修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

他人の価値観を認めて受け入れると、結構楽ちんに過ごす事ができる

人の価値観は人ぞれぞれ皆違う。
そんな事は誰しも知っている事なのに
なかなかそれを認めて受け入れる事は出来ない。

だって、自分と違う価値観を
認めて受け入れると言う事は
自分が我慢しなくちゃいけない事だから・・
そんな事したら、ストレスで気が狂うよ~~~~
と・・・そんな感じで人は争うわけです。w


私自身、ガキの頃からおかしな感覚があり
周りの人と見えているモノが違う事など
薄々知っていたわけですが
どうしても、その事実を受け入れる事が出来ず
長い間、現実を空回りさせながら過ごしたものです。w

自分と他人が見えているモノが違う事を
受入れる事が出来たのは、30過ぎてからですね~

明らかに他人と価値観が違うのは
そのせいだと思うようになり
周りの人たちは、どう感じてどう判断しているのか?
そればかりを観察し、考慮して接する努力をするようになりました。
はじめのウチは
『なんで?』『どうして?』
ばかりでしたね~www

かなり遅い気づきです。^^;)

そして、20年以上一緒に暮らしている妻でさえ
今だに、私の感覚は理解でず
たまにブチ切れしております。w

まぁ~私がついつい言葉以外を
キャッチして会話してしまうので
会話が成立しなかったりする分けです。^^;)

でも私は、この感覚のない相手が
なぜそうなるのか?を理解できるので
昔のように喧嘩になる事はなくなりました。w

他人の価値観を理解する事で
こんなに楽ちんに過ごせるものなんだ!と
つくづく感じるようになったわけです。

要するに相手の価値観を理解する事で
自分の価値観を押し通す事が無理だと気付けるわけです。

相手を自分の思い通りにさせようとすればするほど
どんどんとおかしな方向に行くような仕組みの中で
私たちは、生まれた時から過ごしているんでしょう~ね~



誰しも、自分の思い通りにならなければ
ストレスを溜める事になるのですが
そうは言っても、自分の思い通りにならない原因を
知る事が出来なければ
辛く苦しい現実が永遠に続いてしまいます。
とは言え、自分の思い通りにしたいのが人の性なので
変わるべきは、自分ではなく自分以外であり
常に自分を正しい位置に起きながら
周りを悪として判断してしまう。
他人の価値観など二の次なんです。w

自分に都合のいい部分だけを
切り取って解釈し
自分の都合の悪い部分は
気付かないふりをする・・
誰しもストレスを感じたくないですしね。w

自分自身を悪として落ちて行く人もいますが
それも、過去の経験で悪を生み出した結果
それが自分に返ってきている事が多いでしょうし

人の生とは、なかなか因果なモノですね~











誰しも自らの経験や体験に基づいて
自らの価値観が構築されてゆくものであり
新たなる体験や経験によって
その価値観は常に移り変わって行くものでしょう。

人それぞれ、生まれた環境、育った環境が違う為
経験する事、体験する事が違うものです。
従って、価値観も人それぞれ違うわけです。
尖閣諸島竹島海上保安に従事している人と
全く無関係の人では、憲法改正についての
考え方も違うでしょうし
食べ物の好き嫌いがあるように
様々な物事に好き嫌いがある・・
同じ風景を他人と一緒に見ていても
見え方や感じ方は、人それぞれ違うモノなのです。


そして、この世の中は
慈愛の精神を育むように創られているので
どうしても、他人の価値観を認めて受け入れる必要がある。
それが出来ないだけで、辛く苦しい出来事が
積み重なるように、この世は創られているわけです。


私たちは常に自分以外を理解する事や
自分以外をゆるす事を学ばされる為の出来事を
現実として常に突きつけられているわけですが
善悪の判断基準で思考が働くため
なかなかその事に気づけない・・

相手を理解できれば、ゆるす事は難しくないんですよね~
自分に対して嫌な事をする相手は
そうするだけの体験や経験をしているわけで
また、それをしない為の体験をしていないだけなんです。
とは言え、自分中心に物事を考えるように創られている
私たちは、そんな事など考えようともしないわけです。


今、目前に辛く苦しい現実があるのであれば
その原因となっている相手をどこまで理解しているか?と
自問すると、相手の事を何も知らなかったり
また、自分との違いにイラついているだけだったり
する事がわかります。

自己の正しさを基準として
物事を解釈しているだけに過ぎないので
実は、とっても狭い視野の中で
物事を判断しているんです。

狭い世界で過ごしているから
辛く苦しい事が続くのだけなのですが
自分以外を責め続けてしまう・・

周りの人たちと自分の価値観の違いを
知っているのと知らないのでは
ストレスの溜まり方が大きく違うでしょう。

会社でも経営側と、運営側では
普段の経験や体験が全く違うので争ったりします。
これは、それぞれお互いの立場を主体にしてでしか
現実を見ていないからです。
毎日続けば、かなりのストレスですよね~

『知らない』と言う事は怖いですね~



私の場合、自分が一般の価値観とかなりのズレがあり
社会的不適合者だという自覚があります。
なので、このブログを不快に感じる人も沢山いるはずです。w

私には、余計な感覚があるので
一般論としての善悪が逆転する事が多くあり
昔は、窮屈な毎日を過ごす事しか出来ませんでした。

凶悪犯のニュースを見ても、加害者より
被害者の方が悪人に見える事の方がい多いのです。

凶悪犯と同じ血を背負ったら
私も同じ事をするだろうなぁ~・・とか?
そんな風に思ってしまう事もあります。


良い事、正しい事に拘っている人に限って
ドス黒いエネルギーを纏っている人が多いですし
逆に自分のダメさ加減を素直に認めている人の方が
暖かいエネルギーを纏っている。

そう感じ、そう見えるので
仕方のない事なんですが
そんな風に感じて見える人なんていないですもんね。w







私も人間なので不平不満の感情が生まれたりするのですが
不満を抱く対象に対して、どれくらい理解しているか?と
考えてみると、何も理解していない事に気づきます。w
相手を理解していないのに、不満をぶつけるのは
ちょっと傲慢だったと思うわけですが
その時点で、負の感情が消えているわけです。
当然、負の感情の蓄積が軽減されるので
その先の未来も過ごしやすくなります。

そもそも、相手を理解できれば
不平不満の感情など生まれないのが
この世の仕組みなのでしょう。

誰しも自分本位に生きるような
思考をもって生まれてくるわけで
生きて行く過程で様々な体験をしながら
自分以外を理解するものでしょうね。
従って、生きてきた過程によっては
自分本位なままなで過ごしている人も沢山いるわけです。

ネットの炎上を見れば解るように
相手の価値観など全く無視して
自分の考え方をぶつけまくるのが人というモノです。w

著名人に発言によって傷ついたと訴え
その著名人に謝罪させ
鬼の首でも取ったと言わんばかりの会見を見ると
極めて幼稚な行為だと思ったりします。
だって、どんな言葉も受け取り方自分次第なので
傷つかない受け取り方が出来ないままという事なんですから。

人を傷つける事を悪とするのであれば
人との関わりを絶つしかなくなりますし
死刑宣告と同じだと思ってしまうわけです。
まぁ~これが私の価値観なのですが
でも、些細な事でいがみ合うのが人なんでしょうね。

自分自身の心を磨く経験がなければ
どうしても自分視点でしか物事を解釈できないのは
仕方のない事なのです。
ルールを守らないのは犯罪ですが
他人を思いやらなくても犯罪じゃないですしね。

でも、大自然のルールは
慈愛に反した言動には、苦悩を与えます。
なので発言に対して訴え勝訴した人の未来は
辛く苦しい出来事が待ち受けているわけです。

人間が作った自分たちに都合の良い
社会のルールと自然界のルールは
全く別物ですからね~


社会のルールを守らなければ
私たちの社会はメチャクチャになってしまいますが
大自然のルールを無視していれば
理不尽だと感じる現実ばかりを体験する事になる。

そもそも、理不尽な出来事など
この世の中に存在していないんですけど
自然の法則を無視するから
理不尽だと思ってしまう・・・
これも、理解不足と言う事でしょう~




結局は、体験、経験でしか
理解できない事ばかりなので
言葉や文章だけでは、なかなか伝わらないものなんです。
だから人と人との意見がすれ違う・・・
体験、経験が違うから・・

争いやすれ違いを無くすには
まずは、知る事が大切なんでしょう~ね。

多くを知れば、自分以外の人たちの価値観を理解できる。
自分と違う価値観を理解できれば
なんだかんだと、過ごしやすくなる。

でも、理解できなければ
ルールに従い、相手を責める事になり
負の感情が生み出すエネルギーにより自らが蝕まれてしまう・・


たかだか、周りの人たちの価値観を
理解しようとするか、しないかで
自分の未来が雲泥の差になるんですよね~~




人間、ちょっとした事で
毎日が過ごしやすくなるものだと
私は、そう思っています。^^)