修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

先祖からの因縁を自分で消滅させる方法

『今の苦悩は、先祖からの因縁のせい・・』
と、霊能者やスピリチュアルカウンセラーから
そう言われて不安になる方も多いのではないでしょうか?
相変わらず、そんな相談がとても多いです。


私は、先祖から受け継ぐ因縁は確かにあるとそう思っています。

私たちは、血族の経験値を受け継いでこの世に産まれてきている為
自分で経験していない事に恐怖を憶えたり
食べ物の好き嫌い、才能や長所、短所など
生まれながらにして多くを先祖から受け継いでくるのだと
数々の体験からそう思うようになりました。

先祖の誰かが、強く怨まれるような行為をしていれば
その怨念は、子孫のだれから強く受け継ぐ事になるはずです。
また、先祖の誰かが多くの人に感謝されるような事をしていれば
その感謝の念も、子孫に受け継がれる事になる。

先祖からの経験値は、血族と強く繋がっており
血族の誰かが亡くなれば、その人が背負っている経験値は
子孫の誰かが自動的に背負う事になります。

身内が亡くなった、その日から統合失調症になってしまったり
癌になってしまったりする事も、まれにあると思います。

先日も父親の姉妹が亡くなった、その日から歩けなくなった方の
処方をしてきました。
亡くなった身内の方も、まともに歩けなかったそうです。


先祖がしてきた言動が子孫に影響を与えるのであれば
自分自身の言動も自分の子孫に影響を与える事になります。
子孫だけではなく、子供や血族にも強い影響を与え
血族だけではなく、他人にも強い影響を与えているのが
この世の仕組みだと、私はそう思っています。

多くの人が、自分一人で生きているとそう思っているでしょうが
私たちは、常に他人と繋がっている事を忘れてはならないのでしょうね。






先祖からの因縁があると言われても
自分ではどうする事もできないと思っている方も
多いと思います。

私自身も因縁消滅の加持祈祷や
先祖供養で因縁が消滅するとよく言われ
そんな事を繰り返してきた経験がありますが
今では、ほんとうに馬鹿げた事をしてきたとそう思っています。

因縁消滅の加持祈祷をする事で
身体や心が軽くなって、良い事が立て続けに起こったり
する事は確かにあります。
これは、身にまとう穢れが一時的になくなるからであって
永遠にその穢れがなくなるわけではありません。
穢れを常に生み出すのが人間という生き物だからです。

そもそも、先祖からの因縁を何故自分が背負うのか?と
考えれば、自分自身の人生にその因縁が必要不可欠であって
それを、簡単に加持祈祷で取り除けるわけもないのです。
自己の魂が、その因縁求めていると考えた方がいいでしょう。

因縁消滅の加持祈祷は往々にして、穢れが消滅するだけなのですが
仮に自分から因縁が消えても、血族の誰かが背負う事になるはずです。
ようするに自分の因縁を家族や血族に押し付ける行為にも
なりかねないと言う事になります。
そして、自分が他の血族に押し付けた分、以上になって
自分自身にかえってくる・・のが、大自然の法則でしょう。


大金を払って因縁消滅の加持祈祷をしようか
悩んでいるのであれば、今すぐ改める事をおすすめします。
誰しも自分で未来を切り開く力を持っているからです。
そして、幸せは常に自分の中にあるので
いくら、外に求めても見つからないのが道理でしょう。



私は、自分が背負っている先祖からの因縁のおかげで
人生においてかけがえのない幸せを手に入れる事ができました。

昔の自分は、なぜ自分だけがこんな思いをするのかと
悩み苦しみ、世の中を否定して過ごして来ましたが
今では、自らが背負った因縁に心から感謝しています。
普通の人が体験しないような、数々の苦悩のおかげで
とても多くを学ばせて頂いたからです。

仮に私の先祖が徳が高く、不徳を積んだ因縁も皆無だったならば
今の私は無かったとも思います。
多くの快楽が満たされたでしょうが、幸せになれたと思う事は
どうしてもできません。

今の私は、先祖からの因縁が全て消滅したとは思っていませんが
ただ、それのせいでの苦悩は全てなくなったと言えます。
先祖からの因縁のせいで苦しんだと
そう思い込んでいただけだったのが解っただけですけど・・
要するに苦しみは、自らが生み出すものでしかないと言う事です。




先祖からの因縁を消滅させる為には
先祖から受け継ぐ因縁の存在意義を深く考える必要があります。
目前のどんな現実も自己を成長させるためにあるので
先祖から受け継ぐ因縁も、そのうちの一つだと言う事を
忘れてはなならいのだと、私はそう思っています。





先祖からの因縁=先祖の経験値
と、概ねそんな所でしょうか?
自己の経験値が血肉に刻まれ、子々孫々と受け継がれ
私たちは進化し続けているので
我々は先祖からの経験値を受け継いで生まれてきているのでしょう。

経験値から生まれる価値観も受け継いでいるので
今の自分の価値観を変える事で、確実に因縁は消えて行きます。

とは言え、今の価値観を変えるのは簡単な事ではありません。
自らの血肉に刻まれた経験値を
今の自分の価値観と違う価値観での経験値で上書きする必要があるのです。


私の場合は、まずは自分の中で正しい事、間違った事
善悪の判断を逆にとらえるようにしました。
今自分が正しいと思っている事は、実は間違っているのでは?
今自分が、悪としている事は、実は正義なのでは?
と、そんな事を繰り返し考えるよう過ごしていたら
善悪など存在しないのだ!とそう思うようになったのです。

その時点で、私の価値観が変わっているので
心身が軽くなったのを記憶しています。
そしてなにより、自分と価値観の違う相手を
受け入れる事が出来るようになりました。

ただ、これだけでは自らの因縁を打ち消す事は出来ません。
いくら頭で考えても、血肉に刻まれた経験値が
自らの思考を無視した、言動をするからです。
わかっちゃいても止められない・・
ダメだと思っていてもやってしまう・・
そんな事の繰り返しになるでしょう。

ただ、そこで諦めてしまえば元の木阿弥なので
反省を繰り返し、改善する努力を続ける必要があります。

先祖からの経験値を血肉に刻まれた私たちは
新なる言動の中で、新たなる発見をし、新たなる価値観のもと
新たなる経験値を血肉に刻む必要があるのです。
それが、自分自身が生を受けた証となり
子孫へ付け継いでいくという自分自身の使命なのかもしれません。


自らの思考に逆らった行動を繰り返しして行くものありだと思います。
嫌いなものを食べ続ける、嫌だと思う事をやり続ける
嫌いな人に近づいてみる・・などなど・・です。





誰しも、自分は正しいと思い込んでいるので
自分では気付けない事が沢山あるモノです。

例えば、先祖が誰かに憎まれるような事をしていて
怨念を受け継いでしまったとします。
往々にして、それを受け継いでいる人も
自己中心的な考え方で日々過ごしており
自己の言動で他人が傷ついている事さえ気づけないものなのです。
なので、どうして自分ばかりがこんな思いをしなければならないんだ!と
無意識に先祖の因縁を『悪』として位置付けてしまうのです。

そんな人は、他人を理解し他人に尽くす事を繰り返し続けるだけで
先祖からの因縁は消えて行きます。
ただ、そんな価値観に至らないのが因縁のなせる業なので
自己を奮い立たせて、そこに向かって行く必要があります。


先祖からの因縁を浄化する為には
どうしても、今自分が知らない世界を知る必要があり
同時に自己改善が必要になると私はそう思っています。

自己を苦しめる因縁の多くは
先祖の不徳が原因なので、徳を積み続ける事でも
因縁は消滅して行きます。
自らの徳は、子孫に影響を与えるだけでなく
家族や血族へも強い影響を及ぼします。
(不徳も同じ仕組みの中にあります。)


私が、重度の精神病や認知症の家族を持つ方に
本人を変えるのではなく、自らを変えるよう
お話ししているのも、この仕組みがある事を確信しているからです。
自分が変われは、現実は変わる・・
即ち、家族や血族も変わるのです。








だらだらと書いてしまいましたが
早い話、徳を積み続ける事で因縁は消滅します。
どうやって、徳を積めばいいのか解らないと思っているウチは
まだまだ、求める心が優先している証なので
目前の現実は悪化し続けるのが自然の法則です。

徳を積むと言う事は、与える行為になるので
求めているうちは、徳など積めないモノだとも思います。
また、徳を積めない性格も先祖からの因縁が原因でしょう。
なので、それに逆らわなければならないわけです。


誰かの為、何かの為にする行動が
その誰か・何かの為になっていれば徳を積んだ事になります。
いくら快楽を満たしてあげても、徳を積んだ事にはならないので
そこが、難しい所なのですが・・
こればかりは経験しなければ理解できない事なのかもしれません。

また、少しくらい徳を積んだからと言って
因縁が消滅するわけではありません。
自分の一生より長い経験値の蓄積を簡単に書き換える事などできないのです。

私自身ももう20年以上ボランティアをしていますが
完全に因縁が消滅したとは思っていません。
ただ、一つひとつの苦難を乗り越える過程は面白く素晴らしいものだと
そう感じているのも事実であり、先祖の不徳があったおかげだとも思っています。

そう考えると、子孫の為に因縁や不徳を残して行くのも
悪くないのでしょうね。w

要するに、今苦しくて現実を変えたいのなら徳を積み続け
今楽しいのなら、不徳を積めばいいのでしょう~w


これだけは、再度お伝えしておきますが
因縁消滅の為の加持祈祷や呪法、先祖供養は
本当に幼稚でバカげた行為だと私はそう思っています。
まぁ~体験するのも自由なんですけどね。

仮に現実が好転しても、年月を経てもっと重い苦難が
降りかかってくるのが大自然の法則だと思います。
何年か経ってから気づいた所で
そこに費やしたお金と時間は取り戻せないのです。

目前の現実は、自らの努力で切り開くものである事くらい
誰だって、心のどこかで理解しているはずです。
その心を奮い立たせ、神の仮面をかぶった
悪魔の囁きに負けないでください。w

神は自分の外にいくら探しても見つからないものです。
日本神道では、ご神体を鏡とするように
常に己の中にいると教えています。

先祖の因縁うんぬんで不安になったら
今一度、自分自身を見つめる事をお勧めします。
その中にしか、答えは見つかりませんからね~^^)




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先祖からの因縁消滅マニュアル

勇気は、人を信じれば信じるほど大きくなる

気が弱い・・
なぜか怖い・・
こんな気持ちが多い人の特徴は
『他人を信用しできない』
人だとそう感じています。

過去に人に裏切られたり
酷い目に合されたりする経験がそうさせるのでしょう。

自分を信じない相手を信じる事はなかなか出来る事ではないので
信じる他人がいなければ、孤独な人生となり
委縮し続ける日々を送る事になってしまう・・

人に裏切られるのは
自分が他人に嘘をついていきた証であり
ひどい目に合わされるのは
自分が他人を傷づけてきた証だとそう思っているのですが

人間が作ったルール上で判断してしまえば
そんな事が納得できるわけもない事をも理解しています。



しかし、無意識に人を傷つけていれば
そんな事に気づけるわけもなく
『私は、人に優しくしてきた』
『誰にも迷惑などかけていない』
自分は被害者だ・・と、そう思ってしまうはずです。


また他人を理解する努力を怠り
目先の現実のみで判断しながら過ごしていると
他人に迷惑をかけている事さえ気づけないものです。
ほとんどの人が自分がされて嫌な事を他人にしていなければ
それでいいと思い込んでるからです。

ようするに自分がされて嬉しい事でも
他人にとって嫌な事が無限にある事
を理解しようとしないまま過ごしているので
目先の現実に囚われてしまい
自分の言動が、他人を気づ付けていたり
他人に迷惑をかけている事に気づけないわけです。


仮に通り魔に後ろから刺されれば
自分は、被害者となり
悪いのは、通り魔となるのが現代社会です。

しかし、大自然の法則には善も悪もなく
刺される側と、刺す側の通り魔には必ず因果関係があり
『縁』があるのですが、そこを見ようとしないのが一般的でしょう。
そんな所を見ていれば、社会の秩序は保てませんからね~

通り魔は、犯罪者であり『悪』
刺された側は、被害者であり『悪ではない』
そうしなければ、ならないのが
我々の過ごす、人間社会です。

しかし、加害者と被害者は、同質のエネルギーを持っているので
お互いに引き合うのですが、そう考える人はなかなかいないでしょうね。
あくまでも私の感覚での話なので、ただの思い込みと
言われても、仕方ない事ですけど・・^^;)



私は善悪の判断基準が原因で、人の心は壊れて行くのだとそう思っています。
しかしながら、その判断基準がある事で
我々の過ごす社会の秩序が保たれているのも事実なので
やはり、善悪の判断はあくまでも自分に都合が良いか悪いかの判断であり
全ての存在が共有できる価値観ではない事を理解し
そして『ゆるす心』を育む事が大切なのでしょうね。


我々日本人には、この因果関係をよく理解した文化があったのですが
いつしか、なくなってしまいましたね~
『全ての現実は神々がしている事』とするなど
欧米からすれば、クレイジーな考え方なですし
現代の日本社会からしても、おかしな考え方となります。


しかし、私個人としては
人の心が生み出すエネルギーは膨大な量があり
そのエネルギーが様々な『縁』を創り出しているとそう思っていますし
常々それを強く感じています。
否定批判を止め、深く理解する事で
物事がスムーズに進むのもだと感じており
実際に実践すれば、その通りになるはずです。

人の心は経験によって創られている。
すなわち、体験や経験によりどう思い、どう感じるか?
が、その先の未来を生み出しているわけです。

まるで、自分の過去の言動を
神々が見透かしているかのように
目前に現実を突きつけられるのが、大自然の法則なのでしょう。


また、どんな人も常に他人と呼吸するかの如く
エネルギー交換していると感じています。
言葉など交わさなくても、他人の存在がある事で
我々は正常に過ごす事が出来る訳です。

他人を強く思いやる気持ちはエネルギー化して
接した他人から、活力の源となるエネルギーをもらえる
そこに会話など必要ないのです。


どんな恐怖も理解する行為で解消され
多くを理解する事で、多くを思いやる心が生まれる
そして、その思いは自らの大きな力の源となり
どんな苦難をも乗り越える勇気になるのではないだろうか?

と、そんな事を思うわけであります。


ん~・・・なんか、とりとめもない・・バラバラな・・~~
文になってしまいたしたが・・^^;)


ようするに
他人を強く信じれば信じるほど、勇気をもらえ
強靭な精神を身に付ける事ができる仕組みが存在していると言う事です。

ではでは・・・

スピリチュアル的行為は、ただの現実逃避だったりする

最近、スピリチュアル的な行為にハマっている人から
の相談をよく受けます。

相談内容の多くは
スピ系組織から抜けられない・・
抜けようとすると禍があると脅される。
ひどい場合は、呪いをかけてやるとか
会社を潰してやるとか
まぁ~言いたい放題言われて
恐怖に脅えての相談です。

私との会話も覗かれていると言い
怖くてちゃんと話ができない人もいました。

その他は、神に祈りを捧げて
大金をつぎ込んだのに何も改善されないとか
こんなに神々に尽くしているのに
霊的現象がなくならない・・とか
スピリチュアルマスターとして
多くの人に尽くしてきたのに
心身共にボロボロで、お金もなくなってしまった・・
とか・・そんな感じです。


なので、ここに少しばかり
持論を展開したいと思います。



まず、スピリチュアル的行為は
ともすれば現実逃避をしていると思った方がいいでしょう。
これを言うと、スピ系の人はみんな怒り出すんですよね~^^;)


スピリチュアル的行為にハマっている人の多くは
その世界に救われたと思っている人が多いのですが
私に言わせれば、辛く苦しい現実からの
逃げ場所を与えてもらっただけであり
何の解決にもなっていない場合が多いはずです。
と言うかほとんどが救われてなどいないでしょう~ね。

長年患っていた病が治った。
予期せぬお金が入り潤った。
子供を授かった。
などなど・・確かに現代科学では証明できないような
出来事が起きる事もあります。
そんな事が起きれば、救われたと思ってしまうのも
仕方のない事なのかもしれませんが
そもそも、辛く苦しい現実は
自らの成長の為に存在しているので
それを取り除いてしまえば
新たなる苦悩と向き合う事になるのが自然の法則です。

すなわち、一時的に逃げ場所を与えてもらっただけなわけです。

まぁ~それを理解した上での事なら
何も問題はないですけどね~

『先祖供養をすれば救われます』と言われ
ご先祖様を大切にするだけで体が軽くなる事もあるでしょう。
かといって、ご先祖様を大切にしないから
禍が起きるなんてありえないですよ。w

現に先祖供養を止めさせて商売がうまく行った人もいるし
健康になった人もいますしね。
何の為の先祖供養なのかが大切なのだと思います。

お墓や仏壇を移動して禍があるのは
自分たちの都合を押し付けている傲慢さに
気づかせてくれているのだと思った方がいいでしょうね。

ご先祖様を大切にしていないから禍が起きるなんて
考え方は、どう考えても普通じゃない。
神や先祖が恐怖の対象になってしまえば
それは、もはや悪魔と同義ですよね。


そもそもスピリチュアルマスターと呼ばれる多くは
現実逃避したままの状態を続けているので
『神様が○○とおっしゃっているので
○○しなければなりません!』とか
『貴方のご先祖様が○○とおっしゃっています。』とか
『良くない霊が憑いているので
浄化してあげます』とか・・
そんな事ばかり言ってくるはずです。

まぁ~自ら現実世界から逃避し続けているので
現実離れしてしまっても仕方ないのですが
現実社会で過ごしている人まで、巻き込んではいけませんよね~
まぁ~まともに生きられない人の
そんな言葉を真に受ける方にも問題がありますが・・

私自身も多くを感じるので
そんな世界を否定するつもりはありませんが
そんな言葉を気にしていたら
我々の人間社会でまともに生きられなくなります。
五感の世界で生きている人は
その感覚がないので、言われた言葉を信じるしかないわけです。

霊能者に向かって『貴方から魔物が見える!』と言い放てば
だいたいが『そんな事はない!』と怒り出すんです。w
『貴方が悪霊に取り憑かれて、そう見せられているんだ!』
と、あくまでも自分が正しいという立ち位置でしか
物事を見る事ができない・・
自分がそうかもしれないんですけど自分を疑う事はしないんです。w

何も感じない人の立場を考慮して言葉を選ぶ事もできない・・
現代社会では相手の立場をしっかりと考えて人付き合いするのは
当たり前の事なんですが、それが出来ないが為に
現実社会で普通に過ごせなくなり
現実から逃避した精神世界が唯一の居場所になるわけです。


冷静になって『神』とは、なんぞや?と考えれば
『神』=『本人の思い込み』として、存在しているのにw
何も感じない人は、特別な存在として認識してしまうのです。


私自身、その世界に囚われて
気が狂った事があるんですよね~
まぁ~上に書いた通り
他を理解する心が欠如していた為です。^^;)

なので、そんな世界はお遊び程度にしておくのが一番だと
そう思っています。


神々の言霊を聞くのは、神に選ばれた証拠とか
人々に尽くすお役目がを背負っているとか
そんな言葉を耳にしたら、関わりを持たない方が賢明でしょう。


なぜならば、神々の言霊=本人の思い込みだからです。
神と思っていた相手が、ただの霊体かもしれませんし
自分が神だと思えば、ペットのワンちゃんでさえ神ですからね~
飼い猫が神の使いだなんて言い出したら
もう現実が見えていない人の証でしょう。
私に言わせれば、そもそも全ての生き物が神の使いですしね。
(まぁ~これも私の思い込みなんですけどw)

あと、『お役目』ですが
多くの人に尽くすのは、全ての人のお役目のはずです。
この世で生きている以上、自分以外に尽くすのは当然の事であり
そうやって生きて行かなければ、苦しい現実と向き合う事になるのが
大自然の法則でしょう。


そんな奉仕の精神がないために辛く苦しい現実と向き合う事になり
スピリチュアル的世界を逃げ場所にしてしまう為
スピ系で集まっている人は、他人に尽くすお役目があるという言葉に
誰も違和感を感じないわけです。
そもそも初めから、自分本位な考え方しかできないので
見えている世界が狭すぎて、自分の滑稽さに気づけないまま
『ああ~!私は、神様に世のため人の為に尽く事を特別に命じられたんだ!』
と、そう思ってしまうわけです。

私に言わせれば、世のため人の為に尽くす行為が足らな過ぎて
神様に罰として強制されているに過ぎないんですけどね~w


スピリチュアルな世界にいる人は、とても広い世界で生きていると
思われがちですが、実際は現実世界から逃げている人が多いので
現実世界に目を閉ざし、とてもちっぽけな世界で生きている人が
多いと思った方がいいでしょうね。

現実逃避を続けると、ろくな事が起きないのは
普通に生きていれば誰でも理解できるのですが
本人たちは、現実世界+αでもっと広い世界で過ごしていると
そう思い込んでいる為
オーム真理教しかり新興宗教の教祖が逮捕されるような
出来事が起きてしまうわけです。



どうでしょう?
冷静になって考えると、極めて幼稚で滑稽な事だとは思いませんか?
そんな世界に恐怖を感じる必要は全くないと思います!


大切なのは、今を一生懸命生きる事でしょう~
誰かの為に何かを成し遂げようと努力しながら過ごしているだけで
毎日が楽しく、充実した日々を送る事が出来、不安など無くなるものです。
同時に、欲が消え、見栄もなくなり、謙虚になれます。

恐怖や不安を感じるのは、ただひたすら求め続けて過ごしているからであり
失う事に恐れを抱いているだけなんです。

その恐怖から逃れるには、与える喜びを知ればいい...
たったそれだけの事で、どんな人も幸せを掴むことができると
私はそう思っています。^^)