修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

ボランティア活動から学んだ事

私は、辛く苦しいなら徳を積め!と言い続けているのですが
多くを求めるのであれば、まずは与える事だと
そう思っているからです。
私自身がそれを実行する事で人生が大きく好転したからです。

農作業と同じで、土地を耕し種を蒔き
せっせとお世話をして、はじめて収穫できる仕組みが
この世界のあちこちに存在している・・
と言うか、それこそが世界の循環だと思っているからです。

ビジネスも同じで、稼いだお金を全て自分たちで
使い切ってしまうといずれ倒産してしまう。
稼いだお金の一部を市場を活性化する為に使っている会社が生き残る。

人生も同じで、ただひたすら求め続け
世の中から与えられるばかりではいつかは朽ち果ててしまう。
社会に対して、他人に対して・・・
何らかを与える事で自己の存在を維持できるわけです。

この世には、流れがあり
多くの物事が循環しています。
一方的にただ求めるだけでは自分自身の循環を止め
生きると言う活動を止める事になってしまうわけです。

従って、ただ求め続ける生き方は
初めから出来ない世界に我々は生れ落ちているのでしょう。


世の為人の為などと口にすると
理想主義者くらいな事を言われてしまう世の中ですが
私自身も昔はそう思っていました。
人の醜い心を敏感に感じていたからです。

ただ、よくよく考えれば、それは自分も含めどんな人も同じであり
生きると言う経験の中で、世の為人の為に尽くするように
学ばされているのが人生なのだと思うようになりました。

まだ、心が未熟なうちは、綺麗事を口走る人を理想主義者だと
そう思ってしまうのは、仕方のない事でしょう。
しかし、与える喜びを知る体験が出来れば
誰しもが世の為人の為に尽くしたいとそう思うはずです。
それが人の性ですからね。






苦悩に直面している人の多くは、ただただ強く求めるが故に
その状況に陥ってしまいます。


理由は簡単で、強く求めると周りを理解する事を怠ってしまうからです。
ようするに自分に都合の良い物だけを見る癖をつけてしまうのです。


例えば、常に他人に求めている人は、自分に対して嫌な事を言う人がいると
その人を拒絶するだけでしょう。
なぜ?そんな事を言うのか?を理解しようとしない為
永遠に嫌い、永遠に嫌な事を言われ続けるわけです。

これって辛く苦しい事ですよね?

しかし、常に他人に与えたいと思っている人は
嫌な事を言う相手の事を思いやる心があるので
自分が不快な思いをさせているのであれば、何がいけないのか?を考えて
自己改善しようと努力します。


嫌な相手を拒絶する人と嫌な相手を理解しようとする人では
その先の未来は大きく違うのは、ちょっと考えれば、だれでも解る事です。


常に周りに求めている人は、自分都合で物事を判断してしまう為
とても狭い世界で生きる事になり、成長もできないままになります。
息苦しい毎日を過ごす事になるでしょう。

逆に思いやりのある人は、常に周りを理解しようとしている為
どんどんと視野が広がり、自分自身も成長し続ける事が出来ます。
毎日、穏やかな日を過ごす事が出来る訳です。


社会や周りに尽くす行為が、自分自身を幸せにしてくれるのです。










私は、徳を積みましょう!と簡単に言いますがw
実は、とても難しい事なのです。

なぜならば、自分が良い事と思っている事が
相手にとって、とても迷惑な事だったりするからです。
善意の押し付けをしまくってしまえば
徳を積む所か、不徳を積み続けてしまう事になります。


多くを与える為には、多くを理解する必要があるので
まずは、理解する所から始めなければ、徳を積む事は出来ないのです。


何をしたら良いのか?解らないのでああれば
ボランティア活動に参加してみたり
公共の場所のごみ拾いや草取りでもしてみたら?
と、口癖になってしまいましたがw

まずは、行動してみる事が大切だと思います。
人間と言う生き物は、経験を積み重ねて自らの価値観を進化させています。
新たなる経験をしなければ、自分自身を成長させる事が出来ないわけです。
従って、新たなる経験に向かわない人は
強制的に嫌な出来事を与えられ、新たなる経験をさせられるわけです。



どんな人も、常に多くを求め
自分の利益になる事にしか興味を示しません。
自分の興味のある事しか理解しようとしていないわけです。

そして、その中での体験が自分の価値観となり
その価値観で物事を判断しているわけです。

所が、他人を思いやる心があるだけで
他人を理解しようとします。
自分が興味のない事も知ろうとします。
他人の興味が、自分の興味になるからです。
社会に貢献したいと思う人は
社会の多くを知ろうとします。
多くの人が興味を抱く事を知ろうとします。
多くの人が抱く興味が、自分の興味になるからです。

そんな事を繰り返していると気付けば
他人の幸せが自分の幸せになります。


これだけ記せばお分かりかと思いますが
両者の未来が雲泥の差になるのは、当然なのです。








新しい価値観を創り出すためには
新しい経験が必要不可欠です。
普段から、自分自身の利益になる事しかしていなければ
他人の利益の為に、行動してみるのが手っ取り早いんです。

なので、辛く苦しい現実を突きつけられている人に対して
ボランティアに参加するように話をします。
新たなる経験が、自分の価値観を変えてくれるからです。

どんな現実を突き付けられようが
自分自身が辛く苦しいと思わなければ
なんら問題のない事ですし
そう思えないのであれば、思えるようになればいいわけです。




私は、長年ボランティア活動をし続けておりますが
その中で多くを学ばせて頂きました。
現在も学び続けています。

私の場合、多くを求め過ぎて壊れていたので
人生観が変わるような出来事を何度も体験しましたね~

いまだに色々やり続けているのは
そこに私の幸せがあるからです。


精神を病んでいる方々にも
ボランティア活動を薦めているのですが
そんな活動に参加するのは、ハードルが高いとよく言われます。

そんな時は、一人でポツポツ歩きながら
公共の場所のごみ拾いをするとか
一日一善でもいいと思います。

まずは、新たなる体験をする事が大切ですからね~



公共の場所の清掃や一日一善からも
とても多くを学ばせて頂いたので
私自身が学んだ事を、少し記させて頂きます。








『公共の場のごみ拾い編』


私の場合、善行という修行の一環としてやりました。
毎日、嫌で嫌でしょうがなかったです。w
とは言え、自分の霊的苦痛をなくす為に!という思いだけで
ひたすらやっていました。


ゴミ拾いをして綺麗になった所を見ると清々しい気持ちになります。
まぁ~自己満足です。


ある日、恒例のように
綺麗にした所を見ながら清々しい気持ちに自己満足し帰宅した時の事です。
その日は、結構綺麗になったと、大きく自己満足していました。w
しかし、自宅に帰り、散らかった部屋とのギャップを見て愕然とします。
『俺ってなにやってるの?自分の部屋も綺麗にできない奴が公共の場の清掃?』
とか、思っちゃうわけです。

そして、翌日は部屋を掃除してからやろう!と心に誓うわけです。

しかし翌日、自分との戦いに敗れた私は
部屋を片付けずにゴミ拾いを始めます。w

まるで、神様はお見通しだよ!と言わんばかりに
何度もすれ違う人に声をかけられます。
『偉いね~!ご苦労様!』と・・言われるのです。
そして、その瞬間、私の胸にグサっと何かが刺さります。
これが、結構痛いのです。w
ついつい心の中で『褒めるなんてやめてくれ~!』と、叫んでしまいます。
自分の部屋は散らかったまま
公共の場を清掃している自分が、情けなく思えるわけです。
私は、『いえいえ、罰ゲームみたいなものですから。ハハハハハ・・^^;)』と
ついついそんな嘘をつきます。
胸に何かが刺さった痛みをこらえながら、清掃を続けていると
はっ!と気づくわけです。
罰ゲームという嘘を、なんとか本当にする為の理由を探している自分に・・
その日は、ダブルで傷つきました。w


私がまだ、名古屋に住んでいる時は
人口が多いので、そこそこ毎日道が散らかります。
しかし、田舎に引っ越して本当に困りました!
ゴミ拾いも毎日続けるとゴミが無くなってしまうのです。w
そこで、悩みます。
もう少し遠くまでいくか?
それって、面倒じゃね?
とか・・w

ここで、ハッ!とするわけです。
やっぱ俺って善意なんて全くないんだ・・と、再び愕然とします。w




雨の日なんかは、やめようと思うのですが
なんか自分に負けた気がして、やってみた所
ドロドロになりました。w
拾ったゴミとかがやたら重いし
ドロドロの重いゴミを持ち帰るのに抵抗がありました。
何より悲しいのが、掃除した場所が、きれいになったのか?
よく解らないという点です。
べちょべちょのドロドロになっているのに
満足感が得られません。

そして、思うのです。
自分が満足したいからやってるの?
結局は、自分のためじゃん?
私の善意は、いつになったら芽生えるの???
あ~・・情けない・・と・・

で、雨の日は、中止する事にしたのです。

雨の日を中止にすると
良からぬ事を考えるようになります。
煩悩まみれの自分と向き合う事になるわけです。w
前日の夜曇ったりしていると
翌朝は、雨が降りますように!!と祈っている自分がいました。w


そして、何度も何度も・・思うのです。
ひょっとしたら私の善意は、一生芽生えないのではないのか?と
ほぼ絶望を感じながら、1~2年そんな感じで続けましたかね~??


そして、この行為で私が学んだのは
①思った以上に自分には、善意がない事。
②善意がないままのボランティア活動で
褒められると心に刺さる痛みが半端ない事。
③偽善で続けている以上、目前の現実は全く好転しない事。
④自分はダメ人間だと知った事。

です。

一番大きな収穫は、自分がダメ人間だと知った事かな?w

自分はダメ人間だと言う事を痛感するという
とても良い経験をさせて頂きました。

自分のダメな所を知らないと成長できませんからね~!^^)


たいていの人が、自分は普通だくらいに思っているでしょうが
私も普通レベルの人間だとそう思っていました。
私の場合、自分の下ばかりみて
安心する行為までプラスしていましたよ。w

自己暗示の達人ですね!w

無意識の内に、かなり低いレベルの普通を
一般的な普通と同格にする裏ワザも使っていました。w

東大を卒業している人の普通と
中学校もろくに通わなかった私の普通が
同格の普通のわけがないのに
無意識に自分の中だけで、普通は普通であり
みんな同じなんだと自分で自分を洗脳するわけです!

なんとも苦しく無理のある事実なのに
平然と成し遂げていましたね~w


そんなこんなで、日々自己改善が必須であると
思うようになりました。




私は、密教古神道修験道
かなり激しく修行しましたが、今振り返ると
この善行という修行が、自分を一番成長させてくれたように思います。



恐るべし!善行!









次は
『一日一善編』
です。


毎日ひとつ良い事をしよう!という一日一善は
エゴの塊人間である私としては、かなり苦痛なわけです。
なにせ、雨の日のお休みがないですからね~w

そして、毎日何をしたらいいのか?悩み続けるわけです。
これがしんどいんです。
普段から自分の事しか考えていないので
何が良い事なのか?全くわからないのです。w

せっかちな私は一日一善を自分自身に課せると
早く終わらせたいわけです。
何もしていないと気になって仕事ができないので
なんとか午前中に終わらせようと必死な毎日を過ごしました。w

まぁ~必死にならないと
良い事が出来ない時点でアウトなんですけど・・w




なかなか一日一善がクリアできない、ある日の事です。
とりあえず、道端に落ちているゴミを拾おうと
目を皿のようにして車を運転していました。

すると、スーパー袋にいっぱい入ったゴミが
道のど真ん中に、『ボクここにいるよ~!』と主張しているわけです!
私は、思いました。
『おお!神様!ありがとう!こんな目立つ所にゴミを捨ててくれた人!ありがとう!』と。w
車を路肩に止め、スーパー袋に入ったゴミを拾い
『あれ?』と、思うのです。

昔の私なら『誰だ!こんな道のど真ん中に、こんなデカいゴミを捨てる奴わ!』
くらいに思い、おそらく不愉快な思いをしたまま素通りしていたでしょう。
(Point→ぶつぶつを文句を言い、結局拾わず、不愉快になるだけw)

しかし、今!私は!『ゴミを捨ててくれた人!ありがとう!』って思ったよな???


目の前で起きる現実は、自分の捉え方次第なんだと学んだ瞬間です!
ただ、文句を言い不快になる自分と
ゴミを捨てた人に拾わせてくれてありがとう!と感謝する自分では
正反対ではないですか!
たかだか一回ゴミを拾っただけなんですが
なんかこの先の未来が大きく変わるような気がしました!
(まぁ~不徳が多いので簡単に未来は好転しませんでしたけど・・w)

今までの私は、ただブツブツ文句を言うだけで何もしない・・
せめて文句言うなら、ゴミを片付ければいいものを、何もしないのです!
第三者の目で、そんな自分を見つめると
何かのミスや間違いを見つける度に、不満を口にするだけのクズ人間ですね~
何の役にも立たないわけです。
何もしないのなら、不快感をまき散らすな!黙ってろ!って感じですよ。
まったく持って、社会には必要のないゴミですわ。
スーパー袋程度のゴミならまだしも、人体の大きさのゴミで
更には、移動しながら不快感をまき散らすゴミ・・
処分しようものなら、犯罪者として刑務所送りですしね~
いや~厄介極まりないゴミですよ!私は・・^^;)


それ以来、私はゴミ人間を卒業しようと心に誓いました!
さすがにカルチャーショックを受けたので、ちゃんと誓いを守りましたよ。ハイ。

ムカつく出来事がある度に、違う視点で物事を捉えるようになりました!
例えば、左右の確認をろくにしないまま、突っ込んでくる車に対して
なんで?こいつは確認をろくにしないんだろう?
急いでいるのか?私はどう気を付ければいい?とか・・・
私の意見を頭ごなしに否定する相手に対し、何で否定する?こいつは何がしたい?
私はどうしてあげればいい?とか・・
そんな事を常々考えるようになり、気付けば、あまりイライラしなくなりました。

と言うより、嫌な出来事は自己の成長の為にある!と確信しましたね~
ムカつく相手ほど、感謝するべきだ!と、そう思うようになってました。

まさしく!
『ゴミを捨てさせて頂いて、ありがとうございます。m(_ _)m』
だったのです!

これ、マジですよ!(-_☆)









また、ある日の事です。
前日、明け方まで飲んだくれて
その日は、全身から酒の臭いを漂わせ昼出勤しました。

酒がかなり残っているので、仕事もままならず
デスクでぼ~っとしていたのですが
あ!一日一善!と思い出したわけです。

で、何度も清掃に行った事のある公共の公園にゴミ袋をもって向かいました。
平日の昼間なら、あまり人もいないだろうと思ったのです。

道中歩きながらもゴミを拾い、目的地の公園でゴミを拾っていると
年配のじいさんが、ちょっと離れた所から
私に向かって『ゴミを拾うな!』と怒鳴っているのです。

私は、何の事なのか?全くわかりませんでした。
直接話を聞くと、やはりゴミを拾うな!と怒っている。
なぜ?なぜ?なぜ?いけないの?
と、爺さんに聞くと、それはワシの仕事だ!という訳です。

それでも、私は納得できずに、別によくない?と言い返すと
気まずそうに、町からお金をもらって公園の清掃をしているのに
私が定期的に掃除すると、小遣いが稼げなくなるというのです。

それは、大変申し訳ない事をしたと平謝りしました。
良い事をしているつもりが、不徳を積んでいたわけです。
何も考えずに、自分が良い事をしていると思い込んでいたわけです。
思慮が浅い自分を痛感した出来事でしたね~

その場を去り帰り道で、拾ったゴミを見ながら思うのです。
歩いて拾ったゴミは、不徳になっていないよな?
何処までがセーフだ?・・と。w

そして、歩きながら
あ~・・・やり直しだ~(〃´o`)=3
と、思ったわけです。









忙しく仕事をしていると
どうしても一日一善を忘れてしまう日があります。
そんな日の翌日は、二善するようにしていたのですが
怠惰な私は、一善しただけで
もう一善わすれてしまう事もあるのです。


その日も、そんな日でした。
珍しく早めに帰宅し、ビールでも飲もうと冷蔵庫を開けた瞬間
何か?忘れているぞ?と思い至ったのです。
その忘れ事が一善足らない事と気づき焦りました!

もう帰ってきちゃったじゃん!
面倒くせ~~!と、いつも通り思うわけです。w

周りを見渡すとキッチンは料理をしたまま放置され
かなり散らかっておりました。
妻もどこかに出かけており
よし!これだ!と思いせっせと掃除に取り掛かりました。

綺麗になったキッチンを眺め自己満足に浸っていると
妻が戻ってきて、『キッチン掃除してくれたんだ~』と嫌な顔をするわけです。

私的には、『何で嫌そうなの?ありがとう!は?』と不服に思ったのですが
その矢先!
妻『何?その顔?』←お見通し
私『へ?』
妻『汚いキッチンを掃除してやったぞ!
ありがとうは?って、その顔よ!』←完璧なお見通し
私『ダメなの?』
妻『だいたい亭主が妻の料理の片づけを手伝うのは当たり前だし!
それを普段からやらないでおいて、たまに掃除してなんで勝ち誇るわけ??
そもそも、誰が片付けて!って言ったわけ!怒!』
私『なんで怒られるの?』←ちょっと不服
妻『当たり前でしょ!料理の途中なんだから!!!』
私『え?途中だったの?』←ちょっと不服
妻『何?何?何?料理は途中です!って
紙に書いて解るようにしておかないのいけないの!』←お見通し
私『ごめん、途中だと思わなかったんで・・』
妻『あっそ!よけいな事しないでくれる!怒!』
私『すみません・・』←でも、ちょっと不服
妻『え?私がいけないわけ?』←お見通し
私『・・・』
妻『だいたいね!なんでフライパンがココにしまってあるの!
鍋はこっち!なんでコレ捨てるの!解らないなら触らないでしょね!
怒怒怒怒怒怒怒怒!』←爆炎
私『全くもって申し訳ない。』←撃沈

と、良い事をしたつもりが、ガッツり怒られてしまった私は
ここでも、不徳を積んでしまったわけです。w




一日一善は、なんだかんだと、色々やりました。

客先のトイレ掃除をさせてもらったり
客先の駐車場の草取りをさせてもらったり
神社や寺の清掃を申し出たり
公民館などの清掃を申し出たり
良い事を探すのが、かなりしんどいのです。w




一日一善で学んだ事
①私は、人間のクズでした。ごめんなさい。
②すべての出来事は受けとめる側の気持ち次第である。
③嫌な出来事を理解しようとするだけで、自分の視野が限りなく広がって行く。
④自分が抱く不平不満は、だたの思い込みに過ぎない。
⑤良い事をしているという思い込みが、時に多大な迷惑になる。
⑥当たり前の事が出来ないと、当たり前の事が良い事だと思い込み痛い目に会う。
⑦まずは、理解しないと良い事など何もできない。
⑧良い事とは、自分ではなく周りが決める事である。
⑨怒りは、無知な人間の専売特許である。
⑩ムカつく出来事は、自分次第で感謝する出来事になる。








ボランティア活動のエピソードは、いくらでも書けるのですが
とりあえずは、こんな感じで、色々学べます。

色々学びながら活動を続けていると
なんだかんだと成長できると思います。

ちゃんと徳をつめているかは、目前の現実が教えてくれます。
明らかに出来事が変わってくるので、誰でも気づけるはずです。

先日、一週間ゴミ拾いをしたんだけど何も変わりません!
というメールを頂きましたが
ちゃんと徳を積めていれば、必ず現実は変わりますので
ただただ、ひたすらやり続ける事だと思います。

自分は良い事をしているんだ!と、そんな驕りがあると
不徳を積み続けている可能性がかなり大きいので
偽善行為をしていると、自分でそう思っていた方がいいでしょう。

良い事とは、自分では決められませんからね~