修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

相手の想いを汲み取る努力が必要不可欠な時代なのかも?

どんな人も他人の言葉で傷つく事もありますが
逆に他人の言葉で癒されることもある。

でも、実際に傷ついたり癒されたりするのは
言葉自体ではなく、そこにある思いなどのエネルギーの影響を受けていると
私は、そう感じています。

誰しも、思いのない言葉は軽く感じますし
思いの強い言葉は、重く感じるものなのです。
同じ言葉でも、相手によって
感じ方が違うのは、エネルギーの受け止め方が
違うからでしょうね。

しかし、一度放った自分の言葉が
それを、聞いた人の思いが乗って、どんどん一人歩きする事もある。

ついつい口にした言葉が、とても大きな問題となって
わが身に降りかかってくる事もあるでしょう。

『そんなつもりはなかったんだ!』と釈明する
政治家の姿を報道でよく見るように
言葉とは、ほんとうに恐ろしいモノになってしまった。


私は、ガキの頃やんちゃだったので
よく喧嘩して、殴りあったりしたものですが
お互いに自分の思いをこぶしに溜めて殴りあう事で
自然と相手を理解できるものなんです。

ただ気に入らない!という実にくだらない事で
殴り合いにまで発展するのですが
お互いに殴りあう事で、お互いを理解し合えるのです。

言葉ではなく、純粋に強い思いだけで
体当たりして、ぶつけ合うからなんでしょうね。

そんな相手とその後は、仲良く遊ぶようになる事の方が
多かったように記憶しています。

殴り合って、仲直りして
缶ジュースを買って飲もうとすると
口のなかはズタズタで、アゴが痛くてまともに飲めない・・
さっきまで、殴りあった相手と
一緒にイテェ~イテェ~と、笑いながら飲むんです。
今思えば、とても楽しい思い出です。


恐らく言葉のみの口喧嘩では、理解しあう事もなく
永遠にいがみ合っていたような気がします。
殴りあうのではなく、言葉でいがみ合っている自分を想像すると
なぜか?実に醜く、気持ち悪い姿に思えます。


昔は、街中でよく殴りあいの喧嘩をしているアホな奴をよく見かけましたが
最近では、そんな光景を目にすることは、まずありません。

教育の中から体罰などの暴力を排除した結果なのかもしれません。

暴力が良い事とは思いませんが
その分、相手の想いを汲み取る努力が必要な時代のように感じています。


言葉の奥にある想いを理解しない限り
他人と分かり合う事は、永遠にできないのがこの世の仕組みですし
親子でさえ、すれ違う今の時代に、他人と心を通わせる事は
簡単にはできないような気がしています。


私たちは、どんな人も過ちを犯すものであり
それを『ゆるす心』が必要なのですが
相手の思いを汲み取り理解しようとしない限り
永遠にゆるす事などできないのが、我々人間の構造です。



よく精神病になってしまった方の家族から
どうしてあげたらいいのか解らないという
相談を受けるのですが
ほとんどが相手の言葉や行動に囚われたまま
自分の中にある正しいという価値観を強要してしまっています。

ようするに、はじめから
相手を理解しようとしていないので
どうしてあげたらいいのか?が解らないだけなのですが
そんな自分にも気づく事ができないわけです。


現代人なんて、そんなものなのですが
それで、終わらせてしまえば
なんの解決にはならないわけです。

普段から、相手の言動のみに囚われて
その奥にある想いを理解しようとする努力をしなければ
精神病、認知症と言った言葉のキャッチボールができない相手と
深く関わる事になるはずです。

精神病、認知症という病気を患う人が増え続けていると言う事は
ひょっとしたら、そこに原因があるのかもしれません。