修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

ゴーヤしか知らないピーマンの話w

人生とは、利他的な心を育む為にある・・
私たちにとって大自然の法則がそんな仕組みなんだと
私はそう思っています。

生きる=利他的な心を育む

私たちは生きている以上
その仕組みからは逃れられない・・・
死ぬまで続くんですよね~


なので、自分の心にある
利他的な心を成長させようと
過ごした方が、有意義な人生を送れるのが
我々の過ごす世界という事になります。

利他的な心が無いだけで
嫌な出来事ばかり起き・・
己の心も壊れて行く・・



で、自分の心を成長させる為には
自分自身を知る必要があるのですが
生まれながら植え付けられた
利己的な思考が、自分自身を見えなくするので
自分を知る事は、なかなか出来ないものです。

これも、私たちに利他的な心へと
心を成長させる為の仕組みなんでしょうね。





例えば
ピーマン1個・・
これをテーブルの上に置き
しっかりと観察してみた情報と

ピーマンとトマトを
一個ずつテーブルの上に並べて
観察した情報を比べるとどうでしょう?


比較対象があるだけで
ピーマンという存在が
どういったモノなのか?情報量が増える。

トマトと比べて堅さはどうか?
味は、どうか?
色はどうか?

トマトを知る事で
ピーマンという存在も明確になってくる。

きゅうり、なす、ゴーヤ、じゃがいも・・
多くの食べ物と比べる事で
ピーマンの存在は、より明確になる。

こんな仕組みが大自然に存在しています。





人間も同じで他人を知る事で
自分と言う存在が明確になってくる。

多くの他人を知れば知る程
自分自身をより深く理解できる。


即ち、利己的な心で過ごしている以上
自分自身を知る事ができないのです。














例えば、「野菜社会」というモノが
あったとします。w

その社会でPマン君が
「私は、苦くない!」
と、主張したとします。w

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確かに、ゴーヤと比べれば苦くないでしょう。
Pマン君が、自分以外の野菜をゴーヤしか知らなければ
「苦くない!」と主張するのも当然でしょうが
キュウリやナスと比べてみると、どうでしょう?

「苦い」という表現も人それぞれでしょうが
他の野菜と比べれば、ピーマンは
往々にして「苦い」食べ物です。


他の野菜の味をゴーヤしか知らない
Pマン君は・・
「私は、苦くない!」と主張した事で
周りから、否定批判されます。

でも、Pマン君は、ゴーヤしか知らないので
自分を否定する相手に憤りを感じます。
だって、ピーマンは、ゴーヤより苦くないですからね~

でも、社会的には、ピーマンは「苦い」野菜なので
そんな主張は通用するわけがないのですが
Pマン君は、ゴーヤしか知らないので
自分を否定する社会に対しても憤りを感じます。


周りからすれば、理解できない主張をする
Pマン君は、野菜社会の中で
関わりたくない存在となってしまい
Pマン君は、自分では、なぜ?そうなるか?
理解できないまま
周りとコミュニケーションが取れなくなります。


気付けば、自分の周りには
嫌な奴ばかりだと思うようになります。

Pマン君は、どうして自分を理解してもらえないのか?
自分は、何も間違ってはいないのに・・・
と、常々そう感じて過ごす事になります。

ひょっとしたら先祖からの因縁のせか?
とか、思ったりするのです。w


他との「関わり」があって初めて
自分は存在できるこの世界で
「関わり」を自分の正義が壊して行くので
嫌な出来事ばかり起きるようになります。

理不尽な出来事ばかり起きるようになり
そのうち、身も心も崩壊させてしまうのです。

その苦悩を自分自身が引き起こしている事に
全く気付けないまま・・・
そんな状態に陥ってしまいます。









と、こんな現象が
人間社会で多発していると私はそう感じています。
まぁ~文章を読んだだけでは・・
そう思えないかもしれませんけどね。

なぜならば、利他的な思いでの言動を繰り返さないと
自分の視野が狭すぎる事実を知る事ができないからです。

利他的な思いでの言動を繰り返さない限り
ゴーヤしか知らないPマン君状態なのが
人という生き物なのだ、私はそう思っています。w




利他的な思いで行動した時に
必ず体験で教えられる事があります。

それは「利己的な善意」です。
自分の善意は利己的なものだったと
思い知らされるのです。
そして、善とはなんだ?
正しいとはなんだ?
と、思うようになるでしょう。


相手の為にと思ってした行為が
相手を不快にさせてしまうからです。


そもそも他人など理解できない世界で
過ごしているのに
利他的な思いで行動する事に意味があるのか?
とさえ、思ってしまうでしょう。



私たちが過ごす、この世界は
他人を理解できない仕組みがあるのに
他人と支え合う事でしか生きる事が出来ない・・

要するに、理解できなくても
歩み寄り、認め、受け入れろ!
という事なんでしょうね。


Pマン君のゴーヤしか知らない状態を
知らなければ、Pマン君はうざい奴で
不快に感じる対象となる。

でも、利他的な思いでPマン君に接すれば
Pマン君がゴーヤしか知らない事実を知る事ができる。
それを知る事が出来れば
どうすれば良いのか?を考え行動に移す事が出来る。
不快な感情を抱く事もなくなる。

前者と後者、自分にとってどっちがいいですかね?






コロナ禍で緊急事態宣言があり
やたら政府批判が目に付くようになりましたね。

で、その多くの人が
報道やネットの情報だけで判断し
政府が何をしているのか知らないのが我々国民です。
ゴーヤしか知らないPマン君状態なわけです。w

目先の現実に不満があれば
政府を批判し
不満がなければ、無関心・・
選挙すら行かない・・
政治家を選ぶ権利を放棄しておいて
政府を批判したりする。
人間なんてそんな生き物なので
致し方ないでしょう。


利他的な思いがあれば
政府が何をしているかを知る必要があると思うでしょうし
知る事が出来なければ、政府を批判する感情も生まれないんです。
そして、目前の苦境を改善するために
自分に何か出来る事はないか?とそう考えるようになり
自分に出来る事を着々とする。

政府を批判している自分と
自分に出来る事を考えて行動する自分と
どっちが有意義な過ごし方ですかね~?




コロナ危険派、そうじゃない派の
意見がぶつかっています。
コロナ危険派の人は
そうじゃない派の人を批判し
その逆もしかり・・
これも、同じです。


利他的な思いがあれば
自分と違う意見の相手を知ろうとします。
そして、どうすれば良いか?を考えて行動する。
自分と違う意見の相手を不快に思う事もない。
どっちが有意義に過ごせるか?




これを繰り返して行くと
至らない自分をたくさん知る事ができるんです。
同時に、負の感情が減ってくるので
目前の現実が好転します。


そして、世の中で多発する
不快な出来事は、
ひとり一人が自分の中にある幸せに気づく為に
必要不可欠なモノなんだと
そう思うようになる。


それに気付く事ができれば
この世ってなんて素晴らしいんだろう!
と、そう思うようになるわけです。


私たちは、しばらく混沌とした時を過ごす事になると思いますが
自分の中にある、幸せを掴むきっかけを与えられているんだと
私は、そう思っています。

ありがたい事に我々のご先祖様のおかげで
日本は豊かな国になっており
手にしたものを全てを失たとしても
生活保護を受けて生きる事が出来ます。
借金があっても破産すればOKです。

そして、幸せは常に自分の中にあるので
いつでも自分次第で幸せになれる。
いや~日本人で良かったです。
ご先祖様に感謝しかありませんね。



まぁ~こんな話
利他的な思いでの言動を繰り返さない限り
納得できないでしょうけど・・w









※上のピーマン君のイラストをスマホの壁紙にしてみました。w
戒めの壁紙いかがでしょう~www
ピーマンスマホ壁紙DOWNLOAD