修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

自分の生き様を全否定すると幸せになれるかもしれない・・

誰しも自分を否定されると気分が悪いものです。
一生懸命やっているのに・・・
頑張っているのに・・・
その努力を否定されれば
嫌な気持ちになるのが人と言う生き物でしょう。

とは言え、気分が悪いからと言って
拒絶していれば、自らの成長はない・・
そもそも自分自身に必要な現実しか起きないのが
この世の仕組みなので
『否定された』という事実を
しっかりと受け止め受入れ
自分自身を振り返る必要があるわけです。

自分にとって嫌な出来事は
自己の人生においてとても大切なモノなのですが
気分を悪くするような出来事は
どうしても拒絶してしまう。

中には、否定した相手を
誤解している・・とか
勘違いしている・・とか
そんな言葉で誤魔化す人もいる・・・

嫌な出来事が起きる為に
自らを振り返らなければ
何度でも繰り返し嫌な出来事は起き続け
そして、その大きさは月日と共に大きくなる。
自分に都合の良いものだけを
受入れて過ごす事が出来る世の中など
何処にもないのです。

これが、大自然の法則だと
私はそう思っています。

昔の私は『受け入れる』って言葉を嫌悪していました。w
何をどう受け入れるんだ!
バカじゃないの!
俺が正義だ!
って感じでしたね~w
心の根底になる思いは
自分は常に正しいので
『自分が認めたもの以外受け入れる必要はない。』
という思いです。
もっと言えば、自分を省みる心が欠如しているので
その意味がわからないし
その言葉を拒絶してしまうわけです。w




私の場合、内観という修行を続ける事によって
自分が嫌だと感じるモノ
自分自身が悪だとするモノについて
どうして、自分はそう思うのか?
どうなれば、そう思わないのか?
自分の中にある本質を見つめ続けました。
その結果、自らの生き様を全否定するしかなくなり^^;)
そして、その後に幸せだと思う事が増え続けたのです。

我々の過ごすこの社会では
他人を否定する事は、その相手を傷つける事となり
人を言傷つける行為は『悪』とされていますが
私は、自分を責め立てて否定してくれる相手こそ
神々の使いであり、最も大切な相手だとそう思っています。

セクハラ、パワハラ、モロハラ
これらは、私たちが生きる上で
必要不可欠であり、とても大切なモノなんでしょうね。



私の場合は
自分を受け入れて欲しい。
自分を認めて欲しい。
優越感に浸りたい。
そんな思いが心根として
自らを蝕んでいました。

私は幼い頃から霊感が強く
霊をぞろぞろ連れている先生の授業など
まともに受ける事などできませんでした。
『どうして、〇〇先生の授業をサボる!』
→『気持ち悪いから』
『そんな事が理由になるか!』
→『幽霊がいっぱいで気持ち悪い!』
『屁理屈を言うな!ボカ!バキ!』
・・・
と、まぁ~こんな事を繰り返していました。
体罰は当たり前の時代だったので
学校=殴られる場所と
私の中ではそうなってしまったのです。
そんな自分を認めてくれない社会を
『悪』として、拒絶して行きました。

不登校になり、どんどん拍車がかかり
『悪』を生み出し続けたわけです。

今思えばとても恥ずかしい事ですが
今の社会のルールに乗っ取って
常に自分を『正義』の位置に据え
自分の中だけでみた正義から
はみ出した存在を
攻撃し続けるわけです。w

そうしないと、自分を
保てなかったのです。

ようするに
自分を否定する人達を理解しようとしない
という怠慢に気付く事が出来ず
ただただ、自分を否定する相手を『悪』としたのです。

私は、人の本心を感じ取る事が出来たので
大人が自分の都合を押し付けている事が
手に取るように理解できました。
優しい言葉をかけてくれる大人は
面倒な私を自分の為になんとかしたいという思いがみえて
叱りつける大人は、自分の思い通りにならない私に
ただただイラついていただけの癇癪・・・

誰一人、自分を心配してくれる大人はいない・・
だから、そんな大人は『悪』と認定していったのです。w

自分が大人になっても悪ばかり・・
特に、人に優しく・・社会の為に・・世の中の為に・・
他人を思いやる・・・愛と慈悲・・こんな言葉は
私にとって完全に『悪』の対象でした。
理由は簡単です。
そんな事を口にする人のほとんどから
良い人として見られたい・・
自分は良い事をしている自己満足・・
という思いを感じ
結局は自分の為じゃないか・・
と、そう思うに至ったからです。


今となっては
利己的に生きるのが人であり
利他的に生きられる人は、ほんの一握り・・
だと理解できるようになりましたし
更に、自分の本心が見えないと言う事は
とても愚かな事だとそう思うようになりました。

だって、自分の本心が創り出すエネルギーが
目の前にある現実を生み出していますからね~

エネルギーの法則上では

自分の本心が見えない

自分の本心を見ようとしない

自分の本心を受け入れられない

自分の本心を拒絶する
となり
拒絶のエネルギーが常に自分自身から
放出されているわけです。
なので、周りから拒絶される存在になって
しまうのは道理なのです。


過ちと言う表現でいいのか?わかりませんが
自分自身の過ちをどれだけ
自分自身で認めて受け入れられるか?が
人生で最も重要なんでしょう。


私は、自分自身の人生を全否定するしかなくなった時
絶望を感じたのですが
その絶望の中で、多くを学ばせて頂きました。
そう考えると、絶望するという体験は
素晴らしいものなんでしょう。w

ブログのタイトルになっている懺悔道は
懺悔しながら一生を終えようとしたら
この世は、懺悔できなければ
幸せになれない仕組みになっているんだ!と
私の中でそう学んだからです。



よく煩悩を肯定する事はいけない事なのか?
他人から認められたいと思う事はいけない事なのか?
他人より優れていると思われたいのはいけない事なのか?
なんて、質問される事があります。

私は、どんな人も煩悩を植え付けられて生まれてくるので
そんな思いがあるのは、当然の事だと思いますし
人として正常だとも思います。

大切なのは、その煩悩に準じた思いが
自分の言動にどんな影響を与えているのか?を
自分自身で理解する事です。

そのそも、この世には
自分が否定批判できる存在など皆無なんですが
この煩悩が負の感情を創り出し
自らを蝕んでいるからです。

それを知る事が出来ないが為に
人は不幸になる・・

不幸とは、ただそれだけの事だと断言できます。

自分自身を深く知る事が出来れば
誰しも、幸せになれますからね~


話が若干それましたがw
自分の過去を振り返り
何を求め、どう感じ、同言動に移してきたか?を
しっかり理解することで
今、目の前にある現実と辻褄が合いす。

そして、その事実を逃げずにしっかりと
認め、受入れて、改善する事で
幸せに一歩前進するでしょう。

私は、真言密教から
人生は、懺悔から始まり懺悔に終わる事を学びましたが
恐らくそれが出来れば、誰しも幸せになれるのだと
そう思っています。

ようするに目前にある現実を好転させたいのであれば
自分自身で自分の過去の生き様を全否定して
新な人生を再スタートさせるのです。

まぁ~私が密教を修行している最中は
ふざけんな!
お前がまず懺悔して手本を見せろ!
くらいに思っていましたけどね~w

いや~
恥ずかしい限りです・・^^;)