょっと違うんじゃない?]と教えてくれますしね~



また、我々は、大自然に煩悩を植え付けられ生まれてきます。
常々自分本位に考えながら快楽を求めて生きるように創られています。

利己主義に生きる事で多くを失い
利他主義を学ばされているわけです。


快楽を求める事でもがき苦しみ、慈愛の心を育んでゆくのが
人生というもののだと、私はそう感じています。

要するに、苦悩の中で慈愛の心が作られてゆくのが
大自然の法則と言う事になります。






大自然の視点で考えてみると・・・

◎争いを無くす事が良い事
→ゆるす心を学ぶ為にゆるせない出来事が起きるので争いは必要

◎人を傷つけない事が良い事
→誰しも無意識に人を気づ付けており
他人に傷つけられることで、自己改善できるので必要

◎困っている人に手を差し伸べる事が良い事
→苦悩は本人の成長の為にあり
安易な手助けは、更なる苦悩を生み出す原因となる。

◎他人に迷惑をかけない事が良い事
→人は一人で生きる事ができず
存在するだけで、周りに迷惑をかける生き物である。

◎助け合う事が良い事
→助ける合う事で成長が止まり禍が起きる事がある。

◎他人に優しくする事が良い事
→安易な優しさは、依存心を生み出し成長を止めるので
本人に禍が起きる。

◎ルールを守る事が良い事
→ルールに囚われると視野が狭くなり成長できなくなる。

◎正義が良い事
→正義があるから悪が生まれ、ゆるす心が育たなくなる。


こんな感じで、我々の社会のルールに従って
いくら良い事をしたとしても
苦悩を伴う出来事で、慈愛の心を育むよう
考えさせられる事になるわけです。


国益が物質的な豊かさをさすのであれば
それは、煩悩を満たす為の行為となるので
国全体に苦悩が押し寄せるわけです。

とは言え、我が国では、トヨタ自動車など
世界の利益を追求している企業がたくさんあるので
なんとか持っているのかも?しれません。



我々の社会は、争いがなく平和で安定した社会を目指して
そんなルールを設けていますが
大自然のルールは慈愛の精神を育む為の心の成長を
促すように創られているので
物質的な豊かさを追求するより
心の豊かさを追求した方が平和で安定した社会を
早く築く事が出来るのではないだろうか?

・・と、思ってしまいます。

しかし、実際には煩悩をガッツリ植え付けられているのが人であり
社会がそんな方向に向かない仕組みも存在しています。


修験道の言葉に[陰陽交わりて、万物を生ず]という
言葉があるように、痛みを伴わないと慈愛の心も生まれないのでしょう。

と言う事は、今のままの社会の仕組みで
何ら問題はないんでしょう~ね~




ただ、私の所に相談に見える方々の中で
この社会のルールに囚われ過ぎて苦悩から
抜け出せない方も多くいらっしゃいます。

『求めるから苦しむ』という呪縛から抜け出せないわけです。
与える事を体験していないので
与える喜びさえも理解できず
求める事の何が悪いんだ!くらいに思ってします。
人は求めなければ生きられませんからね~


慈愛の精神を育てさせようとする、この世界では
どうしても与えなければ手に入らない仕組みがあり
過去から今まで、ただ求めるだけで何も与えていなければ
どうしても、奪われ続け苦しい人生となってしまいます。

ひたすら求め続けるのが人の性ではありますが
どうせ求めるなら我欲を満たすのではなく
社会に世の中に貢献する事を求めれば
求めると同時に与える事になるはずです。




また、社会のルールに従っているだけで
幸せになれると勘違いしている人が多くいますが
我々に都合よく作られたルールを
いくら正しく守ったところで
幸せになる事はないでしょう。

そこには、我欲を満たす仕組みしかありませんからね~


なので、生きる目的を持つ事をお薦めします。


相談にみえる方は結構しんどい日々を過ごしているのですが
どうやったらもっと楽しく生きられるか?
という事を全く考えていないわけです。

生きる目的もなく、ただひたすら社会のルールに従って
流されて生きると、どんな人も
ただただ快楽を満たそうとするのが人の性です。

お釈迦様がおっしゃったように
苦悩の原因は煩悩にあるので
ただ快楽を求め続ければ、誰でも辛く苦しい人生となるわけです。

なので、何か生きる目的を見つけ、その方向に進むだけで
苦悩を遠ざけてくれるはずです。


とは言え、生きる目的と言われても・・
???と、なってしまうくらい
豊かな社会になってしまいましたよね~


ならば、残りの人生をもっともっと楽しむには?
どうしたらいいのか?と、しっかり向き合い
生きると言う行為をただただ我欲を満たし
快楽を満たすだけの為にするのを止めて
ワクワクするような生き方をすればいいと思います。

なかなか自分で見つけ出す事ができないのであれば
そんな理念を掲げて、真面目に取り組んでいる会社に
勤めてみるのもいいかもしれません。


いずれにせよ、流されて生きると
どんな人も、しんどい人生になるのが
大自然の法則だと私はそう思っています。




出来る出来ないは別として
ひたすら目的に向かって生きるだけで
目前に起きる出来事は大きく変わるはずです。

人の心が生み出すエネルギーは
それほどまでに、強力なものだと思っています。





ではでは~~

騙される事で、学ぶべき事

オレオレ詐欺など
色んな詐欺行為が後を絶たないのですが
この詐欺行為をいくら根絶しようとしても
後を絶たないわけです。

事象を変えようといくら努力しても
自らが変わらない限り
何度も繰り返されるのが自然の法則なので
一人一人の意識が変わらない限り
悪意のある詐欺行為は、なくならないのでしょうね~





他人に騙されて辛い思いをする人が後を絶たないのですが
他人に騙される事で、学ぶべき事があるから騙されると思っています。



こんな事を言うと
その人の気持ちが解らないのか!
傷ついて辛い思いをしている人になんて事をいうのか!
と、お叱りを受けそうなのですが
いくら同情した所で何の解決にもならないと思うので
あえて、記させて頂きます。

かく言う、私も結構な額をだまし取られた経験がありますからね~^^;)


まぁ~毎度ながら私の持論なのでご容赦を!・・w







まず誰しも、なかなか自分を見つめる事ができない理由として
人間社会のルールを守っている事が、正しく生きる事、としてしまう
大きな勘違いがあるからだと思っています。

何度もこのブログに記している事ですが
人間社会のルールは我々人間にとって都合の良いルールであり
自然現象のルールとは、全く無関係に働きかけています。

人が生きると言う行為も、自然界のルール上にある事を
忘れてはならないわけです。


要するに、自分の目前に起きる出来事は
人間都合の人間ルールとは、全く無関係に起こっていると言う事です。



これを踏まえた上で詐欺にあって騙されたという事を考えると
詐欺行為の被害者は、社会のルール上被害者なので
『悪』ではないわけです。あくまでも被害者ですからね~

そこで皆、考えるわけです。
どうして自分がこんなひどい目にあわないといけないのか!
何一つ悪い事などしてこなかったのに!
誰一人として迷惑などかけてこなかったのに!
と、そう思うわけです。

これが社会のルールに沿った一般的な考え方でしょうね。



しかしながら、自然界のルールでは『悪』など存在していないわけで
人が『悪』とする辛い出来事は、自己の成長の為に起きています。

なので詐欺行為の加害者を『悪』として、何一つ学びがない以上
嫌な出来事が起き続けるのが大自然の法則です。


自分を騙した相手を憎しみ続けると
物事がどんどん空回りするはずです。



『因果応報』『自業自得』『現実は鏡』という言葉があります。
これは、前民進党党首が流行らせた『ブーメラン現象』をさすのですが
この言葉は、自然現象にちなんで生まれた言葉でしょう。

騙された現実から自分を振り返れば、答えは見つかるはずですが
物事の判断基準を被害者という立場で
尚且つ社会のルール上で考えてしまうので、見当もつかないわけです。







では、騙されるという出来事を自然界のルールで考えてみましょう!


詐欺行為は、人を騙す行為となるのですが
騙された本人は、人を騙した事はないと思うはずです。

そう自分を判断する範囲を社会のルールから外してみるとどうでしょう?


自分の気持ちに嘘をついて他人を接していいないか?
自分を他人に良く見せようと見栄をはって過ごしていないか?
ご近所や世間体を気にして体裁を整える事ばかりしていないか?
どんな人にもイイ顔をして、本音を隠して過ごしてはいないか?

などなど・・

これらは、人間社会で生きる上で
当たり前のように、誰しもが行っている行為に思えますが
残念ながら、周りを騙している行為となるので
人に騙されたり、利用されたりする出来事が起きます。





では、他の視点で・・・





詐欺行為をする人は、他人にお構いなく自分の利益を優先します。


物事を損得勘定だけで判断し過ごしていないか?
他人の利益、周りの利益を考える心が欠如していないか?


詐欺行為をする人は、他人の立場など考えません。


他人を大切に思いながら過ごしているか?

家族を大切にしながら過ごしているか?
大切に思う事が出来る友人がいるか?



などなど・・

現代社会では、これらの事をしなくても
犯罪でもなく悪い事でもないので、なかなか気づけませんが
大自然のルール上では、鉄拳をくらう事になってしまうわけです。




これは、私が騙され結構な金額を失った事で学んだ事です。^^;)


いや~気づくまで、何度も騙されましたね~
最初は数万円単位→数十万→数百万→数千万・・と
アホな私は、何度も繰り返してしまったわけです。
軽く立派な一軒家が建てられるくらいいっちゃいました・・
沢山の人に迷惑をかけましたし恨まれ憎まれましたね~^^;)






詐欺にあう方々の相談を受けていると
往々にして私と同じように、これらが当てはまる事が多いです。

自分では、ちゃんと出来ている!と思ってしまう人も多くいますが
物事を自分主体でしか見る事が出来ない為、客観的に自分を見られなかったり
すでに自分の心が憎しみに支配されてしまっている方もいます。

客観的に自分を見る事は、なかなか難しいですからね~



とは言え、全ての人がこれに当てはまるわけではないと思うので
自分が詐欺師になったと思って
自分に当てはまる部分を考えてみるのも良いかもしれません。








私の場合、ちょっと気づくまで時間がかかり
何度も騙される体験を繰り返してしまいましたが・・^^;)
今では、騙された経験に深く感謝しています。
この体験により、自分の価値観が大きく変わりましたし
なにより、人として生きる上で、とても大切な事を教えて頂きました。

やはり、『悪』こそが『神』でしょ!w

いずれにせよ、憎しみは自らを崩壊させてしまうので
この出来事により、多く学び、感謝できるよう祈っております。

経典や念仏を唱えるだけで、本当に救われるのか?

リクエストを頂いたので
経典や念仏について、私の考え方を記してみたいと思います。




私は、真言密教を長く修行した経験があります。
色々な宗派を学びましたが
宗派によって、教義も色々で
結局は空海の教えに惹かれて
真言宗にはまったわけです。
まぁ~アホなくらいやりました。


修行した理由は、極度の霊障から解放されたかったからです。
経典や念仏を唱えると救われる!と言われながら
結構激しく修行してしまいました。^^;)

だって、一時的に霊障が治まるんですから!

ただ、私の場合は
『経典を唱える⇒体が楽になる』を繰り返すようになり
どんどんと『強い霊が憑依する⇒激しく修行する』を
繰り返すようになりました。

気付いたら、社会的不適合者の出来上がりですわ。w

それに気づいた時は、何てバカな事をしていたんだ!
と、思いましたが
今では、それはそれでいい経験だったと思っています。













これから記す内容は、あくまでも私の考え方なので
何卒、ご容赦ください~!








まず、【経典や念仏を唱えると救われる】と
よくお寺の住職さんなんかは、おっしゃいますが
この『救われる』とは?
を深く考えた方がいいと私はそう思っています。



『救われる=苦悩から解放される』となりますが
苦悩から解放される意味を履き違えている人がとても多いと
私は、そう思っているわけです。
まぁ~私も勘違いしてましたしね。w

一般的には、『苦悩から解放される=快楽が満たされる』と
無意識にそう思っています。
私の場合は、経典+真言霊障がなくなる!そう思っていました。
実際にかなり軽減しましたしね~
一時的にですが(^^;)


そもそも、苦悩とは、煩悩が生み出すものとするのが
仏教教義なわけですから、いくら経典や念仏を唱えても
快楽が満たされるわけはないのです。

苦悩をなくす為には、煩悩を捨てる事とするのが仏教の教えなので
『苦悩から解放される=煩悩を捨てる』と言う事になります。

いや~この事に気づくのに10年以上かかりましたね~^^;)



一般的に、救われるとは、望んだモノが手に入る事をさします。
お金に困る⇒お金に困らなくなる
事業が窮地に陥る⇒事業が順調に進む
病気で悩む⇒病気が治る
結婚が出来ない⇒結婚が出来る
人間関係がうまく行かない⇒人間関係がうまく行く
などなど・・

実際にこれらの状態を救われたと言いますが
仏教的に言えば、煩悩が満たされた事をさし
救われた事にはならないわけです。


従って、いくら経典や真言、念仏を唱えた所で
そもそも、初めからこれらが満たされる事はないわけです。

仮に満たされたとすれば
それは、魔性の力で、後々代償を払う事になるはずです。
飲食店で経典を唱えたらお客が増えた!
宝くじが当たった!
出世した!
病気が治った!
など、よく耳にしますが
経典を唱えるだけで快楽が満たされれば
人間社会がどうなるか?
ちょっと考えれば解るものですが
なかなかどおして、人間とは煩悩に溺れてしまうと
痛い目にあうまで
現実が見えなくなるものです。
まぁ~痛い目に会っても気づけない人もいますが・・w



本来、与えられた苦悩自体に意味があるので
その意味を理解し乗り越える事が救われた事になるわけです。


従って、救われた状態と言うのは

お金に困る⇒
お金に困っている原因を知る⇒
お金に困って学ぶべきものを学ぶ⇒
自己改善し成長する⇒
お金に困った状態に感謝する。

病気で悩む⇒
病気になってしまった原因を知る⇒
病気になって学ぶべきものを学ぶ⇒
自己改善し成長する⇒
病気で苦しんだ事に感謝する。


私の場合は

霊障で苦しむ
霊障で苦しむ原因を知る⇒
霊障になって学ぶべきものを学ぶ⇒
自己改善し成長する⇒
霊障で苦しんだ事に感謝する。

という状態が救われたと言う事になります。



しかし、アホな私は・・
霊的苦痛から解放される事が
救われる事と思い込んでいたので


霊障で苦しむ⇒
経典・真言を唱える⇒
霊的苦痛が和らぐ⇒
何も学習しない⇒
更に強い霊的苦痛⇒
激しく修行する⇒
霊的苦痛が和らぐ⇒
何も学習しない⇒
更に強力な霊的苦痛⇒
更に激しく修行する⇒
・・・
・・
・・
と言った感じで、堂々巡りを繰り返してしまったわけです。


霊的苦痛と言う私自身に対してのありがたいメッセージを
『霊的苦痛を与える存在=悪』として排除していたわけです。

なので、一向に救われる事などないわけです。

なんとも愚かな行為ですよね~w










ただ、経典や真言の力というモノは
確かにあるとそう思っています。


私は、名前から感じるエネルギーを読取り
その人の人となりが解るのですが
経典には、この世の真理について書かれていると
そう感じるわけです。


以前、般若心経を1080回唱えると言う事をした事があります。
約10時間ほど読経し続けるので
喉は潰れ、体力的にヘロヘロになってしまいましたが
唱え終わると、清々しい気持ちになるわけです。
その後も、しばらくは体が軽く
心身の毒素が抜けた感じになりました。

経典の持つエネルギーを心身に纏う為なんでしょうが
まぁ~その行為をした所で、私自身に心の成長がない為
結局は、元の状態に戻り
相変わらず、霊的苦痛は絶えませんでした・・^^;)




ただ思うのは、経典には、この世の真理が書かれているので
そのエネルギーの影響を受け続ける事で
何となくこの世の真理を理解し始めるように感じます。
これは、経典に限らず、神道祝詞も同じだと思っています。

凝りもせず、数万回唱えれば
何だかんだと、色々と学ぶ出来事が起きるようになるのでは?
と、そう思っているわけです。

般若心経一つとっても、ただ意味も解らず唱え続ける事で
この世の理が見えてきます。
これが、経典が持つエネルギーの力なのではないでしょうか?



経典や真言を唱え続けると
苦悩から単に解放される救いではなく
この世の真理に近づく事が出来るので
苦悩から多くを学び、自分自身を成長させる。
従って、その苦悩に感謝する事が出来る訳です。

これが仏教が示す『救い』という事でしょうね。




まぁ~毎日10回般若心経を10年ほど唱え続けると
そこに書いてある、意味がなんとなく解るのでは、ないでしょうか?

この世の真理に近づけば、どんな人でも救われるはずです。


私の場合10年では、何も学べませんでしたが
15年ほどやってみて、なんとなくですが
この世の真理が見え始めたように感じています。


まだまだ、入口が見えてきたくらいですけどね~^^;)