修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

他人の価値観を認めて受け入れると、結構楽ちんに過ごす事ができる

人の価値観は人ぞれぞれ皆違う。
そんな事は誰しも知っている事なのに
なかなかそれを認めて受け入れる事は出来ない。

だって、自分と違う価値観を
認めて受け入れると言う事は
自分が我慢しなくちゃいけない事だから・・
そんな事したら、ストレスで気が狂うよ~~~~
と・・・そんな感じで人は争うわけです。w


私自身、ガキの頃からおかしな感覚があり
周りの人と見えているモノが違う事など
薄々知っていたわけですが
どうしても、その事実を受け入れる事が出来ず
長い間、現実を空回りさせながら過ごしたものです。w

自分と他人が見えているモノが違う事を
受入れる事が出来たのは、30過ぎてからですね~

明らかに他人と価値観が違うのは
そのせいだと思うようになり
周りの人たちは、どう感じてどう判断しているのか?
そればかりを観察し、考慮して接する努力をするようになりました。
はじめのウチは
『なんで?』『どうして?』
ばかりでしたね~www

かなり遅い気づきです。^^;)

そして、20年以上一緒に暮らしている妻でさえ
今だに、私の感覚は理解でず
たまにブチ切れしております。w

まぁ~私がついつい言葉以外を
キャッチして会話してしまうので
会話が成立しなかったりする分けです。^^;)

でも私は、この感覚のない相手が
なぜそうなるのか?を理解できるので
昔のように喧嘩になる事はなくなりました。w

他人の価値観を理解する事で
こんなに楽ちんに過ごせるものなんだ!と
つくづく感じるようになったわけです。

要するに相手の価値観を理解する事で
自分の価値観を押し通す事が無理だと気付けるわけです。

相手を自分の思い通りにさせようとすればするほど
どんどんとおかしな方向に行くような仕組みの中で
私たちは、生まれた時から過ごしているんでしょう~ね~



誰しも、自分の思い通りにならなければ
ストレスを溜める事になるのですが
そうは言っても、自分の思い通りにならない原因を
知る事が出来なければ
辛く苦しい現実が永遠に続いてしまいます。
とは言え、自分の思い通りにしたいのが人の性なので
変わるべきは、自分ではなく自分以外であり
常に自分を正しい位置に起きながら
周りを悪として判断してしまう。
他人の価値観など二の次なんです。w

自分に都合のいい部分だけを
切り取って解釈し
自分の都合の悪い部分は
気付かないふりをする・・
誰しもストレスを感じたくないですしね。w

自分自身を悪として落ちて行く人もいますが
それも、過去の経験で悪を生み出した結果
それが自分に返ってきている事が多いでしょうし

人の生とは、なかなか因果なモノですね~











誰しも自らの経験や体験に基づいて
自らの価値観が構築されてゆくものであり
新たなる体験や経験によって
その価値観は常に移り変わって行くものでしょう。

人それぞれ、生まれた環境、育った環境が違う為
経験する事、体験する事が違うものです。
従って、価値観も人それぞれ違うわけです。
尖閣諸島竹島海上保安に従事している人と
全く無関係の人では、憲法改正についての
考え方も違うでしょうし
食べ物の好き嫌いがあるように
様々な物事に好き嫌いがある・・
同じ風景を他人と一緒に見ていても
見え方や感じ方は、人それぞれ違うモノなのです。


そして、この世の中は
慈愛の精神を育むように創られているので
どうしても、他人の価値観を認めて受け入れる必要がある。
それが出来ないだけで、辛く苦しい出来事が
積み重なるように、この世は創られているわけです。


私たちは常に自分以外を理解する事や
自分以外をゆるす事を学ばされる為の出来事を
現実として常に突きつけられているわけですが
善悪の判断基準で思考が働くため
なかなかその事に気づけない・・

相手を理解できれば、ゆるす事は難しくないんですよね~
自分に対して嫌な事をする相手は
そうするだけの体験や経験をしているわけで
また、それをしない為の体験をしていないだけなんです。
とは言え、自分中心に物事を考えるように創られている
私たちは、そんな事など考えようともしないわけです。


今、目前に辛く苦しい現実があるのであれば
その原因となっている相手をどこまで理解しているか?と
自問すると、相手の事を何も知らなかったり
また、自分との違いにイラついているだけだったり
する事がわかります。

自己の正しさを基準として
物事を解釈しているだけに過ぎないので
実は、とっても狭い視野の中で
物事を判断しているんです。

狭い世界で過ごしているから
辛く苦しい事が続くのだけなのですが
自分以外を責め続けてしまう・・

周りの人たちと自分の価値観の違いを
知っているのと知らないのでは
ストレスの溜まり方が大きく違うでしょう。

会社でも経営側と、運営側では
普段の経験や体験が全く違うので争ったりします。
これは、それぞれお互いの立場を主体にしてでしか
現実を見ていないからです。
毎日続けば、かなりのストレスですよね~

『知らない』と言う事は怖いですね~



私の場合、自分が一般の価値観とかなりのズレがあり
社会的不適合者だという自覚があります。
なので、このブログを不快に感じる人も沢山いるはずです。w

私には、余計な感覚があるので
一般論としての善悪が逆転する事が多くあり
昔は、窮屈な毎日を過ごす事しか出来ませんでした。

凶悪犯のニュースを見ても、加害者より
被害者の方が悪人に見える事の方がい多いのです。

凶悪犯と同じ血を背負ったら
私も同じ事をするだろうなぁ~・・とか?
そんな風に思ってしまう事もあります。


良い事、正しい事に拘っている人に限って
ドス黒いエネルギーを纏っている人が多いですし
逆に自分のダメさ加減を素直に認めている人の方が
暖かいエネルギーを纏っている。

そう感じ、そう見えるので
仕方のない事なんですが
そんな風に感じて見える人なんていないですもんね。w







私も人間なので不平不満の感情が生まれたりするのですが
不満を抱く対象に対して、どれくらい理解しているか?と
考えてみると、何も理解していない事に気づきます。w
相手を理解していないのに、不満をぶつけるのは
ちょっと傲慢だったと思うわけですが
その時点で、負の感情が消えているわけです。
当然、負の感情の蓄積が軽減されるので
その先の未来も過ごしやすくなります。

そもそも、相手を理解できれば
不平不満の感情など生まれないのが
この世の仕組みなのでしょう。

誰しも自分本位に生きるような
思考をもって生まれてくるわけで
生きて行く過程で様々な体験をしながら
自分以外を理解するものでしょうね。
従って、生きてきた過程によっては
自分本位なままなで過ごしている人も沢山いるわけです。

ネットの炎上を見れば解るように
相手の価値観など全く無視して
自分の考え方をぶつけまくるのが人というモノです。w

著名人に発言によって傷ついたと訴え
その著名人に謝罪させ
鬼の首でも取ったと言わんばかりの会見を見ると
極めて幼稚な行為だと思ったりします。
だって、どんな言葉も受け取り方自分次第なので
傷つかない受け取り方が出来ないままという事なんですから。

人を傷つける事を悪とするのであれば
人との関わりを絶つしかなくなりますし
死刑宣告と同じだと思ってしまうわけです。
まぁ~これが私の価値観なのですが
でも、些細な事でいがみ合うのが人なんでしょうね。

自分自身の心を磨く経験がなければ
どうしても自分視点でしか物事を解釈できないのは
仕方のない事なのです。
ルールを守らないのは犯罪ですが
他人を思いやらなくても犯罪じゃないですしね。

でも、大自然のルールは
慈愛に反した言動には、苦悩を与えます。
なので発言に対して訴え勝訴した人の未来は
辛く苦しい出来事が待ち受けているわけです。

人間が作った自分たちに都合の良い
社会のルールと自然界のルールは
全く別物ですからね~


社会のルールを守らなければ
私たちの社会はメチャクチャになってしまいますが
大自然のルールを無視していれば
理不尽だと感じる現実ばかりを体験する事になる。

そもそも、理不尽な出来事など
この世の中に存在していないんですけど
自然の法則を無視するから
理不尽だと思ってしまう・・・
これも、理解不足と言う事でしょう~




結局は、体験、経験でしか
理解できない事ばかりなので
言葉や文章だけでは、なかなか伝わらないものなんです。
だから人と人との意見がすれ違う・・・
体験、経験が違うから・・

争いやすれ違いを無くすには
まずは、知る事が大切なんでしょう~ね。

多くを知れば、自分以外の人たちの価値観を理解できる。
自分と違う価値観を理解できれば
なんだかんだと、過ごしやすくなる。

でも、理解できなければ
ルールに従い、相手を責める事になり
負の感情が生み出すエネルギーにより自らが蝕まれてしまう・・


たかだか、周りの人たちの価値観を
理解しようとするか、しないかで
自分の未来が雲泥の差になるんですよね~~




人間、ちょっとした事で
毎日が過ごしやすくなるものだと
私は、そう思っています。^^)

そもそも「いじめ」が無くならないのは、自然の法則だからである・・

「いじめ」について、リクエストを頂きましたので
私の持論をば、記してみたいと思います。
不快に感じる方もいるかも?しれませんが
何卒ご容赦を。m(_ _)m






いじめについての相談もちょくちょく受けます。

いじめられる人の共通点は
他人を理解する心が足らなかったり
また、それが苦手だったりする人が多い感じがします。


私の学生時代にも、「いじめ」は、ありました。

小学校で、いじめにあっていた同級生の事はよく覚えています。
小学校は、まじめに通っていましたからね~w

そのいじめに合っていた同級生は
やたら不潔な女の子で近寄るだけで臭い娘でした。
普段から「寄るな!触るな!近づくな!」と同級生に言われており
汚物扱いされていましたね~
その娘の持ち物を触るだけで、みんな逃げて行きました。
病気になる!と言うのです。
当然、私も普段からその娘を避けるようにしました。
次第にエスカレートして、その娘と仲良くすると
同じ扱いをされるようになり
最終的にクラスで孤立してしまったわけです。

その事でクラス全員が担任に叱られました。
その女の子の父親がクラスに来て
仲良くしてやって欲しいと、頭を下げに来た事を記憶しています。
いじめを無くしたいのであれば
その娘をもっと清潔にしてあげれば良いわけですが
いじめる側が悪なので、子供たちはどうする事も出来ない。

不潔なのはいけない事とするルールはありませんし
臭いのもいけない事とするルールはありません。
従って、不潔で臭い人と仲良く食事をしないといけないわけです。

しかし、仲良くできるわけもないですよね~
不潔な状態は何も変わらないので
言葉で「寄るな!、触るな!」と言わなくなっただけで
結局その女の子には、誰も近づこうともしないまま
転校して行きました。







私は、不登校児だったのですが
それでも過去を振り返ると
結構な人数いじめられてましたね~

やたら正義を掲げて融通の利かない人
極端なナルシストで自分が見えてない人
自分の世界観でしか物事を判断せず、その世界観を押し付ける人
約束事を平気で破り続ける人
良い事をしていると自分に酔っている人
我が強く、強引に何でも自分の思い通りにしようとする人

不登校な私が記憶しているだけでも
こんな人たちがいじめられていました。

私は集団の和にはいれない学生だったので
いじめには無関係でしたが
和に入っていない私を心の友だ!といういじめられっ子もいましたね~
孤立状態が同じなので、親友と言う事らしいのです。
ただでさえ、いじめに合うくらいウザイ人間なので
私自身も心底ウザイと思っていたのですが
そんな人間が、私の気持ちなど汲んでくれるわけもないのです。w
勝手に親友だと言っていましたが
私は、ウザイ!とハッキリ言っていました。
ですが、全く聞く耳を持っていませんでしたね~
そんなんだからイジメにあうんですが・・・

今思えば、私自身も他人の気持ちを汲む事をしなかったので
同類だったんでしょう~ね。^^;)
マジでうざくて仕方なかったのですが
これも、大自然の法則ってやつでしょう・・・w




ルールに囚われるとなかなか気づけない事ですが
大自然の法則には、人がつくったルールなど全く関係なわけです。

従って、いじめられる側は、いじめが始る直前から過去に遡り
色々と周りに不快な思いをさせているわけです。
虫を殺す感覚でいじめをする弱い者いじめもあるとは思いますが
そんないじめは、小学校低学年まででしょうね。

結局は自分が周りに与えた不快感が
いじめという形で自分自身に返ってきている場合が殆どでしょう。
正しいも間違いも全く関係なく
周りに与えた不快感という事実のみが作用しているわけです。

私自身も、クラスの行事には参加せず
気に入らないという理由で、殴ったり蹴ったりとそんな学生だったので
沢山の人たちに不快な思いをさせまくっていました。
同級生、下級生、上級生に限らず、教師や両親、赤の他人と・・・
なので、集団リンチに2度ほどあった事があります。^^;)
一度目で改心すればいいものを
一人じゃ何も出来ないへなちょこどもめ!くらいに思っていたので
二度目は、鉄パイプで頭を割られて重傷でしたね~w

まぁ~私の場合は、自業自得だと理解しているわけなので
いじめに合ったとは、思っていないわけです。
今の時代ならいじめ事件で大問題でしょうね~
でも、私は人生で二度も集団リンチに合っているのですが
いじめられた経験はないとそう思っています。

いじめに合う人も自分自身の不徳のせいだと理解できれば
いじめに合ったとは、思わないのでしょうが
そんな簡単なモノではないでしょう。


通常のいじめに合う人たちは、どうしてこんな目にあうのか?わからないわけです。
そもそも、周りの人たちを理解する事ができなくていじめに合うわけですから
自分が周りに不快な思いをさせているなど微塵も思っていいないわけです。

当然、いじめる側=悪で終わらせてしまうので、どんどんと悪化する場合が多いのです。

また、今の社会はかなり恵まれている影響もあり
必然的に心の弱い人が増え続けているので
その出来事が心を壊してしまい自殺する人も出てきてしまう。
なんとも悲しい事です。

何か問題が起きると、どうしても悪を探してしまうのが
人の性というやつかも?しれません。
いじめる側が悪
いじめを指導できない教師や学校が悪
いじめない教育をしない親が悪
・・・と、悪を無くせば問題が解決すると思い込んでしまうわけです。

「悪」とは、自分に都合が悪い時に生み出されるだけであり
「悪」など何処にも存在しないのがこの世の理であり
我々に慈愛の精神を学ばさせる為に出来事が起きているので
「悪」を消滅させようとすれば、するほど悪化するわけです。




以前、このブログにも記しましたが
人の苦悩は人間関係から生まれるものであり
その苦悩は、人間関係から改善されるわけです。
なぜならば、人間関係の中でしか慈愛の心を育めないからだと
なんとなく、そんな風に思っております。

従って、人間関係の中には常々慈愛の
精神を学ばせる仕組みが存在するわけです。

我々の社会から争いが無くならないのも
「いじめ」という仕組みもその中の一つでしょう。

そもそも、慈愛の対極にある
煩悩を植え付けられているのが人間です。
その煩悩により苦悩を体験し慈愛を学ぶように
この世は創られているわけです。

他人を深く理解しなければ、辛く苦しい現実を突きつけられる・・
自らの欲望を満たす為に他人を傷つける行為を続ければ
その反動が自らに降りかかる・・・
これらの体験をする事により、他人という存在を理解できるようになり
傷つき、傷つけられ、苦悩を味わう事で
少しずつ慈愛の精神を育んで行くのでしょう。

人が集団になれば、必ず人間関係でもめるように
初めからそんな仕組みが存在しているわけです。

10人集まれば、必ず一人が足を引っ張る存在となり
そのひとりを排除した所で、新たな人間関係のトラブルが生まれるはずです。

初めから、自分の思い通りに物事が進まないように
この世の中は創られているのですが、その仕組みがあるおかげで
私たちは物事を深く理解しようとする思考が創られてゆくわけです。


そもそも、慈愛の心を育む為には他人を深く理解する必要があります。
自分の足を引っ張る存在をいくら排除しても
また、同じような人が現れるのは
自分にとって都合が悪い人を深く理解する必要があるからです。

従って、いじめに対して生まれた「悪」を排除しようとする行為は
「いじめ」自体が抱えている問題と全く同じなので
「いじめ」がどんどん増え続けるわけです。



初めからいじめは無くならないのがこの世の理であり
いじめが起きた時点で、他人を理解する事を学べば言いわけです。
いじめが起きる度に、そこに関わった人たちは成長できるでしょう。
そもそも、その為にいじめが起きるわけですからね。

結論を申し上げますと
「いじめ」は、慈愛の精神を学ぶ為に必要だから起きている・・・
「いじめ」は、どうしたってなくならない・・
それが大自然の法則だから。
と言うのが私の考え方です。

人間同士の争いがなくならないのと
同じ仕組みなんでしょうね~







昔、私が修行している寺の住職が
「本当に困ったら人様のモノを盗んだっていい!
後々余裕が出来た時、ちゃんと償へばいいのです。
自分の命より大切なモノなんてどこにもないんですから!」
という話をしてくれた事があります。
極端ですが、自分を殺そうとする相手がいれば
その相手を殺したっていいんです。

今の社会は、ルールや目先の出来事に囚われ過ぎて
人として大切なモノを見失いがちですよね~
私も気を付けなければ・・・^^;)








≪※お知らせ≫
メールの相談が混みあってしまい・・・
私生活がままならなくなってきましたので(^^;)
相談受付をしばらくお休みさせて頂きます。
同じ理由で、このブログのコメント機能も停止させて頂きました。

今後は、一方的な我がままブログとなりますが、何卒ご容赦ください。m(_ _)m

正しさに拘るのは、愛がない証である

善悪の判断がなければ
社会の秩序は保てない・・・
確かにそうなんでしょうが
善悪に拘ると人の心は壊れて行くのもです。


精神を病む人の殆どが
善悪の呪縛に心を蝕まれているように感じています。


あれはいけない!
これもダメ!
と、ダメダメ攻撃の今の社会により
多くの人の心が崩壊しているわけですが
何でもOK!にしてしまうと
今度は、社会が崩壊してしまう。

まぁ~ゆるす心が欠如して
どこかに悪を生み出さないと
いられない人が増えているので
今の社会となったんでしょう~ね。

これも時代の流れなんでしょう~
そして、それが人の進化なのかも?しれません。








どんな人も正しい事に拘ると
無意識に悪を生み出してしまいます。
悪を生み出せば、生み出すほど
そのエネルギーに自らは蝕まれてしまい
病気や怪我、自己、などなど
辛い出来事が頻繁に起きるようになる。
自分が生み出した悪に蝕まれてしまうわけです。



とは言え、悪を放置しても
自らが迫害される事になる・・・
と、そう考えるのが普通なんですが
でも、実際は
悪とするのは、自分自身の意思であり
迫害された現実も、排除したい出来事も
自己の過去からの言動が原因だったりします。


善も悪も存在しない世界で
いくら善悪に拘ってもどうしようもないわけです。




争いのない世界が本当に良い世界なのか?
争う事で、多くを学んだ経験は誰にでもあるのでは?
自分本位で身勝手に過ごす事を体験し周りから批判され
分かち合い、助け合う事の大切さを理解できるのでは?
心に傷を負う事で強い精神が培われるのでは?

苦悩を拒絶し、快楽を満たす事を求める社会では
成長のない弱い人類を創り出してしまう事となり
ちょっとした出来事で、多くの人が心身を壊してしまうのは
仕方のない事なんでしょう。


そもそも、私たちが慈愛の精神を育むように
この世は創られているので
初めからそれを目指して入れば事足りるのですが
そんな教育ではなく
真逆の教育しか受けていない私たちは
そんな簡単な事にも気づけないわけです。






例えば、不倫をした人を責めるのも
『愛』というモノを知らないからだと
私はそう思っています。


不倫にも色々あると思うのですが
夫が不倫をして離婚となったら
妻と子供が可哀そうだと言うのが
一般的な解釈でしょう。
よく浮気はゆるせないから離婚する・・
と言う人もいますが
そんなの、ただの独占欲なんですよね~
裏切られるだけの事をしている事に
全く気づけないわけです。
煩悩を阻害され、そしてゆるせない・・
=愛がないわけです。
社会のルール上、浮気した夫が悪ですが
自然の法則上は、ゆるせない=悪なので
そんな人は何度も人に裏切られたりします。
どんな社会も自然界に存在しているので
大自然の法則には逆らえないわけです。w

そもそも本当に夫を愛していれば
夫の幸せを心から願っているので
夫が違う女性に心を奪われたなら
自らの愛情不足だったと省みるはずです。

本当に愛していれば
相手の幸せを常に心から願うものですが
愛ではなくルールを優先するので
妻と子どもが可哀そうだと思ってしまう・・
それは愛情ではなく愛欲であり
相手を求める煩悩がそうさせだけで
そこには、夫を思う気持ちなどないわけです。

自分の欲望の為に
夫の人生を犠牲にしていると思えば
誰しも嫌なはずですが
ルールを破る=悪とする思考が
その部分を見えなくしてしまうわけです。








また、正しい事に拘り過ぎて
負のエネルギーを生み出している事に
全く気づけなくなる事もあります。


私自身、色々なボランティアに参加した経験があるのですが
『自分は良い事をしている』と、そう思いたいが為に
活動をしている人も多くいます。
それでも、実際に助かり人がいれば
それで、いいとは思うのですが
普段の生活の中で、それを続けると
結構、悲惨な目にあったりするので、注意した方がいいでしょう。


誰しも自分が嫌だと思っている事を
それを正しい事そしてされると困ってしまいます。
私自身も一方的な善意を向けられるとうんざりします。w
まぁ~私の場合は、ストレートに言葉にして伝えるので問題ないのですが
他人を傷つける事に恐怖を感じる人であれば最悪な事態になります。

自分がしてほしくない事をされると誰しも嫌ですよね。
そのされて嫌な事を、良かれと思ってしている相手には
なかなか嫌だと言えないものです。
相手を傷つけてしまいますからね~

とは言え、その旨を伝えずに我慢していると
何度も同じ事を繰り返される事になり
うざくてうざくて仕方なくなり
ストレスが溜り続けてしまいます。
もう限界だ!となった時、爆発するでしょう。

爆発された側は、???何の事だか全くわかりません。
なんでこんなにひどい事を言われるのか?されるのか?
全くわからないので、相手の事を酷い人間だと思ってしまう・・
だって、本人からすれば何も悪い事をしていないし
逆に良い事をしていると思っているわけですからね~
酷く傷つき心を壊してしまう人もいるでしょう。


なぜ?こんな事が起きるのかと申しますと
自分の善意を押し付けているからです。

要するに、相手を全く理解しようとせず
愛情だと決めつけた、強烈なエゴをぶつけているわけです。
善意を受け取る側の気持ちを考えなければ
それは、ただのエゴとなり、身勝手な行動と言えるでしょう。

身勝手な行動を取り続ければ
苦悩に直面するのが自然の法則です。

しかし、良い事、正しい事という思考が
その事実を打ち消して見えなくしまうのです。

相手を傷つけまいとする側も
傷つけたくないというエゴがあるので苦しくなるのですが
壊れた側も、その事に気づけない・・・
だって、人を傷つける事は悪い事だから・・・
これも、一方通行な善意が生み出すエゴに他ならないわけです。

ハッキリ言って、嫌がらせをされるより質が悪いんです。
なので、平気で嫌がらせをする人たちより
正しさの呪縛にハマった人の方が
心を壊す確率が高いですね~








大自然の法則は、私たちに慈愛の精神を
学ばせようとするので

求めている相手に裏切られる・・・
とは⇒相手の幸せを願う心など微塵もない

一度、手に入れたものが失われて辛い・・
とは⇒与えようとする心の欠如

という解釈をし、何度も似たような出来事を引き起こします。



ようするに常に愛を学ばせて頂いているのですが
愛を知らないから傷ついてしまう・・・・

ただ、私たちの心は傷つく事で強くなります。
鉄は熱いうちに打てば、強靭な鋼になり
木も枝を掃えば、よく育つ
人は、鉄でも木でもないと言われそうですが
苦悩と言う痛みがなければ
人の心は幼いままだと私はそう思っています。

どんな人も多くの苦悩を乗り越えてでしか
強く生きる事は出来ない事を
本当は誰でも解っているのに
無意識に苦悩を排除しようとしてしまうわけです。

しかし、残念ながら目前の苦悩をただ排除すれば
また、新たな苦悩が出現するのが自然の法則です。
なぜならば、苦悩無くして我々は成長できないからです。







大自然は常々
私たちに慈愛の心を育ませる出来事を
引き起こしているので
慈愛が足らない人は、どうしても
騙されたり、裏切られたり、傷つけられたり
する事が多いはずです。

正しさに拘れば拘るほど
真実が見えなくなってしまうので
ゆるす心が足らない事や
善悪など存在しない事を教える為
理不尽な辛い出来事が増えるわけです。




私は、通り魔に愛娘が殺されても
通り魔をゆるす事が出来ます。
え!そんな!とか言われますがw

自分の言動が目前の現実を引き起こしているのを
よく知っているからです。

誰でも、この仕組みの多くを体験してしまえば
私と同じ事を思うと思います。


目前にある辛い出来事は
自分自身の過去からの言動が原因で起きる
即ち自分が変われば未来の現実が変わると言う事です。


従って、嫌な出来事、辛い出来事は
自分自身に慈愛の心が足らない証だと理解し
良い事、正しい事など捨てておき、そこに目を向けた方が
物事がスムーズに進むと私はそう思っております。

要するに、どれだけ周りを想う事ができるか?
即ち、どれだけ周りを理解する事ができるか?
に尽きるんでしょう~ね。
正しさに拘ると、真実が見えなくなるので要注意です。



簡単にできる事じゃないですけど
簡単に出来ないから人生を楽しむ事ができるのかも?しれません。^^)