修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

憎しみが血に刻まれると面倒なことになる

ロvsウ戦争で多くの方が亡くなり
とても悲しい気持ちになるのですが
やはり家族を失った方々は
心にとても大きな傷を負う事になると思うのです。

そこに憎しみの感情が己の血肉に刻まれると
子々孫々とその経験値は受け継がれてゆき
その経験値を受け継いだ子孫は
自分の思い通りにならないちょっとした事で
強い怒りの感情が込み上げてくるようになる。


私が、せっせと色んな方に
「徳積み」をおすすめしているのに
その真逆である憎しみの連鎖が広がって行くと
こんな事しても無駄なのかなぁ~・・
なんて、思ってしまうのです。





私が相談事を受けている中では
精神を病んでいる方々が
とても多いのですが
今の時代、10人に1人は
精神病だと言われております。
しかし、私の体感では
もっと多いのではないか?と
そう感じています。


私は、人の精神が病むきっかけは
「感謝できない」・・
これに尽きるとそう思っています。
私自身もそうでしたしね~

「感謝できない」がゆえに
あれこれ不満を抱くようになり
その時に生み出される
負の感情のエネルギーにより
自分自身が蝕まれてゆく・・

まぁ~色々と便利な社会になって
感謝できない人が増えるのは
当然の事であり
その為に、精神を病む人が増え続けていると
そう思っているのです。



「感謝できない」に「利己的な我欲」が
重なると、精神が病んでしまうわけです。
自分の思い通りにしたい!という我欲であったり
他人から認められたい!という我欲であったり
そんな我欲が強ければ強いほど
心が蝕まれてゆく・・・

ただ、自分が利己的な我欲に
振り回されるのは「血」に刻まれた
経験値の影響によるものが多いので
そう簡単に精神病は改善せず
何年も患っていしまう場合も多い。

「血」による経験値を
上書きする新たな経験が必要不可欠だと
いう事です。



誰しも少なからず、「憎しみ」の経験値が
血肉に刻まれているのですが
「憎しみ」が強く血に刻まれている人は
厄介なんですよね~

「自分以外が悪」という経験値が
強く血に刻まれているので
極端に自己を正当化してしまいます。
しかも、無意識に・・
その為、自己を省みる事が全くできなくなるので
他人を責める感情に振り回されてしまいます。

しかも周りから「自分=悪」とされると
逆キレするか、心を壊してしまいます。

「自分=正義」感が強いので
それを立証する言動を常に繰り返します。
頭の回転の速い人なんかは
常に言い訳を探していますね。
その上で「悪」探しを繰り返してしまうのです。
誰しもそんな人と関わり合いたくないので
周りから避けられてしまうのですが
「自分=正義」を避ける行為は「悪」となり
ターゲットとして、ロックオンされる・・
そんな事を繰り返せば
周りから集中砲火を浴びる事になるのですが
それは、「虐め」と認識し自らは「被害者」となる。
最後まで「自分=正義」なのです。

そして、「自分正義」を立証する快楽に溺れるので
常に「ざまぁ~快楽」を求めてしまうのです。

悪人が苦しむ姿を見てスッキリするのは
少なからず、誰しも抱く感情でしょう。

水戸黄門の時代劇を見て
スッキリする感覚なので
誰しも、少しは抱く感情ですし
人の性のようなモノでしょうね。

悪を成敗する映画やドラマ、アニメは
多いですしヒットしますよね?
どんな人にも「自分正義」が刻まれているからです。
もっと言えば、どれだけ美しい言葉を並べようが
人間の本質はゲスいんです。w

よくよく考えてみると
悪人を成敗してスッキリするという事は
他人が苦しむ姿を見て
快楽を感じているわけなので
ゲスな人間が抱く感情なんですよね~


アニメや映画やドラマの世界ならまだしも
強い「憎しみ」が血に刻まれていると
リアルで「ざまぁ~」を求めてしまうので
常に「悪」探しをするようになったら
自己改善に尽力するようオススメします。



「血」に刻まれた「憎しみ」は
マジで厄介なんですよね~
K国は、昔から日本を敵視していますが
これも、多くのK国の方々に
憎しみが血に刻まれているからだと
私は、そう感じています。

私は、在日K国人の友人が多いのですが
そんな経験値が血肉に
刻まれている人が多いんです。
なので、性格が激しい人が多いですね。
嫌がらせをさせたら世界一だと
K国民である事に辟易している方もいますが
私に言わせれば、本人の問題ではなく
先祖から引き継いだ経験値によるものなんです。
国の歴史で何があったのか?わかりませんが
日本のように島国ではないので
少なくとも日本よりは民族間の争いが
絶えなかったようにも思います。
また、日本に移住した先祖は
日本人による差別を体験している人も多く
その子孫となると
差別された経験値を受け継いでいしまうので
致し方ないのかもしれません。


C国人にも多く見られるので
大陸の歴史に何かあるのかも?しれませんが
日本でも、増えてきているように感じるのです。



ネット上のやりとりを見ても
民進党の与党批判を見ても
なんだか「悪」探しが
どんどん増してきている感じがするので
そのうち、日本もK国と同じ状態に陥るのでは?
ふっとそんな事を想像し
「恐ろしい!」と、思ってしまったりします。

でも、どう考えてもその方向に進んでるんですよね~
精神を病む人が増え続け
政府やマスコミを批判するだけで
自分の理想の未来へ進もうと何も行動しない
「自分の思い通りにしたい!」という
理想を抱いているだけなんでしょう~
自分ではない誰かがやる事だと思っているんでしょうね。

実際に行動してみると
批判するだけじゃどうにもならない事に
気づけるんですけどね~
人に備わっている「自分正義」本能が炸裂すると
その辺も、どうにもならんのでしょう。
私自身もそんな感じでしたしw


それに加わって「憎しみ」経験が
「血」に刻まれてゆくと
更に、どうにもならなくなってくる・・



基本的に強い「憎しみ」の感情は
自らを崩壊させるだけではなく
子孫へも苦悩をまき散らしてゆくのですが
厄介なのは、ダメだと解っていても
暴言を吐いたり、キレたりする・・
自分の感情を抑える事が出来ない所です。

自分の悪態を自分の意志で止める事が出来ない・・

私が知っている
唯一のそれを止める方法は
徳を積む事なのですが
「自分正義」感覚が強すぎて
他人に尽くす事より
「悪」を成敗するという感覚で
他人を責める方を優先してしまう。

要するに、他人の嫌な部分ばかり気になって
他人への善意を毛嫌いしてしまうのです。

自分が他人に尽くすことが出来ないので
そんな行動をする人たちに
ムカついたり、気持ち悪いと
思ったりしてしまうのです。
「自分正義」感が強いので
他人の価値観を受け入れる事ができず
無意識に自分が否定されたと
そう感じてしまうのです。


世の中が、そんな人で溢れたら
マジでやばいですよね~・・・
私も、そんな一人だったんで
どうしたらいいかなぁ~??
なんて、思ってしまう訳です。



で昔から、色々と試しているんです。

いくら私が「徳を積む」事で
苦悩から解放されると言ったところで
ダイエットや筋トレと同じように
なんだかんだと結果を出すまで
大変なんですよね~

少し徳を積んだからと言って
すぐに現実が好転するわけもなく
やはり、継続する必要があるわけです。

なんてって人間には
我欲が備わっているので
メリットを感じなければ
なかなか継続できないのです。

私のように懺悔から始める事でも
継続できますが
懺悔するには、生きているだけで
多くの罪を負う仕組みを
知る必要がありますし
世の中に「感謝」できなければ
そう思う事など、なかなかできないでしょう。

なので、自分一人だと
なかなか出来ないのか?と
そう思い、数人で実践してみてはどうか?
と、思いやってみると
やはり、「憎しみ」が「血」に
刻まれている人は、継続できないんです。

まぁ~私自身がもう少し
こまめにチェックして
しっかりとフォローした方が
良かったかな?と
反省点もありますが
「他人に尽くす」とう行為も
元々、不徳が多い人は
その行為で、相手を不快にさせたりするんですよね~
まぁ~それも想定内であり
そんな経験も大切だと予め伝えてはいるものの
継続する為には、その嫌な思いをした
経験が障害になるんです。
せっかく、相手の為にと思ってやっているのに
その相手から不快感を向けられると
やはり、辛いですし継続するのは嫌ですよね?

なかなか、難しい所ですが
逆に不徳の少ない人は
なんだかんだと、発見があり
しっかりと前進できるんです。
なので、継続もできるんですよね~

具体的に何処に違いがあるのか?と言いますと
不徳の多い人の場合は
そもそも、相手の気持ちになって
物事を考える経験が少ないので
相手の為にしている事でも
善意の押し付けになってしまうんです。

必死にダイエットしている人に
ケーキを買ってきて「どうぞ!食べて下さい~!」とか
待ち合わせがあるので、あえて遅くまで仕事をしているのに
「その仕事、私がやっておくから先に帰っていいよ!」と
しつこく迫ったりとか
嫌な出来事があって、誰とも話したくない人に
「どうしたの?大丈夫?」と何度も声をかけたりとか・・
善意の押し付け、オンパレードになってしまうのです。

「徳を積む」という本質は
「自分の為に相手に尽くす」ので
自分の為にやっている事なんですが
でも、その行為で相手を不快にしてしまっては
「不徳を積む」事になってしまうのです。

自分が徳を積む事を最優先で
相手の事を全く考えず接すれば
相手が不快になるのは当然なのですが
自分優先思考で固まっているので
どうして、相手が不快になっているのか?
理解が追い付かず
「貴方の為にしている事なのに!怒!」と
ムカついた態度を取ってしまったりする・・


その結果、初めから「徳が積めていないのに」
「徳を積んでも嫌な思いをする」と思い込み
こんな思いをするのなら、もう「徳積み」はしたくない!と
そう思ってしまうのです。
その行為で「不徳を積んでいる」事さえ
気づけず「徳を積んだ」と思ってしまう・・




逆に、「徳積み」である程度の
結果を得る事が出来た人の場合は・・
母親の為にできる事として
帰宅時に買って帰るモノはないか?と
聞いてみたり、家事を手伝ってみたりしたら
普段から自分の為に、色々と大変な事を
してくれていた事に気づけた!
それだけじゃなく
母親がメッチャ優しくなった!
なので、自分が変われば
相手も変わる事が体験でできました!
とか・・

他にも、介護のボランティアに参加して
要介護の家族を持っている人の苦労を知り
自分の両親が健康な事に、ありがたいなぁ~
と、思えるようになったら
なんか、口うるさい両親にムカつくことが
なくなりました!
あと、自分が五体満足だという事も
幸せな事だと思えるようになりました!
と、言っている人もいました。

新たなる経験により
新たなる発見があり
新たなる自分に成長した・・
という、良い例なんですが
まぁ~その逆パターンもあるという事です。

実際に何かと心が病んでいる人は
この逆パターンにはまる事が多いのかなぁ~?
なんて事を、学んだ経験をしたのですが
もう少し事前準備や
経過チェックや、そのフォローに
力を入れるようにして
現在も、迷走中です~w




と、そんなこんなで
「血肉に刻まれた経験値」による悪影響は
なかなかどおして、厄介で手強いなぁ~
なんて、思っております。

でも、手強いので
色々とチャレンジし続けることが出来て
そこには、色々な発見があり
それはそれで、楽しかったりもします。

時に挫けそうになる事もありますが
そんな自分をも楽しむようにしています。w

人の心が生み出すエネルギーが社会を創っている

以前から、人の心が生み出すエネルギーは強大だと
そんな事を言い続けているんですが
「強大」と言っても
何が?どう?「強大」なの?
って、話になりますよね。

今更ながら、そう思ったわけです。


で、「強大」とか「強烈」とか
そんな表現が正しいか?わかりませんが
人の心のエネルギーは
「月」までも届くと感じております。

そうやって表見すると
「強い力」と思ってしまうでしょうが
私の中では、「距離」の概念のないエネルギーと
そう感じているんです。
ひょっとしたら距離との関係はあるのかも?しれませんが
私には、それを感じ取る事ができません。

人が生み出すエネルギーの中には
「距離」の影響を受けるものもありますが
そうでないエネルギーもあり
どちらかと言うと
「距離」の影響を受けない
エネルギーの方が
人やモノとの「縁」出来事との「縁」の影響を
受けやすいのではないか?と
そう感じています。


何を根拠に?と言われると
「私の感覚が根拠」・・となり
まぁ~その事を私個人の力では
証明できないでしょう~ね。w



昔の私は
人の心のエネルギーについて
理解が足りなかったせいで
よく除霊行為をしたんですが
遠隔でも行っていました。

で、海外にいる人でも
除霊は可能で
恐らく、存在を認識さえできれば
地球外でも可能だと思っています。
(試したことはありませんけど。w)

除霊するためには、認識できるか?否か?
が重要なのですが、エネルギー自体に
「距離」は関係ないので
人の心が生み出すエネルギーは
世界中に影響を与えている。
もっと言えば、宇宙にも影響を与えている
という事になるでしょう。


ここで大切なのは
認識しているか?否か?という事で
認識していれば、その対象に
自分のエネルギーが届くわけで
認識している対象に対して
自分の心のエネルギーが
自分や自分以外に
なんらかの影響を与えている。
また、認識した時点で
その相手からも何かを与えられている。

まぁ~認識していなくても
影響を与える心のエネルギーも
存在するのですが
認識していた方が
強く?影響を与えるという事です。


私が、人の氏名を観るだけで
その人の事が大まかに分かるのも
氏名の文字からその人のエネルギーを
感じ取っているからです。

ようするに
氏名を書いた文字が
アメリカにあろうが
北極にあろうが
瞬時にその人と繋がる事ができるわけです。


ただし、「認識」する必要があり
その氏名を書いた文字を観るまでの
過程も重要なのです。

よく、お付き合いしている彼氏の名前を
観て欲しいと言われるのですが
私は、その彼氏に会った事がなくても
氏名でそれなりに感じ取ることが出来ます。
氏名の本人である彼氏は、その彼女が認識しており
その彼女は、私が認識している。

彼氏→彼女→私→彼女→彼氏
というエネルギーのやり取りが存在しているのです。
彼氏は、自分の知らない所で
私のエネルギーを受け取っており
その影響を受けているのです。


有名人なんかは、自分の知らない他人に
多くの人のエネルギーを向けられることになるので
他人の影響を強く受けているという事になります。


という訳で
自分の心のエネルギーは
自分の知らない所で他人に影響を与え
また、その逆もあり
自分の知らない所で
他人の影響を受けているわけです。


人間であれば、どんな人も
利己的な思考で言動を繰り返すので
基本的に負のエネルギーの方が多い為
負のエネルギーを自分の知らない所で
常時受け取っている事になります。
なので、多くに感謝し
多くの人に感謝されるように
過ごさなければ
その負のエネルギーが中和されず
人が生み出す負のエネルギーによって
心身ともに蝕まれてゆく・・

私は、この仕組みが
人の苦悩の原因だと思っているので
「徳を積め!」と
常々告げていわけです。








なぜ?こんな話をするのか?は
自分の存在が常に世界へ影響を与えている事を
知ってほしいと、そう思っているからです。


誰しも感情が生み出すエネルギーは
自分や他人に何らかの影響を与えるので
自分が負の感情を抱く度に
少なからず、他人にも悪影響を与えています。
しかも、世界中の他人へ・・・


現代では、他人に無関心でも
生きて行ける社会となりましたが
他人に無関心=利己主義と考えると
無関心でいればいるほど
負の感情が多いという事になり
世界が混沌としてゆく事になります。

なぜならば、大自然
私たちに利他的な心を育ませようと
様々な事象を引き起こしており
利他的な心のエネルギーが減れば減るほど
負の感情のエネルギーが増えれば増えるほど
世の中に「苦悩」を作り出すからです。

恐らく、コロナにしても
ロvsウの戦争にしても
世界が便利に発展した事により
人の心から利他的な思いが減ってきたからだと
私は、そう感じています。




私自身、超絶利己主義人間だった頃
自分と関わらない他人に対してかなり無関心でした。
ウクライナの戦争被害報道を見ても
自分には関係ない事だと
そんな視点で見ていたでしょう。

戦争被害を受けている方々の映像を見ても
自分の心が苦しくなることもなく
日本での事でなくて良かった・・と
その程度の認識をしたと思います。

そして、ウクライナの方々の
苦悩や悲しみを映像で見て
同じように心を痛めている人を見れば
気持ち悪い奴だ!と、そう感じた事でしょう。
自分自身に利他的な心がないので
利他的な心を持つ人たちの
価値観を理解することが出来ず
そして、自分が否定されたと
無意識にそう感じてしまうからです。


また、私の場合は利己主義が過剰すぎたので
自分正義に心が支配されており
「悪」認定した相手が苦しむ姿に
ついつい優越感に浸るようになる。

なので、ロシアが苦しむ事になれば
「ざまぁ~」感覚で
見下すことが出来て
自己の快楽を満たせる為
そんな事をついつい期待してしまう・・・


今思えば
かなりのクズ人間だったなぁ~
なんて思います。




まぁ~自分の利己的思考が
悉く、他人の価値観を否定するので
致し方ない事なんですが
恐らく、そんな思考の人のエネルギーが
社会を壊しているのでしょう。

社会は、人が創っているので
人が壊れれば、同時に社会も壊れますしね。
利己的な人が増えれば
人の争いも増え
社会的苦悩が増え続けるという事です。

素晴らしい政策を掲げ
それを実行しようとしても
社会に負の感情のエネルギーが
多ければ、行使する事は難しい・・


私も、社会を壊す側の一人だったのに
社会を否定批判しまくっていましたね~
政治家や役人、マスコミなど
否定批判しまくっていました。
報道で、自分と異なる意見を言う人に
対しても、「そんな思想を社会に巻き散らすな!」
なんてムカついたりしていました。
自分が社会を壊している一人なので
自分で社会を壊して
気に入らないMAXだったのですが
その事実に気づけなかったのです。w


おかげさまで今では
そんな仕組みを知ったので
どうすれば利他的な心が
増えるのか?と
そんな頃ばかり考えて
実践するようになりましたね~

日本もアメリカのように
人口の6割が
ボランティア活動を
経験する国だったら
今以上に強国になるのになぁ~
なんて、思ったりします。



とは言え、人間は負の感情を抱く生き物なので
それを無くす事はできない・・・
大自然の法則上、必要不可欠な
エネルギーですしね。
ただ、社会が発展すればするほど
人は「感謝」出来なくなりますし
他人と直接関わらなくても
生きて行ける社会で過ごしていれば
利他的な心に必要性を感じなくなる。
そして負の感情が増え続けて行く・・
なかなか難しい所です。
誰しもクソ虫的一面を持っているという事です。
私の場合、クソ虫的一面が多すぎでしたけどね。w

なので、どうあがいても
負の感情のエネルギーを
相殺するために「感謝」の念を抱く必要がある。
「懺悔」でもいいですけどね。

心深く「感謝」または「懺悔」できれば
世の中に貢献しなければ!という思いを抱くようになり
他人に無関心ではいられなくなるので
一石二鳥ですしね。


しかし、「感謝」など簡単にできる事ではなく
「感謝」できるようになる為には
利己的思考を減らす必要があり
利己的思考を減らすためには
それなりの苦悩が必要なんです。

なので、恐らくこの先も
様々な「苦悩」を大自然から
与えられるはずなので
せめて、どんな「苦悩」でも
乗り越える事が出来るよう
自らを鍛える必要があるのでは?

なんて、思ったりしています。



私は、多くの方々の相談を受けながら
多くの「苦悩」について
検証し続けてきましたが
同じ出来事が起きても
「苦悩」と感じる人もいれば
そうでない人もいる。
一度、乗り越えてしまった「苦悩」は
同じ出来事が起きても
「苦悩」では、なくなったりもする。

「苦悩」とは
自分の思い通りにならない事に対して
「苦悩」と感じ
自分の思い通りにしたい!という
欲望の強さによって
その苦しみや痛みは異なり
結局は、自分が「苦しい」と思うから
「苦悩」なんですよね~


そう考えると
利己的な我欲を減らし
利他的な我欲を増やす事で
今より、もっと過ごしやすい世の中になるのでは?と
私は、そう感じたりしています。

受け入れるという素直さが、人生のカギだと思う

私たちは、人間である。
目があり
鼻があり
口がある。

手が二本
指が片手五本づつ
足も二本の生き物である。

そんな肉体は一つである。

私は、時に
もう一人、自分がいればなぁ~
なんて、思ったりするんですが
やはり、私は一人です。

分身できたらなぁ~と、
いくら思ったところで
自分は一人しかいないという事を
受け入れるしかない・・

これは、大自然の法則の一つです。





私たちは
大自然の中で生活しているので
なんだかんだと大自然の法則を
受け入れながら過ごしています。

そして、大自然の法則を
知れば知るほど
受け入れる事が増えていきます。






私が、今まで生きてきて
心がどんどん軽くなって行く過程を振り返ると
「受け入れる」事が増える度に
心が楽になっていったように思います。

自分の思い通りにしたいのに
思い通りにならない仕組みに気づき
そして、それを受け入れるからなんでしょう。

分身出来ない事を知れば
分身出来ない事にムカついたりしないのです。


最終的に
結局、人生は
色々と受け入れるしかないんだよなぁ~
なんて思うようになりました。




でも、人である以上
自分の思い通りにしたいと
そう思ってしまうため
自分の思い通りにならない事に対して
不快になり、怒り、憤り
ムカついてしまう。


受け入れる事が出来ないのです。


で、その時に生まれる
負の感情のエネルギーが
自分自身を蝕み
様々な苦悩を生み出しているのも
大自然の法則なのでしょう。

受け入れられない出来事が
多ければ多いほど
苦悩も増えてゆくのです。

また、自分の思い通りにしたいと
思えば思うほど
受け入れられない出来事が増えるので
同時に苦悩も増えるという事になります。

なので、我欲が多ければ
苦悩も増えるという
大自然の法則があるわけです。




とは言え、私たちは
我欲を植え付けられて
生まれてくるので
人生の中で色々な苦悩と
向き合う事になる。



なので・・
負の感情が苦悩を引き起こす事も
我欲が苦悩を引き起こす事も
我欲が、なくならない事も
受け入れる必要があるのです。

負の感情を抱いてはいけない
欲深く生きてはいけない
苦悩は排除すべき・・
と、考えるのではなく

負の感情を抱くのが人であり
我欲を貪るのも人であり
人生で苦悩はつきものである・・
と、これらを受け入れた上で
自分は、どうすべきか?考え行動するようにすれば
人生とは、なかなか楽しいものになるはずです。





誰しも「自分の思い通りにしたい!」
と、そう思ってしまうのですが
実際には「自分一人では生きてゆけない」
社会で過ごしています。

他人と関わらないと生きて行けないのです。
パソコンも携帯電話も
自動車も家電製品も
色々な人たちが力を合わせて作っていて
他人が作った製品を利用しながら
私たちは生活しています。

いくら「他人と関わり合いたくない!」
「一人で過ごしていたい!」と
そう思ったところで
今の自分の生活に他人は欠かせないのです。

他人が汗水流して作りだした製品を
利用しまくって生きているのに
「自分は他人と関わりたくない!」
と言うのは、無理があり
「自分は他人と関わりたくない!」
が、通用するほど大自然の法則は甘くないので
そんな過ごし方をしている人たちは
平等に苦悩に直面するでしょう。


なので「自分一人では生きて行けない」
これも、受け入れるべき事でしょう。



要するに、他人の関りを無くせない以上
いくら「自分の思い通りにしたい!」と思っても
出来ないんですよね~w

出来ない事に対して
ストレスを溜めるのは愚かな事ですよね。


誰しも自分の好きな事をしながら
生きて行きたいでしょうが
そもそも、私たちは
そんな事が許される社会で
生活していないんです。

なぜならば、常に他人と関りを持ち
価値観の違う人たちが
支え合いながら生きているからです。

これも、受け入れるべき事でしょう。





こうやって考えると
受け入れられない事が多ければ多いほど
不幸な出来事が増えて行くように思えるのです。



例えば、コロナワクチン接種に対しても
受け入れる事が出来なければ
社会で白い目で見られるでしょう。
反社扱いされるかもしれません。

なぜならば
ワクチン接種をしている人たちも
社会で生活している以上
仕方なく摂取しているからです。

頑なに拒否していれば
社会の一員として、非難されるのも仕方ない。
なので、拒否するのであれば
周りから非難される事を
受け入れるしかないのです。

受け入れられなければ
ワクチン接種を強要する人に対して
不快に感じ、憤りを感じ、ムカついてしまう。

社会の一員として多くの
恩恵をうけながら過ごしているにも関わらずです。

とても身勝手な行動なのですが
身勝手な行動をする人は
往々にして自分が身勝手で傲慢だと
思っていなので
ワクチンを打つ奴の方がおかしい!
くらいに思ってしまうのです。w


ワクチンを拒否するのであれば
社会から非難されることを受け入れた上で
ワクチン接種が嫌な人は
摂取しなくて良い社会にする為には
どうすればいいのか?を考え
行動に移すしかないでしょう。


社会から非難される事・・
即ち、自分が不快に感じる事に対して
何もせず、ただ不快感をまき散らすだけの
人になってしまうのは
やはり、不幸な事だと
そう思ってしまうのです。


だって、多くの社会の恩恵を受けながら
過ごしているのに、その事実を無視して
社会に対して不快感をまき散らす存在は
社会からすれば、ゴミ虫のようなモノなんですよね~





ちなみに私は
長い間、ゴミ虫のような
人間でしたね~w

社会を否定し
世界を否定し
不平不満をまき散らしていました。

社会の恩恵を受けながら
文句ばかり口にして・・
何一つ社会貢献していない人間でした。

まぁ~感謝できないから
そうなってしまうんですが
それにしても、「与えられている」事に
気づけないという事は
とても不幸な事ですよね。

今思えば、私は社会にとって
迷惑極まりない存在だったように思います。

でも、当時は
自分正義満載人間だったので
自分以外の奴らが狂っている!
と、そう思っていました。

他人の立場など全く考えず
ただ、自分の価値観=正義を
巻き散らす人間なんて
他人からすれば、不快な存在であり
社会からすればゴミ虫のような生き物でしょう。


それでも、社会は私が生活できる
環境を与え続けてくれるので
自分で全く、その事に気づけないのです。

誰しも、そんな人に
関わり合いたくないので
教えてくれる人もいない・・
と言うか、教えてもらっても
理解すらできなかったでしょう。
だって、感謝できない人間でしたし・・

社会に貢献する生活をしていないので
自分が生活できる環境があるのは
当たり前の事でした。
自分以外の人たちが
自分の生活を支えてくれている事を
全く知らないわけですから
スタート時点でアウトだったんです。w



結局、関わり合える人たちは
同じゴミ虫的価値観を
もった人たちくらいです。

自己の苦悩を先祖の因縁のせいするような
全く感謝できない人達と
意気投合するわけです!w


そして、そんな中にいるので
いつまで経っても
自分がゴミ虫人間になっている事に気づけない・・
それどころか、神に選ばれた人くらいに思っている。

いやはや、悲しい事です。w


幸いにも私は、なんとか
ゴミ溜めの中から脱することが出来ましたが
抜け出すだけでも、なかなか大変でしたね~
プーチン氏ではないですが
裏切者扱いされますし・・


で、私は自分がゴミ虫人間だった過去があるので
現在は、迷惑極まりない人たちを
一般の方々より簡単に受け入れる事が出来ます。w


だって、迷惑極まりない人たちに対して
不平不満を抱き続けると
自分自身もゴミ虫人間になってしまう過程を
自ら体験しましたしね。w


なので「受け入れられない」という事は
不幸な事であり、一歩間違えば
恐ろしい事だと、そう思ったりしています。



逆を言えば
色々と不快に感じる出来事でも
一旦は、受け入れ
自分の中で消化し
同じ出来事を繰り返さない為に
自分は、どう行動するべきか?を考え
行動するようにすれば良いのでしょう。

受け入れるという素直さが
自分の人生を豊かにしてくれるという事です。


自分が死ぬ瞬間
自分の人生を振り返り
不平不満ばかりの人生だったな~
なんて、思いたくないですよね?

私は、一歩間違えば
そんな人生を歩む所でした。w


皆様も、お気を付けください~