修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

「幸せ」を「快楽を満たす事」とする弊害

私は、常々「幸せ」と「快楽」は別物だと
そう言っているのですが
どちらかと言えば
「快楽」も「幸せ」のひとつ
と解釈する方が一般的でしょう。

ただ、大自然の法則上
「快楽」のみを求め続けると
「苦悩」を伴う事になるので
私は「幸せ」と「快楽」は
別物だと考えるようにしています。



「人々の幸せ」を定義すると
「苦悩のない世の中」に結びつき
様々な「苦悩」を排除する事を「良い事」とするのが
我々が過ごす「社会の常識」でしょう。
逆を言えば「快楽」が満たされる世の中を
「良い事」とし
そこに向かって社会が営まれているのだと
私はそう感じています。



こんな話をすると
「それのどこがいけないんだ!」
なんて言われるんですが
別に、いけない事ではなく
そんな社会で過ごしている事を知った上で
大自然の法則と結びつけると
色々な「苦悩」が利他的な心の欠如に結びつき
自己改善するしかなくなってくるのです。

そして、その結果、自分の人生を有意義に楽しめると
そう思っています。




私は、今の社会が向かっている方向に
なんだか違和感を感じるんですが
私だけですかね~?
ひょっとして、皆さんも感じていませんか?

「なんかおかしな社会になってきたなぁ~?」
と、感じることはありません?


恐らく、その原因は
人間という生き物は「苦悩」のない世界では
生きられないように創られているからでは?と
そう感じているのです。

私たちは、「苦悩」による
様々な葛藤の中で
成長する生き物であり
なんでもかんでも「苦悩」を
排除しようとす社会で過ごす事に
違和感を感じるのは
そんな本能が備わっているからだと
私は、そう思ってしまうのです。


そもそも我々の社会は
人々の快楽を満たす事を「国益」とし
運営されている。
首相が靖国に参拝しないのも
我々の為に命を懸けたご先祖様への「感謝」より
国益」優先している証でしょう。


しかし
「快楽」ばかりを求めていると
かならず「苦悩」が
ついてくる法則のある自然界の中で
我々は過ごしている。


また・・
私たちは、「快楽」を求めるように創られており
それが原因で「苦悩」と向き合う事になり
その「苦悩」を乗り越える事で
心を成長させる生き物だと思うんです。


従って「苦悩」を排除したいのであれば
「快楽」を求めるのを止めればいいのですが
まぁ~人間の構造上できませんよね。w

なので、「快楽」を求め
その結果「苦悩」を生み続ける。
そして、「苦悩」を排除しようとし
更なる「苦悩」を生み出している・・

この悪循環を止めるためには
「快楽」だけを求める社会を止めてしまえば
良いんですけどね~

「苦悩」は人間にとって必要なものなので
なくなる事はないでしょうが
今よりは、少なくなるでしょう。







「幸せな生活」って何?と考えると

皆がいつも笑顔でいる事
辛く苦しい事がない事
不安なく過ごせる事

そう思っている人が多いのではないでしょうか?



でも、想像してみてください!
自分自身が毎日過ごす社会が
誰しもが不快に感じる事もなく
悲しくも、辛くもなく
何の苦しみもなく
毎日、笑って過ごしている人しかいない
社会だったら?


どう考えても
気持ち悪い社会ですよね?

人の感情には喜怒哀楽が備わっており
喜怒哀楽の感情が心を豊かにしているのに
喜楽のみって・・・ありえんでしょう?

そんな社会で生きる事を強いられたら
私だったら、死にたくなりますね~


とは言え、「快楽」を求めるのは
人が持つ正常な機能のひとつなので
気持ち悪い・・と思う私が
おかしいのかもしれませんね。w




ただ、「苦悩」を「排除」するだけでは
更なる「苦悩」を生み出すだけという
大自然の法則がある事を
知っておいた方が良いと思っています。


「苦悩」とは「排除」する対象ではなく
「乗り越える」べきもののような気がするのです。


私自身の人生を振り返ると
他人から見れば、かなり悲惨な体験をしてきました。
冤罪で逮捕され
犯罪者として新聞に載ったりもしましたしね。w

とは言え、あまりにも理不尽な
「苦悩」を突きつけられて来たおかげで
私自身に降りかかる「苦悩」は
私自身が引き起こしている事に気づく事ができたのです。

これが、数百万騙されたくらいの出来事で
終わっていれば、そんな事に気づけなかったでしょう。

しかも、騙されて困っている所に
誰かが、その苦悩を排除してくれたりすれば
嫌な出来事は、だれか何かのせいにしまくっていたでしょう。

いい歳をしたおっさんが
幼稚園児の心のまま、やりたい放題で
とても恥ずかしい過ごし方をしていたと思います。w


私の場合、幼い心のまま長く過ごしたので
数百万、数千万と何度も騙されましたね~
残念なことに「騙す奴が悪い!」と
そう決めつけて、自己改善を怠ってきたのです。

まぁ~でも、あまりにも何度も理不尽な
出来事が繰り返されると
「何なんだ?これは?」と思うようになり
結局は、「悪」を排除するだけでは
意味がない事にも気づけるんですよね~

私の場合、スピリチュアル系に
逃げた事もありますが
自分の人生から逃げた分
気づく事が遅れてしまったのです。

時間はかかりましたが
最終的に憎むべき対象は
自分自身の心の未熟さである事に気づけたので
今では、毎日楽しく過ごすことが出来るようになりました。

要するに
「苦悩」は「排除」する対象ではなく
「学ぶ」対象に切り替えたのです。



私は、血の影響で「敵」をつくる事に長けていたのでw
結構苦労しましたが、自分の過去を振り返ると
今の自分があるのは、どう考えても
自らに降りかかる「苦悩」のおかげなんですよね~

自分の人生に「苦悩」がなかったら?と
考えてみると、幼稚園児の心を宿した
面倒くさいオッサンとして生きる事になっていたでしょうね。
そして、接する人は皆、言葉にはせず
心の中で「この人、最低なオッサンだな~」と
そう思われて、家族に多大なる迷惑をかけていたと思います。w

と言うか、家族も持てなかったでしょう。
結婚も出来ず、友人もいなくて
独身のまま、周りから嫌われながら
過ごしていたでしょうね。w


精神を病んでいる人や
ひきこもったりする人は
結構、面倒くさい人が多いんですがw
そんな人たちが増え続けるのは
「苦悩」を「排除」する社会の風潮も
原因の一つだと思うんですよね~


まぁ~そう言った意味では
「苦悩」を排除しまくった結果
コロナによる「苦悩」が押し寄せているわけで
大自然の法則には、逆らえないって事でしょう。


豊かな社会になり「苦悩」が少なくなり
人々の心の成長が遅くなったり
止まったりしているので
コロナによる「苦悩」から
多くを学ぶ必要があるんでしょうね。


そう考えると「コロナウイルス」を排除するだけでは
新たな「苦悩」に苛まれるって事なんでしょう。

人は、善悪を好き嫌いで判別している

私は自分に都合の良いものが「善」であり
都合の悪いものが「悪」だと
そう思っています。

ようするに
自分の価値観により善悪も変わる。

そして、「好き」「嫌い」も
同じなんでしょう。


自分を傷つける人は嫌いであり
自分に優しくしてくれる人は好き。
自分を拒絶する人は嫌いであり
自分を受け入れてくれる人は好き。

もっと言えば
自分の快楽を満たしてくれる人は
良い人であり、好きな人。
そして
自分の快楽を阻害する相手は
悪い人であり、嫌いな人。


自分自身の感情の動きに注目すると
そんな事が解ってきます。



私がいつも
言動の動機に注目するように
言っているのは
誰しも自分の感情に振り回されて
「善」「悪」を判断しているからです。

「好き」「嫌い」と
「善」「悪」をごっちゃにしているんです。

他人をジャッジしてしまうのも
自分自身が快楽を求めているからであり
「好き」という「善」を求めるがゆえに
「嫌い」という「悪」をなくそうとする。



快楽ではなく自己の成長を求めれば
「好き」より「嫌い」からの方が
学ぶものが多いと思えるんですけどね~





ネット上の情報に批判コメしたり
また、その逆の共感コメ肯定コメ
したりするのも同じでしょう。
「好き」という「善」を求め
「嫌い」という「悪」をなくそうとし
「善」なのか?「悪」なのか?を
ジャッジしてしまう。
そして自身が強欲であればあるほど
その傾向にあるのです。

「善」=「好き」
「悪」=「嫌い」であり
事実を無視して
「善」「悪」のレッテルを貼る。
その為、自分のダブスタにも気づけない。



他人から同じ言葉を向けられて
不快に感じ「悪」とする相手もいれば
そうでない人もいる。
呼吸をするように
ダブスタを繰り返してしまうのも
人の性なんでしょうね。


まぁ~そもそも、この世には
「善」も「悪」も
存在していないので
そうなるんですけどね。w



人が感情に振り回されるのは
「血」による影響なので
簡単には直せないでしょうが
でも、自己の言動の動機に注目し続ければ
その経験値は血肉に刻まれ
次第に「血」に振り回されなくなるんです。

即ち、自分の感情に振り回されず
物事を冷静に判断できるようになるという事です。

是非!自他ともに言動の動機を
注目するよう続けてみて下さい!












誰しも、自分が好きな人
嫌いな人っていると思います。

では、自分自身が「好き」な人とは
どんな人でしょう?


その人の価値観に共感が持てたり
自分の承認欲求を満たしてくれたり
自分を成長させるきっかけを与えてくれたり
自分に優しく接してくれたり
自分に対して何かを満たしてくれる人のはずです。


恋人や結婚相手も
自分の中の何かを満たしてくれるから
一緒にいるわけで
当然、その相手の中にも
嫌いな一面はあるでしょう。

自分にとって都合の良い一面もあり
都合の悪い一面もある・・
要するに、どんな人にも
自分にとっての善悪が共存しているんです。
人に限っている事ではないですけどね。


総じて男女の関係では
「好き」な部分が多いから
「好き」でいられるわけで
「嫌い」な部分が多くなれば
別れるでしょうし、離婚するでしょう。

「嫌い」だと思っていた人でも
「好き」な部分が見えてくれば
「嫌い」ではなくなりますし
「好き」な部分がたくさん見えれば
「好きな人」という括りに入って行く・・

要するに、自分に都合の良い部分が多ければ
「好き」であり
都合の悪い部分が多ければ
「嫌い」なだけなんでしょうね。


そこに「善」「悪」が
混ざりこむから、ややこしい~



例えば、自分に嫌な言葉を
向ける人がいるとします。
その人が、自分が好きな人だったら
そんなに気になりませんが
嫌いな人だったら、ムカつくんです。

同じ言葉を向けられているのに
人により受け止め方が大きく変わるのは
その人の自分に対しての貢献度?ですかね?

「好き」な部分と「嫌い」な部分の
バランスで、抱く感情が大きく異なるんです。


普段から、自分に対して
なんらかの欲求を満たしてくれている人は
自分に対して酷い言葉を向けたとしても
ある程度ゆるせるでしょう。

でも、そうでない人から
そんな言葉を向けられたら
ムカつくんです~w

普段から「嫌い」認定している人であれば
その人の「悪」を探しまくって攻撃もする
本当は、「嫌い」なのに「嫌い」ではなく
「悪」として置き換え、周りに同意を求めるんです。


ようするに「善」「悪」の判断基準が
「好き」「嫌い」の相手によって変わてしまうんです。


強欲であればあるほど
「悪」を生み出す事が増えるのは
自分をしっかり満たしてくれる人が少ないので
他人の言動をゆるす事が減ってしまうからでしょうね。


逆を言えば
普段から社会に貢献したい!
多くの人に尽くしたい!
そう思って行動していると
相手に「求める」感情が減ってくるので
「嫌いな人」も減ってきます。

自分の目前から「悪」が減って行くんです。





著名人や政治家の好き嫌いも
自分の価値観と共感できれば
承認欲求が満たされるので「好き」となり
「善」となります。
また、発言などで
何かに気づかせてもらえると
自分が成長できるので
成長欲求が満たされるので「好き」となり
「善」となります。

そして、往々にして
価値観を共有できない人は
「嫌い」であり「悪」と認識し
ちょっとした発言で
ムカついたりします。w


自己の生活に不満が多ければ
政治家を無意識に「悪」とし
その中でも自己の暮らしを
良くしてくれる発言をする
政治家は「善」と判断する。

そして、選挙で当選する・・・w

マジで、こんな下らない仕組みで
社会が成り立っているんですよね~
と、そう思ってしまうのですがw
冷静になって考えると
社会に色々問題があるから
人は成長できるんでしょうね。

そう考えると
我々の社会もまんざらではないわけです。


まぁ~とはいえ
どんな人も自分と価値観が異なるので
自分にとって良い面もあれば悪い面もある事を
ちゃんと受け止めて
更に、「善悪」=「好き嫌い」という
判断を無意識にしている事を知っていれば
少なくとも自分の人生は
楽に過ごせるようになるでしょう。


誰しもが自分都合で
コロコロ判断が変わってしまうのが
人間と言う生き物だという事を
ちゃんと理解していれば
不快な気持ちになる事も減ってくるという事です。



また、自分や他人の言動の動機に注目していると
物事を善悪で判断するより
徳・不徳で判断していた方が
目前の現実と辻褄があっている事が
よく理解できるんですよね~

この機会に
自分自身の好き嫌いを深く見つめてみると良いでしょう。
なぜ?「好き」なのか?
なぜ?「嫌い」なのか?
何が満たされるから「好き」なのか?
何が満たされないから「嫌い」なのか?
そして、そこに自己の「善」「悪」の判断を
結び付けてみるのも良いでしょう。

自分の中に、大っ嫌いで良い人が
どれくらいいるでしょうか?


全てが「嫌い!」とか
全てが「好き!」とか
「良い人が嫌い!」とか
「自分が嫌い!」とか思ってしまう場合は
過剰な自己中精神に陥っているので要注意です。



まぁ~何をどう言おうがどう解釈しようが
結局は、自己の心の在り方次第という事です。

「働く」という事

私は、色々な会社で顧問とか
研修とかやらせて頂いているんですが
新人研修なんかで
「働く」という事とは?と
質問すると、皆さん黙り込んでしまいます。

「働く」のが当たり前で
「働かない」事はいけない事・・

という感じでしょうね?

私自身も働くようになった時
ただ単に、働かないと生きて行けなかったから
働いていたように記憶しています。
お金がないと生きてゆけない社会ですしね~
自分で行動しているにも関わらず
「働く」事に対して深く考えていなかったのです。

まぁ~社会に出て「働く」事は「当たり前」と
教育されていましたしね。

今思えば、ひどい話ですよね~
「働く」意味を知らなければ
働かずに引き籠る人が増えるのもわかりますし
ただ、引きこもりは良くない!と
言っているだけでは
引き籠る人が増え続けるのも仕方ないでしょう。

「働く」事に意味を見出せないんですからね~



我々の社会は、多くの人が集団で
生活をしている事で成り立っています。

道路をつくる人
水道を引く人
電気をつくる人
自動車をつくる人
家を建てる人
食料をつくる人
などなど・・
ひとり一人が社会の役割を担っています。
社会の中で過ごすという事は
社会での役割を果たす事であり
それが「働く」という事でしょう。

また、社会の環境は時代と共に
移り変わって行きます。
今まで必要とされていた事が
必要とされなくなる事もあり
それに伴い、仕事がなくなって
しまう事もあるでしょう。

従って、私たちは常に
今の社会に何が必要なのか?を
考えるべきなのです。


コロナウイルスが広がり
飲食業界に大きなダメージを与えていますが
コロナウイルスが蔓延した社会が
永遠に続くのであれば
飲食店は、こんなにたくさんいらないという事です。

当然、私たちは
コロナの影響を受けた社会で
必要な仕事をしなければなりません。

今現在、何が必要とされ
自分に何ができるか?を考え
行動する必要がある。

連日、コロナ感染者数の報道がされていますが
世界各国でコロナが広がっているのを見れば
日本政府のせいで広がっている
わけではないことがよく解ります。

そりゃ~働かないと
生活がままならなくなるので
政府になんとかして欲しいと
思うのも仕方ありませんが
そもそも「働く」という事は
社会の役割を担う事なので
社会の環境が変われば
働き方も変わってくるのは致し方ないでしょう。



私は、引きこもりや精神を病んでいる方々の
相談を多く受けているのですが
我々が「働く」という事を「当たり前」で
済ませている事も原因の一つだと思っています。


価値観の違う者たちが
助け合い支え合いながら
集団で生活するのが社会であり
社会の役割を果たさなければならない。

そこに好き嫌いの感情など入る余地はないのに
「嫌だ!」「やりたくない!」
などと、そんな感情を優先したり
好き嫌いを善悪と置き換えたり
するので心が病んでいくわけです。

私自身おなじように考えた
な時期があったので
よく解るんですが
速い話、生きることをナメてるんです。w

私の場合
自分が好き好んでこんな社会に生まれたんじゃない!
気づいたら、こんな世界で生きていたんだ!
俺のせいじゃない!
くらいに思っていましたかね?ww

嫌なら、今の生活を捨てて
社会から出てしまえばいいんです。

それが出来ないのなら
社会の役割を果たす必要がある。

でも、今の便利な生活は捨てられない・・
しかも、社会の役割は果たしたくない・・
マジでクソ人間ですよね~

そりゃ~そんな考え方をしていれば
人間関係が拗れるのも当たり前ですよね。
周りの人たちは、ちゃんと社会の役割を果たしていて
その恩恵で、自分の生活が成り立っているのに
ひねくれた自己主張ばかりして
社会の役割を果たそうとしていなければ
ただただ迷惑な存在ですし
いなくなって欲しいと思われるのも当然です。

まぁ~私にも、そんな時期があったのです。w




経営においても同じです。
起業しても社会の役割を果たせなければ
会社は倒産してしまうでしょう。
経営が厳しいという事は
社会の役割を果たせていないだけなのです。


私は、長い間そんな簡単な事にも気づけませんでしたね~
「当たり前」を押付ける教育をされていたので
仕方ないとは思うものの
もっと早く気づきたかったです。


今の若者は、私たちの世代より
もっと可哀そうですよね。
昔より更に「当たり前」が増えていますし
私の感覚では、ちょっと異常です。
人に優しい社会を目指しているのでしょうが
なんでもかんでも手助けをすればいいという
ものではないでしょう。
やっぱ、苦悩に陥る原因を無視して
助力すれば、更なる苦悩が待ち受けているのが
大自然の法則だと思ってしまうんです。


いろんな会社に関わっていると
精神を病んでいる状態で働いている人が
年々増え続けているので
経営者の方々も本当に困っています。

働き方改革により
雇用される側を手助けする仕組みが
経営者や従業員の多くを
苦しめている状態に陥っている現場に
私はよく出会います。
これも、苦悩に陥る原因を
無視しているからでしょうね。

とは言え、社会で生活している以上
社会のルールの中で出来ることを
探す必要があるので
色々と試した結果
「働く」意味と「会社の理念」の
つながりをちゃんと教えるだけで
簡単に改善する人もいるんです。

という事は
「働く」という意味を
深く考えていない人が多いという事でしょう。


そう考えると「当たり前」で
終わらせるのではなく
物事の仕組みをしっかり
知る必要があるような気がします。


なので、今の教育が
ちょっと不安に感じるんですよね~


これからの日本を支えてゆく
子供達には、その辺を
ちゃんと伝えてゆきたいですね。