修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

人は、善悪を好き嫌いで判別している

私は自分に都合の良いものが「善」であり
都合の悪いものが「悪」だと
そう思っています。

ようするに
自分の価値観により善悪も変わる。

そして、「好き」「嫌い」も
同じなんでしょう。


自分を傷つける人は嫌いであり
自分に優しくしてくれる人は好き。
自分を拒絶する人は嫌いであり
自分を受け入れてくれる人は好き。

もっと言えば
自分の快楽を満たしてくれる人は
良い人であり、好きな人。
そして
自分の快楽を阻害する相手は
悪い人であり、嫌いな人。


自分自身の感情の動きに注目すると
そんな事が解ってきます。



私がいつも
言動の動機に注目するように
言っているのは
誰しも自分の感情に振り回されて
「善」「悪」を判断しているからです。

「好き」「嫌い」と
「善」「悪」をごっちゃにしているんです。

他人をジャッジしてしまうのも
自分自身が快楽を求めているからであり
「好き」という「善」を求めるがゆえに
「嫌い」という「悪」をなくそうとする。



快楽ではなく自己の成長を求めれば
「好き」より「嫌い」からの方が
学ぶものが多いと思えるんですけどね~





ネット上の情報に批判コメしたり
また、その逆の共感コメ肯定コメ
したりするのも同じでしょう。
「好き」という「善」を求め
「嫌い」という「悪」をなくそうとし
「善」なのか?「悪」なのか?を
ジャッジしてしまう。
そして自身が強欲であればあるほど
その傾向にあるのです。

「善」=「好き」
「悪」=「嫌い」であり
事実を無視して
「善」「悪」のレッテルを貼る。
その為、自分のダブスタにも気づけない。



他人から同じ言葉を向けられて
不快に感じ「悪」とする相手もいれば
そうでない人もいる。
呼吸をするように
ダブスタを繰り返してしまうのも
人の性なんでしょうね。


まぁ~そもそも、この世には
「善」も「悪」も
存在していないので
そうなるんですけどね。w



人が感情に振り回されるのは
「血」による影響なので
簡単には直せないでしょうが
でも、自己の言動の動機に注目し続ければ
その経験値は血肉に刻まれ
次第に「血」に振り回されなくなるんです。

即ち、自分の感情に振り回されず
物事を冷静に判断できるようになるという事です。

是非!自他ともに言動の動機を
注目するよう続けてみて下さい!












誰しも、自分が好きな人
嫌いな人っていると思います。

では、自分自身が「好き」な人とは
どんな人でしょう?


その人の価値観に共感が持てたり
自分の承認欲求を満たしてくれたり
自分を成長させるきっかけを与えてくれたり
自分に優しく接してくれたり
自分に対して何かを満たしてくれる人のはずです。


恋人や結婚相手も
自分の中の何かを満たしてくれるから
一緒にいるわけで
当然、その相手の中にも
嫌いな一面はあるでしょう。

自分にとって都合の良い一面もあり
都合の悪い一面もある・・
要するに、どんな人にも
自分にとっての善悪が共存しているんです。
人に限っている事ではないですけどね。


総じて男女の関係では
「好き」な部分が多いから
「好き」でいられるわけで
「嫌い」な部分が多くなれば
別れるでしょうし、離婚するでしょう。

「嫌い」だと思っていた人でも
「好き」な部分が見えてくれば
「嫌い」ではなくなりますし
「好き」な部分がたくさん見えれば
「好きな人」という括りに入って行く・・

要するに、自分に都合の良い部分が多ければ
「好き」であり
都合の悪い部分が多ければ
「嫌い」なだけなんでしょうね。


そこに「善」「悪」が
混ざりこむから、ややこしい~



例えば、自分に嫌な言葉を
向ける人がいるとします。
その人が、自分が好きな人だったら
そんなに気になりませんが
嫌いな人だったら、ムカつくんです。

同じ言葉を向けられているのに
人により受け止め方が大きく変わるのは
その人の自分に対しての貢献度?ですかね?

「好き」な部分と「嫌い」な部分の
バランスで、抱く感情が大きく異なるんです。


普段から、自分に対して
なんらかの欲求を満たしてくれている人は
自分に対して酷い言葉を向けたとしても
ある程度ゆるせるでしょう。

でも、そうでない人から
そんな言葉を向けられたら
ムカつくんです~w

普段から「嫌い」認定している人であれば
その人の「悪」を探しまくって攻撃もする
本当は、「嫌い」なのに「嫌い」ではなく
「悪」として置き換え、周りに同意を求めるんです。


ようするに「善」「悪」の判断基準が
「好き」「嫌い」の相手によって変わてしまうんです。


強欲であればあるほど
「悪」を生み出す事が増えるのは
自分をしっかり満たしてくれる人が少ないので
他人の言動をゆるす事が減ってしまうからでしょうね。


逆を言えば
普段から社会に貢献したい!
多くの人に尽くしたい!
そう思って行動していると
相手に「求める」感情が減ってくるので
「嫌いな人」も減ってきます。

自分の目前から「悪」が減って行くんです。





著名人や政治家の好き嫌いも
自分の価値観と共感できれば
承認欲求が満たされるので「好き」となり
「善」となります。
また、発言などで
何かに気づかせてもらえると
自分が成長できるので
成長欲求が満たされるので「好き」となり
「善」となります。

そして、往々にして
価値観を共有できない人は
「嫌い」であり「悪」と認識し
ちょっとした発言で
ムカついたりします。w


自己の生活に不満が多ければ
政治家を無意識に「悪」とし
その中でも自己の暮らしを
良くしてくれる発言をする
政治家は「善」と判断する。

そして、選挙で当選する・・・w

マジで、こんな下らない仕組みで
社会が成り立っているんですよね~
と、そう思ってしまうのですがw
冷静になって考えると
社会に色々問題があるから
人は成長できるんでしょうね。

そう考えると
我々の社会もまんざらではないわけです。


まぁ~とはいえ
どんな人も自分と価値観が異なるので
自分にとって良い面もあれば悪い面もある事を
ちゃんと受け止めて
更に、「善悪」=「好き嫌い」という
判断を無意識にしている事を知っていれば
少なくとも自分の人生は
楽に過ごせるようになるでしょう。


誰しもが自分都合で
コロコロ判断が変わってしまうのが
人間と言う生き物だという事を
ちゃんと理解していれば
不快な気持ちになる事も減ってくるという事です。



また、自分や他人の言動の動機に注目していると
物事を善悪で判断するより
徳・不徳で判断していた方が
目前の現実と辻褄があっている事が
よく理解できるんですよね~

この機会に
自分自身の好き嫌いを深く見つめてみると良いでしょう。
なぜ?「好き」なのか?
なぜ?「嫌い」なのか?
何が満たされるから「好き」なのか?
何が満たされないから「嫌い」なのか?
そして、そこに自己の「善」「悪」の判断を
結び付けてみるのも良いでしょう。

自分の中に、大っ嫌いで良い人が
どれくらいいるでしょうか?


全てが「嫌い!」とか
全てが「好き!」とか
「良い人が嫌い!」とか
「自分が嫌い!」とか思ってしまう場合は
過剰な自己中精神に陥っているので要注意です。



まぁ~何をどう言おうがどう解釈しようが
結局は、自己の心の在り方次第という事です。