修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

ロシアvsウクライナ

ロシアとウクライナの戦争について
あまりに多く質問を頂くので
少しばかり、記しておきます。

ロvsウについては、連日報道されており
色々な方が私見を述べていますが
私の場合、一般的な価値観を持ち合わせていないので
あくまでも、私の考え方に過ぎません・・
判断は、皆さんにお任せしますね。









今回に限らず戦争は悲しくなる出来事ですね。
我が子が殺され泣き崩れる
母親の映像なんかを見てしまうと
胸が苦しくなったりします。
昔の私なら、何とも思わなかったと思うのですが
少しは、心の闇が薄れてきたんでしょうかね?

戦争が終わった後も
悲しみや憎しみの想念は、土地に根付いてしまう事を
なんとか科学的に証明できないものか?
と、そう思ってしまいます。
私の場合、人の想念を人一倍感じやすいので・・



私は、「知りたい!」欲望が旺盛で
特に大自然の法則をもっと知りたいと
常々そう思っています。
出来事と人の心のエネルギーが
繋がっている事を常に感じているからです。

なので、今回の戦争もなぜ起きたか?
とても気になるのですが
プーチン=悪」報道ばかりで
ちょっと残念に思っています。


ロシアには軍事侵略をしかけるくらいの
強烈な動機があるはずなんですが
NATOとの関係くらいしか
報道されていないので
なんかしっくりこない感じがしています。


プ氏は、政治のプロって感じの人で
ゼ氏は、政治のアマチュアって感じがしますが
プ氏は、たくさんの人に恨まれており
ゼ氏は、それなりに徳のある人のように感じます。

実際にどうなのか?わかりませんが
反プ氏は排除されるようですし
反プ言動をするだけで殺される事もあるそうで
大統領選に立候補するだけで社会的にも
物理的にも殺されると
言われている所をみると
生霊いっぱいになってしまっても
仕方ないような気もします。

あくまでも、私がそんなエネルギーを
感じているだけの事ですが
それでも、プ氏が私利私欲の為に戦争を
引き起こしたわけではないように感じています。

単に価値観の相違でしょうが
プ氏のその価値観がとうやってつくられているのか?
も気になるところです。








政治は、国民の言うとおりにしていれば
国など維持できないので
嘘も方便だと思うのですが
プ氏は、他国に対して嘘を多発しすぎてしまい
信用・信頼を失ってしまったんじゃないかなぁ~
と、そう感じたりしています。

プ氏は、とても賢い人のように思うのですが
誰しも嘘もつきすぎると
その嘘を真実と思い込んでしまうので
我欲とは、恐ろしいものですよね。

日本の政治家でも
そんな人が結構いるので
政治家特有の何かがあるのかもしれません。

プ氏は、ロシア国民の事を大切に思いすぎて
ウクライナに侵攻してしまったのでしょう。

己を正当化する為に他国へ嘘をつく所は
C国K国と同じ感覚のように
思ってしまうのですが
これも、地域性と言うか
その地域の歴史に
よる人格によるものんなんでしょうかね?
あくまでも私の感覚の話ですが
C国K国なんかの約束を守らない所は
一つの文化だと思っています。
R国も似た感じですね。

そう思うと、「土地」というモノに
凄く興味を抱いてしまいます。
緯度・経度・高度・海抜により
太陽や月の影響の受け方が違いますし
それらが人格に何か影響しているのでは?とか?w










平成が始まりネットの普及が拡大し
グローバルな時代と言われるようになり
その言葉だけが先行し
実際には、他国との共存や
他国があって我が国もある事を
実感している人は、少ないと思うのです。

個人的には、他国の為に国としてできる事を
今以上にすべきだとそう思いますし
他国に向けての徳積みが必要不可欠ではないかと
そんな気がしています。

外国人からすれば日本人は特殊なので
なかなか大変だとは思いますけどね。
外国人労働者を受け入れても
なかなか大変なのは
やはり文化や価値観の違いが
大きいからのように思うのですが
それでも、他国の価値観を
受け入れる努力も必要でしょう。


今の所、日本と言う国では
困っている国に多額な金銭を融通すれば
「そんなお金があるなら国の為に使え!税金を減らせ!」
と、そう思う国民の方が多いでしょうし
まだまだ、国益優先政策がとられているので
その辺も、利他的な思いを抱く人が増えれば
少しずつ変わるのかな~なんて
思ったりもしています。


令和になりコロナが蔓延し
世界規模での混乱が起きて
貿易が麻痺してしまい
我が国もかなりのダメージを受けるのですが
それでもまだ国益優先政策が取られたままで
その為、コロナも収束しないまま
次々と新型Cウイルスが
生まれているように感じています。

そんな中、ロシアがウクライナ
攻撃しだしたわけですが
世界各国、自国の利益と
人道支援の板挟みになっているように
私には、そう映ります。



私は、戦争報道を見て
日本を守る為に命を捧げたご先祖様達の思いが
真っ先に思い浮かびました。
太平洋戦争時では
日本国内でもウクライナを同じ事が
起きていたんでしょうね。

今、日本にロシア軍が責めてきたら
日本の為に戦う選択をする人はどれくらいいるのかな?
国外逃亡する人の方が多いでしょうかね?

自らの命を国に捧げる人は
日本の場合、そんなにいないような気がします。

戦後約80年、私たちは
愛国精神を無くす教育を受け続けてきたので
致し方ない所なんですが
個人的には、もっと愛国心を持ってほしいなぁ~
なんて思っています。
日本の文化は素晴らしいですしね。

日本国籍を持ったまま
海外に移住する人も増えてきましたが
日本の発展の為に移住しているわけではなく
税金から逃れるためであったり
物価が安く贅沢ができるからとか・・
我々のご先祖様が築き上げた豊かな日本を
利用するだけの人が増えているのは
ちょっと残念な気がするのです。

とは言え、我々は
戦後そんな教育を受け続けていますしね~


グロ-バル社会の時代と言われている時に
愛国心が強すぎるのも問題かな?
とも、思うのですが
日本の場合・・
愛国心が薄れている=利己的思想が強まっている
なので、更にあかん感じがするわけです。
他国への思いを優先するのであれば
いいんですが・・
なかなか人間とは厄介な生き物ですよね。


ロシアは実質、プ氏独裁政権
成り立っている国なのですが
ソ連時代を引きずっているので
そんなものなのかなぁ~
なんて思っていましたが
さすがに今回は人の悲しみや恨みの念が壮絶なので
ここまで来るとヤバイ感じがしています。

どんな理由があれど
他人から向けられる
負の感情のエネルギーは
己やその家族、血族、子孫を蝕んで行きますしね。

それが逆恨みであっても同じなんです。
まぁ~徳を積めば
負のエネルギーは相殺されるので
世界各国に対して徳を積めば
何とかなるのでしょうが
さすがに、ちょっと厳しいですかね?
ロシア軍の兵士たちも
ちょっと気の毒に思います。

人間だれしも過ちを犯し
不徳を積む生き物なのですが
己の人生に悪影響を与える
その不徳によるエネルギーも
徳を積むことで解消されるのですが
罪の大きさ、すなわち不徳の大きさによって
徳を積まなければいけない大きさも
変わってくるのです。


もし、報道の通り
ロシア軍がウクライナ民間人を
虐殺しているのであれば
その負のエネルギーを解消するのは
ちょっと大変でしょうね。




ロシアの報道規制
色々と問題になっていますが
プロバガンダなど
昔から、いつでも、どこでもあると
私は、そう思っていますし
そうしないと、国を維持する事が
大変ですしね。

ただ、現在はネットにより
それらが機能しにくく
なってきているのも事実なので
ますます、利他的な思いが
必要な時代になってきていると
そう感じています。


結局、情報を信じる信じないも
自分次第ですし
もっと言えば、そんな情報も
好き嫌いで判断したりするんです。
何が真実か?ではなく
何が好きで、嫌いか?が
自分の判断に大きな影響を与えています。


例えば、日本経済が崩壊し
コンビニのおにぎりが1個1000円になり
国民の生活がままならなくなり
多くの国民が貧しい生活を
強いられるようになったとします。
そこに、新たな首相の政策により
1年ほどで日本の経済を復活させたとしましょう。

その首相の手腕で日本経済が復活し
国民は貧しい生活から脱却できたなら
そんな英雄的存在の首相を悪人扱いするネット情報を
信じられる人は、なかなかいないんですよね~

例え、日本が豊かになったのは
他国から富を強奪したんだとしても
自分たちに都合の悪い事は信じないのが
人間と言う生き物なのです。

善悪と好き嫌いはごっちゃにして判断するのが
人というものですからね。
好き=正しい=正義だったりするんです。
逆を言えば
嫌い=間違い=悪という判断をします。

自分を助けてくれた人を
悪人呼ばわりする人には
自分が否定されたように感じてしまい
ついつい反発してしまうのも人の性でしょう。

従って、自分の都合で
真実をプロバガンダと置き換える事も
簡単にできてしまうのです。

何をどう信じようと
自分が決める事ですからね。





そんな人間という生き物の構造を知った上で
今回の戦争という出来事を考えてみると
色々と思う所があります。

人と人は争う生き物なので
戦争が起きるのも致し方ないとは思うものの
やはり、自分が戦争当事者になったとしたら
戦争などしたくないですよね~

なので、どうしたら
こんな出来事がなくなるのか?と
考えると
人間社会には、もっともっと
「利他的な心」や「ゆるす心」が
必要だと、そう思ってしまうのです。

ゆるす心が欠如していれば
自分に都合の悪い情報は
真実でさえプロバガンダと決めつけ
戦争に拍車をかけてしまう事もありますしね。

多くの人に「利他的な心」や
「ゆるす心」があれば
こんな戦争など起きないでしょう。

どんな理由があろうと
怒りや憎しみのエネルギーは
自他ともに蝕んで行くので
それが、争いを連鎖させる・・
やっぱ「ゆるす心」は必要不可欠でしょう。

「ゆるす」為には「知る」事が必要であり
「無知」が「憎しみ」を生み出しますしね。



なので、私の活動も
まだまだ、甘いよなぁ~
なんて思ったりしてしまいました。

もっともっと
大自然の法則を知り
人間と言う生き物の本質を知り
私が学んだことを
一方的に配信していきたいと思っています。w

快楽を求めるより、不快感を減らした方が幸せになれる。

最近、長時間車を運転すると
足腰が固まってしまい車を降りた時に
しばらくの間、爺さんのような
歩き方になってしまうのですがw

肉体が老化しているのを痛感すると
結構長く生きてきたなぁ~
なんて、思ったりしています。

で、自分の人生を振り返り
今まで自分が生きてきた中で
大切な経験はなんだったか?と
改めて考えてみると
他人の価値観を知ろうとした事かな??
なんて思うのです。



自分の中で辛く苦しい出来事の原因は
全て自分の【無知】が
生み出していただけでしたからね~
【知る】ことで
どんどん苦悩から解放されてゆく体験が
私の人生を大きく
変えていったのです。

で、己の苦悩は人間関係から
生み出されているので
「他人を知る事」を怠った結果
嫌な出来事が積み重なっていっただけ
のような気もするんです。

私自身、他人を理解しようと努めたことが
きっかけで利他的な思いが生まれましたし
嫌な奴も、その人の価値観や因果を知れば
嫌な奴じゃなくなり
「他人」を知れば知るほど
ムカつく事も減り、嫌な出来事も減って行きました。


社会に対しても同じです。
「人」という生き物の本質を知れば知るほど
社会から嫌な出来事がなくならないのは
当然の事だと思うようになりましたし
詭弁を繰り返す政治家
自分の立場を優先する公務員
利益の為に嘘の情報を流すマスコミ
理不尽な言いがかりを押付ける税務官
そんな相手でさえ、「人間らしさ」を
感じるようになって行ったのです。

どう考えてもおかしいだろ?と
思うような出来事が繰り返される
社会構造にも納得できるようになり
それらを受け入れる事で
自分自身がどう生きれば良いのか?が
見えてきて、その方向に生きてゆくことで
充実した日々を送る事が出来る。





私自身、自分の生きざまを振り返ると
昔の私は他人の価値観を全く理解しようとせず
ただただ、自己主張し続けていました。

「自分が正しい」を絶対条件とした上で
物事を判断し、そして自己の正当性を
思いっきりぶちまけて過ごしていたのです。



たとえば
車の運転中、横っ腹に突っ込まれたら
突っ込んできた運転手に激怒し
責めまくっていました。
どうして、しっかり前を見て運転しないんだ!怒!と・・

なぜ?よそ見して運転してしまったのか?
どうしたら、よそ見運転しなくなるのか?
突っ込んできた相手はどう生きてきたのか?
生活環境は?家族は?性格は?
とか、一切考える事をしませんでした。

当然、「自分が正しい!」絶対思考が
炸裂しているので
どうすれば
この事故を避ける事ができたのか?とか
もう少し、注意しながら運転するべきだった?とか
そんな事など考えないのです。

私の運転する車に
横から突っ込んできた事実という
相手を「悪」とする所しか
見ようとせず
そんな一部の事実のみで判断し
憤りを感じていたのです。


不注意運転=悪とし
それは、相手のみにあてはめ
それ以上、自分の思考を
働かせる事はありませんでした。


運転免許を取得するときに
「かもしれない運転」を習いますが
交差点では前方不注意の車がいる
「かもしれない」ので
私自身も左右の注意しながら
運転をしなければならないのですが
しっかり、左右の不注意運転をしておきながら
交通ルールのみで判断し、相手にぶちキレるんです。

まぁ~我欲が強すぎて
自分が不利になる判断などできるわけもなく
視野がせまく心に余裕のない
過ごし方しかできなかったわけです。




自分自身を不快にさせる言動をする
人たちに対しても
全く、同じ判断をしていたました。
「自分が正しい絶対主義」の元で
自分が不快になった出来事だけを
切り取って判断し
その相手を断罪していたのです。

要するに我欲が強いので
自分が不快に感じる事は全てNGなんです。

価値観の違う人たちが暮らす社会で・・
価値観の違う人たちで組織された会社で・・
価値観の違う人が共同で暮らす家族で・・
自己の我欲を満たす事ばかりで過ごしているので
自分が不快に感じる他人の言動を
そこに至る相手の思考や動機などすべて無視して
しかも、自分に都合の悪い出来事のみを切り取り
否定批判するわけです。

そして、それがどれだけ傲慢な事なのか?
当時の私は、全く気づきませんでしたね~

なので、今は傲慢な自分を自覚して
否定批判するようにしています。w







私は「理解」を怠っていたので
物事を「善悪」で判断していました。
自分に都合の良い事が「善」だなんて
微塵も考えませんでしたね~
社会では、「善悪」の判断がなければ
秩序が保てませんしね。

なので、「他人に迷惑をかけない」
「他人を傷つけない」
「自分が嫌だと思う事は他人にしない」
それくらい守れば、何をしても大丈夫!
「自由」は良い事!
「正義が勝つ!」
くらいに思っていたんです。

いや、ホント情けない限りなんですが
他人の迷惑は、他人が決める事ですし
他人を傷つける事も、他人が決める事であり
私自身が決められる事ではないのに
自分の価値観で、それらを決めつけていたのです。

また、私の中では
「自由」と「自分勝手」が同義であり
「正義」を、自分都合の価値観で定めていました。
「自分」が「正義」だったんです。

ここまで来ると笑うしかないのですが
我欲が強すぎて、自分に不都合が生まれる考え方は
無意識に拒絶しまくっていました。

「無意識」に繰り返していたので
自分がこんなにも愚かな言動を
繰り返していたなんて全く気づけませんでした。w






今では「理解」とは
すばらしいモノであり
逆に「理解」を怠る事は
とても恐ろしい事だなぁ~と
そう思うのですが
当時は、誰かにそう言われたとしても
「ふ~ん・・そうなんだ」
で、終わっていたでしょう。

なぜならば
自分が「理解」を怠っているなんて
微塵も思っていなかったからです。


当時は、沢山の本や雑誌を読み
情報収集は怠らなかった・・
ネットが始まった頃は
簡単に情報収集できる
ツールに歓喜したものです。

なので自分が「理解」を怠っているなんて
全く思えないのですが
今思えば、当時の私は
自己の快楽を満たすための
「理解」しかしようとしていなかったのです。

ようするに、思いっきり偏った
情報収取しかしていなかったのに
その事実に気づいていなかった・・・

無意識に物事を
自分にメリットがあるか・ないかで判断し
その上で「理解」しよとする対象を
決めていたのです。

まぁ~簡単に言えば
我欲を満たす事を優先し
その為の「知る」は出来ても
他人のメリットに対しての
「知る」は、できなかった・・
利他的な心が欠如していたという事です。



なので、当然
他人の価値観が理解できない・・
他人の価値観を理解できないので
自分の価値観に沿わない人にムカつく。

そして、自分の価値観に
沿わない接し方をする他人に
不快になったり、傷ついたりする。

私の場合は、傷つくというより
ぶちキレしていましたね~w


という事は、他人の価値観を
理解しようと努力すれば
不快になる事が減って行くわけで
私は、実際にそれを実践して
不快な出来事が減って行く体験をしています。







そんな体験から・・

人は、快楽を得る事により
幸せになろうとしますが
実は、不快感を減らした方が
幸せになれると
私は、そう感じています。


まぁ~幸せの定義が
「快楽を満たす事」の人には
全く当てはまらないと思うかもしれませんが
私は、【無知】のままでは
「快楽」ですら満たすことが出来ないので
不快感を減らす努力が
結果として快楽を満たす事に
つながるような気もしています。

人間が持つ「我欲」をたくさん知っておくべきだ!

私たちは、善悪のルールに
縛られる社会で過ごしている為
どうしても物事を善悪で判断してしまう。

そして、自分を「悪」としたくないので
自分の悪いとされる部分を直視できない。

しかしながら、この世には「善」も「悪」もない事が
解ってくると、今まで自分の「悪い」とされる部分が
良く見えてくるわけです。
今まで自分の「悪」としていた部分を
「悪」としなくなるからです。


自分の「悪い」とされる部分を
直視できるようになると
嫌な出来事、辛い出来事と
自分の「悪い」としていた部分が
直結している事に気づけます。

その事実に気づけると
自分自身を改善してゆこうと思うようになります。
そして、改善できれば出来るほど
嫌な出来事、辛い出来事がなくなって行くのです。

今までは、自分が「悪い」としていた部分を
直視していなかったので
その事実に気づけなかった事を知る事が出来るでしょう。










という訳で・・
殆どの人が人間の醜いとされる心を
見ようとしないので
そんな所に注目してみたいと思います。





誰しもが持つ、自分勝手で傲慢な心は
醜くもなく悪でもないのですが
善悪の判断で成り立つ社会で過ごしている為
どうしても「醜い心=悪」としてしまいがちになり
自分自身の本心を押し殺し
そこから目を逸らしてしまう。

その為、他人の言動に傷つきムカつくのだと
私は、そう思っています。

そもそも、醜い心満載なのでが
人間である証なんですけどね。







ネット上の誹謗中傷が社会問題になっていますね。
嘘偽りを書き込んだりするのは
問題があるので、法的措置は当然だとは思いますが
否定批判や悪口などは、人間という生き物の仕組み上
致し方ない事だと思っています。
人間の正常な姿なんだと私はそう思っています。


私も、このブログに「死ね」と書き込まれたり
批判炎上したとしても
誰もが目にする事が出来るブログという機能を
使用している以上仕方ない事だと思っています。

有名人の方々が
批判コメントに傷ついた!やめてくれ!とか
いう記事をよく見かけますが
皆が皆、自分にとって都合の良い人間であってくれ!
と、そう言っているように感じるんですよね~

人の心は傷つくことで
成長できるんですけどね。

「あなたの言葉で傷ついた!」
と言われれば、言われた方も傷つくのですが
そんな事は、お構いなしで
先に言ったもん勝ちで
そんな風潮が社会にあるのも
人間の思考構造なんでしょうかね?


「人を傷つけるのは悪い事」っていくら訴えたところで
人それぞれ価値観が違う訳ですし
自分の記事をどんな人が見ているか?知らないわけなんで
同意を強要しているように感じてしまうのです。

要するに「共感してくれ!」と
強要しておいて
批判されると「傷つくからやめろ!」
と言っているのですが
はっきり言って
自己承認欲求剥き出し状態なわけです。
でも「他人には優しくしましょう!」
「他人を傷つける事はやめましょう!」
などと、綺麗に感じる言葉で
御託を並べて、本質を隠してしまうのが
人間なんですよね~w



私は、人のエネルギーに敏感過ぎて
これらの仕組みを感じまくり
気が狂いましたがw
でも、それが人間と言う生き物なんだと
いう事がよく解り
今に至っては
普通に過ごせています。

大切なのは
人間という生き物は
誰しも我欲満載で醜い心を
刻まれて生まれてくるのだと
その事実を受け入れる事なんだと
そんな気がしています。




亡くなった石原元都知事
ざまぁみろ!と言われて死にたいと
言っていたそうですが
私は、その気持ちがよく解るんです。

私自身、嫌われ願望が強かった時期がありましたしね~
当時の私は、褒められたり賛同されたりすると
ブチ切れしてましたね~w

私の場合、性格が屈折し過ぎており
5感以外の感覚が強かったので
上辺だけの言葉に辟易し
他人とコミュニケーションがうまく取れず
自己承認欲求が全く満たされませんでした。

その為、誰も受け入れてくれない事に対して
周りの人たちは自分を理解できない
低能な人たちだと見下す事で
優越感に浸るようになってしまったのです。w

要するに、拒絶され否定ることで
満たされていたわけです。
従って、褒められたり認められたりすると
欲求が満たされなくなり
イライラしてブチ切れしていました。
そんな傍迷惑なガキだたんですが
褒められたり、賛同されたり
優しくされたりすると
不快に感じる人もいるわけです。



なので、他人から悪口を言われて、喜ぶ人もいるし
逆に褒められたり、賛同されたりすると
不快に感じる人もいるわけで
どんな言葉を向ければ、その人を傷つける事になるのか?は
相手によって異なるものです。
一言で、誹謗中傷と言っても
何をもって誹謗中傷とするかは、相手次第という事でしょう。



私の場合は
そんな事を考えてしまうので
「誹謗中傷はやめてくれ!」は
「私の承認欲求を満たしてくれ!」
と言っているように聞こえるんです。

でも、やめて欲しいと思うのは人として
正常に機能していると思うので
問題はないでしょう。
人間にはそう言った一面がある
という事を知っているかで
日々の過ごし方が大きく変わると思うのです。



前回の記事にも記しましたが
そもそも、人は善悪と好き嫌いを
ごっちゃにしてしまう生き物なんで
価値観の違う者達が集まるSNS上で
誹謗中傷がなくなるわけがないでしょう。
自分都合の誹謗中傷なんで
どうしようもないと思うんですよね~

誹謗中傷されたくないのであれば
コメント機能を止めてしまえばいいんです。
応援して欲しい!
賛同して欲しい!
と、自己の承認欲求を満たす事だけ
求めるなんて、都合が良すぎますよね。
そもそも、ありえない事を
強要しているから
アンチコメントに心が傷つくわけです。

「賛同コメだけお願いします!」
とか、注意書きを書いておくとか?w

批判されるのが嫌なら
有名人にならなきゃいいでしょうし
YouTubeなどSNSツールなんて使わなきゃいいと
そう思ってしまうんですよね~
有名になりたい!認めてもらいたい!
自分に賛同して欲しい!
そう思うなら、自分と異なる価値観の人たちを
まずは、認める必要がありますし
一方的に自己の欲求を求めている以上
それと同等の一方的な反動があるのが
大自然の法則なんですよね。

他人の価値観を認めないから
アンチコメに傷つくわけです。

私が、このブログで
私の体験を配信しているのは
この世の理を知る事で
人生が好転する仕組みを
たくさんの人に知ってもらいたいと
思っているからなんですが
これって、私のエゴなんですよね~

なので、当然アンチコメが
あって当然だと思っていますし
逆にアンチコメwelcomなんです。

スピ系を中二病なんて
書き方をすれば
スピ系信者からすれば
かなり不快に感じると思いますが
アンチコメにより
その人の価値観を知る事ができますからね。


まぁ~
見ている人が不快になるような
ただの嫌がらせコメを繰り返されると困りますが
それはそれで「縁」なので
自分の糧にしたいと思っています。
まぁ~ウザコメの動機が解れば
見ている人が不快にならないよう
ブロックしますけどね。



SNSは情報共有ツールとして
始まりましたが
明確な目的もなくSNSを使用している人の
ほとんどが、承認欲求を満たすためだと
私はそう感じています。

また、SNSにより承認欲求が満たされるのは
素晴らしい事だと思っているのですが
「承認欲求を満たす」という動機を
自覚する必要があると思うのです。

「人には優しい言葉で!」とか
「人を傷つけてはいけない。」なんて
綺麗な言葉で、人間の本質を隠すから
その事実に気づけない・・
逆を言えば、自分の本心を知っていれば
そんなに心は傷つかないんですよね~



私が、何度も人の言動の動機を知るように
告げているのは
人間という生き物の本質を知るメリットは
多大にあるとそう思っていますし
自分の人生にとって
とても大きな影響を与えていると
そんな体験をしているからです。


例えば、著名人や政治家の発言で
「???」と感じるものがあれば
その発言の動機や根拠を探ると
過去の発言と辻褄が合わない事があります。
まぁ~人間なんて
コロコロ考え方が変わる生き物なので
当然の事なのですが
辻褄が合わない発言なので
その動機の辻褄がよく合うんですよね~w

これは、私の経験なんですが
そんな事を繰り返してゆくと
人間という生き物の本質が見えてくるんです。

で、人間なんて所詮自分勝手で傲慢な生き物なんだと
その事実を深く知る事が出来たおかげで
「ゆるす心」が芽生え始め
自分はこの先、どうやって生きてゆけば良いのか?
考えるようになり
生きる目的を見つける事が出来たのです。


例えば・・
タバコや空き缶
コンビニのおにぎりや食べ物の包みとかを
ポイ捨てする人がいますよね。
そんな行動をする動機は
どこにあるか?と考えてみるのです。

色々なケースがあるとは思いますが
ポイ捨てしたゴミは
誰かが掃除するわけですが
掃除する人の事を考えないから
平気で捨てるでしょう。

要するに道端に捨てたゴミを
片づける人の気持ちが
理解できないだけなんです。
または、道端に落ちているゴミが
全く気にならない人なのかもしれません。

でも、道端に落ちているゴミを
片づける人の気持ちや
道端に落ちているゴミが気になる人の
気持ちが理解できれば
その人は、ゴミをポイ捨てする事は
なくなるかもしれません。

そうやって少しでも
不快に感じる出来事について
人の言動の動機を知って行くと
ムカつく事がどんどんと減って行くんです。



私は、長い間
「街のゴミ拾いは良い事」
と、そう思っていたのですが
当社のプログラマー
デスク周りが散らかっていないと
落ち着いて仕事が出来ない!
と言われて
キレイな事が良い事じゃないと知りました。


とは言え、公共の場所を
キレイに片づけるのは
社会のルールなので
ゴミ拾いする事は問題はないでしょう。



では!
公共の場でゴミをポイ捨てする人を
少しでもなくすために
自分は何ができるか?
と考えると・・

日本神道的に言えば
「背中で示せ!」という事です。

ただ、ひたすらゴミ拾いをすれば良いのでしょうね。


でも、誰しも
そんな面倒な事をしたくないので
「ポイ捨てするな!」って注意するんです。

でも、注意された側は
そもそも、ポイ捨てゴミを
片づける人の気持ちなんて理解していないし
道端にゴミが落ちていても気にならないんで
その事を理解した上で注意する必要があるんでしょう。



「ゆるす心」を育ませようとする
大自然の法則上、不快感を込めて注意すれば
逆切れされたりしますしね。
要するに「ルールを守らない=悪」として
「悪」を生み出した分、自分に跳ね返ってくるわけです。

ちょっと前に
電車内で加熱式タバコを吸っている若者を
注意した学生が、ボコボコにされた
ニュースがありましたが
普段から「悪」を生み出しまくっていた
結果なんんでしょうね。
まだ若いので憎しみの呪縛に囚われて
心を壊さないかちょっと心配です。


私自身も昔は、超絶傲慢に生きていたので
ルールを守らない奴や
ズルい奴、ルーズな奴によくムカついていましたが
よくよく考えると自分も同じ一面があるんですよね~

自分は、どうしてこんなにムカつくんだ?と
自分がムカつく動機を改めて深く内観すると
ただ単に「ゆるす心」が欠如していただけでした。w
要するに自分の思い通りにしたいという
強い欲が原因だったんです。
自分の強欲な性格がストレスを生み出していたわけです。

即ち・・
「ルールを守らない=自分の思い通りにしたい」
「ルールを守れ!=自分の思い通りにしたい」
という、お互いのエゴがぶつかって
いがみ合っていたんです。
私自身、ルールを守らない人を理解しようと全くせず
己の正義をぶちまけていた事実に
なんとも情けない気持ちになった事を記憶しています。w


まぁ~どこまで行っても
嫌な出来事は、人間の我欲が原因なので
人間が持つ我欲をできるだけ
たくさん知っておいた方が
不快な気持ちになる事は少なくなり
また、負の感情が少なければ
健康でいる事ができますし
清き良き縁も増えるので
人生が楽しくなるという事です。