修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

否定批判や怒りの感情を抱き続けると悪を生み出さずにはいられなくなる・・

誰しも怒りや否定批判の感情を産み出すように創られている・・
逆にその感情がない人などいないでしょう。

我々が慈愛の精神を育む為に必要不可欠な感情なのでしょうね。

ゆるす事を学ぶ為には、どうしてもゆるせない出来事が必要であり
慈愛と相対的な、感情を持ちながら私たちは生まれてくるわけです。

ただし、その相対的な感情に溺れると
自らは朽ち果てて行く・・・
それが大自然の法則だとも思います。



私たちは、生まれた時から
過ちを犯し続けながら生きる事になります。
それが人生というモノでしょう。

自分の幼少時代を思い出せば
誰しも、自分勝手な考え方で
怒ったり、泣いたり、わめいたりしてきたと思います。

何事にも経験が浅いので仕方のない事なのです。
経験や体験があって初めて理解できる事ばかりですからね~

従って、過ちを犯し続ける事で学び
過ちの中で成長するのが人生だと言っても過言ではないでしょう。
学ぶ機会がなければ、誰でも自分勝手になるモノなので
学ぶ姿勢が人生で最も重要な事なんでしょう~

ありがたい事に、自分勝手に生き続ければ、大自然が教えてくれます。
苦悩と言う体験の中で、学ぶ事になりますが・・^^;)
苦悩と共に朽ち果ててしまう事もありますが
それは、自分自身の成長を放棄した時になる現象です。
自分自身を常に正しいと位置づけした時にしかなりません。

慈愛の精神を学ぶ為に我々は生まれてきているので
常に学び続けるという、その過程を放棄すれば
残念ながら生きている必要はないわけです。
ただ、そうなる前に大自然は、何度も何度も毎日繰り返し
私たちにメッセージを送っている事を知る必要があるでしょう~



怒りや否定批判の感情は、出来事に対しての
理解不足から生まれるものだと思っています。
自分以外を理解しようと努力しないが為に
そんな感情に蝕まれるのが、人間という生き物なのでしょう。

経験がない為に、ルールを破る
経験がない為に、自分本位になる
経験がない為に、他人の過ちを責める

過ちを犯し続けるのが人生なので
本来、誰一人、責めていい人など存在せず
誰一人、怒りを向けていい人など存在しない。
これが我々が暮らす世界の理なのですが
人間社会のルールがそれを見えなくしています。


ようするに、人間ルールに囚われた狭い世界しか見ようとせず
狭い世界で物事を見聞きしているが為に
経験が不足し、怒りや否定批判の感情を産み出していると言う事です。
どれだけ年齢を重ねても、経験から学ばなければ
同じ事を繰り返してしまいます。

同じような嫌な出来事が何度も繰り返すのは
学ぶ経験を与えられているからです。
しかしながら、その出来事で学ばなければ
心身が蝕まれてゆく・・
繰り返すその嫌な出来事も、どんどん大きくなる・・


怒りや否定批判、憎しみの感情抱き続ける事は
ただ単に、心が幼いだけなのでしょう。
我々の社会では、一流大学を出て一流企業に就職できれば
立派な大人と言う事になりますが
それは、あくまでも人間が創ったルールの中での事であり
大自然のルールからすれば、全く関係のない事なのです。
自らがどれだけ慈愛の精神を育む事ができるか?が人生の課題であり
そこから遠い精神状態であれば、未熟で幼い心のままだと言う事になります。


他人の過ちに怒りを向ける・・
これは、ただただ慈愛の精神が生まれていない状態なのでしょう。
誰しもが過ちを犯しながら生きている事を
見ようとしないだけなのです。
そんな考え方をしていれば、自分の快楽は満たされませんから
煩悩に囚われている性からすれば仕方のないことなのかもしれません。

自分の過ちに対して、自分を責める必要もないでしょう。
だって、だれしも過ちを犯し続けて生きるしかないのですから・・^^)











前置きが長くなりすぎました・・・^^;)





否定批判の感情や怒りの感情は
抱く度に邪気を産み出します。
その邪気は血肉に刻まれ続けて行きますが
慈愛の感情が生み出すエネルギーにより相殺されます。

ただ、人は過ちを繰り返す仕組みの中にいるので
そうそうこの邪気を相殺できないわけです。


年齢を重ねる度に増え続けますし
自然環境が減ってきた現代社会では
尚更、増幅し続けています。



怒りや否定批判の感情が生み出す
エネルギーは、同調するエネルギーを探し続けますし
それを産み出すような仕組みがあるので
増幅し続けて行きます。
(その逆もしかり・・)

イライラしている人が近くにいるだけで
自分自身もムカムカしてくるのは
他人の邪気に同調しているからです。
(HAPPYな人の近くにいるなんだか楽しくなります。)




このエネルギーを溜め込んでしまうと
否定批判する矛先がないと正常でいられなくなります。
どこかに『悪』がないか?と・・そればかり探してしまいます。

要するに自分に都合の悪い存在を見つけ出し
自分を正当化した上で、その相手を攻撃しないといられなくなるんです。

悪を正す事が人生そのものだ!なんて言い出す人は
すでに、その状態に陥っているでしょう。
悪がないと生きられないわけですからね~

『ゆるせない!』という感情が常にくすぶっているので
ゆせない出来事に対して常にアンテナを張り巡らせて過ごす事になります。
報道での政治批判やネットでのマスコミ批判などは
とても美味しい食事になります。
悪を見つけ出す事で、自分を正しい位置づけにし
やっと自分を保てるわけです。

あくまでも、悪を探して攻撃する事が目的なので
相手が謝罪した所で、その感情は治まりません。
ただただ、次の悪を探し求める事になります。

自分は正しく良い事をしていると・・
善人になったような気持ちになるわけです。
他人から認められたいという
強い欲望がその言動の根底にあります。

誰からも認められない虐げられた現実がそうさせているのですが
そんな現実を受け入れる事が出来ないが為に
悪を生み出し続けているわけです。

そもそも正義や悪など一方的な自分都合の解釈なんですが
自分自身の煩悩がそんな事さえ見えなくなってしまうのです。


周りを理解する事をせず、ただただ求めた結果が引き起こす
自らを崩壊へ導く呪縛・・・のようなものですかね?
怒りの感情は、強く求めなければ生まれませんが
自分が何かを求めているなんて思う事も出来ないはずです。


一度、この状態に陥ってしまうと
極度の苦悩を味合わないと気づけなくなります。
悪を生み出し攻撃した相手の痛みと同等以上の苦悩が襲ってきます。
理解不足に対しての代償を支払う事になるわけです。


ただ、その予備軍の状態であれば、なんとか軌道修正できます。

①他人の悪い所ばかり目につき、良い所を探せない。
②他人の過ちを正したくなる。

まだ、これくらいならまだ軌道修正できるので
怒りの感情を抱いた時、目先の現実に囚われず、なぜ?こうなったか?
どうすれば良いのか?自分に何か出来る事はないか?
と、考える癖をつけると回避できるはずです。
怒りの感情を抱く事は、正常な人間の証なので
それ自体は、気にしなくて大丈夫です。



③自分を否定批判する相手を攻撃したくなる。
④他人や自分の過ちをゆるせない。
⑤怒りの感情を抱くと眠れなくなる。
⑥間違いを正さないと苦しくなる。

この状態まで行くと、すでに悪を探している状態でしょう。
長い間、朝の爽快な寝覚めに縁がないはずです。
残念ながら、すでに極度の苦悩が待ち受けているはずです。

しかし、それを回避する方法があります!^^)

徳を積み続ける事で回避できます。
自らの時間とお金を犠牲にして、ボランティアでもし続ける事で
自分自身の不徳が相殺されてゆきます。

まずは、価値観を変える事が先なので、それが出来ない間は何も変わりませんが
価値観が変る事で、自らの未来が大きく変わり初めて徳を積む事が出来ます。
簡単に出来る事ではないですけどね~・・^^;)


まぁ~極度の苦悩を味わった方が早く前進できるかもしれません。




とりあえず、流行り病のように
悪を生み出す循環が増えてきているのでご注意を!

精神を病んでいる方との接し方

現代社会において
10人に1人が精神病だと言われておりますが
この先、まだまだ増えるでしょう~ね~
なんとなくそんな気がしております。


私は、普段から精神病患者と言われる方々と接する事が多いので
精神を患う仕組みが、なんとなく解ります。
まぁ~解るだけで、たいした事はできないんですけどね~(^^;)

病を克服するのは、本人次第ですしね~
ただ、寄り添う事くらいは誰にでもできると思っています。


私の所に相談に来る方々の多くは
家族の方と一緒にいらっしゃいます。
どちらかと言うと家族の方々がほとほと困り果てているわけです。
どうすれば良いのか?わからなくなり相談にみえるのですが
私が、毎度毎度話をする内容を
少しばかり記しておこうと思います。










まず、精神病は、大量の負のエネルギーに
心身が蝕まれている状態だと思っています。
何をもって病気とするか?という所になりますが
個人的には病気ではないと解釈をしています。

自身が生み出す負の感情がなくなれば
誰でも改善して行きますし
実際に改善された方も多くいらっしゃいます。


では、なぜ?負のエネルギーを生み出してしまうのか?
これには、色々な起因があるのですが
自分以外を理解しようとしない為でしょう。
出来事から学ぶ事をせず、ただただ排除してきた結果であり
出来事に対しての『理解不足』に尽きると思っています。


ただ、ひたすら求め続けても
失うばかりと言うのが、この世の仕組みなので
求めてばかりいると、思い通りにならない現実がばかりになり
気付けば、怒りや不平不満がばかりが生まれてします。

この怒りや不平不満が負のエネルギーなので
生み出し続ければ、心身が蝕まれ
自分自身を見失ってしまうわけです。


他に尽くし、常に感謝する事が出来れば
改善できるのですが
そのそも、求めても手に入らない現実に対して
感謝など出来るわけがないのです。
根本に強く求める心がある為に
他に尽くすなどという発想も生まれないでしょう。


とは言え、そこを改善しない限り
なんともならないのが精神病だと思っています。






ならば、どうすれば良いのか???





精神を病んでいる人は
他人の負のエネルギーにとても敏感です。
無意識に他人の気持ちを逆なでる言動をしているので
関わりたくないと思うのが正常な人の思考です。
家族さえ、関わりたくないと思わせてしまうほどです。

なので、本人はとても孤独なのです。
『誰も自分を理解してくれない。』
『自分は、何も悪い事などしていないのに・・』
などと、常々思っている方が多いはずです。
他人を理解しようとしてこなかったので当然の結果なのですが
自分が見えなくなっているので
それすら気づかないわけです。


また、求めるだけでは失い続けるこの世界で
常日頃からただただ求めているので
怒りや、不平不満が多くなり
その負のエネルギーを吐き出す場所を無意識に探しています。
意識できない事なので、本人は全く気づけませんが
常に不平不満をぶつける対象が必要なのです。

常に怒りをぶつけるターゲットを探してしまうわけです。


自分の思い通りにならない事に対して
自分を正しい場所に置き、誰か何かを
常に否定批判しなければならなくなります。

この行為は、自分を認め受け入れて欲しいという
求める心にも同調しているので
同時に自分の正しさを証明する一方通行の価値観を
周りに押し付け、負の悪循環を大きくしてしまいます。



まぁ~往々にして
怒りや否定批判など、そんなモノなんですけどね~
嫌な出来事でも、それらを理解し学ぶ事が出来れば
誰でも受け入れ、成長に出来るのですが
嫌な出来事を深く考えず拒絶するのも人の性でしょう。


ただ、求め続けると誰でもその悪循環にはまります。
常々誰か何かを否定批判していないといられない状態が続くと
自分が生み出し続けた負のエネルギーに
心身が蝕まれてしまうわけです。


心身が蝕まれてしまうと
正常なコミニュケーションが取れなくなります。

常に自分は正しく
間違っているのは自分以外なので
過ちを指摘すると逆切れされるでしょう。
そもそも、過ちを受け入れる事が出来ないが為に
病んでいるわけですしね。






なので
①まずはその状態を理解してあげる事が大切だと思います。


そもそも、自分が精神を病んでいる方と縁があると言う事は
自分自身も『他人を理解する』という行為が欠如しているからなので
良い機会だと考えるといいんじゃないですかね~

私なんかは、長年相談ボランティアをしているので
欠如どころじゃなく喪失していたんだと思ってます。w
お陰様で、常々至らぬ己を発見させて頂いているのですが
自分はこんなにもダメダメだったのか~と思いながらも
それはそれとして、成長できる事が楽しかったりもします。w


私は精神を患っている方々は
神々を憑依している状態だと思っているので
そもそも、人間ルールの正しい事、間違った事など通用しないと思っています。
なので、まずは相手を理解する事です。
理解した上で、自分が何をできるか?を考えるわけです。



精神を患った起因や症状は様々なのですが
基本的に強く求めてしまうが為に起きる現象だと思っています。
ただし、求め続ければ、失い続けるのがこの世の仕組みですからね~

従って、理解してあげる事ができたなら
次にする事は
②認めてあげて、与えてあげて、強く求める行為を和らげてあげる事です。

そもそも、精神を患ってしまうと
人の気持ちを逆なでする言動をする事が多いので
何を、どう認めれば良いのか?どう受け入れれば良いのか?と
そう思ってしまうでしょう。
なので、自分に出来る事は何があるのか?
という視点で深く深く考えてみる必要があります。

自分が同じ状態なら何をしてもらえると嬉しいのか?考えてみるのです。
何をしても他人から否定され
自分の過ちを受け入れることが出来ず、常に周りから拒絶され続けたなら・・
自分なら、どうして欲しいだろうか?と、考え行動に移す必要があります。

それらを言動に移す為に必要な事が『相手を理解する事』なので
よくよく言動を観察し、深く理解してあげる事です。
暴言を吐かれたりする時は、自分の負の感情に反応していると理解できるはずです。


人間ルールの正しさをぶつけると更に壊れてしまう事が多いので要注意です。
出来事は常に自業自得なのですが、それでも手を差し伸べる事をしなければ
負の循環から抜け出す事ができないでしょう。
そもそも、すでに正常な精神状態ではないわけなので
コミュニケーションが取れないのです。
自分と同じ視点で相手を見ていても、何一つ気づく事はできないはずです。

上辺だけで与える行為をした所で逆効果ですしね~
そもそも相手は神様なので、自分自身を成長させる為の
きっかけを与えられていると、そう考えると良いはずです。

一番大切なのは、自分が病んでいる方の幸せを深く願えるか?
と言う点であり、病気を治す=相手を変える事ではないのです。
何度も言いますが、相手は神様なんで
相手に与え尽くす行為を学ばされていると思ってください。
自分自身が変われば、相手も自然に変わる事を証明してくれるはずです。


考え方のポイントは、人間ルールに囚われず慈愛の精神を学ぶ事なので
我々に都合の良い善悪の判断はなくし
快楽と幸せは、別物だと言う事を念頭に置く事でしょう。


これがなかなか難しいのですが・・^^;)

でも、自分自身が学ぶべき必要のある出来事だと考えて
何を認め、何を与えられるのか、しっかりと考えて行動してみてください。

自分自身の価値観が少しでも変わる事が出来れば
きっと、自身の現実も同時に改善するはずです。



あとは
③寄り添う事です。

そもそも、精神を患っている方は
関わり合いたくないと思うような言動が多いので
ついつい避けてしまいますが
本人にとっては、常に自分が正しいので
自分を避ける相手は、『悪』としてしています。
『やっぱりお前もか!』という感じです・・・・

なので、常に寄り添う立ち位置でいる事を続ける事で
そのうち、心を開いてくれるはずです。
状態によっては、かなり時間がかかりますけどね~


私も、人間なので
面倒だなぁ~とか
マジ疲れるなぁ~なんて思う事もありますがw
でも、ああ~この気持ちは、相手の幸せを願っていない証だ!と
自分を戒めています。


そうする事で、自分自身の至らなさを実感し
また、同時に成長していく過程に対し、幸せを感じたりしています。^^)




心が病んでいる人との接し方2 - 修行バカの懺悔道

この世には善も悪もないとは?

昔、私が激しく修行に励んでいた頃
『この世には善も悪もない!』
そう言われても、なんのこっちゃ?
と、思うくらいで
全くその意味が解りませんでした。

ですが、善悪の判断に囚われてしまうだけで
人は、辛く苦しい人生を歩む事になるのだと
そう思うようになり
なかなかどおして、この世の仕組みは
奥が深いモノだとそう感じております。

実際、辛く苦しい現実に悩んでいる方々の
殆どが、自分自身で『悪』を生み出していますね~


ここに何度も記しているように
往々にして、良い事とは
ただ単に自分にとって都合の良い事なんだと
つくづくそう思ったりもします。






良い事、悪い事
正しい事、間違った事・・
と言った判断は
我々の社会で秩序を保つためには
必要不可欠な判断基準だと思います。

ただ、大自然の仕組みの中では
そんな判断とは無関係に
様々な出来事が起きていると言う事です。

この世の中に善悪など存在していない中で
我々の過ごす、社会のルールとして存在しているに過ぎない。
と、言う事です。

いくら社会のルール上で正しい事、良い事をし続けたとしても
幸せになれるわけでもないのが、この世なんでしょう。








物事を深く深く理解しようとすると
この『善も悪もない』という事が良く理解できるのですが
上辺だけの出来事のみで、判断して過ごしていると
善悪の判断に囚われて、辛く苦しい出来事ばかり起きるはずです。

なぜならば、我々は慈愛の心を育む仕組みの中で
生活しているからです。

自らの正しさをただ主張して他人に向ける事は
自分以外を理解し、尽くす事に反しているので
慈愛の心を育む行為を怠っていると
大自然に判断されてしまうわけです。

大自然にNGを出されてしまうと
辛く苦しい出来事が起きる・・

人の思考は、苦悩から逃れようとするように創られており
苦しめば、苦しむほど、その原因を追究しようとします。
その行為の繰り返しの中で、どんな人も成長できるのでしょうね。


また、出来事は人が生み出すエネルギーの影響を
強く受けながら起きているので
自分自身の思いや言動の動機によって
未来は大きく変わります。

常日頃から、何をどう思い生活しているか?
朝起きてから寝るまでの生活態度が
自分自身の未来を創り上げているわけです。


すなわち善悪に囚われ過ぎて
正しい事に気を取られると
『悪』とされる出来事をただただ排除しようとする
だけで、終わってしまいます。

『悪』=排除という思考が
自分に都合の悪い事が『悪』という事実に蓋をしてしまうわけです。
そして、自分で生み出した『悪』に対するエネルギーは
自らをどんどんと苦しめて行きます。


なかなか、自分や他人の言動の動機など
考えない人が多いですが
ここに着目するだけで普段の生活が大きく楽になるんですよね~









例えば、困っている人に手を差し伸べる行為は
一般的には、『良い事』とされています。
それは、『愛だ!』なんて言う人もいるのですが
私からすれば、その行為に対しての動機がどこにあるのか?
が、最も重要なわけです。

困っている人に対して
何も考えずに手を差し伸べる事は
私は、ただの驕りだとそう考えます。
『自分は良い事をした!』と、そう思いたい場合が殆どでしょう。

本当に、相手の事を思いやる心があるのであれば
なぜ困っているのか?が気になるはずですし
そのなかで、何を手助けをする事が
本人にとって本当に重要なのか?を考える必要があります。

逆に突き放す事で、本人が自分の過ちに気づく事が出来れば
その人にとっては、素晴らしい未来を迎える事が出来るでしょう。

困っている人をつき放つ事が『幸せに近づく』となる出来事に対して
手を差し伸べてしまえば、その行為は
『不幸を繰り返す』事になってしまうわけです。

自分自身が出来事をどう解釈するか?で
善悪など、いくらでもひっくり返るわけで
それが、この世の仕組みであり
善悪など存在していないと言う事です。


なので、悪をただ排除するだけで
その意味を深く理解しようとしない行為は
自らの成長の妨げとなり
自らの精神を常に成長させようとする
大自然の法則からすれば
NG的行為となるわけです。



『悪霊』『因縁』『障り』『祟り』
と言うような、如何わしい出来事も同じです。
『神』と『悪魔』という存在も同じです。

私自身、悪霊こそ神の使いであり
神こそが、悪魔そのものだ!と
まずは、そう思うようにしています。w

自らを苦しめる存在こそが
自らを鍛え上げてくれる師であり
最も大切にするべき存在だと思う事で
実際に自分が成長できた経験をしてますし
その方が、楽しく生きられるんで・・w

実際にそう考えながら日々を過ごすだけで
私自身の至らない所をたくさん見つける事ができましたし
自らの至らなさを見つける事で
目前の現実は大きく改善されて行きました。


この経験から
『この世には善も悪もないのだ!』と
気付く事ができたのですが
一般的な『悪』から学ぶ姿勢がなければ
そうは、思えないでしょうね。


従って・・
『善も悪もないなどと思えない』=『出来事から学ぶ姿勢がない』
と言う事になり
目前の現実は、嫌な出来事ばかりとなるはずです。


逆を言えば
『悪』とされる事から学ぶ事さえ出来れば
辛く苦しい出来事から解放される事になるわけです。



結局は、どこまで深く理解しようとする姿勢があるか?
だけの事なんですけど
多くを求めながら過ごしている以上
そう思える事などないでしょう~ね~

求めながら過ごしていると
自分にメリットのあるモノだけしか
理解しようとしないので
与えようとしない限りは
ほんの少ししか理解できないはずです。


正しさが『悪』を生み
『悪』が、正しさを生む・・
突き詰めれば、この世の中は
善も悪もないという所に
行きつくようになっているのでしょう。

自分の中で『悪』さえ生み出さなければ
日々の生活が穏やかになるのも
『ゆるす事』は、人生の中で学ぶべき大きなものなんだと
そう感じたりします。


至らない己を知れば知るほど
ゆるす心は広がり続け
たった、それだけの事だけで
深い幸せを感じるものです。


私は、善悪の判断に囚われている以上
快楽を満たす事は出来ても
幸せになる事など出来ないのだとそう思っています。


目前に起きる出来事は
全て自己の成長の為にある!
そう思う事が出来れば
善も悪も自分の目の前から消えてなくなるんですよね~

(^^)