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修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

たぶん、ゆるす事を学ぶ為にゆるせない事が起きているんだろうなぁ~

日本神道という日本人的思想では、全ての自然現象を神々がしている事とします。
従って、目前に起きる現実は全て神々がしている事であり
全てを受け止め、自己改善に努めると言うものです。

否定批判は、神々を冒涜する行為であり、どんな理由があろうと
必ず自らに降りかかってくるわけで、冷静に物事を見ていると
我々は実際にそんな仕組みの中で、過ごしているのが誰にでもわかるはずです。

昔の私は『なんのこっちゃ?』って感じで
全くその意味が理解できず、自分自身を正当化する事ばかりでしたが
修行を重ね、自らを見つめるように努めた結果
その意味が、なんとなく分かるようになってきた気がしています。

特に目の前にある気に入らない現実、悲しい現実
ムカつく現実、ゆるせない現実など、負の感情を抱くような現実に対し
相手を変えようとするのではなく、自分自身を改善するようにして行く事で
目の前で起きる出来事が、大きく移り変わってゆくのを体感できる。

それを繰り返してゆくうちに、目の前で起きる現実は
常に私自身を成長させる為に存在しているのだと、そう思うに至るのです。

ラストサムライの映画のシーンのように
例え、愛する夫を殺した相手であっても手厚く世話をする。
全ては神々がしている事だからと、そう受け止めるよう努力する。
それが、日本神道という思想であり大和魂でしょう。



多くの聖職者の方々が、愛と慈悲について説いていますが
昔の私は、その言葉に嫌悪感すら覚える事があり、大嫌いな言葉でした。
なぜならば、愛とか慈悲とかを口にする人ほど、その言葉を巧みに
自分に都合よく使う人が多かったからです。

しかし修行が進むにつれ、慈愛の精神を学ぶのを避けられず
嫌々ですが、愛とはなんだ?慈悲とはなんだ?と、探し求めるようになりました。
そして、どんな人も生まれた時から、愛も慈悲も持ち合わせておらず
生きる過程で、身に付けてゆくものなのだと、そう思うようになったのです。


例えば、慈悲という《ゆるす心》ですが
煩悩を植えつけられた私たちは、自分に都合の悪い事を
簡単にゆるす事など出来ないわけです。
なので、ルールという規則、法律を作り、守らない人を罰するのです。

『ゆるすと相手は付け上がる』と、そう思うのが一般的でしょう。
恐らくそれは、許しているだけで赦していないからだと思うのです。
心の中ではゆるせずにいる状態だからそう思ってしまう。
許可しているだけで、慈悲の心ではないわけです。
なので、慈悲の心が芽生えるまで、どんな相手も付け上がるわけです。

生まれながらに慈愛の心を持たない私たちは
快適な暮らしをする為に、ルールを設け過ごしているわけですが
そのルールが、慈愛の精神に反した感情を生み出し
その結果、慈愛の精神の大切さを体感し学ぶ事ができる。

自己の心の成長の為に、目前の現実が存在するのであれば
ゆるせない心が強ければ強いほど、ゆるせない現実を突きつけられる事になる。
それは、生まれながら持ち合わせていない慈悲の心を
育む為に必要な出来事だからなのかもしれません。
そう考えると憎しみを心の内に秘めていると自らの心身が蝕まれてゆく
という自然現象にも納得できるのです。



仏紙銃撃テロという痛ましい事件が起きましたが
これをサムライスピリッツ的に受け止めると
二度とこんな事件を起こさない為にも、言葉の暴力はなくさなければならない。
とするのですが、実際のフランスでは言論の自由を求めて
160万人という大規模デモが行われたようです。

私は、自らの経験は常に血に刻まれてゆき、その記憶は子々孫々を受け継がれ
どんな人の人格も、先祖の経験で創られているのだと、そう思っています。
従って、フランス人の歴史が、大規模デモを引き起こしているのでしょう。
私自身フランス人の血が流れていたならば、デモに参加していたはずです。


ただ自然界のルールからすれば、ゆるす心を学ばせようと
さらにゆるせない出来事が起きる事になるはずです。
残念ながら、大自然は我々都合の人間ルールに従ってはくれないものです。

何が正しくて、間違っているか?ではなく
自分自身が、何を選択しどう言動に移すかで目前の現実が創られて行き
幸せは、愛と慈悲を選択した者だけが手に入れられるものなのかもしれません。


自らが銃撃され奇跡的に助かり、しかも銃撃した相手をゆるすと言い切る
ノーベル平和賞を受賞した17歳の少女マララ・ユスフザイさんの演説を
思い浮かべると、私は日本人で良かったと心からそう思い
日本の文化を創り上げた、ご先祖様に感謝してしまうのです。


そして、ふっと、思えば・・・・
改めてゆるせない事件からゆるす心の足らない自分に気づかされ
まんまと、大自然の思惑通りに過ごす、自分に気づき
少し癪に障るので、抗いたくなるのですが
それすらも、思惑通りだったならば?とさえ思ってしまうのです。
で、『こんなの!ゆるせない!』と、ふりだしに戻り

なんだかな~・・・って感じです。