修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

ルールとは、自分たちに都合よく作られるもの・・

誰しも、自分に都合の悪いルールに縛られるのは嫌なものです。
私も、嫌です。w

しかし、集団生活においてルールを設けなければ
秩序が保てない・・・

何が正しくて、何が間違っているか?を定める事で
秩序を保ち過ごしやすい社会を創造する・・

では、秩序を保つ言う事とは?
過ごしやすい社会とは?
どう言った事なのだろうか?

まぁ~簡単に言えば争いを無くす事でしょう。
苦悩のない社会ってのもありますね~
社会を発展させる・・と言うのもありますが
人々がもっと贅沢に暮らせる社会の追求だったりして・・w


そして、誰しもが思う・・
争いなどない方がいい・・と。
苦しみなどない方がいい・・と。
もっと贅沢な暮らしがしたい・・と。w
だから、ルールに従うのでしょうね。




しかし、ルールに囚われてしまうと
人生を破滅に追い込む事もあるわけです。
正義を貫き通し
間違いや悪をゆるさない生き方が
自らをどんどんと苦悩の淵へ追いやってしまいます。

その理由は簡単な事で
善も悪もこの世に存在していないからです。

ルールを守らない=悪
ではなくて
ルールを守らない=私たちにとって不都合
と言う事なんでしょう。


常に正しく生きて来たのに・・・
誰にも迷惑をかけた事はないのに・・・
どうしてこんな酷い目にあうのだろう?
と、いう相談を受ける事が良くあります。

これは、ルールに囚われてしまった典型的な例だと
私はそう思っています。


正しい事は、自分にとって好都合な事でしかなく
誰しも周りに迷惑をかけながら生きているのですが
正しい自分という思いが、その事実を見えなくしてしまう・・

要するに、常に周りに迷惑をかけながら過ごしている私たちは
常に、周りに気遣い、気を配り、尽くしながら生きて行かなければ
確実に嫌な出来事に苛まれるわけです。

正しい事に拘ってしまうと
誰しも、この苦悩の渦に囚われてしまうのが
自然の法則なんでしょう。




大自然の法則には、善も悪もなく
我々にただひたすら慈愛の精神を育ませようとしていると感じています。
目前に起きる、全ての出来事がその為にあるような気がしてならないのです。

人類の歴史を振り返れば争いが繰り返されているわけですが
争う事で、慈愛の精神を学ぶ事が出来るからだとも思います。
ゆるす心を学ぶ為には、どうしてもゆるせない出来事が必要であり
慈愛の精神を学ぶ為に我々は
利己的に生きる本能を植え付けられ
どうしても他人と争ってしまうわけです。


従って、いくらルールを作りそれを守って過ごした所で
人は争い続けるのも自然の法則でしょう。

世界が平和になればなるほど
人は堕落して行くのも自然の法則だと思います。

なので、堕落せずに平和を目指す
仕組みが必要なんでしょう~ね。



争いの原因となる事象に対してルールを設けて悉くつぶして行くと
どんな人も、慈愛の精神を学ぶきっかけを失う事になるのでは?
と、そんな事を思ったりします。


実際に相談に見える方々に
『今までの人生の中で、どれだけ他人や社会に尽くして来ましたか?』
とお伺いすると
『そんな事、考えた事もなかった!』
と、殆どの人がそう答えます。

まぁ~実際に他人や社会に尽くす言動が足らない為に
辛く苦しい出来事が起きるので仕方のない事なんですが
ルールに縛られた我々は、どうしてもルールさえ守っていれば
幸せになれると勘違いしてしまうわけです。

そんな教育を受けて育ってきていますからね~





先日、私が顧問をしている会社の会議で
『働く』とは?どういう事なんでしょうか?
と言う質問を受けました。

道を作る人、自動車を作る人、家を作る人
食べ物を作る人、電気を作る人・・などなど
それぞれの人が社会の役割を担い貢献する事が
働く事なのですが

働く=生活費を稼ぐ
くらいに思っている人が多いわけです。


日々の暮らしをもっと贅沢にしようと
毎日必死に働いている人と
日々の暮らしに感謝し、社会に恩返ししようと
毎日一生懸命働いている人では
どちらが幸せなのか?
ちょっと考えれば解る事なのですが
常に多くを求め、己を振り返るという習慣を忘れ去ったが為に
なかなか気づけないのです。


与えなければ手に入らない自然の法則があるので
いくらせっせと働いても
その行動が利己的なモノであれば
自らへの苦悩を育てているに過ぎないのですが
なかなかどおして、与えて得る体験をしない限り
そんな事を言われても理解できないでしょう。






また、ルールに囚われると
過ちを許せなくなります。

そもそも正しい事とは自分に都合の良い事なので
常に自分都合の解釈に拍車がかかってしまうわけです。

他人の過ちをゆるせない為に
自分にも厳しい~なんてよく耳にしますが
結局、これも自分都合の解釈なんです。
他人をゆるせないから
自分もゆるせない・・
単にゆるす心が欠如しているだけなんです。w

何一つ、自分に厳しいわけではなく
常に自分に言い訳ばかりしている人が多いですしね~w
(私もその一人ですが・・w)
そもそも、本当に自分に厳しい人は
自分の至らなさをよく知っているので
他人に厳しくする事なんて出来るはずがないんです。

正しさ(自分都合)にこだわるから
自分都合解釈を積み上げてしまう・・・

ゆする心が無い為に
どんどん自分の視野が狭くなるわけです。
なんでもかんでも自分都合でしか
解釈できなくなっている事に全く気づけない・・

結局は、自分の思いがどこにあるのか?
で、正しさなんて移り変わるんですけどね・・

これは、私自身に良く言い聞かせた事なんです。^^;)




大学の無償化より
待機児童対策を!というニュースを見たのですが
これも、目先の利益を優先すれば
まずは待機児童対策をとなるのですが
世界を視野に国益につながる優秀な人材を掘り起こす
目的であれば、論点が全く違うわけです。

オリンピックの膨大な予算も同じでしょう。
この先、世界各国関わり方で日本の未来が大きく変わる為
オリンピックを機に日本の素晴らしさを
世界にアピールし、他国との関係を優位にする事が目的なら?
膨大な予算も致し方ない・・?
でも、国内だけの視野で考えれば
無駄遣いにしか思えない・・・

それぞれの視点で
どちらも正しいわけです。

まぁ~一般国民程度では
日本と世界各国の関わりなんてわかるはずないので
仕方のない事なんですけどね。



なかなか難しい事かもしれませんが
私は、自分視点の正しさを主張する前に
まずは、相手が正しいという視点で
物事を考えるように努力しています。

極端な話、犯罪者=悪ではなく正義?とか?w
悪で終わらせるのではなく
なぜ?犯罪を犯してしまったのか?
どんな理由で?何が原因で?

不倫やいじめも
それをルール上の悪とするのではなく
それらの体験から、何を学ぶ必要があるのか?
と、考えるわけです。

そして、色々な仮説を立てて
日々を過ごしているのですが
何だかんだと毎日穏やかに過ごせるようになったような気がします。w


時に、物事を斜めに見てみるのも
自分の視野を広げる助けになるのかも?しれません。w


まぁ~色々と大変な時代だと言われていますが
滞りなく衣食住にありつける事に、まずは感謝ですね。
いや~本当にありがたい事です。^^)

自分の幸せは、人間関係の中にあるのかな?

長年、相談ボランティアをしていると
苦悩の殆どが、人間関係から始まっているような気がします。

自分の思い通りにならなくて
怒りや、憎しみを抱く対象は人であり
それを変えようとしても、なんともならなくて
辛く苦しい思いをしてしまう。

そもそも、自分以外を変えようとするから
苦しいんですが人の社会のルール上
それを認めるわけにはいかないようです。



ひきこもり、いじめ、うつ、統合失調症・・
借金苦、DV、病気・・などなど・・
全て、他人との関わりを見直す為に起きているように感じます。



そう考えると、他人を大切に思う心があるだけで
誰でも幸せになれるのでは?
と、そんな気がしてしまいます。

幸せとは、意外にも
身近な所に存在しているんでしょうね。
近すぎで、なかなか見えないものなのかも?しれません。





自分の価値観と違う人たちを
理解しようと努力を続けていれば
自分の至らない部分が見えてくると言う
大自然の法則があります。


私自身、霊障に悩み苦しんできたのですが
この感覚のない人たちを理解しようと努力した事で
自分の事しか考えていない
愚かな己を知る事ができたのを記憶しています。



誰しも、周りに多くを求めているので
自分の意思にそぐわない人達に対して不満を抱いたり
その人たちを変えようとしてしまいます。

自分と価値観が違うだけなのに
その価値観を認め、受入れる事が出来ない・・

経験が違えば価値観が違うのは当たり前なんですが
そこまで、深く理解しようとしないわけです。

思い通りにならない相手を
ただただ責める・・
自分に不快感を与える相手に
ただただ怒る・・

猫や犬だとゆるせても
相手が人だとゆるせなくなる・・

飼っている猫や犬は与える対象ですが
相手が人だと無意識に
色々と求めてしまうんでしょうね。


物事を強く求めれば求めるほど
毎日毎日、そんな判断をしてしまい
人間関係がうまくいかない・・


ひょっとしたら不幸とは
たったこれだけの事なのかも?しれません。








いっその事、一人でいればいい!
なんて私も良く思いましたがw
残念ながら、他人との関わりの中にしか
幸せはないので、ひとりぼっちでは幸せになれないわけです。


私は、人に酔う体質なので
1人でいる事を好むのですが
山に1人で出かけ何日も過ごす事で
1人でいるのが好きなわけではないんだ・・と
自分を知る事ができました。

1人でいるのが好きなわけではなく
人の負のエネルギーを感じるのがイヤ。
自分の意思にそぐわない人たちといるのがイヤ。
自分の都合を押し付けてくる人といるのが面倒。
ようするに自分の思い通りに過ごしたいのに
それが出来ないのが嫌なわけです。w

これって、ただの我儘ですよね?w

他人を思いやる心が欠如しているから
1人で過ごしたいと思う事にガッツリ気づかされました。w




面白い事に
他人に喜んで貰いたいという欲求がでてくると
1人で過ごすのが淋しく感じたりします。
1人で過ごしていれば、いつまで経っても
その欲求が満たされませんからね~

ペットを飼う人が増え続けるのも
与える事と求める事のバランスを維持する為なのかも?
他人を与える対象にすれば
どんな相手でも癒されるんですけどね~

とは言え、他人の幸せを共有する体験を
繰り返さないと、なかなかそうは思えないでしょうけど・・













幸せ=他人との関係なら
人間関係をよくよく考えながら過ごした方が
幸せになれるという事になります。



人間関係をスムーズにするには
相手を深く理解する必要があるのですが
まずは、自分と他人は経験値が違う為
初めから価値観が違うと思って接する事でしょう。

また、どんな人も先祖代々の経験値を受け継いでおり
その経験値を元に、人格が構成されているので
ムカつく相手の性格は、本人の問題ではなく
その人の先祖の経験値に問題があるわけです。

責めるなら、ムカつく相手ではなく
ムカつく相手の先祖と言う事になるんですよね~w


私自身、血の仕組みを深く探究していたら
ムカつくあいてを責めるのが馬鹿らしくなりました。w




あと、出来事から学ぶ姿勢かな?
何度相手を変えようとしても
嫌な相手を排除しても
何度も何度も同じ事が繰り返されるのが
自然の法則なので
人間関係で嫌な思いをしているなら
そこから何を学び自分をどう改善するか?
なんだと思うわけです。

私自身、それを繰り返しているだけで
かなり怒りの感情が減りましたね~

で、気付いたいのです!
私の中で無意識に込み上げて来る感情は
意識で抑え込む事ができないので
血肉が記憶している事だと・・
と言う事は、他人も同じで
いくら何度も言葉で伝えても
相手も無意識にしている事なので
簡単に変えられるわけがないのだと・・

相手が自分に向ける感情に対して
いくらムカついても仕方なく
どうすれば良いのかを考え
自分自身を変える方が、物事がうまく進む。

自分を変えようとする事で
こんな事に気づかされる経験をした事があります。



あと、もう一つは
『悪』を生み出さないようにする事でしょうか?
人間社会では善悪の判断が秩序を保っていますが
自然界には、善も悪もなく
善とは自分に都合が良い物であり
悪とは自分に都合が悪いものでしかないわけです。

従って善も悪も自分が決めつけているだけに過ぎないのですが
私たちは、そんな教育を受けていないので
その判断が染み付いているわけです。

『悪』とは、自分に都合の悪いものに過ぎず
悪を生み出すと出来事からなかなか学ぶ事ができなくなります。
自己の成長が停止する事の方が多いでしょう。
相手が悪くて自分が正しいわけですが
自分を改善する必要がないと思い込んでしまうのです。

従って、気に入らない事、ムカつく事が多い人は
自己の心の成長が止まったままになるわけです。

逆に、悪を生み出すのではなく
自分の嫌だと言う感情と向き合い
自分の何をどう改善すれば、この感情がなくなるのか?
をしっかり考えて言動に移す事で
目の前にある現実が自然に改善されるはずです。

そんな大自然の法則がありますからね~


どんな出来事も、どう受け止めるか?は
自分次第ですし
同じ出来事でも、感謝する人もいれば
憎しみを抱く人もいます。

他人から罵声を浴びせられて
自分の至らなさに気づかせて頂いたと感謝する人も居れば
酷い事を言われたと、怒る人、憎む人、悲しむ人
と、それぞれだと言う事です。

何をどう受け止めるか?は
自分が何を求めているか?によっても
大きく変わってくるのですが
往々にして、快楽を求めれば求めるほど
腹が立つ事が多くなるでしょう~ね。w


まぁ~誰しも、快楽を求めてもがき苦しむんですが
それはそれで、楽しく生きる為に必要な事なのかも?しれません。^^)

幸せな人と、不幸な人は考え方が違うだけのような気がする・・

長年、相談ボランティアをしていると
自分が不幸だと思っている人と
幸せだと思っている人は
出来事に対しての考え方が全く違う・・
そう感じています。

ひょっとしたら
その考え方を改善すれば
どんな人も幸せになれるのでは?
なんて思ったりもしています。


実際、相談者に
考え方を変えてみる事をおすすめすると
ちょっとした思考の改善で
目前の現実が大きく変わるケースが
ちょくちょくあるのです。


自分の感情を制御するのはなかなか大変ですが
考え方を変えるのはそんなに難しくないんですよね~

ちょっとした事で
幸せに近づけるのなら
試してみるのもアリかも?しれません。










自分が不幸だと思っている人は
特に嫌な出来事に対しての考え方が
幸せな人と正反対だったりします。


不幸な人は、利己的な言動が多く
幸せな人は、利他的な言動が多い

不幸な人は、否定批判が多く
幸せな人は、肯定が多い

不幸な人は、自分以外を変えようとし
幸せな人は、まず自分が変わろうとする


幸せな人は、善意が多く、常に謙虚で
努力を惜しまず、多くに尽くす為に過ごしている。

常々感謝し、その感謝に報いるために日々を過ごしているわけです。




私自身、過去を振り返ると
常に自分以外を変えようとしていましたね~
自分以外を変える事ばかり考えていました。

自らが変わろうとしないので
当然、否定批判や不平不満が絶えませんでしたね~w

そして、全く感謝できませんでした。
本来、感謝しないといけない出来事が
自分の中では当たり前の事なので
人や社会に報いたいなどと思う事が全くできないのです。
社会に報いるどころかどうして自分は報われないんだろ?
くらいに思ってました。w

毎日がしんどいので
もっと楽をしたいと常にそう思っていました。
何かに向かって努力するわけでもなく
ただただ、惰性で日々を生きていました。


周りに対して、善意を向けるより
悪意を向ける方が多かったです。
常に求めているので
自分の思い通りにならない物事に対して
誰か何か自分自身を責め続けていましたね~
自分が常に『悪』を生み出していたのですが
全くその自覚はありませんでしたけどね。w

10人10色人それぞれ考え方が違うのを知っているのに
自分と価値観の違う相手にイラつき
ただの違いなのに
批判されたと勘違いして攻撃したり・・w
ゆるす心が、欠如していました。

ゆるせない事が多かったので
理不尽なゆるせない出来事ばかりを突きつけられました。
まぁ~慈愛の精神に反した行為なので
そうなるのは、必然なんですけど・・w



やっぱ一番の原因は感謝できないから?かな?
誰しも自分に色々尽くしてくれた人には
そのお礼をして報いたいと思うものですよね。
それは、その人に感謝しているから
そう思えるわけです。

なので世の中に対して感謝していれば
誰だって社会に貢献したい!と思えるわけです。
両親や身内、知人や友人に対してもそうですし
そもそも、感謝していないから
利己的な考え方に終始してしまう・・


自分は不幸だと思う人の殆どが・・
(いや?100%かな?)
利己的な物事の考え方をしているので
幸せを掴む為には、どうしても利他的な想いが必要になる。

とは言え、そう思えない以上、言動が伴うわけもなく
思えないまま、利他的な言動を繰り返せば
とってもストレスになるわけです。w

利他的な想いは、感謝できないと
生まれないような気がするので
はやり、感謝する事から始めた方がいいのかも?しれません。


私自身も感謝するようになってから
社会に貢献しないといけない!と焦るようになり^^;)
そんな事ばかりを考えるようになりました。

また、『与えたい!』と思うようになると
我欲を求める事が減ってくるので
自然に不平不満や否定批判もなくなってくる。
イラつく事やムカつく事もなくなってきます。
悪意を生み出さなくなるわけです。
悪意を生み出さないので悪意を向けられる事もなくなり
穏やかな日々が増え始める・・

否定批判や不平不満が多いと
嫌だ出来事ばかり続くようになるのですが
色々と奉仕活動を続けていると
色々な人から尽くされるようになります。
感謝すればするほど、感謝する出来事が増えるわけです。


私が体験した理不尽な辛く苦しい出来事も
今思えば、その体験があったからこそ今の自分が在るとそう思うわけです。
辛く苦しい現実も、考え方次第で感謝できる。
松下幸之助さんが、貧乏だったから、ありとらやゆる仕事に感謝できた!と
おっしゃったように、辛く苦しい現実ほどありがたい事だと思えるようになるのです。


なんだかんだと、考え方ひとつで
どんな人も幸せになれるのかも?しれません
結局は己を見つめ、自分の中にある幸せに気づくか?否か?なんでしょうね。