修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

日本人で良かったと思う理由

私の携帯の着メロは君が代なんですが
国歌が流れる事で、たまに嫌な顔をされたりします。
右翼?とか?聞かれたりもします。w

祭日とか国旗を掲げようとすると
やめて~!とか言われたりもします。

なんでやねん!とか思ったりするのですが
愛国心を前面に出すと怪しい奴・・とか
思われたりするのも否めない事実でしょう。

でも、本心では、日本人で良かったと思っている人は
とても沢山いる事を私は知っています!(☆_-)



時に私が日本人で良かったと思う所なんぞを記してみます!



その1
天皇陛下 万歳!』

私は昔、天皇陛下なんて必要ないでしょ?くらいに思っていた事があります。
(今では、なんと不敬な事を考えていたのだと深く反省しております。m(_ _)m )

理由は簡単です。
天皇陛下の存在が、私自身の快楽を満たしてはくれないと思っていたからです。
ようするに私に贅沢をさせてくれる存在ではないと思っていたんです。
天皇陛下がいなくても、今の生活は何も変わらないだろう~
ならば必要ないのでは?と、思っていましたね~

天皇陛下の事を知ろうともせず
ただの思い込みで全否定するという愚者の極みだったわけです。
最低~な人間ですよね。^^;)

象徴とはなんぞや?と言う事を誰も教えてくれなかったですしね~


密教神道の修行を経て『祈る』行為の重要性を学んでからは
我が国日本は、天皇陛下の存在があって初めて成り立っている事を知りました。


他人の幸せを心深く願い祈りを捧げる事ができれば
その時点で誰しもが幸せなんです。

自分の事がちゃんとできていないのに
他人様のことなんて・・・
と、思うのが普通ですが
実際には、他人様の事をちゃんと想いやる事ができないから
自分の事がちゃんと出来ないわけなんです。
無意識に真逆の発想をして
物事が空回りしているのが人の性なのかも?しれません。

自分が幸せでなければ、他人を幸せにさせる事はできない・・くらいに
思っているうちは、理解できない事だと思いますが
偽善だろが、常に多くに感謝を捧げ、多くの人を願う祈りは
自分自身を大きく成長させてくれます。

いくら多くの人々の幸せを願っても自分自身の快楽は満たされないので
自分自身が快楽を求めている以上
なかなか、出来る事ではでないのですが
私たちの代わりに陛下が、毎日、世界中の人の幸せを願い
祈りを捧げて下さっているわけです。

世界中の人々の安寧を願い尽力する事が日本の心であり
世界中の人々の幸せを心深く願う行為が自らをも幸せにし
その行為自体が、日本の象徴そのものなんだと
私はそう思っています。

要するに天皇陛下は我々日本人のあるべき姿の
お手本と言う事になんでしょう。



実際にやってみないと解らない事だとは思いますが
毎日毎日、多くの人の幸せを心深く願い祈りを捧げていると
視野が広くなり、目の前にある現実の意味が良く理解できるようになってきます。

我々のご先祖様は、その事を良く知っていたのでしょう。
大和魂という日本を代表する言葉があるように
多くの人の幸せを願うのが日本人と言う事なのです。

国のトップが、毎日世界中の人の幸せを願い祈りを捧げている国が
世界にどれだけあるでしょうか?

天皇陛下が日本の象徴であるという意味を
我々国民はもっと深く知る必要があるように感じています。






その2
『日本神道

日本には八百万の神を祀り
全国に数万社の神社があります。

新しい年を迎え、初詣に行く人も多いと思いますが
この初詣にいく神社の共通教義は
我々日本人のあるべき姿だとそう思っております。

大和魂を持つ我々日本人は他の宗教をも受け入れます。
この世に存在するすべてが神々の思し召しなので
何ひとつ否定するものなど存在していないのです。

経験値が違えば、価値観が異なるのは当然の事で
価値観が違えば、様々な考え方があるのは当たり前なので
それらを否定せず、受入れる事で
自らを進化成長させるという教えです。


神道では、自然を神とします。
仏教などでは、観音様、お不動様など偶像崇拝しますが
日本神道には、崇拝する偶像がありません。
自然そものもが神ですからね~

全ての自然現象は神々がしている事となり
目前の現実は、全て神々がしている事とします。
従って何一つ否定批判する事は許されない・・
目前の現実を真摯に全て受け止め
自らを改善する行為を人生の中で繰り返すわけです。

この行為を続けていると
自分自身はどんどんと成長して行きます。

これが日本人の心でしょう。
日本の剣術、武術、柔術などにもしっかり表れていますし
サムライスピリッツも、本質は同じですよね~

自分の魂を磨き上げるには
全ての現実を受け入れて、その意味を知る事だという教えです。


神社共通の『敬神生活の綱領』という教義があります。

『敬神生活の綱領』
一 神の恵みと祖先の恩とに感謝し、明き清きまことを以て祭祀(さいし)にいそしむこと
一 世のため人のために奉仕し、神のみこともちとして世をつくり固め成すこと
一 大御心(おおみこころ)をいただきてむつび和(やわ)らぎ、
国の隆昌(りゅうしょう)と世界の共存共栄とを祈ること

ここに記してある事は、簡単に言うと
1、全てに感謝する事
2、自分以外に与え尽くす事
3、世界中の人々の幸せを願う事

これが出来れば、その時点で誰しもが幸せになれる事を私は学びました。

なかなかできる事ではありませんよね。^^;)
誰しもが
心から感謝する事なんて出来ないし
周りに与える事より、自分が得る事を優先する・・
また、他人の不幸は、見て見ぬふり・・
だと思います。
だって、いくらそんな事をしていても
自分の快楽は満たされませんからね~

快楽を満たす事が幸せだと思っている以上
仕方のない事だと思います。

なので、なかなか幸せを掴む事ができないのですが
自分自身が幸せになる為に必要不可欠な
大自然の法則が明記されているわけです。

いくら快楽を求めても
何人たりとも幸せにはなれませんよ!と言う事が教義なわけです。


凄い!と思うのは私くらいですかね??^^;)






その3
『日本という国名の由来』

日本という国名について色々な解釈があるようですが
私自身は神道的解釈によるものではないか?
と、そう思っております。
(あくまでも私がそう思っているだけなのですが・・^^;)

私たちは、太陽がなければ生きる事ができない世界で生活してます。
地球上のあらゆる存在が太陽の影響を強く受けているわけです。
言い換えれば、太陽の恵みあって我々は生きる事ができる。

神道の中枢は伊勢神宮なのですが
ここには太陽神の天照大神が祀られています。
地球上のあらゆる自然現象の象徴と言えるわけです。

我々が生活するこの世界は
太陽に基づいた自然現象の中にある為
全ての自然現象を神とする神道では太陽神がその中心となります。



日本の事を『日の本』(ひのもと)と、よく言いますが
我々は、太陽を中心としたすべての自然現象を
神とする国に属する民族という事になり
言い換えれば、大自然の中で暮らす意味を
国名にしている民族なのです!


大自然の法則を知り、その上で暮らせば
誰しも幸せになれる!と思っている私としてはこんな国名を掲げる国に
生まれ育った私は幸せ者だ!とそう思うわけです。^^)



Wikipwdiaに国家である『君が代』は
天皇の治世を奉祝する歌」と記してありますが
日本神道をしっかり学べば、そんな解釈など出来るはずがないんですけどね~
まぁ~我が君を人物と称するのが一般的なので
仕方ない事なのかもしれませんけど・・

とても残念な事なのですが、これも神々がしている事と受け止め
この事態が何を意味するのか?しっかりと考える必要があるんでしょう~ね。





書きだしたら、まだまだ
色々あるんですが、今回は、この辺にしておきます。




皆さまにとって良き年でありますよう祈っています~^^)

ルールとは、自分たちに都合よく作られるもの・・

誰しも、自分に都合の悪いルールに縛られるのは嫌なものです。
私も、嫌です。w

しかし、集団生活においてルールを設けなければ
秩序が保てない・・・

何が正しくて、何が間違っているか?を定める事で
秩序を保ち過ごしやすい社会を創造する・・

では、秩序を保つ言う事とは?
過ごしやすい社会とは?
どう言った事なのだろうか?

まぁ~簡単に言えば争いを無くす事でしょう。
苦悩のない社会ってのもありますね~
社会を発展させる・・と言うのもありますが
人々がもっと贅沢に暮らせる社会の追求だったりして・・w


そして、誰しもが思う・・
争いなどない方がいい・・と。
苦しみなどない方がいい・・と。
もっと贅沢な暮らしがしたい・・と。w
だから、ルールに従うのでしょうね。




しかし、ルールに囚われてしまうと
人生を破滅に追い込む事もあるわけです。
正義を貫き通し
間違いや悪をゆるさない生き方が
自らをどんどんと苦悩の淵へ追いやってしまいます。

その理由は簡単な事で
善も悪もこの世に存在していないからです。

ルールを守らない=悪
ではなくて
ルールを守らない=私たちにとって不都合
と言う事なんでしょう。


常に正しく生きて来たのに・・・
誰にも迷惑をかけた事はないのに・・・
どうしてこんな酷い目にあうのだろう?
と、いう相談を受ける事が良くあります。

これは、ルールに囚われてしまった典型的な例だと
私はそう思っています。


正しい事は、自分にとって好都合な事でしかなく
誰しも周りに迷惑をかけながら生きているのですが
正しい自分という思いが、その事実を見えなくしてしまう・・

要するに、常に周りに迷惑をかけながら過ごしている私たちは
常に、周りに気遣い、気を配り、尽くしながら生きて行かなければ
確実に嫌な出来事に苛まれるわけです。

正しい事に拘ってしまうと
誰しも、この苦悩の渦に囚われてしまうのが
自然の法則なんでしょう。




大自然の法則には、善も悪もなく
我々にただひたすら慈愛の精神を育ませようとしていると感じています。
目前に起きる、全ての出来事がその為にあるような気がしてならないのです。

人類の歴史を振り返れば争いが繰り返されているわけですが
争う事で、慈愛の精神を学ぶ事が出来るからだとも思います。
ゆるす心を学ぶ為には、どうしてもゆるせない出来事が必要であり
慈愛の精神を学ぶ為に我々は
利己的に生きる本能を植え付けられ
どうしても他人と争ってしまうわけです。


従って、いくらルールを作りそれを守って過ごした所で
人は争い続けるのも自然の法則でしょう。

世界が平和になればなるほど
人は堕落して行くのも自然の法則だと思います。

なので、堕落せずに平和を目指す
仕組みが必要なんでしょう~ね。



争いの原因となる事象に対してルールを設けて悉くつぶして行くと
どんな人も、慈愛の精神を学ぶきっかけを失う事になるのでは?
と、そんな事を思ったりします。


実際に相談に見える方々に
『今までの人生の中で、どれだけ他人や社会に尽くして来ましたか?』
とお伺いすると
『そんな事、考えた事もなかった!』
と、殆どの人がそう答えます。

まぁ~実際に他人や社会に尽くす言動が足らない為に
辛く苦しい出来事が起きるので仕方のない事なんですが
ルールに縛られた我々は、どうしてもルールさえ守っていれば
幸せになれると勘違いしてしまうわけです。

そんな教育を受けて育ってきていますからね~





先日、私が顧問をしている会社の会議で
『働く』とは?どういう事なんでしょうか?
と言う質問を受けました。

道を作る人、自動車を作る人、家を作る人
食べ物を作る人、電気を作る人・・などなど
それぞれの人が社会の役割を担い貢献する事が
働く事なのですが

働く=生活費を稼ぐ
くらいに思っている人が多いわけです。


日々の暮らしをもっと贅沢にしようと
毎日必死に働いている人と
日々の暮らしに感謝し、社会に恩返ししようと
毎日一生懸命働いている人では
どちらが幸せなのか?
ちょっと考えれば解る事なのですが
常に多くを求め、己を振り返るという習慣を忘れ去ったが為に
なかなか気づけないのです。


与えなければ手に入らない自然の法則があるので
いくらせっせと働いても
その行動が利己的なモノであれば
自らへの苦悩を育てているに過ぎないのですが
なかなかどおして、与えて得る体験をしない限り
そんな事を言われても理解できないでしょう。






また、ルールに囚われると
過ちを許せなくなります。

そもそも正しい事とは自分に都合の良い事なので
常に自分都合の解釈に拍車がかかってしまうわけです。

他人の過ちをゆるせない為に
自分にも厳しい~なんてよく耳にしますが
結局、これも自分都合の解釈なんです。
他人をゆるせないから
自分もゆるせない・・
単にゆるす心が欠如しているだけなんです。w

何一つ、自分に厳しいわけではなく
常に自分に言い訳ばかりしている人が多いですしね~w
(私もその一人ですが・・w)
そもそも、本当に自分に厳しい人は
自分の至らなさをよく知っているので
他人に厳しくする事なんて出来るはずがないんです。

正しさ(自分都合)にこだわるから
自分都合解釈を積み上げてしまう・・・

ゆする心が無い為に
どんどん自分の視野が狭くなるわけです。
なんでもかんでも自分都合でしか
解釈できなくなっている事に全く気づけない・・

結局は、自分の思いがどこにあるのか?
で、正しさなんて移り変わるんですけどね・・

これは、私自身に良く言い聞かせた事なんです。^^;)




大学の無償化より
待機児童対策を!というニュースを見たのですが
これも、目先の利益を優先すれば
まずは待機児童対策をとなるのですが
世界を視野に国益につながる優秀な人材を掘り起こす
目的であれば、論点が全く違うわけです。

オリンピックの膨大な予算も同じでしょう。
この先、世界各国関わり方で日本の未来が大きく変わる為
オリンピックを機に日本の素晴らしさを
世界にアピールし、他国との関係を優位にする事が目的なら?
膨大な予算も致し方ない・・?
でも、国内だけの視野で考えれば
無駄遣いにしか思えない・・・

それぞれの視点で
どちらも正しいわけです。

まぁ~一般国民程度では
日本と世界各国の関わりなんてわかるはずないので
仕方のない事なんですけどね。



なかなか難しい事かもしれませんが
私は、自分視点の正しさを主張する前に
まずは、相手が正しいという視点で
物事を考えるように努力しています。

極端な話、犯罪者=悪ではなく正義?とか?w
悪で終わらせるのではなく
なぜ?犯罪を犯してしまったのか?
どんな理由で?何が原因で?

不倫やいじめも
それをルール上の悪とするのではなく
それらの体験から、何を学ぶ必要があるのか?
と、考えるわけです。

そして、色々な仮説を立てて
日々を過ごしているのですが
何だかんだと毎日穏やかに過ごせるようになったような気がします。w


時に、物事を斜めに見てみるのも
自分の視野を広げる助けになるのかも?しれません。w


まぁ~色々と大変な時代だと言われていますが
滞りなく衣食住にありつける事に、まずは感謝ですね。
いや~本当にありがたい事です。^^)

自分の幸せは、人間関係の中にあるのかな?

長年、相談ボランティアをしていると
苦悩の殆どが、人間関係から始まっているような気がします。

自分の思い通りにならなくて
怒りや、憎しみを抱く対象は人であり
それを変えようとしても、なんともならなくて
辛く苦しい思いをしてしまう。

そもそも、自分以外を変えようとするから
苦しいんですが人の社会のルール上
それを認めるわけにはいかないようです。



ひきこもり、いじめ、うつ、統合失調症・・
借金苦、DV、病気・・などなど・・
全て、他人との関わりを見直す為に起きているように感じます。



そう考えると、他人を大切に思う心があるだけで
誰でも幸せになれるのでは?
と、そんな気がしてしまいます。

幸せとは、意外にも
身近な所に存在しているんでしょうね。
近すぎで、なかなか見えないものなのかも?しれません。





自分の価値観と違う人たちを
理解しようと努力を続けていれば
自分の至らない部分が見えてくると言う
大自然の法則があります。


私自身、霊障に悩み苦しんできたのですが
この感覚のない人たちを理解しようと努力した事で
自分の事しか考えていない
愚かな己を知る事ができたのを記憶しています。



誰しも、周りに多くを求めているので
自分の意思にそぐわない人達に対して不満を抱いたり
その人たちを変えようとしてしまいます。

自分と価値観が違うだけなのに
その価値観を認め、受入れる事が出来ない・・

経験が違えば価値観が違うのは当たり前なんですが
そこまで、深く理解しようとしないわけです。

思い通りにならない相手を
ただただ責める・・
自分に不快感を与える相手に
ただただ怒る・・

猫や犬だとゆるせても
相手が人だとゆるせなくなる・・

飼っている猫や犬は与える対象ですが
相手が人だと無意識に
色々と求めてしまうんでしょうね。


物事を強く求めれば求めるほど
毎日毎日、そんな判断をしてしまい
人間関係がうまくいかない・・


ひょっとしたら不幸とは
たったこれだけの事なのかも?しれません。








いっその事、一人でいればいい!
なんて私も良く思いましたがw
残念ながら、他人との関わりの中にしか
幸せはないので、ひとりぼっちでは幸せになれないわけです。


私は、人に酔う体質なので
1人でいる事を好むのですが
山に1人で出かけ何日も過ごす事で
1人でいるのが好きなわけではないんだ・・と
自分を知る事ができました。

1人でいるのが好きなわけではなく
人の負のエネルギーを感じるのがイヤ。
自分の意思にそぐわない人たちといるのがイヤ。
自分の都合を押し付けてくる人といるのが面倒。
ようするに自分の思い通りに過ごしたいのに
それが出来ないのが嫌なわけです。w

これって、ただの我儘ですよね?w

他人を思いやる心が欠如しているから
1人で過ごしたいと思う事にガッツリ気づかされました。w




面白い事に
他人に喜んで貰いたいという欲求がでてくると
1人で過ごすのが淋しく感じたりします。
1人で過ごしていれば、いつまで経っても
その欲求が満たされませんからね~

ペットを飼う人が増え続けるのも
与える事と求める事のバランスを維持する為なのかも?
他人を与える対象にすれば
どんな相手でも癒されるんですけどね~

とは言え、他人の幸せを共有する体験を
繰り返さないと、なかなかそうは思えないでしょうけど・・













幸せ=他人との関係なら
人間関係をよくよく考えながら過ごした方が
幸せになれるという事になります。



人間関係をスムーズにするには
相手を深く理解する必要があるのですが
まずは、自分と他人は経験値が違う為
初めから価値観が違うと思って接する事でしょう。

また、どんな人も先祖代々の経験値を受け継いでおり
その経験値を元に、人格が構成されているので
ムカつく相手の性格は、本人の問題ではなく
その人の先祖の経験値に問題があるわけです。

責めるなら、ムカつく相手ではなく
ムカつく相手の先祖と言う事になるんですよね~w


私自身、血の仕組みを深く探究していたら
ムカつくあいてを責めるのが馬鹿らしくなりました。w




あと、出来事から学ぶ姿勢かな?
何度相手を変えようとしても
嫌な相手を排除しても
何度も何度も同じ事が繰り返されるのが
自然の法則なので
人間関係で嫌な思いをしているなら
そこから何を学び自分をどう改善するか?
なんだと思うわけです。

私自身、それを繰り返しているだけで
かなり怒りの感情が減りましたね~

で、気付いたいのです!
私の中で無意識に込み上げて来る感情は
意識で抑え込む事ができないので
血肉が記憶している事だと・・
と言う事は、他人も同じで
いくら何度も言葉で伝えても
相手も無意識にしている事なので
簡単に変えられるわけがないのだと・・

相手が自分に向ける感情に対して
いくらムカついても仕方なく
どうすれば良いのかを考え
自分自身を変える方が、物事がうまく進む。

自分を変えようとする事で
こんな事に気づかされる経験をした事があります。



あと、もう一つは
『悪』を生み出さないようにする事でしょうか?
人間社会では善悪の判断が秩序を保っていますが
自然界には、善も悪もなく
善とは自分に都合が良い物であり
悪とは自分に都合が悪いものでしかないわけです。

従って善も悪も自分が決めつけているだけに過ぎないのですが
私たちは、そんな教育を受けていないので
その判断が染み付いているわけです。

『悪』とは、自分に都合の悪いものに過ぎず
悪を生み出すと出来事からなかなか学ぶ事ができなくなります。
自己の成長が停止する事の方が多いでしょう。
相手が悪くて自分が正しいわけですが
自分を改善する必要がないと思い込んでしまうのです。

従って、気に入らない事、ムカつく事が多い人は
自己の心の成長が止まったままになるわけです。

逆に、悪を生み出すのではなく
自分の嫌だと言う感情と向き合い
自分の何をどう改善すれば、この感情がなくなるのか?
をしっかり考えて言動に移す事で
目の前にある現実が自然に改善されるはずです。

そんな大自然の法則がありますからね~


どんな出来事も、どう受け止めるか?は
自分次第ですし
同じ出来事でも、感謝する人もいれば
憎しみを抱く人もいます。

他人から罵声を浴びせられて
自分の至らなさに気づかせて頂いたと感謝する人も居れば
酷い事を言われたと、怒る人、憎む人、悲しむ人
と、それぞれだと言う事です。

何をどう受け止めるか?は
自分が何を求めているか?によっても
大きく変わってくるのですが
往々にして、快楽を求めれば求めるほど
腹が立つ事が多くなるでしょう~ね。w


まぁ~誰しも、快楽を求めてもがき苦しむんですが
それはそれで、楽しく生きる為に必要な事なのかも?しれません。^^)