修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

勤行を止める事で貴方は必ず救われる!(宗教団体を退会したくて悩んでいる方へ)

日本全国に様々な宗教的団体が
無数にあるのですが
怖くてその団体を抜けられない・・・
という相談をちょくちょく受けます。
脱会すると言ったら脅された・・
という相談もホント多いですね~


なので、私の体験談を記してみたいと思います。
宗教批判っぽい内容なので
不快に思う人も多いと思いますが
あくまでも、今の私の体験に基づく
価値観に過ぎませんので、ご容赦を。m(_ _)m








昔、霊障がひどくて参っている頃
寺をはしごし霊能者や新興宗教など
様々な所に足を運びました。

そこでよく言われた言葉が
『勤行をするだけで救われる』です。


私が20代の頃、金縛りがひどくて
1ヶ月ほど眠れない事があったのですが
睡眠と食欲は直結しているらしく
体重が50㌔を下回るほど痩せこけてしまいました。

で、助けを求めた新興宗教
言われたのが『勤行をすれば救われる』という言葉です。

実際に勤行をする事で、金縛りがなくなったので
当時の私は奇跡だ!くらいに思って盲信しましたね~w

でもそのうち、勤行を続けていても
また、金縛りになる様になり
その事で言われた事は、『勤行が足らない』という言葉です。

なので、勤行をする時間を増やすようになりました。
勤行をする時間を増やす事で
また、金縛りはなくなるのですが
しばらくすると、同じように金縛りになる・・
で、更に勤行をする時間を延ばす・・・

こんな事を繰り返していると
さすがの私も気づきますよね~

まぁ~そもそも
金縛りになる原因を全く無視してますしね~w
根本的な解決になっていない!と
そう思うようになったわけです。



ひょっとしたら目の前にいる菩薩様は
御仏ではなく魔物ではないのか?
一時的に苦悩を解放し
自らの進化成長を止めて
人々を陥れているのでは?


勤行をする事で救われる⇒
何の努力もせずに自分の思い通りになる
即ち、人を堕落する為の言葉なのででは?

くらいに思えてきたわけです。w



当然、脱会するのですが
脱会するのが超~大変だった事を憶えています。
地獄に落ちるとか罰があたるとか
色々と脅されるのですが
地獄に行ってみたいんです!と言って私やめました。w
まぁ~退会後も色々とあったのですが・・
その後は、新興宗教だけは気を付けなければ!
と、思うようになったわけです。w

入会時は誰しも仏様のようにやさしかったのに
辞める時の幹部の方々は皆さん般若のようでしたね~w

で、その時、思ったわけです。
やっぱ魔物集団だったのか!と・・w

こんな事が蔓延しているので
宗教=怪しい・・という風潮があるんでしょうね~





その後も色々な所に顔を出し
結局、修行三昧の日々が続くのですが
激しく修行したおかげ?なのか?
経典や祝詞には、それなりのパワーが宿っており
それを言葉で唱える事で
自身がまとう邪気が浄化されるのだと
私はそう思うようになりました。



辛い事、嫌な事、が起きている時は
間違いなく自身が邪気を纏っているので
それがなくなれば、一時的に現実が改善されるわけです。
とは言え、その邪気は普段の自己の思いや言動が生み出しているので
そこが変わらない限り、また苦悩に襲われるわけです。

そもそも苦悩とは、自己を成長させる為の自然の仕組みなので
自己の成長無くして、苦悩が改善されるはずもないのです。
勤行をした所で、一時的な改善にしかならないのも当然で
強制的に苦悩を排除すれば
更に大きな苦悩に襲われるのも必然でしょう。

勤行をする事で、目前の現実を改善させる事は
自らが生み出した苦悩の原因を無視する行為となり
せっかくの自分を成長させる機会を無くしている事になります。
精神年齢が幼いまま、肉体年齢のみが高齢になってしまうわけです。

また、勤行をする事に問題があるわけでなく
何の為に勤行をするのか?という所でしょう。
私自身は行者を自称しているので
勤行は、自己を見つめる為、自己の成長の為
また慈愛の精神を学ぶ為に行っています。
宗教的な行為も否定するつもりはありませんし肯定です。

『勤行をすると良い事がある』という動機で
せっせせっせと勤行をしていた頃の自分を振り返ると
何でも願いを叶える呪文を教えてもらった状態で
アニメの世界と現実を混同していたような感じですかね?
まぁ~外見は大人でも
精神年齢が幼児のままだったわけです。w

冷静になって考えれば
どんな苦悩も自らの努力で乗り越えるべきなのですが
その努力の時間を勤行に費やしてしまう・・
もう、どうしようもないアホですよね。w

とは言え、苦悩からの解放手段が見つからないため
なんだかんだと、『救われる』という言葉に流されてしまうわけです。
勤行により現実が若干改善されますしね。
まぁ~楽をして苦悩から解放されればラッキーですからね。
でも、『良い事がある』という動機で勤行をした所で
一時的な解決にならないですし
ただの現実逃避にすぎないわけです。


そもそも、ほとんどの経典には
慈愛について記してあるのに
唱える側が、良い事があるから!
じゃ~おかしいですよね。w
全くもってその事に気づけないのは
人の欲なんでしょう~
強欲であればあるほど気づけないと思います。

脱会の申し出に対して
地獄に落ちるとか、罰が当たるとか・・
慈愛の心の欠片もないですよね。w
相手の気持ちを尊重して受け入れる事が
慈愛の精神じゃないのだろうか?


日本最大の新興宗教団体が
アメリカからカルト集団認定をされているのも
仕方のない事なのかもしれません。




経典や祝詞って結構な力があるんですよね~
特に仏教での法華経は強烈なので
毎日、勤行をする事で
目前の現実が好転する事が結構な確率であると思います。

何でも願いが叶う呪文を手に入れた
子供の用になってしまうのも
仕方のない事かもしれません。

でも、その世界にドップリ浸かってしまうと
勤行を続けた期間に準じて
最悪の出来事が起きるような気がします。
なぜならば、私たちの人生は
自己の心を成長させるためにあり
また、目前の現実はその為に起きるので
苦悩の排除は、自己の成長をストップさせる事と同義だからです。

何度も同じような嫌な出来事を繰り返すのは
そんな仕組みがあるからです。
自からに与えられた苦悩は
自らの力で乗り越えるべきであり
また、初めから乗り越えられる苦悩しか与えられない・・
それを単に排除してしまえば、成長が止まってしまし
幼い精神年齢のままでいる事になる。


苦悩を排除し続けて
よくあるケースが自分や家族の病気です。
癌や半身麻痺などが多いですかね~
精神病になる確率も高いです。
この手の苦悩は結構な人数相談を受けた事があります。
勤行によって手に入れた富が
治療費などで一気に出て行く事になるでしょう。
介護によって自分の時間も失うことになるでしょうね。

勤行よりもっと大切な事を
大自然に教育されるわけです。



私は、己の欲望を満たす為に
勤行をしているのなら、さっさと止めるように
言うのですが、怖くてやめられないと言う返事をよく頂きます。
まぁ~良い事があると信じてやっているわけで
実際にそこそこ煩悩が満たされると
やめると嫌な事があるのでは?と思ってしまうのも
仕方のない事でしょう。

仮に、毎日勤行をする時間を30分とすれば
月間15時間なので
月に一度15時間分の奉仕活動をしてみると
どっちの結果が良いのか?が明確になるので
そうする事をおすすめしています。

某宗教団体信者は10人に1人いるそうなので
日本人の10分の1の人たちが
月に一度15時間、世の中の為に奉仕したならば
素晴らしい国になると思うんですけどね~

逆に多くの国民が
勤行をすれば欲望が満たされると信じて
自らを成長させる努力を怠っていれば
ダメ人間が増え続け、我が国は崩壊するでしょうね。

人間の欲とは、こんな簡単な事も見えなくしてしまうんです。



結論を言いますと
勤行をする動機が、欲望を満たす為であれば
救われるどころか、逆効果だと言う事です。
理由は、自己の成長を止める行為になるからです。
そんな勤行ならさっさと止めた方が幸せになれるでしょう。

地獄に落ちるのは、そんな勤行をしている方でしょうね。
実際にそんな勤行を止める事で
大きく現実が好転している人をたくさん見てきましたし
癌や半身麻痺などの病を患っている人の
統計でも出せば、明確になるじゃないですかね~?

先祖供養はご先祖様を敬愛し感謝する行為であり
苦悩を解放してもらう為にするのではなく
また快楽を満たしてもらう為にするものでもないわけです。
『勤行をする事で救われる』と言う事は
唱える経典に記してある慈愛の精神に近づく事で
幸せになると言う事だと私はそう思っています。

ご先祖様も自分の欲の為に供養する時間があったら
もっともっと他人に尽くす事を願っているはずです。
今を生きている人の方が大切なはずなのに
実際に、そこに目を向けられないから
様々な苦悩に直面する事になるわけですからね~

そもそも、快楽を満たす事が
幸せだと思っている人が多いので
おかしなことになるんでしょう~w

慈愛の精神に近づけば近づくほど幸せになれますし
経典には、そんな内容が記されているわけです。



今、宗教団体を退会したくて
悩んでいる方は、さっさと止めて
自分の足で、自分の未来を切り開く事をおすすめします!

私たちは、それが出来るように創られて
生まれてきていますしね。^^)

他人の価値観を認めて受け入れると、結構楽ちんに過ごす事ができる

人の価値観は人ぞれぞれ皆違う。
そんな事は誰しも知っている事なのに
なかなかそれを認めて受け入れる事は出来ない。

だって、自分と違う価値観を
認めて受け入れると言う事は
自分が我慢しなくちゃいけない事だから・・
そんな事したら、ストレスで気が狂うよ~~~~
と・・・そんな感じで人は争うわけです。w


私自身、ガキの頃からおかしな感覚があり
周りの人と見えているモノが違う事など
薄々知っていたわけですが
どうしても、その事実を受け入れる事が出来ず
長い間、現実を空回りさせながら過ごしたものです。w

自分と他人が見えているモノが違う事を
受入れる事が出来たのは、30過ぎてからですね~

明らかに他人と価値観が違うのは
そのせいだと思うようになり
周りの人たちは、どう感じてどう判断しているのか?
そればかりを観察し、考慮して接する努力をするようになりました。
はじめのウチは
『なんで?』『どうして?』
ばかりでしたね~www

かなり遅い気づきです。^^;)

そして、20年以上一緒に暮らしている妻でさえ
今だに、私の感覚は理解でず
たまにブチ切れしております。w

まぁ~私がついつい言葉以外を
キャッチして会話してしまうので
会話が成立しなかったりする分けです。^^;)

でも私は、この感覚のない相手が
なぜそうなるのか?を理解できるので
昔のように喧嘩になる事はなくなりました。w

他人の価値観を理解する事で
こんなに楽ちんに過ごせるものなんだ!と
つくづく感じるようになったわけです。

要するに相手の価値観を理解する事で
自分の価値観を押し通す事が無理だと気付けるわけです。

相手を自分の思い通りにさせようとすればするほど
どんどんとおかしな方向に行くような仕組みの中で
私たちは、生まれた時から過ごしているんでしょう~ね~



誰しも、自分の思い通りにならなければ
ストレスを溜める事になるのですが
そうは言っても、自分の思い通りにならない原因を
知る事が出来なければ
辛く苦しい現実が永遠に続いてしまいます。
とは言え、自分の思い通りにしたいのが人の性なので
変わるべきは、自分ではなく自分以外であり
常に自分を正しい位置に起きながら
周りを悪として判断してしまう。
他人の価値観など二の次なんです。w

自分に都合のいい部分だけを
切り取って解釈し
自分の都合の悪い部分は
気付かないふりをする・・
誰しもストレスを感じたくないですしね。w

自分自身を悪として落ちて行く人もいますが
それも、過去の経験で悪を生み出した結果
それが自分に返ってきている事が多いでしょうし

人の生とは、なかなか因果なモノですね~











誰しも自らの経験や体験に基づいて
自らの価値観が構築されてゆくものであり
新たなる体験や経験によって
その価値観は常に移り変わって行くものでしょう。

人それぞれ、生まれた環境、育った環境が違う為
経験する事、体験する事が違うものです。
従って、価値観も人それぞれ違うわけです。
尖閣諸島竹島海上保安に従事している人と
全く無関係の人では、憲法改正についての
考え方も違うでしょうし
食べ物の好き嫌いがあるように
様々な物事に好き嫌いがある・・
同じ風景を他人と一緒に見ていても
見え方や感じ方は、人それぞれ違うモノなのです。


そして、この世の中は
慈愛の精神を育むように創られているので
どうしても、他人の価値観を認めて受け入れる必要がある。
それが出来ないだけで、辛く苦しい出来事が
積み重なるように、この世は創られているわけです。


私たちは常に自分以外を理解する事や
自分以外をゆるす事を学ばされる為の出来事を
現実として常に突きつけられているわけですが
善悪の判断基準で思考が働くため
なかなかその事に気づけない・・

相手を理解できれば、ゆるす事は難しくないんですよね~
自分に対して嫌な事をする相手は
そうするだけの体験や経験をしているわけで
また、それをしない為の体験をしていないだけなんです。
とは言え、自分中心に物事を考えるように創られている
私たちは、そんな事など考えようともしないわけです。


今、目前に辛く苦しい現実があるのであれば
その原因となっている相手をどこまで理解しているか?と
自問すると、相手の事を何も知らなかったり
また、自分との違いにイラついているだけだったり
する事がわかります。

自己の正しさを基準として
物事を解釈しているだけに過ぎないので
実は、とっても狭い視野の中で
物事を判断しているんです。

狭い世界で過ごしているから
辛く苦しい事が続くのだけなのですが
自分以外を責め続けてしまう・・

周りの人たちと自分の価値観の違いを
知っているのと知らないのでは
ストレスの溜まり方が大きく違うでしょう。

会社でも経営側と、運営側では
普段の経験や体験が全く違うので争ったりします。
これは、それぞれお互いの立場を主体にしてでしか
現実を見ていないからです。
毎日続けば、かなりのストレスですよね~

『知らない』と言う事は怖いですね~



私の場合、自分が一般の価値観とかなりのズレがあり
社会的不適合者だという自覚があります。
なので、このブログを不快に感じる人も沢山いるはずです。w

私には、余計な感覚があるので
一般論としての善悪が逆転する事が多くあり
昔は、窮屈な毎日を過ごす事しか出来ませんでした。

凶悪犯のニュースを見ても、加害者より
被害者の方が悪人に見える事の方がい多いのです。

凶悪犯と同じ血を背負ったら
私も同じ事をするだろうなぁ~・・とか?
そんな風に思ってしまう事もあります。


良い事、正しい事に拘っている人に限って
ドス黒いエネルギーを纏っている人が多いですし
逆に自分のダメさ加減を素直に認めている人の方が
暖かいエネルギーを纏っている。

そう感じ、そう見えるので
仕方のない事なんですが
そんな風に感じて見える人なんていないですもんね。w







私も人間なので不平不満の感情が生まれたりするのですが
不満を抱く対象に対して、どれくらい理解しているか?と
考えてみると、何も理解していない事に気づきます。w
相手を理解していないのに、不満をぶつけるのは
ちょっと傲慢だったと思うわけですが
その時点で、負の感情が消えているわけです。
当然、負の感情の蓄積が軽減されるので
その先の未来も過ごしやすくなります。

そもそも、相手を理解できれば
不平不満の感情など生まれないのが
この世の仕組みなのでしょう。

誰しも自分本位に生きるような
思考をもって生まれてくるわけで
生きて行く過程で様々な体験をしながら
自分以外を理解するものでしょうね。
従って、生きてきた過程によっては
自分本位なままなで過ごしている人も沢山いるわけです。

ネットの炎上を見れば解るように
相手の価値観など全く無視して
自分の考え方をぶつけまくるのが人というモノです。w

著名人に発言によって傷ついたと訴え
その著名人に謝罪させ
鬼の首でも取ったと言わんばかりの会見を見ると
極めて幼稚な行為だと思ったりします。
だって、どんな言葉も受け取り方自分次第なので
傷つかない受け取り方が出来ないままという事なんですから。

人を傷つける事を悪とするのであれば
人との関わりを絶つしかなくなりますし
死刑宣告と同じだと思ってしまうわけです。
まぁ~これが私の価値観なのですが
でも、些細な事でいがみ合うのが人なんでしょうね。

自分自身の心を磨く経験がなければ
どうしても自分視点でしか物事を解釈できないのは
仕方のない事なのです。
ルールを守らないのは犯罪ですが
他人を思いやらなくても犯罪じゃないですしね。

でも、大自然のルールは
慈愛に反した言動には、苦悩を与えます。
なので発言に対して訴え勝訴した人の未来は
辛く苦しい出来事が待ち受けているわけです。

人間が作った自分たちに都合の良い
社会のルールと自然界のルールは
全く別物ですからね~


社会のルールを守らなければ
私たちの社会はメチャクチャになってしまいますが
大自然のルールを無視していれば
理不尽だと感じる現実ばかりを体験する事になる。

そもそも、理不尽な出来事など
この世の中に存在していないんですけど
自然の法則を無視するから
理不尽だと思ってしまう・・・
これも、理解不足と言う事でしょう~




結局は、体験、経験でしか
理解できない事ばかりなので
言葉や文章だけでは、なかなか伝わらないものなんです。
だから人と人との意見がすれ違う・・・
体験、経験が違うから・・

争いやすれ違いを無くすには
まずは、知る事が大切なんでしょう~ね。

多くを知れば、自分以外の人たちの価値観を理解できる。
自分と違う価値観を理解できれば
なんだかんだと、過ごしやすくなる。

でも、理解できなければ
ルールに従い、相手を責める事になり
負の感情が生み出すエネルギーにより自らが蝕まれてしまう・・


たかだか、周りの人たちの価値観を
理解しようとするか、しないかで
自分の未来が雲泥の差になるんですよね~~




人間、ちょっとした事で
毎日が過ごしやすくなるものだと
私は、そう思っています。^^)

そもそも「いじめ」が無くならないのは、自然の法則だからである・・

「いじめ」について、リクエストを頂きましたので
私の持論をば、記してみたいと思います。
不快に感じる方もいるかも?しれませんが
何卒ご容赦を。m(_ _)m






いじめについての相談もちょくちょく受けます。

いじめられる人の共通点は
他人を理解する心が足らなかったり
また、それが苦手だったりする人が多い感じがします。


私の学生時代にも、「いじめ」は、ありました。

小学校で、いじめにあっていた同級生の事はよく覚えています。
小学校は、まじめに通っていましたからね~w

そのいじめに合っていた同級生は
やたら不潔な女の子で近寄るだけで臭い娘でした。
普段から「寄るな!触るな!近づくな!」と同級生に言われており
汚物扱いされていましたね~
その娘の持ち物を触るだけで、みんな逃げて行きました。
病気になる!と言うのです。
当然、私も普段からその娘を避けるようにしました。
次第にエスカレートして、その娘と仲良くすると
同じ扱いをされるようになり
最終的にクラスで孤立してしまったわけです。

その事でクラス全員が担任に叱られました。
その女の子の父親がクラスに来て
仲良くしてやって欲しいと、頭を下げに来た事を記憶しています。
いじめを無くしたいのであれば
その娘をもっと清潔にしてあげれば良いわけですが
いじめる側が悪なので、子供たちはどうする事も出来ない。

不潔なのはいけない事とするルールはありませんし
臭いのもいけない事とするルールはありません。
従って、不潔で臭い人と仲良く食事をしないといけないわけです。

しかし、仲良くできるわけもないですよね~
不潔な状態は何も変わらないので
言葉で「寄るな!、触るな!」と言わなくなっただけで
結局その女の子には、誰も近づこうともしないまま
転校して行きました。







私は、不登校児だったのですが
それでも過去を振り返ると
結構な人数いじめられてましたね~

やたら正義を掲げて融通の利かない人
極端なナルシストで自分が見えてない人
自分の世界観でしか物事を判断せず、その世界観を押し付ける人
約束事を平気で破り続ける人
良い事をしていると自分に酔っている人
我が強く、強引に何でも自分の思い通りにしようとする人

不登校な私が記憶しているだけでも
こんな人たちがいじめられていました。

私は集団の和にはいれない学生だったので
いじめには無関係でしたが
和に入っていない私を心の友だ!といういじめられっ子もいましたね~
孤立状態が同じなので、親友と言う事らしいのです。
ただでさえ、いじめに合うくらいウザイ人間なので
私自身も心底ウザイと思っていたのですが
そんな人間が、私の気持ちなど汲んでくれるわけもないのです。w
勝手に親友だと言っていましたが
私は、ウザイ!とハッキリ言っていました。
ですが、全く聞く耳を持っていませんでしたね~
そんなんだからイジメにあうんですが・・・

今思えば、私自身も他人の気持ちを汲む事をしなかったので
同類だったんでしょう~ね。^^;)
マジでうざくて仕方なかったのですが
これも、大自然の法則ってやつでしょう・・・w




ルールに囚われるとなかなか気づけない事ですが
大自然の法則には、人がつくったルールなど全く関係なわけです。

従って、いじめられる側は、いじめが始る直前から過去に遡り
色々と周りに不快な思いをさせているわけです。
虫を殺す感覚でいじめをする弱い者いじめもあるとは思いますが
そんないじめは、小学校低学年まででしょうね。

結局は自分が周りに与えた不快感が
いじめという形で自分自身に返ってきている場合が殆どでしょう。
正しいも間違いも全く関係なく
周りに与えた不快感という事実のみが作用しているわけです。

私自身も、クラスの行事には参加せず
気に入らないという理由で、殴ったり蹴ったりとそんな学生だったので
沢山の人たちに不快な思いをさせまくっていました。
同級生、下級生、上級生に限らず、教師や両親、赤の他人と・・・
なので、集団リンチに2度ほどあった事があります。^^;)
一度目で改心すればいいものを
一人じゃ何も出来ないへなちょこどもめ!くらいに思っていたので
二度目は、鉄パイプで頭を割られて重傷でしたね~w

まぁ~私の場合は、自業自得だと理解しているわけなので
いじめに合ったとは、思っていないわけです。
今の時代ならいじめ事件で大問題でしょうね~
でも、私は人生で二度も集団リンチに合っているのですが
いじめられた経験はないとそう思っています。

いじめに合う人も自分自身の不徳のせいだと理解できれば
いじめに合ったとは、思わないのでしょうが
そんな簡単なモノではないでしょう。


通常のいじめに合う人たちは、どうしてこんな目にあうのか?わからないわけです。
そもそも、周りの人たちを理解する事ができなくていじめに合うわけですから
自分が周りに不快な思いをさせているなど微塵も思っていいないわけです。

当然、いじめる側=悪で終わらせてしまうので、どんどんと悪化する場合が多いのです。

また、今の社会はかなり恵まれている影響もあり
必然的に心の弱い人が増え続けているので
その出来事が心を壊してしまい自殺する人も出てきてしまう。
なんとも悲しい事です。

何か問題が起きると、どうしても悪を探してしまうのが
人の性というやつかも?しれません。
いじめる側が悪
いじめを指導できない教師や学校が悪
いじめない教育をしない親が悪
・・・と、悪を無くせば問題が解決すると思い込んでしまうわけです。

「悪」とは、自分に都合が悪い時に生み出されるだけであり
「悪」など何処にも存在しないのがこの世の理であり
我々に慈愛の精神を学ばさせる為に出来事が起きているので
「悪」を消滅させようとすれば、するほど悪化するわけです。




以前、このブログにも記しましたが
人の苦悩は人間関係から生まれるものであり
その苦悩は、人間関係から改善されるわけです。
なぜならば、人間関係の中でしか慈愛の心を育めないからだと
なんとなく、そんな風に思っております。

従って、人間関係の中には常々慈愛の
精神を学ばせる仕組みが存在するわけです。

我々の社会から争いが無くならないのも
「いじめ」という仕組みもその中の一つでしょう。

そもそも、慈愛の対極にある
煩悩を植え付けられているのが人間です。
その煩悩により苦悩を体験し慈愛を学ぶように
この世は創られているわけです。

他人を深く理解しなければ、辛く苦しい現実を突きつけられる・・
自らの欲望を満たす為に他人を傷つける行為を続ければ
その反動が自らに降りかかる・・・
これらの体験をする事により、他人という存在を理解できるようになり
傷つき、傷つけられ、苦悩を味わう事で
少しずつ慈愛の精神を育んで行くのでしょう。

人が集団になれば、必ず人間関係でもめるように
初めからそんな仕組みが存在しているわけです。

10人集まれば、必ず一人が足を引っ張る存在となり
そのひとりを排除した所で、新たな人間関係のトラブルが生まれるはずです。

初めから、自分の思い通りに物事が進まないように
この世の中は創られているのですが、その仕組みがあるおかげで
私たちは物事を深く理解しようとする思考が創られてゆくわけです。


そもそも、慈愛の心を育む為には他人を深く理解する必要があります。
自分の足を引っ張る存在をいくら排除しても
また、同じような人が現れるのは
自分にとって都合が悪い人を深く理解する必要があるからです。

従って、いじめに対して生まれた「悪」を排除しようとする行為は
「いじめ」自体が抱えている問題と全く同じなので
「いじめ」がどんどん増え続けるわけです。



初めからいじめは無くならないのがこの世の理であり
いじめが起きた時点で、他人を理解する事を学べば言いわけです。
いじめが起きる度に、そこに関わった人たちは成長できるでしょう。
そもそも、その為にいじめが起きるわけですからね。

結論を申し上げますと
「いじめ」は、慈愛の精神を学ぶ為に必要だから起きている・・・
「いじめ」は、どうしたってなくならない・・
それが大自然の法則だから。
と言うのが私の考え方です。

人間同士の争いがなくならないのと
同じ仕組みなんでしょうね~







昔、私が修行している寺の住職が
「本当に困ったら人様のモノを盗んだっていい!
後々余裕が出来た時、ちゃんと償へばいいのです。
自分の命より大切なモノなんてどこにもないんですから!」
という話をしてくれた事があります。
極端ですが、自分を殺そうとする相手がいれば
その相手を殺したっていいんです。

今の社会は、ルールや目先の出来事に囚われ過ぎて
人として大切なモノを見失いがちですよね~
私も気を付けなければ・・・^^;)








≪※お知らせ≫
メールの相談が混みあってしまい・・・
私生活がままならなくなってきましたので(^^;)
相談受付をしばらくお休みさせて頂きます。
同じ理由で、このブログのコメント機能も停止させて頂きました。

今後は、一方的な我がままブログとなりますが、何卒ご容赦ください。m(_ _)m