修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

そもそも「いじめ」が無くならないのは、自然の法則だからである・・

「いじめ」について、リクエストを頂きましたので
私の持論をば、記してみたいと思います。
不快に感じる方もいるかも?しれませんが
何卒ご容赦を。m(_ _)m






いじめについての相談もちょくちょく受けます。

いじめられる人の共通点は
他人を理解する心が足らなかったり
また、それが苦手だったりする人が多い感じがします。


私の学生時代にも、「いじめ」は、ありました。

小学校で、いじめにあっていた同級生の事はよく覚えています。
小学校は、まじめに通っていましたからね~w

そのいじめに合っていた同級生は
やたら不潔な女の子で近寄るだけで臭い娘でした。
普段から「寄るな!触るな!近づくな!」と同級生に言われており
汚物扱いされていましたね~
その娘の持ち物を触るだけで、みんな逃げて行きました。
病気になる!と言うのです。
当然、私も普段からその娘を避けるようにしました。
次第にエスカレートして、その娘と仲良くすると
同じ扱いをされるようになり
最終的にクラスで孤立してしまったわけです。

その事でクラス全員が担任に叱られました。
その女の子の父親がクラスに来て
仲良くしてやって欲しいと、頭を下げに来た事を記憶しています。
いじめを無くしたいのであれば
その娘をもっと清潔にしてあげれば良いわけですが
いじめる側が悪なので、子供たちはどうする事も出来ない。

不潔なのはいけない事とするルールはありませんし
臭いのもいけない事とするルールはありません。
従って、不潔で臭い人と仲良く食事をしないといけないわけです。

しかし、仲良くできるわけもないですよね~
不潔な状態は何も変わらないので
言葉で「寄るな!、触るな!」と言わなくなっただけで
結局その女の子には、誰も近づこうともしないまま
転校して行きました。







私は、不登校児だったのですが
それでも過去を振り返ると
結構な人数いじめられてましたね~

やたら正義を掲げて融通の利かない人
極端なナルシストで自分が見えてない人
自分の世界観でしか物事を判断せず、その世界観を押し付ける人
約束事を平気で破り続ける人
良い事をしていると自分に酔っている人
我が強く、強引に何でも自分の思い通りにしようとする人

不登校な私が記憶しているだけでも
こんな人たちがいじめられていました。

私は集団の和にはいれない学生だったので
いじめには無関係でしたが
和に入っていない私を心の友だ!といういじめられっ子もいましたね~
孤立状態が同じなので、親友と言う事らしいのです。
ただでさえ、いじめに合うくらいウザイ人間なので
私自身も心底ウザイと思っていたのですが
そんな人間が、私の気持ちなど汲んでくれるわけもないのです。w
勝手に親友だと言っていましたが
私は、ウザイ!とハッキリ言っていました。
ですが、全く聞く耳を持っていませんでしたね~
そんなんだからイジメにあうんですが・・・

今思えば、私自身も他人の気持ちを汲む事をしなかったので
同類だったんでしょう~ね。^^;)
マジでうざくて仕方なかったのですが
これも、大自然の法則ってやつでしょう・・・w




ルールに囚われるとなかなか気づけない事ですが
大自然の法則には、人がつくったルールなど全く関係なわけです。

従って、いじめられる側は、いじめが始る直前から過去に遡り
色々と周りに不快な思いをさせているわけです。
虫を殺す感覚でいじめをする弱い者いじめもあるとは思いますが
そんないじめは、小学校低学年まででしょうね。

結局は自分が周りに与えた不快感が
いじめという形で自分自身に返ってきている場合が殆どでしょう。
正しいも間違いも全く関係なく
周りに与えた不快感という事実のみが作用しているわけです。

私自身も、クラスの行事には参加せず
気に入らないという理由で、殴ったり蹴ったりとそんな学生だったので
沢山の人たちに不快な思いをさせまくっていました。
同級生、下級生、上級生に限らず、教師や両親、赤の他人と・・・
なので、集団リンチに2度ほどあった事があります。^^;)
一度目で改心すればいいものを
一人じゃ何も出来ないへなちょこどもめ!くらいに思っていたので
二度目は、鉄パイプで頭を割られて重傷でしたね~w

まぁ~私の場合は、自業自得だと理解しているわけなので
いじめに合ったとは、思っていないわけです。
今の時代ならいじめ事件で大問題でしょうね~
でも、私は人生で二度も集団リンチに合っているのですが
いじめられた経験はないとそう思っています。

いじめに合う人も自分自身の不徳のせいだと理解できれば
いじめに合ったとは、思わないのでしょうが
そんな簡単なモノではないでしょう。


通常のいじめに合う人たちは、どうしてこんな目にあうのか?わからないわけです。
そもそも、周りの人たちを理解する事ができなくていじめに合うわけですから
自分が周りに不快な思いをさせているなど微塵も思っていいないわけです。

当然、いじめる側=悪で終わらせてしまうので、どんどんと悪化する場合が多いのです。

また、今の社会はかなり恵まれている影響もあり
必然的に心の弱い人が増え続けているので
その出来事が心を壊してしまい自殺する人も出てきてしまう。
なんとも悲しい事です。

何か問題が起きると、どうしても悪を探してしまうのが
人の性というやつかも?しれません。
いじめる側が悪
いじめを指導できない教師や学校が悪
いじめない教育をしない親が悪
・・・と、悪を無くせば問題が解決すると思い込んでしまうわけです。

「悪」とは、自分に都合が悪い時に生み出されるだけであり
「悪」など何処にも存在しないのがこの世の理であり
我々に慈愛の精神を学ばさせる為に出来事が起きているので
「悪」を消滅させようとすれば、するほど悪化するわけです。




以前、このブログにも記しましたが
人の苦悩は人間関係から生まれるものであり
その苦悩は、人間関係から改善されるわけです。
なぜならば、人間関係の中でしか慈愛の心を育めないからだと
なんとなく、そんな風に思っております。

従って、人間関係の中には常々慈愛の
精神を学ばせる仕組みが存在するわけです。

我々の社会から争いが無くならないのも
「いじめ」という仕組みもその中の一つでしょう。

そもそも、慈愛の対極にある
煩悩を植え付けられているのが人間です。
その煩悩により苦悩を体験し慈愛を学ぶように
この世は創られているわけです。

他人を深く理解しなければ、辛く苦しい現実を突きつけられる・・
自らの欲望を満たす為に他人を傷つける行為を続ければ
その反動が自らに降りかかる・・・
これらの体験をする事により、他人という存在を理解できるようになり
傷つき、傷つけられ、苦悩を味わう事で
少しずつ慈愛の精神を育んで行くのでしょう。

人が集団になれば、必ず人間関係でもめるように
初めからそんな仕組みが存在しているわけです。

10人集まれば、必ず一人が足を引っ張る存在となり
そのひとりを排除した所で、新たな人間関係のトラブルが生まれるはずです。

初めから、自分の思い通りに物事が進まないように
この世の中は創られているのですが、その仕組みがあるおかげで
私たちは物事を深く理解しようとする思考が創られてゆくわけです。


そもそも、慈愛の心を育む為には他人を深く理解する必要があります。
自分の足を引っ張る存在をいくら排除しても
また、同じような人が現れるのは
自分にとって都合が悪い人を深く理解する必要があるからです。

従って、いじめに対して生まれた「悪」を排除しようとする行為は
「いじめ」自体が抱えている問題と全く同じなので
「いじめ」がどんどん増え続けるわけです。



初めからいじめは無くならないのがこの世の理であり
いじめが起きた時点で、他人を理解する事を学べば言いわけです。
いじめが起きる度に、そこに関わった人たちは成長できるでしょう。
そもそも、その為にいじめが起きるわけですからね。

結論を申し上げますと
「いじめ」は、慈愛の精神を学ぶ為に必要だから起きている・・・
「いじめ」は、どうしたってなくならない・・
それが大自然の法則だから。
と言うのが私の考え方です。

人間同士の争いがなくならないのと
同じ仕組みなんでしょうね~







昔、私が修行している寺の住職が
「本当に困ったら人様のモノを盗んだっていい!
後々余裕が出来た時、ちゃんと償へばいいのです。
自分の命より大切なモノなんてどこにもないんですから!」
という話をしてくれた事があります。
極端ですが、自分を殺そうとする相手がいれば
その相手を殺したっていいんです。

今の社会は、ルールや目先の出来事に囚われ過ぎて
人として大切なモノを見失いがちですよね~
私も気を付けなければ・・・^^;)








≪※お知らせ≫
メールの相談が混みあってしまい・・・
私生活がままならなくなってきましたので(^^;)
相談受付をしばらくお休みさせて頂きます。
同じ理由で、このブログのコメント機能も停止させて頂きました。

今後は、一方的な我がままブログとなりますが、何卒ご容赦ください。m(_ _)m