修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

自分自身を知らないだけで、否定批判が増え続ける、この世の仕組み

自分を変えたくてもなかなか変わる事はできない・・・
どうしても○○できない・・
どうしても○○と思えない・・
そう感じる事は、誰にでもあるのではないでしょうか。

誰しも、自分の事を一番解っていないのが自分だったりするわけで
自分自身を知る事で、自分自身を改善する事が出来る様にも思います。

しかし、自分自身を知る事は、自らの煩悩に逆らう必要があり
快楽を求めている以上とても難しい事だと私はそう思っています。


また、常に自分を成長させなければ
必ず苦悩に直面するという、大自然の法則の中で
私たちは過ごしているので
自らを見つめ、改善し続ける事は
人生においてとても重要な事だと、私はそう思っています。


自分という存在は、他人があって初めて位置づけがされ
他人の評価が、今の自分自身と言う事になる。
また、今いる自分の環境によっても、その位置づけは変わり
その評価も変わるので、自分自身の人間関係によっても
自分の存在意義も変わってくる。

すなわち、まずは自分の周りを理解しなければ
どうあがいても、自分を知る事は出来ないわけです。
自分の良いところも、悪いところも、自分以外を理解しなければ
何も知る事ができず、それをしなければ、ただの独りよがりの
我がまま人間でしかなくなってしまうわけです。


また、自分自身の人間関係は
自分自身の経験値によって生み出され
自らの成長と共に、人間関係も移り変わって行くわけです。

どこで、どう生きようが
他人という存在が、自分自身を知るヒントとなっているわけです。


私自身、自分自身を見つめる内観の修行を繰り返してみましたが
結局、自分を知るためには
他人を理解しようと努力する事が最も重要だと思うようになりました。
内観の修行より、その方が手っ取り早く自分を知る事ができるのです。

そして、自分を知れば知るほど至らぬ己に気づく事ができ
その結果『ゆるす心』が大きくなってゆきます。



よく、親に対して憎しみを抱いている方の相談を受ける事があるのですが
自分の血肉は、親から分けられているわけです。

従って、その憎しみを抱く親と、同じ判断基準を生まれながらに
受け継いでいるのですが、憎しみや怒りの想念が、自分自身を見えなくしてしまいます。

他人の私から見れば、同類の人なのですが本人は、全く気づけないし
言葉で伝えても、その事実を受け入れる事はできないものです。

私の父親は、はちゃめちゃな人だったのですが
子供の頃は、父親のその常識外れな、はちゃめちゃさが、私は嫌で仕方なかったのですが
結婚し、私も父親となった時、愛息子に私のはちゃめちゃさが嫌だと言われた事があります。

父親とは言動も違い、してきた経験は全く違うのですが、ただそれは度合いの問題で
息子からすれば、祖父も父も同類の人種だったわけです。



『現実は鏡』とは、よく言ったもので
目の前にいる憎むべき人は、自分自身と同じ一面を持ち
それを、改善させるためのメッセージが必ず含まれているようです。
私の場合、別に父は嫌いではなかったのですが
確かに、その言動を否定し批判してきたように思います。

よくよく我を振り返ると、否定批判する出来事は
すべて自分自身を改善させるためのメッセージのように感じます。

まぁ~私も人間なので、否定もするし批判もするし
怒るし、イラつくわけですが、その度に自分自身を振り返るようにしています。

すると、必ずそこには、自分自身への大切なメッセージがあるのです。
もちろん、そのメッセージが何か全くわからない事もあるのですが
その場合、何度もムカつく出来事が繰り返されるわけです。
気づく事さえできれば、心身が軽くなり結果として
その出来事に、ありがたいとさえ思ってしまうのです。

その事から、怒りや苛立ち、否定批判する思いは
自らを全く見えなくするものだと思うようになり
逆を言えば、自分自身を知らないだけで、ムカつく出来事ばかり繰り返され
世の中を、社会を、否定批判して見続けてしまうもののような気がします。


この世とは、人間とは、本当にまく創られているものですね。