修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

暦や星占いは、本当に信じていいのだろうか??

暦や星による占術などは
昔から日本に根付いています。
新年には、今年はどんな年になるのか?
吉凶を占ったりします。
神社によっては、それそれ占術は違ったりしますが
一般的なのは、気学でしょう。

私は、宇宙に行った事がないので
宇宙の事は全く解らないのですが
私たちは常に、地球以外の星の影響を受けながら
過ごしている事くらいは理解できます。

太陽や月がなければ、生きる事さえ出来ないでしょう。


とは言え、色々な星に行ってみないと
解らない事ばかりだな~なんて思っています。w


夜な夜な空を見上げながら、農道をジョギングしたりしているのですが
(時にコケたりしています。w)
星によって、エネルギーが違うのがよく分かります。

おお!と、思ったりしたのですが
よくよく考えれば、太陽と月でも、全く違うので
当たり前か~・・・と・・
新たなる発見をした!と糠喜びしたのを記憶しています。



昔、四柱推命や九星占星術などをかじった事があるのですが
正直な所、なんか良くわからないな~なんて思っています。w
ここ数年は、紫微斗数占いをしている方に
色々教わったりしているのですが
生年月日と時間から、どういう理屈でこの計算になるのか?
という部分が、全くわかりません。

方程式を当てはめて、こうなるんだ!と決めつければ
いくらでも、占い師になれるのですが
私としては、なぜ?そんな計算になるのが?を知りたいわけで
それが解らない以上、私は納得できないのです。w

恐らく星に持たせる意味は、統計でそうなっているとして
生まれた時に、空にある星から時間軸で
配置の移り変わりを計算しているのでしょうが
もう少し深く知りたいわけです。


その占い師の方に言わせれば
それを理解して占い師をしている人なんていないでしょう?
だそうです。

EXCELが、どういう仕組みで動いているかなんて
関係ないと言うのと同じだと言うのですが
私としては、EXCELと星占いは違うだろ!
という、価値観の違いが生じるわけです。w



私が、どうしてそこに拘るか?と言いますと
全ての占いの吉凶の基準が
快楽を満たす事が出来るか?否か?という点に絞られているからです。

自然の法則上、快楽を求めれば求めるほど
苦悩と直面するので、私にとってそんな吉凶など意味がなく
知りたいのは、星の配置が人に影響を及ぼすのか?なんですよね~


ただ、星のエネルギーと同質のもを人体から感じますし
そのエネルギーも人それぞれ違うのも感じるので
占星術なるものも、まんざらではないとそう思っています。

なので、自然の仕組みを知りたい病の私としては
その仕組みを知りたい!という強い欲求が込み上げてくるわけです。w


最近は、星読み師ではなく、天文学者から学んだ方がいいのでは?
とか、そんな事を思ったりしています。w
















まだ、肝心要の所が全く解らないのですが
心臓がどんな仕組みで動いている事が全く解らないまま
人類医学は発展し続けている!と言われているので
ここは、無視して気づいた点を記しておきます。
(ただの私の妄想に過ぎませんが・・w)







『思い込み、その1』

昔の私は、暦や占星術などを全く信用していませんでした
なぜかと申しますと、全く当たらないと感じていたからです。
吉凶の年回りなど、全然あてにならないほど
毎日が大殺界で天中殺の日々を送っていたわけです。w

ただ、24歳の厄年の時、逮捕(不起訴)されたりしたので
ひょっとしたら厄年ってあるのか?
くらいには思っていました。



で、こんな体質なので、占い師という方々との縁も多く
色々な方に占ってもらったりしましたが
昔は納得できるような結果を提示される事はありませんでした。



が、しかし!
徳を積み続けると、自分の視野がとても狭い事に気づき始め
気付けば、暦などに記されている内容が
なんとなく当てはまる?と感じるようになったのです。

ようするに、必死に徳を積み続けた結果
やっと普通の人に近づいてきたと言う事です。w



以上の出来事から、不徳を積み続け大量の負のエネルギーを放ち続けると
占星術でみる星の影響を上回った、最悪の現実を突きつけられる。
と思うようになりました。

なので、日々の生活態度が最もと重要と言う事でしょうね。











『思い込み、その2』

何年か前に、同じ人を紫微斗数で占った結果と
私が霊視した結果を比べてみて、検証するという事をしてみた事があります。

私が霊視するのは、先祖からの影響である血に刻まれた経験値が作る未来なのですが
数人観た結果、全部星に出ているわけです!
紫微斗数は、生年月日と生まれた場所生まれた時間で
過去や未来を調べるのですが
なんだこれは!と驚いたのを記憶しています。

父親、母親の血と星の繋がりは強いと言う事が解ったのですが
逆を言えば、父親、母親の血族の経験値により
生まれる子供の日時が算出されると言う事になります。

どう考えても父母の血に刻まれた経験値と結びつく星が空にある時に
母のお腹からオギャ~と生まれると言う事になるのです。

また、人の人格が星と影響しあっていると言う事は
地球の南半球と北半球の住人では、人格が異なると言う事になります。

面白いですね~!
誰か紫微斗数の計算式を私に教えてくれませんかね~?
空には、星が無数にあり占術で使っていない星の影響もあるはずなので
その辺も調べてみたいんですよね~

とは言え、命盤の法則をエネルギー的に調べる事は出来ても
残念な事に、どうしてそうなるのか?が全くわかりません。

私が『この升とこの升が、共鳴してるのを感じるよ?』と告げれば
占術師は『あぁ~そうやって読むように学んだよ』と・・
私『なんでそうなるの?』
占術師『わからん、そう学んだの』・・
というやり取りで終わってしまうんです・^^;)




ひょっとしたら少子化社会も
現代社会による経験値に問題があるのかもしれませんし
不妊症の方が増え続けているのも
日々の言動の改善で、解決するかも?しれません。


まぁ~そんな事を考えるのは私くらいでしょうが・・^^;)













『思い込み、その3』

占星術は、一人ひとりの生年月日から
星の影響を受ける形を算出しているとそう思っています。

宇宙にある自分に影響のある星の位置を算出して
自分がいつどんな影響を受けやすいのか?
という計算が占星術なんでしょう。


日々いろんなエネルギーをたどっている私は
なるほどなぁ~なんて思うわけです。


地球は自転しているので、常に気が流れています。
月の影響も受けて、重力も変動しています。


私たちが生み出した負の想念がつくり出すエネルギーは
大地が吸収しています。

日本神道の大祓いの祝詞に記してあるように
人が生み出す穢れは、大自然が常に浄化しています。


太陽の影響を強く受けて四季があり
月の影響を強く受けて、満ち引きがある。

太陽や月以外の星の影響も当然受けているわけです。


仮に生まれた時に空にある
数々の星のエネルギーをその身に宿しているとすれば
時と共に地球から見た星の配置が変わる度に
その影響を受けるのも当然と言えば当然なんでしょう~ね。



私たち日本人になじみの深い占術は
四柱推命九星気学でしょうか?

生まれた場所によって星までの距離がちがうので
日本色の強い、九星気学の方が個人的に私は好きです。

中国と日本では、地球上の場所が違うので
星の影響もかなり違うと思うわけです。
風水などの方位も同じでしょうね。

中国と日本では、気の流れが全く違うので
中国の風水や占術をそのまま日本に持ってきても
全てが当てはまるわけではないとそう思っています。


なので、日本古来からある気学の方が
私はしっくりきます。^^)















『思い込み、その4』


天中殺や大殺界、厄年は、自分が纏う負のエネルギーの影響を受けやすい時であり
また、煩悩に溺れやすい時なんだとそう思っています。

要するに、徳もなく不徳を積み続けていると
天中殺や大殺界、厄年には、最悪の出来事が起きやすく
不徳もなく徳を積み続けていれば、何ら気にする事もないわけです。

私自身の厄年を振り返ると
前厄は、それまでの不徳の量を知る出来事が起き
本厄に、それを振り返り反省し
後厄に、自己改善して新たなる道に進む為の準備をする。
と、そんな感じの年回りのような気がします。

負のエネルギーの影響を受けやすい時なので
煩悩に溺れやすい年回りでもあると思います。

新しい事にやたらチャレンジしたくなったりします。
また、根拠もなくやれば必ず成功すると思い込みやすくなるので
大きな買い物をしたり、新たなビジネスを始めたくなったりします。
他人の忠告など、全く聞けなくなるんですよね~


そうやって聞くと、厄年は自分にとって良い時じゃないと思うでしょうが
私としては、自分の不徳の量を知る絶好の機会だと思っています。

今まで生きてきた、自分の生き様の結果を知る方法など
なかなかないので、厄年はしっかり構えて、自分を知る事をおすすめします。


天中殺や大殺界は、中国から来ているものなので
地球上にある日本と中国では、星からの距離が違う為
私自身は、あまり気にかけていません。



日本古来からある九星気学による暦の方が
日本人には当てはまるんでは?ないでしょうか?
星の影響だけではなく、大地の呼吸も踏まえてているようですしね。

紫微斗数は台湾の占術ですが
生まれた場所や時間から、台湾からの誤差を計算しているようなので
なかなかどおして、侮れないような気もしています。


ちなみに私が昔お世話になった椿大神社の暦は
東北の震災や原発事故が記されていました。
九星気学の暦です。
電話して注文すれば郵送して頂けます。^^)







私の占星術に対しての思い込みは、まだまだあるのですがw
とりあえず、はこれくらいにしておきます。



私が、占星術から学んだ事は
私たちは、一方的に星の影響を受けているだけではなく
自分自身の生活態度により、影響を受ける星が変わってくる点と
地球と言う星の影響をそれぞれの星も受けているという点。

また、不徳を積み続ける事で占星術が当てはまらなくなる経験をしたので
徳を積み続けても、同じ結果になるのでは?と思っています。
従って、我々は、自分の力で未来を創り出す力を持っていると言う事になります。

また、人それぞれの個性が世の中のバランスを保っているので
自分の価値観と言う一方通行で物事を判断するのではなく
他人を理解し、他人の価値観を認め受け入れる事が
自分の未来を発展させる為に、重要な要素のような気がしています。





まぁ~占星術に関しては、まだまだ解らない事だらけなので
ただの私の思い込みなんですけどね~

うつ病など心の病が治らなくて困っている方へ

私は、今まで数多くのうつ病統合失調症
悩んでいる方々と接見してきましたが
やはり自分自身で克服しようと思わないと
なんともならないのが精神病だとそう思っています。

心の病気なので、外科手術できるわけでもなく
自分で治すしかないわけです。
心を取り出して、誰かが直してくれればいいんですけどね。

実際に改善した人たちは
みなさん自分の意志で良くなっていますしね~

まぁ~個人的に精神病は
病気ではなくただの憑依現象だと
そう思っています。


うつ病を治す方法は
ネット上で色々掲載されていますが
ここで、私が記す内容は、全く別物です。


過去にうつ病統合失調症の相談を
1000人以上受けてきた上での経験上の話です。
実際に改善した方も結構いるので
満更でもないと思うのですが
私のただの思い込みに過ぎないかもしれませんので
何卒ご容赦ください。

また、私は精神科医ではありませんし
精神科医のドクターからすると
とんでもない話だ!と、お叱りを受ける内容かもしれません。w


ですが、精神病院に通っていも治らないという相談を
受け続けており、その数が年々増えてきているのも事実です。
実際に精神病院で、心の病が治った方は、私の所へ相談に来ないので
あくまでも、精神病院に通っているのに
一向に良くならない・・・
どんどん悪化すると言う人の為に記しておきます。


あくまでも、私の経験上の内容であり
判断は、ご自身にお任せしますね。
何かの参考になれば、幸いに思います。^^)












まず私は、殆どの精神病が憑依現象だと思っております。
自閉症ダウン症など先天性の病以外は・・)
精神病と診断された方々の肉体を浄化するだけで
一時的に改善するからです。

ただ、邪気をまとう事や霊体に憑かれると言う事は
自分自身の至らない部分に気づく必要があるので
いくら浄化した所で、時と共に同じ状態
もしくは更に悪化してにしまうはずです。

従って、自己改善なくして
心の病は治らないと言う事になります。


何をどう改善するのか?と言う事になりますが
人それぞれなので何とも言えないところです。

ただ、うつ病になる原因の多くが
『悪』を生み出した結果
心身が壊れてしまうように感じています。


自分が『悪』を生み出した事により
何処にでも存在している、負のエネルギーと心身が同調し
思考や肉体が、思うように動かなくなるわけです。



うつ病になる原因


怒り、憎しみ、不定不満、否定批判
不安、恐怖、悲しみなどの感情を繰り返し抱く事で
自分自身が生み出した負のエネルギーが
周りに存在している負のエネルギーと同調し続け
心身に溜め込み、言動がままならなくなる。

これが、原因でうつ病と診断されていると思っています。

特に普段から不平不満や否定批判が多い人は
大きなミスや失敗をすると
その反動が大きいと思います。
自分自身を全否定されている気持ちになり
自分で自分を否定し続ける事になる可能性もあります。

これは、自分自身が生み出した負エネルギーが
周りにある負のエネルギーを取り込んだ結果だと思います。

まぁ~証明する手立てはないんですけどね~w



うつ病と診断された方々は、今まで接見してきた中で
大きく分けて2パターンあると感じています。

1、怒りや憎しみを抱き続け自分以外を責め続ける
2、自分が全て悪いと自分自身を責め続ける

大雑把にわけるとこうなりますが
この他に、恐怖心や悲しみなどでなる場合もあります。
いずれにせよ、自分の心の状態が原因なので
自分で直そうとする意志が大切です


どちらも『悪』を生み出す事が原因なのですが
我々の社会は、善悪で物事を判断し
秩序が保たれているので、この判断を止める事はできません。

ただ、ゆるす事ができないと
心身共に朽ちてしまう自然の法則があるので
どうしても、『悪』と向き合う必要が不可欠です。

とは言え、簡単に出来る事ではないでしょう。
『悪』と向き合う・・何それ?
『悪』は『悪』じゃん!って思うのが普通ですよね。

実際に善悪とは何か?と考えてみると
『良い事』とは、自分に都合の良い事であり
『悪い事』とは、自分に都合の悪い事となるのですが
自分自身の価値観が、『悪』の存在をゆるせないので
なんともならないわけです。

そもそも善悪などこの世に存在しておらず
あくまでも自分自身の一方通行な思いから決めつける行為なのですが
簡単には、そう思えないでしょう。


その理由は簡単で、それに基づく体験がないからです。

どんな人も先祖から受け継いだ経験値による性格を受け継ぎ
それに伴う自己の体験から価値観がつくられるものです。

従って、経験体験のない事柄に対して
いくら、あ~だ!こう~だ!言われても
納得できないのも当然でしょう。

うつ病と診断された方に対して、いくら言葉で諭した所で
聞き入れてくれる事は限られてきます。

逆に『悪』に対して敏感に反応する人が多いので
〇〇はダメ!とかのダメ出しなんかされてしまうと
発作と呼ばれる症状が出たりするでしょう。


心の病を患っている人で
急に吐き気がしたり
身体が重く動けなくなったり
発熱したり
目の前が真っ暗になっったり
いきなり不安と恐怖に包まれて動けなくなったり
気絶したり
うまく喋れなくなったり
うまく聞き取れなかったり
幻覚や幻聴・・
全身が震えて、止まらなくなったり
・・・
そんな状態になる場合は
自分に対してのありがたいシグナルだと思ってください。

心の中で、相手を責めたり
自分を責めたりする感情を生み出すと
その感情に肉体が反応してしまうわけです。


なので、そんな自分と向き合えば良いのです。
『病気だから仕方ない・・』で、終わらせても
何一つ改善しませんからね~



どんな仕組みかと申しますと
自分自身の肉体を蝕んでいる邪気が
自分の感情に反応して活性化しているわけです。

体内の邪気が活性化して
自身の体内のエネルギー循環が壊れてしまい
自分で自分の肉体がコントロールできなくなるわけです。

私に言わせれば、病気でも何でもなく
ただ単に、自分がついた悪態の数々が
自分の身体を蝕んでしまった結果に過ぎないわけです。

うつ病など心の病が発症する場合は
発生する以前からの言動が原因なので
そこを振り返って改善する必要があります。

発生のきっかけとなった出来事に
囚われている以上、永遠い改善しないはずです。
一時的な改善はするかもしれませんけどね。


自分の過去を振り返り
どれだけ他人を思いやり尽くした経験があるか?
どれだけ社会に対して貢献した経験があるか?
そんな経験もなく、周りに対して
不平不満や不定批判の想念をまき散らせば
どんな人も、心の病を患ってしまうのもなのです。





で!
そんな自分自身をも笑ってゆるしてあげましょう!w
だって、人間なんてそんなもんでしょ?

みんな自分が可愛いし
都合が悪い事は他人のせいだし
やっぱ嫌な事からは逃げたいし
楽をしたいし、努力何てしたくないしね~
常に正しいのは自分であり、間違っているのは誰かでしょ?

誰しも人間である以上
そう思うように創られて生まれてくるわけですから
そりゃ~仕方ないんです?w


自分の至らなさに気づく事が出来なければ
どんな人も成長できないわけですから
気付けただけラッキーでしょ!

これから改善すれば良いだけの話なんです!

何でも卒なくこなして
ミスのない人生なんてありえないし
偉業を成し遂げた人は、みなさんそれなりに苦労をしています。
理由は、失敗や苦労から多くを学べるからです。

逆を言えば、苦労をしない人は
偉業を成し遂げる事などありえないわけです!w
苦しみ無くして、生きる上で大切な事は学べないからです。

炎でやけどをした人と
そうでない人が、炎に対しての価値観が違うように
苦しんだ人とそうでない人では
他人に対しての思いやりが大きく違います。

他人を思いやる心が
自分の人生を大きく左右する仕組みが
この世の中には存在しているので
心の病で苦しんだ人は、この先の自分の未来を
大きく発展させる為に必要な経験をしているわけです。



って事は、心の病気を患うという事は
この先の自分が偉業を成し遂げる前触れなのかもしれません!w


マジです!(-_☆)









実は、私も精神病と診断された事があります。
今でいう統合失調症ってやつでしょうか?
私の状態を軽くした感じが、一般的なうつ病です。

と言う事は、うつ病の方は
私なんかより、ずっとクリーンな心を持っているわけです!w

私のように強烈な思いで『悪』を生み出し続けると
地獄を見るような体験をしますのでご注意を!w
まぁ~苦しんだ分、成長できるんですけどね。


私の場合、仕事中に吐血したり
気絶したりしましたね~
しょっちゅう発熱でフラフラになりましたし
自分を制御できず、よく暴言を吐きました。w

自分が社長なら絶対に雇いたくないタイプです。w

自分では言いたくない事を
勝手に口走っているんです。
内心『やめて~!』ってよく思っていましたけど
心の叫びが、暴言となって発するわけです。

そんな状態で他人とうまく
コミュニケーションが取れるわけないですよね~^^;)

自分を否定する相手には
発狂してキレまくりましたね~
暴力沙汰なんてしょうちゅうでした。

心の中で誰か止めてくれ~!と思いながら
キレて暴れまくるわけです。^^;)

自分の肉体を自分でコントロールできないので
自分ではなんともならんわけです。


どんなけ邪気を溜め込んどるんじゃ!
ちゅう話ですわ。w


お陰様で、色々な仕事をする事が出来ましたよ!w

長く同じ仕事に付けなかったので
沢山の人に迷惑をおかけしてしまい
今は、懺悔の日々を送っております。






とにかく自分を悪とする言葉には
敏感に反応した記憶があります。
で、他人の言葉など聞き入れる余裕などなく
全てをシャットアウトして
自分を認めて欲しい願望・・
自分を受け入れて欲しい願望に溺れておりました。

まぁ~自分を否定する相手だろうが何だろうが
他人を認める事をしないまま
自分を認め受け入れてくれる場所など
何処にもないのは、当たり前なのですが
そんな事すら気づけませんでしたね~

周りを否定批判し、自分で居場所を無くしてしまうわけです。

私の場合は、とりあえず、自分以外は
みんな『悪』としてしまう事を繰り返していました。
気付けば、自分の周りは敵だらけ!です。
で最終的には、世の中が敵になりました。w


行くところまでいっちゃった・・って感じです。
そこまでいくか?!と、自分を褒めてあげたいですね~w



これは精神病の特徴の一つですが
解っているのにちゃんと出来ないのです。

なぜ?できないのか?簡単です。
ムカつく時は、ムカつくんです!w

解っているのに出来ない自分に対して
周りから『なんで出来ないんだ!』くらいの事を言われると
更にムカつきます。

そう!悪循環です。w

でも、これで終わらせていたら悪化してしまうので
ムカつく事を減らす必要があります。


どうやって?となりますが
自分の価値観を変える事で解決します。

要するに、今まで自分が『悪』としてきた事を
『悪』じゃなくせばいいわけです。


自分の価値観は、過去からの自己の経験で創られているので
今までした事のない新たなる経験をすれば
だれしも自分の価値観は、変わります。


例えば、海が大好きで、海ばかり行っている人が
山の絶景を見て感動し、山が大好きになる事もあるでしょう。
山の絶景を見て感動する体験が、自分の価値観を変えるわけです。


心が病む人は、往々にして強く求める傾向にあります。
私もそうでしたが、強く求めるが故に
視野が狭くなってしまうわけです。


従って、求めるのではなく与える言動をし
それを、実体験すれば良いわけです。

そもそも、幸せは自分自身の中にあるので
いくら自分の外に求めた所で幸せになれる訳もないのです。

とは言え、実際に求める上での行動しか、した事がないので
そんな事を言われてもピンと来ないでしょう。



ボランティア活動から学んだ事 - 修行バカの懺悔道


先日ボランティア活動で学んだ事をエントリーしてみました。
内容は、ちょっとした善行体験なのですが
私自身、この体験で価値観が大きく変わったので紹介しておきます。

自分の思考を『ただ求める』→『与える事を求める』に切り替える訓練になりますし
今までの行動パターンを変える事により
色々と学べると思います。

良い事をしようとするのではなく
偽善行為から学ぶ事を目的としてやってみるといいと思います。

与えた分だけ自分に色々と返ってきますしね~

実際にこんな体験で、心の病を克服できた人もいます。
私自身も、色々なボランティア活動をする事で
人生観が大きく変わって行きました。
今では、心が病んだ経験に感謝しています。
人それぞれ何がきっかけで、価値観が変わるか解りませんが
色々と体験する事が大切だと思っています。

経験や体験なくしては
自分の価値観を進化させる事はできませんしね~


価値観が変わると目前の現実が大きく変わると言う
大自然の法則があります。

逆を言えば、自分の価値観を変えない限り
目前の現実は、変わらないでしょう。
変わらないどころか悪化するのが
自然の法則だと思っています。


行動しないままいくら悩んだ所で
自分の求める答えは見つからないと思います。
同じ価値観で堂々巡りしているだけになる事が殆どです。





ダラダラと書いてしまいましたが
心の病を克服するには


①苦悩は、自分の未来を発展させるために必要不可欠なものと理解する事

心が病んだ経験は、他人を思いやる事を知る為の大切な経験です。
この経験を経て、他人を思いやる心を育み
自分自身の未来を大きく変えるきっかけになるでしょう。
今辛く苦しいのは、後々の人生に大きな力となるはずです。




②悪を生みださないように努力する事

他人の負の感情に敏感になり、ちょっとした、それらの感情を
察するだけで、自分自身の体調が壊れるはずです。
それは、自分の中にある負の感情が同調している現象です。

これはお互い様で
自身の中にある負の感情の積み重ねがエネルギー化して
相手を不愉快にしてしまう事もあります。
そう考えると、どっちもどっちなのでお互い様と思うようにして
ゆるす心を育みましょう。


病気だからで終わらせていると、どんどん悪化するので
少しずつでも自分の中にある、負の感情と向き合う事が大切です。

嫌な事を言う相手は、自分の中にある負の感情と
ちゃんと向き合うように教えてくれていると
そう思うようにする事をおすすめします。

ゆるす心が芽生えると、自分の周りは
優しい人ばかりになります。




③新たなる体験をして、自分の価値観を進化させる事
どれだけ色々考えた所で、自分自身の考え方など
なかなか変わるものではありません。
食べ物の好き嫌いと同じように、簡単には変わらないものなのです。

しかし、病んでいる心は、自分自身で改善するしかないので
自分自身の考え方が変わらなければ、苦しみの呪縛から逃れられないものです。
今の自分の価値観で物事を判断している以上
何度考えても、同じ答えに辿り着くはずです。

従って、今までした事のない経験や体験により
あたらなる価値観を創造する必要があります。
自分の価値観を高めてゆくのです!




④求めるのを止め、与える事を考え行動する事
この世の中には、与えなければ手に入らないという法則が存在しています。
心が病む場合は、多くを強く求め過ぎている場合がほとんどで
誰かの為、何かの為に与える行為が、極端に少ないのです。
誰か何かの為に与える事は、簡単ではないのですが
まずは、偽善でも行動して体験する事が大切だと思います。
与える為には、多くを理解する必要があり
そんな行動が、自分自身を視野を広くし、心を成長させるきっかけにもなります。


ちょっとしたボランティア活動に参加する事で
うつ病統合失調症が改善した方もいます。





心が病んでいる状態で、これらを実践するのは
簡単な事ではないと思っております。
家族や知人友人の手助けの上で、実践するといいでしょう。


また、心の病を患っている人は
怒りや否定批判など負の感情に敏感に反応します。
家族や周りの人も、注意してください。
言葉に出さずとも『なんで、こんな事ばかり言うんだ!』と
ちょっと思っただけで、そのエネルギーに敏感に反応し
体調が悪くなったり、発狂したりします。
病を患う本人だけでなく、家族や周りの人も『悪』を
生み出さないようにする必要があります。
人の心が生み出すエネルギーは、強力なので
家族が不平不満や否定批判の思いを抱き続けるだけで
精神を患っている人の症状がどんどん悪化して行きます。


また、精神病院で出される薬は、考える事を止めさせるものが多いです。
一見、治っているように感じますが
虫歯なのに、永遠に痛み止めを飲んでいるのと
同じ状態になる場合もあります。

あくまでも、私の考え方なのですが
『薬で思考を止める』→『感情が麻痺する』→
『悪を生み出さなくなる』→『落ち着いたように見える』
という構図になりますので、薬で解決すると思わない方がいいでしょう。

家族としては、発作があると心配だとは思いますが
薬を飲ませて落ちつかせる行為は
自分が苦しむ姿を見たくないというエゴだと考え
薬を飲まず、一緒に寄り添ってあげる事が、大切だとも思います。

実際に何年も病院に通い、薬を飲み続けても
一向に治らないという相談がとても多くあります。
何年も薬を飲み続けると、正常な思考を取り戻すのに
時間がかかる場合もあります。

個人的には、薬に頼らない方が改善するスピードが速いと感じています。







◎心を患う仕組み

これは、私個人が感じている心の病の仕組みです。

文頭に精神病は憑依現象と記しましたが
大事な所なので、再度説明しておきます。


人が抱く感情は、同時に強いエネルギーを生み出しています。
どんな感情もエネルギー化し周りに放出し
同時に心身に蓄積されるのです。
血肉に経験値として記憶されるわけです。
同じ動作を繰り返すと、身体が憶えていますよね。
これは、経験値を肉体が記憶しているからです。

人は、自分の思い通りにならない事に対して
怒りや不満、否定批判など負の感情を抱くものですが
喜びや楽しい感情より、負の感情の方が多く生み出します。
何でも、自分の思い通りにならないような世界で生きている為
どんな人も、不平不満や怒りの感情を常々生み出します。

負の感情は相手を責めるエネルギーですが
同時に、相手を思いやる感情で人はバランスを保っています。

しかし、負の感情ばかりを多く抱き続けるとそのエネルギーが
偏った状態で心身に蓄積され、記憶し続けます。

その状態で、周りから強く否定されたり
憎しみを抱くような出来事が起きると
強い負のエネルギーが込み上げるようになり
同時に、周りにある負のエネルギーを大量に取り込むようになります。
その結果、思考や肉体を自分の意志でコントロールできなくなります。

今まで血肉に蓄積し続けた経験値が影響して
肉体と思考とを切り離してしまうのです。

この状態が、心の病として診断されているように思います。



人は、生まれながらに、自分本位な考え方からスタートします。
煩悩を植え付けられて生まれてくるからです。
そして、生きながらにして、様々な経験をしながら
他人を思いやる心、多くの人や社会に対して尽くす心を育んで行きます。
煩悩により、自己の快楽など多くを求め、その結果、苦悩に直面し
苦しみを乗り越えながら成長して行きます。
これが、本来の人生の姿でしょう。


しかし、物質的に豊かになった現代社会では
他人に無関心でも、社会に無関心でも生活できるようになり
他人を思いやる心や社会に尽くす心を育む経験が
無くなってきてしまっています。

他人の事や社会の事など知らんぷりで
誰かが何とかしてくれるだろうと考えていても
物理的に生活できる社会で、暮らすようになったわけです。


私たちは、もともと何でも自分の思い通りにならない世界で過ごしています。
従って、怒りや不平不満、否定批判と無縁ではいられません。
様々な葛藤の中で、慈愛の精神を育む必要があるからです。
ゆるせない出来事は、ゆるす心を育む為に必要不可欠なのです。

現代社会は、他人や社会との接点が遠くなっています。
その為、自分本位に生きる事をゆるされた状態になってると言えます。
他人を思いやる事なく過ごせるし
社会に貢献しなくても過ごせます。
要するに、怒りや憎しみ、不平不満・否定批判を
抱く回数が増えるのも当然なのです。

自分の心が生み出すエネルギーは壮大で
普段から自分本位な考え方ばかりしていると
負の感情が生み出すエネルギーに心身ともに蝕まれて行きます。


他人に、周りに、社会に与える事をしないまま
ただただ求め続けて、生きる為
人の心身のエネルギーバランスが崩れてしまうわけです。






◎心の病に適した薬


心身を浄化すると、心の病は一時的に改善すると記しましたが
自然環境と触れ合うだけでも浄化します。
薬を飲むより、そんな場所に出かける方が
私は、効果があると思っています。

なぜならば、考える事を止めてしまうと
自分の価値観を変える事が出来ないからです。


大自然に触れ合うだけで、癒されるのは
大自然は、私たちの全てを受け入れてくれるためです。

自分自身の身体に蓄積された負のエネルギーを
大自然が受け止めてくれるからです。

かけ流しの温泉に入るのもいいと思います。
温泉も肉体に蓄積された負のエネルギーを浄化しますしね。

ただ、混雑する温泉場は止めましょう。
他人が落とした穢れが満載なお湯では
逆効果になる事もあります。

かけ流しでお湯が新鮮である事が条件です。




◎ちょっとした注意事項

1人で生きると言う事は、物理的に無理だと私はそう思っています。
どんな人も、常に他人とエネルギー交換をしているからです。

怒っている人の近くにいるとイライラしたり
近くにいるだけで、癒されたり安心したりする人がいるのは
無意識に相手のエネルギーを受け取っているからです。
同時に自分のエネルギーも相手が受け取りながら
自分と接しているわけです。

言葉を交わす事がなくても
自分次第で相手が変わるのは、こんな仕組みがあるからです。

心が病んでいる人は、他人のそんなエネルギーに
とても敏感になっています。


なので、家族は常に穏やかでいる必要がありますし
病んでいる人は、出来る限り人込みは避けるようにしましょう。

どちらかと言えば、みんな自分勝手なので
癒されたり安心感を与える人の方が少ないですしね。


また、心が病んでいる人は
多くの負のエネルギーを纏っているので
そのエネルギーを自分が半分貰ってあげる
気持ちで接すると良いでしょう。

心が病んでいる人は、相手を思いやる感情が必要不可欠です。
病んでいる本人も、その周りにいる人たちもです。


人の感情が生み出すエネルギーは
五感で感じられないので、認知されていませんが
皆さんが思っている以上に強力なのです。


人が住んでいない家が朽ちるのが早いのは
人のエネルギーが無いためですし
誰が経営しても失敗する店舗などは
負のエネルギーが土地や建物に蓄積れているからでしょう。








とまぁ~こんな感じですが
色々と試してみてください!

個人的には、心の病は自分の価値観が変わらない限り
完治しないと思っていますし
その為には、本人の新しい経験と
周りの力が必要不可欠だと思っております。


特に家族の方の影響を強く受けている可能性もあります。
実際に家族の方々が変わる事で、本人の心の病が改善したというメールを
ちょくちょく頂いております。



うつ病、統合失調症など精神病の家族を持つ方々へ - 修行バカの懺悔道


興味のある方は、ご覧ください。

ボランティア活動から学んだ事

私は、辛く苦しいなら徳を積め!と言い続けているのですが
多くを求めるのであれば、まずは与える事だと
そう思っているからです。
私自身がそれを実行する事で人生が大きく好転したからです。

農作業と同じで、土地を耕し種を蒔き
せっせとお世話をして、はじめて収穫できる仕組みが
この世界のあちこちに存在している・・
と言うか、それこそが世界の循環だと思っているからです。

ビジネスも同じで、稼いだお金を全て自分たちで
使い切ってしまうといずれ倒産してしまう。
稼いだお金の一部を市場を活性化する為に使っている会社が生き残る。

人生も同じで、ただひたすら求め続け
世の中から与えられるばかりではいつかは朽ち果ててしまう。
社会に対して、他人に対して・・・
何らかを与える事で自己の存在を維持できるわけです。

この世には、流れがあり
多くの物事が循環しています。
一方的にただ求めるだけでは自分自身の循環を止め
生きると言う活動を止める事になってしまうわけです。

従って、ただ求め続ける生き方は
初めから出来ない世界に我々は生れ落ちているのでしょう。


世の為人の為などと口にすると
理想主義者くらいな事を言われてしまう世の中ですが
私自身も昔はそう思っていました。
人の醜い心を敏感に感じていたからです。

ただ、よくよく考えれば、それは自分も含めどんな人も同じであり
生きると言う経験の中で、世の為人の為に尽くするように
学ばされているのが人生なのだと思うようになりました。

まだ、心が未熟なうちは、綺麗事を口走る人を理想主義者だと
そう思ってしまうのは、仕方のない事でしょう。
しかし、与える喜びを知る体験が出来れば
誰しもが世の為人の為に尽くしたいとそう思うはずです。
それが人の性ですからね。






苦悩に直面している人の多くは、ただただ強く求めるが故に
その状況に陥ってしまいます。


理由は簡単で、強く求めると周りを理解する事を怠ってしまうからです。
ようするに自分に都合の良い物だけを見る癖をつけてしまうのです。


例えば、常に他人に求めている人は、自分に対して嫌な事を言う人がいると
その人を拒絶するだけでしょう。
なぜ?そんな事を言うのか?を理解しようとしない為
永遠に嫌い、永遠に嫌な事を言われ続けるわけです。

これって辛く苦しい事ですよね?

しかし、常に他人に与えたいと思っている人は
嫌な事を言う相手の事を思いやる心があるので
自分が不快な思いをさせているのであれば、何がいけないのか?を考えて
自己改善しようと努力します。


嫌な相手を拒絶する人と嫌な相手を理解しようとする人では
その先の未来は大きく違うのは、ちょっと考えれば、だれでも解る事です。


常に周りに求めている人は、自分都合で物事を判断してしまう為
とても狭い世界で生きる事になり、成長もできないままになります。
息苦しい毎日を過ごす事になるでしょう。

逆に思いやりのある人は、常に周りを理解しようとしている為
どんどんと視野が広がり、自分自身も成長し続ける事が出来ます。
毎日、穏やかな日を過ごす事が出来る訳です。


社会や周りに尽くす行為が、自分自身を幸せにしてくれるのです。










私は、徳を積みましょう!と簡単に言いますがw
実は、とても難しい事なのです。

なぜならば、自分が良い事と思っている事が
相手にとって、とても迷惑な事だったりするからです。
善意の押し付けをしまくってしまえば
徳を積む所か、不徳を積み続けてしまう事になります。


多くを与える為には、多くを理解する必要があるので
まずは、理解する所から始めなければ、徳を積む事は出来ないのです。


何をしたら良いのか?解らないのでああれば
ボランティア活動に参加してみたり
公共の場所のごみ拾いや草取りでもしてみたら?
と、口癖になってしまいましたがw

まずは、行動してみる事が大切だと思います。
人間と言う生き物は、経験を積み重ねて自らの価値観を進化させています。
新たなる経験をしなければ、自分自身を成長させる事が出来ないわけです。
従って、新たなる経験に向かわない人は
強制的に嫌な出来事を与えられ、新たなる経験をさせられるわけです。



どんな人も、常に多くを求め
自分の利益になる事にしか興味を示しません。
自分の興味のある事しか理解しようとしていないわけです。

そして、その中での体験が自分の価値観となり
その価値観で物事を判断しているわけです。

所が、他人を思いやる心があるだけで
他人を理解しようとします。
自分が興味のない事も知ろうとします。
他人の興味が、自分の興味になるからです。
社会に貢献したいと思う人は
社会の多くを知ろうとします。
多くの人が興味を抱く事を知ろうとします。
多くの人が抱く興味が、自分の興味になるからです。

そんな事を繰り返していると気付けば
他人の幸せが自分の幸せになります。


これだけ記せばお分かりかと思いますが
両者の未来が雲泥の差になるのは、当然なのです。








新しい価値観を創り出すためには
新しい経験が必要不可欠です。
普段から、自分自身の利益になる事しかしていなければ
他人の利益の為に、行動してみるのが手っ取り早いんです。

なので、辛く苦しい現実を突きつけられている人に対して
ボランティアに参加するように話をします。
新たなる経験が、自分の価値観を変えてくれるからです。

どんな現実を突き付けられようが
自分自身が辛く苦しいと思わなければ
なんら問題のない事ですし
そう思えないのであれば、思えるようになればいいわけです。




私は、長年ボランティア活動をし続けておりますが
その中で多くを学ばせて頂きました。
現在も学び続けています。

私の場合、多くを求め過ぎて壊れていたので
人生観が変わるような出来事を何度も体験しましたね~

いまだに色々やり続けているのは
そこに私の幸せがあるからです。


精神を病んでいる方々にも
ボランティア活動を薦めているのですが
そんな活動に参加するのは、ハードルが高いとよく言われます。

そんな時は、一人でポツポツ歩きながら
公共の場所のごみ拾いをするとか
一日一善でもいいと思います。

まずは、新たなる体験をする事が大切ですからね~



公共の場所の清掃や一日一善からも
とても多くを学ばせて頂いたので
私自身が学んだ事を、少し記させて頂きます。








『公共の場のごみ拾い編』


私の場合、善行という修行の一環としてやりました。
毎日、嫌で嫌でしょうがなかったです。w
とは言え、自分の霊的苦痛をなくす為に!という思いだけで
ひたすらやっていました。


ゴミ拾いをして綺麗になった所を見ると清々しい気持ちになります。
まぁ~自己満足です。


ある日、恒例のように
綺麗にした所を見ながら清々しい気持ちに自己満足し帰宅した時の事です。
その日は、結構綺麗になったと、大きく自己満足していました。w
しかし、自宅に帰り、散らかった部屋とのギャップを見て愕然とします。
『俺ってなにやってるの?自分の部屋も綺麗にできない奴が公共の場の清掃?』
とか、思っちゃうわけです。

そして、翌日は部屋を掃除してからやろう!と心に誓うわけです。

しかし翌日、自分との戦いに敗れた私は
部屋を片付けずにゴミ拾いを始めます。w

まるで、神様はお見通しだよ!と言わんばかりに
何度もすれ違う人に声をかけられます。
『偉いね~!ご苦労様!』と・・言われるのです。
そして、その瞬間、私の胸にグサっと何かが刺さります。
これが、結構痛いのです。w
ついつい心の中で『褒めるなんてやめてくれ~!』と、叫んでしまいます。
自分の部屋は散らかったまま
公共の場を清掃している自分が、情けなく思えるわけです。
私は、『いえいえ、罰ゲームみたいなものですから。ハハハハハ・・^^;)』と
ついついそんな嘘をつきます。
胸に何かが刺さった痛みをこらえながら、清掃を続けていると
はっ!と気づくわけです。
罰ゲームという嘘を、なんとか本当にする為の理由を探している自分に・・
その日は、ダブルで傷つきました。w


私がまだ、名古屋に住んでいる時は
人口が多いので、そこそこ毎日道が散らかります。
しかし、田舎に引っ越して本当に困りました!
ゴミ拾いも毎日続けるとゴミが無くなってしまうのです。w
そこで、悩みます。
もう少し遠くまでいくか?
それって、面倒じゃね?
とか・・w

ここで、ハッ!とするわけです。
やっぱ俺って善意なんて全くないんだ・・と、再び愕然とします。w




雨の日なんかは、やめようと思うのですが
なんか自分に負けた気がして、やってみた所
ドロドロになりました。w
拾ったゴミとかがやたら重いし
ドロドロの重いゴミを持ち帰るのに抵抗がありました。
何より悲しいのが、掃除した場所が、きれいになったのか?
よく解らないという点です。
べちょべちょのドロドロになっているのに
満足感が得られません。

そして、思うのです。
自分が満足したいからやってるの?
結局は、自分のためじゃん?
私の善意は、いつになったら芽生えるの???
あ~・・情けない・・と・・

で、雨の日は、中止する事にしたのです。

雨の日を中止にすると
良からぬ事を考えるようになります。
煩悩まみれの自分と向き合う事になるわけです。w
前日の夜曇ったりしていると
翌朝は、雨が降りますように!!と祈っている自分がいました。w


そして、何度も何度も・・思うのです。
ひょっとしたら私の善意は、一生芽生えないのではないのか?と
ほぼ絶望を感じながら、1~2年そんな感じで続けましたかね~??


そして、この行為で私が学んだのは
①思った以上に自分には、善意がない事。
②善意がないままのボランティア活動で
褒められると心に刺さる痛みが半端ない事。
③偽善で続けている以上、目前の現実は全く好転しない事。
④自分はダメ人間だと知った事。

です。

一番大きな収穫は、自分がダメ人間だと知った事かな?w

自分はダメ人間だと言う事を痛感するという
とても良い経験をさせて頂きました。

自分のダメな所を知らないと成長できませんからね~!^^)


たいていの人が、自分は普通だくらいに思っているでしょうが
私も普通レベルの人間だとそう思っていました。
私の場合、自分の下ばかりみて
安心する行為までプラスしていましたよ。w

自己暗示の達人ですね!w

無意識の内に、かなり低いレベルの普通を
一般的な普通と同格にする裏ワザも使っていました。w

東大を卒業している人の普通と
中学校もろくに通わなかった私の普通が
同格の普通のわけがないのに
無意識に自分の中だけで、普通は普通であり
みんな同じなんだと自分で自分を洗脳するわけです!

なんとも苦しく無理のある事実なのに
平然と成し遂げていましたね~w


そんなこんなで、日々自己改善が必須であると
思うようになりました。




私は、密教古神道修験道
かなり激しく修行しましたが、今振り返ると
この善行という修行が、自分を一番成長させてくれたように思います。



恐るべし!善行!









次は
『一日一善編』
です。


毎日ひとつ良い事をしよう!という一日一善は
エゴの塊人間である私としては、かなり苦痛なわけです。
なにせ、雨の日のお休みがないですからね~w

そして、毎日何をしたらいいのか?悩み続けるわけです。
これがしんどいんです。
普段から自分の事しか考えていないので
何が良い事なのか?全くわからないのです。w

せっかちな私は一日一善を自分自身に課せると
早く終わらせたいわけです。
何もしていないと気になって仕事ができないので
なんとか午前中に終わらせようと必死な毎日を過ごしました。w

まぁ~必死にならないと
良い事が出来ない時点でアウトなんですけど・・w




なかなか一日一善がクリアできない、ある日の事です。
とりあえず、道端に落ちているゴミを拾おうと
目を皿のようにして車を運転していました。

すると、スーパー袋にいっぱい入ったゴミが
道のど真ん中に、『ボクここにいるよ~!』と主張しているわけです!
私は、思いました。
『おお!神様!ありがとう!こんな目立つ所にゴミを捨ててくれた人!ありがとう!』と。w
車を路肩に止め、スーパー袋に入ったゴミを拾い
『あれ?』と、思うのです。

昔の私なら『誰だ!こんな道のど真ん中に、こんなデカいゴミを捨てる奴わ!』
くらいに思い、おそらく不愉快な思いをしたまま素通りしていたでしょう。
(Point→ぶつぶつを文句を言い、結局拾わず、不愉快になるだけw)

しかし、今!私は!『ゴミを捨ててくれた人!ありがとう!』って思ったよな???


目の前で起きる現実は、自分の捉え方次第なんだと学んだ瞬間です!
ただ、文句を言い不快になる自分と
ゴミを捨てた人に拾わせてくれてありがとう!と感謝する自分では
正反対ではないですか!
たかだか一回ゴミを拾っただけなんですが
なんかこの先の未来が大きく変わるような気がしました!
(まぁ~不徳が多いので簡単に未来は好転しませんでしたけど・・w)

今までの私は、ただブツブツ文句を言うだけで何もしない・・
せめて文句言うなら、ゴミを片付ければいいものを、何もしないのです!
第三者の目で、そんな自分を見つめると
何かのミスや間違いを見つける度に、不満を口にするだけのクズ人間ですね~
何の役にも立たないわけです。
何もしないのなら、不快感をまき散らすな!黙ってろ!って感じですよ。
まったく持って、社会には必要のないゴミですわ。
スーパー袋程度のゴミならまだしも、人体の大きさのゴミで
更には、移動しながら不快感をまき散らすゴミ・・
処分しようものなら、犯罪者として刑務所送りですしね~
いや~厄介極まりないゴミですよ!私は・・^^;)


それ以来、私はゴミ人間を卒業しようと心に誓いました!
さすがにカルチャーショックを受けたので、ちゃんと誓いを守りましたよ。ハイ。

ムカつく出来事がある度に、違う視点で物事を捉えるようになりました!
例えば、左右の確認をろくにしないまま、突っ込んでくる車に対して
なんで?こいつは確認をろくにしないんだろう?
急いでいるのか?私はどう気を付ければいい?とか・・・
私の意見を頭ごなしに否定する相手に対し、何で否定する?こいつは何がしたい?
私はどうしてあげればいい?とか・・
そんな事を常々考えるようになり、気付けば、あまりイライラしなくなりました。

と言うより、嫌な出来事は自己の成長の為にある!と確信しましたね~
ムカつく相手ほど、感謝するべきだ!と、そう思うようになってました。

まさしく!
『ゴミを捨てさせて頂いて、ありがとうございます。m(_ _)m』
だったのです!

これ、マジですよ!(-_☆)









また、ある日の事です。
前日、明け方まで飲んだくれて
その日は、全身から酒の臭いを漂わせ昼出勤しました。

酒がかなり残っているので、仕事もままならず
デスクでぼ~っとしていたのですが
あ!一日一善!と思い出したわけです。

で、何度も清掃に行った事のある公共の公園にゴミ袋をもって向かいました。
平日の昼間なら、あまり人もいないだろうと思ったのです。

道中歩きながらもゴミを拾い、目的地の公園でゴミを拾っていると
年配のじいさんが、ちょっと離れた所から
私に向かって『ゴミを拾うな!』と怒鳴っているのです。

私は、何の事なのか?全くわかりませんでした。
直接話を聞くと、やはりゴミを拾うな!と怒っている。
なぜ?なぜ?なぜ?いけないの?
と、爺さんに聞くと、それはワシの仕事だ!という訳です。

それでも、私は納得できずに、別によくない?と言い返すと
気まずそうに、町からお金をもらって公園の清掃をしているのに
私が定期的に掃除すると、小遣いが稼げなくなるというのです。

それは、大変申し訳ない事をしたと平謝りしました。
良い事をしているつもりが、不徳を積んでいたわけです。
何も考えずに、自分が良い事をしていると思い込んでいたわけです。
思慮が浅い自分を痛感した出来事でしたね~

その場を去り帰り道で、拾ったゴミを見ながら思うのです。
歩いて拾ったゴミは、不徳になっていないよな?
何処までがセーフだ?・・と。w

そして、歩きながら
あ~・・・やり直しだ~(〃´o`)=3
と、思ったわけです。









忙しく仕事をしていると
どうしても一日一善を忘れてしまう日があります。
そんな日の翌日は、二善するようにしていたのですが
怠惰な私は、一善しただけで
もう一善わすれてしまう事もあるのです。


その日も、そんな日でした。
珍しく早めに帰宅し、ビールでも飲もうと冷蔵庫を開けた瞬間
何か?忘れているぞ?と思い至ったのです。
その忘れ事が一善足らない事と気づき焦りました!

もう帰ってきちゃったじゃん!
面倒くせ~~!と、いつも通り思うわけです。w

周りを見渡すとキッチンは料理をしたまま放置され
かなり散らかっておりました。
妻もどこかに出かけており
よし!これだ!と思いせっせと掃除に取り掛かりました。

綺麗になったキッチンを眺め自己満足に浸っていると
妻が戻ってきて、『キッチン掃除してくれたんだ~』と嫌な顔をするわけです。

私的には、『何で嫌そうなの?ありがとう!は?』と不服に思ったのですが
その矢先!
妻『何?その顔?』←お見通し
私『へ?』
妻『汚いキッチンを掃除してやったぞ!
ありがとうは?って、その顔よ!』←完璧なお見通し
私『ダメなの?』
妻『だいたい亭主が妻の料理の片づけを手伝うのは当たり前だし!
それを普段からやらないでおいて、たまに掃除してなんで勝ち誇るわけ??
そもそも、誰が片付けて!って言ったわけ!怒!』
私『なんで怒られるの?』←ちょっと不服
妻『当たり前でしょ!料理の途中なんだから!!!』
私『え?途中だったの?』←ちょっと不服
妻『何?何?何?料理は途中です!って
紙に書いて解るようにしておかないのいけないの!』←お見通し
私『ごめん、途中だと思わなかったんで・・』
妻『あっそ!よけいな事しないでくれる!怒!』
私『すみません・・』←でも、ちょっと不服
妻『え?私がいけないわけ?』←お見通し
私『・・・』
妻『だいたいね!なんでフライパンがココにしまってあるの!
鍋はこっち!なんでコレ捨てるの!解らないなら触らないでしょね!
怒怒怒怒怒怒怒怒!』←爆炎
私『全くもって申し訳ない。』←撃沈

と、良い事をしたつもりが、ガッツり怒られてしまった私は
ここでも、不徳を積んでしまったわけです。w




一日一善は、なんだかんだと、色々やりました。

客先のトイレ掃除をさせてもらったり
客先の駐車場の草取りをさせてもらったり
神社や寺の清掃を申し出たり
公民館などの清掃を申し出たり
良い事を探すのが、かなりしんどいのです。w




一日一善で学んだ事
①私は、人間のクズでした。ごめんなさい。
②すべての出来事は受けとめる側の気持ち次第である。
③嫌な出来事を理解しようとするだけで、自分の視野が限りなく広がって行く。
④自分が抱く不平不満は、だたの思い込みに過ぎない。
⑤良い事をしているという思い込みが、時に多大な迷惑になる。
⑥当たり前の事が出来ないと、当たり前の事が良い事だと思い込み痛い目に会う。
⑦まずは、理解しないと良い事など何もできない。
⑧良い事とは、自分ではなく周りが決める事である。
⑨怒りは、無知な人間の専売特許である。
⑩ムカつく出来事は、自分次第で感謝する出来事になる。








ボランティア活動のエピソードは、いくらでも書けるのですが
とりあえずは、こんな感じで、色々学べます。

色々学びながら活動を続けていると
なんだかんだと成長できると思います。

ちゃんと徳をつめているかは、目前の現実が教えてくれます。
明らかに出来事が変わってくるので、誰でも気づけるはずです。

先日、一週間ゴミ拾いをしたんだけど何も変わりません!
というメールを頂きましたが
ちゃんと徳を積めていれば、必ず現実は変わりますので
ただただ、ひたすらやり続ける事だと思います。

自分は良い事をしているんだ!と、そんな驕りがあると
不徳を積み続けている可能性がかなり大きいので
偽善行為をしていると、自分でそう思っていた方がいいでしょう。

良い事とは、自分では決められませんからね~