修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

霊的存在から学んだ事 その2

霊体と会話ができるようになると
その言葉を疑う人より
信じる人の方が多いものです。

自分の感覚だから自分を信じるしかないわけですが
夢か幻かよくわからなくなり
確実に体調が悪いと何とかしたいとも思うでしょう。

なんとかしたいので
言われたとおりにしてドツボにはまったりもする。w


人の言葉を疑う事は出来ても
霊の言葉は信じてしまう・・
霊能力は特別な力という
思い込みがそうさせてしまうわけです。

霊能力は特別な力なので
そこで伝えられる言葉は当然
特別なメッセージだと思い込んでしまうわけです。

実に馬鹿げた話ですよね~w

でも、霊の言葉を告げる側も
それを聞く側も
そう思い込んでいる人が多いのも事実でしょう。








ただ、逆に
霊の言葉、先祖の言葉、神の言葉を疑えば疑うほど
自己を成長させる事ができます。




基本的に霊感の強い人は
自分主体の判断しかできない人が殆どなので
自分が先祖と思えば、それは先祖であり
神だと思えば、それは神とする判断を疑う事をしないものです。

普段から自分の価値観を押し付けているのでw
私が神と言えば神なのです!って感じの人が多いですね~

そもそも、誰にとっても神の定義は
自分が神だと思うか?否か?なので
仕方のない事なんですが・・w










誰しも、自分で見聞きしているモノを信じるものですが
霊視と目視では、具体性に大きな差があります。

自分自身を10人の霊能者に霊視してもらって
全員の霊能者が同じものが見える事などほとんどないはずです。
霊視する側は、必ず自分のエネルギーを含んでしか
霊視できない為に起きる現象だと
私はそう思っていますし
また、霊感のない人と霊感を共有できないので
適当な事を言っても通用するという
恐ろしい絶対的優位という事実があります。

ようするに霊感のない人は、何をどう告げられようが
霊感の強い人それぞれの言葉を受け止めるしかできないわけです。

仮に自分が盲目で、誰かに『赤信号ですよ!』と言われれば
とりあえず、信じるようなものなんですが
その関係を、考慮する事なく、見えるモノ、聞こえる言葉を
疑うことなくそのまま伝えて、相手を傷つけたり
逆に痛い目に合ったりする事があります。

言霊の言われた通りにして快楽が満たされれば
良かった・良かった・・となるのですが
実際には、依存され、本人は何かと頼るようになります。

結果として、自己責任で決断する事ができなくなり
自己の成長が止まり、最終的には大きな禍を招いたりもします。



とは言え、自分が全てという性格上
何をもって先祖の霊としているのか?
何をもって、神の言葉としているのか?
という事さえ、考えようとしないでしょう。

自分の過ちを受け入れる事が出来ない為
自分に都合の悪い事は見ないようにしますしね。


ただ、この霊的存在の言の葉は、どこから来ているのか?と疑う事で
色々と学ぶ事が出来ます。






まず、その判断をしているのは、所詮は自分の思い込みなのですが
そう思う事が出来れば、常日頃から
普段の生活の中でも、同じような事が起こっている事に気づけます。


見えるモノ、聞く言葉、感じるモノ・・
どんな人も、自分の体験に基づいて判断しており
体験が変われば、判断基準もかわり
五感の世界でさえ見え方、聞こえ方さえも変わってきます。

これはダメ!
あれはダメ!
こうするべきだ!
ああするべきだ!
と、いくら言った所で
価値観が違えば受け止め方も違うので
受け止める側を理解しなければ、前進する事はできない。

他人を理解しようと努力し続けると
何をどう体験するかによって、同じ現実でも
受け止め方は人それぞれ違うと言う事が理解できます。

同じものを食べても
美味しいと思う人もいれば
不味いと思う人もいる・・
どうして不味いの!と自分の価値観を押し付けた所で
不味いモンは不味いので、どうしようもないのです。

なのに、理解する努力を怠っている事を棚に上げ
『理解できませんね~・・』くらいの事をいいながら
相手を批判する人が多いのも事実。w



価値観の違う者同士が、一つの社会の中で過ごしている。
その為に、ルールが必要であり
決してそのルールが正しいわけではなく
価値観の違う者同士が、一緒に生活する為に必要なだけである。

従って、物事をスムーズに進める為には
自分の価値観を主張するより
他人の価値観を理解する事の方が大切だという事がわかります。

何事にも、まずは『理解』これをなくしては
物事が空回りするのは、当たり前な世界にいると言う事です。


霊感が強いと言う事は、何事にも理解しようとする心が欠如していた為に
人の心を察する力を与えられたのだと思うに至るわけです。

霊や先祖、神々の言葉を告げるための力ではなく
そんな事を繰り返していても、何の成長もなく
逮捕される新興宗教の教祖様のようになってしまうのがオチでしょうね~



私の場合、霊障がひどかったので
誰しもが、思い込みの中で過ごし
思い込みのおかげで、理解不足を学びました。


そうやって成長し続けているのが、我々であり
理解不足を学ぶ事で、理解する事を知れば
我々は、この世の中と言う素晴らしい仕組みの中に
存在している事にも気づけるかと思います。



ひょっとしたら、霊感が強いと言う事は
他人を理解する事を怠り過ぎたために
人として生きる為の最後の警告なのかも?しれませんね。w





霊的存在から学んだ事 その1 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事、その2 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その3 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その4 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その5 - 修行バカの懺悔道

霊的存在から学んだ事 その1

霊感が強い人は純粋で優しい人だなんて言われた事があります。
何を根拠に?なんてよく思ったものですが
霊を見て可哀そうだと思う心があるから見えるんだと・・
霊を見て可哀そうだと思うから霊に憑かれるんだと・・w


ありえんなぁ~漫画や映画の見過ぎちゃう?
と、よくそう思いました。w

私自身、純粋でもないし
優しくもないですしね~
霊感が強い人で、そんな人に会った事もないですしね~
私は、斜めからしか物事が見れないので
いくら優しくされても
上辺だけの優しさポーズにしか見えませんでしたね。w




霊感が強い人は、基本的に我が強く
他人を理解する心が欠如しているのだとそう思ってます。

まぁ~私がそうだからと言って
全ての人がそうだとは限らないのですが
霊的存在が我々に学ばせてくれている事を考えると
自然の法則上、そうなっているような気がします。

自分自身が現実を創り
その現実から自らを成長させるのが自然の法則であれば
霊感が強いという現実から学ぶべきものも
自己改善・・のような気がしています。


まぁ~極論を言えば
全ての現実は自己改善の為にあり
人として生まれてきた以上
死ぬまで自己改善し続けなければならいんですけどね。





私が子供の頃の話ですが
霊をゾロゾロ連れている先生の授業が受けられなかった事を記憶しています。
その先生の授業に限って具合が悪くなるので
当然、仮病扱いされるわけです。

親や先生から叱られまくり
嘘つき呼ばわりされるので
子供の私は、どんどん心が壊れて行きましたね~w


おそらく、霊が見えなくても感じなくても
全国で頻繁に起きている事でしょう。
特定の先生の授業に限り受ける事が出来ない生徒は
結構いるんじゃないでしょう~かね~??

そんなお子さんを持ったら
他を理解する心の欠如していると
自分自身を戒めてみるものいいかもしれません。












霊能者にあこがれている人が、突然霊が見えるようになって
霊の言葉が聞こえるようになったりすると
自分の特異性に歓喜し、やたら見えるモノ
聞こえる言葉を口走るようになる。


まぁ~自分は特別で選ばれたんだ!と思いたくなる
気持ちは分からないでもないんです。
霊感の強い人は基本的に自己主張型人間なので
強い霊感は、その欲求を満たしてくれるわけです。

いつも特別でありたい人なので
霊能力に憧れてしまうし
運よく手に入れば、それに溺れてしまう・・

たまに霊能者になりたい!と言いながら
私の所に来る人がいますが
その理由を聞けば
『人の役に立ちたい・・』
『困っている人を救いたい・・』
と、殆どの人がそんな事を言います。
で、普段から人の役に立つような事をしてるの?
困っている人の役に立つ事をしているの?
と、聞けば・・
『?・・・???』
って感じで何もしていないわけです。w
で、くそ意地悪い私は
『優越感に浸りたいの?』
『自分の下に人を見ていたいの?』
『特別扱いされたいの?』
『それがカッコイイと思うから?』
なんて・・質問したりします。w
まぁ~『そんな事ありません!』とみなさん言うんですけどね~w

本当に誰かの役に立ちあいのであれば
すぐに何でもできるものなんですけどね~





霊感が強い多くの人は
現に我々が過ごす社会が、全て五感のみの判断で創られているのに
そこに証明する事の出来ない霊的感覚を口走る・・・
霊感のない人に対して、霊がいるとか
先祖が〇〇と言っている・・とか言われてどう思うか?など
全く考えようとしないわけです。

逆に『貴方は霊感がないから解らないかもしれないけど・・』
と、勝ち誇ったように上から目線で話をする。w

いや~全く持って愚かな行為ですね~。w

だって見えるし感じるから仕方ないじゃん!・・と
あくまでも、自分の正当化を主張するだけで
自分以外の事など、全く無視!w


大好物を食事中に、同席している人から
『不味い!気持ち悪っ!』と言われるのと
同じ事をしていると理解できないわけです。


そんな事を平気で口にできる性格なので
霊に憑かれて苦痛を味わうわけですが
これも、自分は特別だから仕方ない・・くらいに思っているから
いつまで経っても、苦痛から解放されないわけです。



『霊感が強い人の特長』
1、他人を理解しようとしない
2、自己主張ばかり
3、他人の価値観を受け入れられない
4、自分の価値観のみでしか判断できない
5、物事を自分に都合よく解釈する
6、自己顕示欲がやたら強い
7、他人を見下して優越感に浸りたい族

だいたいこんな所でしょう。

いや~私の事なんですけど・・^^;)

大した努力もせず、優越感に浸れるわけもないんですけど
自分に大した才能がない事を受け入れる事が出来ないわけです。
努力とは、奴(誰か)を支える力なんですが
自己の快楽を満たす為に必死になって努力してきたと言い切ってしまう。w
そして、人より苦労してきたと自分を褒めたたえるわけですが
その苦労も、自分の不徳が原因だと気づけないので
霊感なんてものが、身に付いてしまうわけです。





とは言え、この世は慈悲に包まれた世界であり
生きている以上常に、我々を支援してくれているわけです。
素晴らしい~!^^)

霊感は、これらを改善する絶好のツールだと思うのです。
これらを改善する為の力と言っても過言ではないでしょう~!
まだまだですが、現に私はかなり改善されてきましたしね~w


まず、霊感が強いと霊的苦痛が伴います。
霊と同調して、体調不良を起こすわけですが
他人の体調とも同調します。
頭が痛い人が近くにいるだけで頭が痛くなるわけです。

霊感の強い人は、自己顕示欲が強すぎて
『私は特別な力を持ち選ばれた人なのだから!』と思い込む傾向にあり
この現象の原因を自分以外のせいにするわけです。w
『私の頭が痛いのは、頭が痛い人が近くにいるから・・』
『体がだるいのは、良くない霊がいるから・・』
で、終わらせてしまい、それ以上深く考える事をしない・・

私の場合、こんな考え方をしている間は
どんどんと現実が悪化して行きました。w
自分に憑く霊=悪霊と決めつけていたので
祓い清める力を求め、激しく修行してしまったわけです。
ようするに、悪を生み出し続けてしまったわけです。
そもそも、悪を生み出し続けた性格の為に
霊感が強くなってきているのに
更なる悪を生み出し続けるわけですから
最悪のブーメランを創り出す行為なわけです。w


そもそも今、頭が痛くて辛い思いをしている人の気持ちを無視して
他人の頭痛を察知した事を誇らしげに口にしたりする・・
自分の体調を悪くする霊=悪霊とか低級霊とか命名したりする。w
基本的に何でも他人のせいなのが霊感の強い人の特長ですし
何でも上から目線なんで、『低級』とか『低俗)と言う言葉を好んで使う・・
自分を上に置いていないと、なんだかんだと不安なんです。w
要するに、長けた才能のない自分を受け入れられない・・
しかも、嫌な事柄に対してちゃんと向き合う事ができないので
自分に都合よく決めつける訳です。




本来は、病は気から気は心からなので
体調不良を起こしている自分自身に着目すべきなのです。


霊的憑依で体調が悪くなる場合は
自分を成長させる為のシグナルなので
自分自身を見つめ
自己の至らない所を探す事で改善されます。
自分の何がいけないのか?を自問し続けるのです。

自己改善しないといけない所を見つける事が出来ると
す~と楽になります。

他人の体調と同調する時も同じです。

見つける事が出来ても実際に改善されないと
なんども同じ事が繰り返されます。

何度も繰り返される事で
そのうち本当に自分が変われるんですよね~

神道的に言えば『見直し、聞き直し』という訳です。
体調の悪い人や悪霊様には本当に感謝です。w

血肉に刻まれた経験値は、気付いただけでは
簡単に改善できないので
繰り返しながら、改善する必要があります。
何度も同じ過ちを繰り返す事も大切なわけです。

と、まぁ~霊的苦痛と向き合うと
大きく自己成長できるわけです。



霊的苦痛は自分に原因があると思えないと
『私は特別な存在だ!』という括りから出られないまま
社会的不適合者になってしまう事もあるでしょうね。w

本物霊能者だの偽物霊能者だのと
自己を本物とし、他の霊能者をニセモノ扱いする
ようになったりもします。w
霊感の強い人は、自分を省みる心が欠如しているので
私はニセモノではありません宣言!をしたくなるわけです。

私に言わせれば、所詮は自分が生み出した世界しか
感じる事が出来ないのがこの世の中なので
自分の感覚を自分都合で判断し
それを告げる事しかできないのが霊感というやつで
結局は、受け止める側次第なんですけどね~

とは言え、本物霊能者を探しています!的な人もいますしね~
私の所にも『あなたは本物ですか?』なんて相談が来たります。
本物の基準をよくよく考えると
自分に都合が良ければ本物なので
所詮は思い込みの世界と言う事になります。w



と、まぁ~こんな感じで
私の場合、他を理解する心の欠如ってのを
学ばせて頂く事ができました。


いや~煩悩まみれで、愚かすぎる奴だったわけです。^^;)





霊的存在から学んだ事 その1 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事、その2 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その3 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その4 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その5 - 修行バカの懺悔道

否定批判や怒りの感情を抱き続けると悪を生み出さずにはいられなくなる・・

誰しも怒りや否定批判の感情を産み出すように創られている・・
逆にその感情がない人などいないでしょう。

我々が慈愛の精神を育む為に必要不可欠な感情なのでしょうね。

ゆるす事を学ぶ為には、どうしてもゆるせない出来事が必要であり
慈愛と相対的な、感情を持ちながら私たちは生まれてくるわけです。

ただし、その相対的な感情に溺れると
自らは朽ち果てて行く・・・
それが大自然の法則だとも思います。



私たちは、生まれた時から
過ちを犯し続けながら生きる事になります。
それが人生というモノでしょう。

自分の幼少時代を思い出せば
誰しも、自分勝手な考え方で
怒ったり、泣いたり、わめいたりしてきたと思います。

何事にも経験が浅いので仕方のない事なのです。
経験や体験があって初めて理解できる事ばかりですからね~

従って、過ちを犯し続ける事で学び
過ちの中で成長するのが人生だと言っても過言ではないでしょう。
学ぶ機会がなければ、誰でも自分勝手になるモノなので
学ぶ姿勢が人生で最も重要な事なんでしょう~

ありがたい事に、自分勝手に生き続ければ、大自然が教えてくれます。
苦悩と言う体験の中で、学ぶ事になりますが・・^^;)
苦悩と共に朽ち果ててしまう事もありますが
それは、自分自身の成長を放棄した時になる現象です。
自分自身を常に正しいと位置づけした時にしかなりません。

慈愛の精神を学ぶ為に我々は生まれてきているので
常に学び続けるという、その過程を放棄すれば
残念ながら生きている必要はないわけです。
ただ、そうなる前に大自然は、何度も何度も毎日繰り返し
私たちにメッセージを送っている事を知る必要があるでしょう~



怒りや否定批判の感情は、出来事に対しての
理解不足から生まれるものだと思っています。
自分以外を理解しようと努力しないが為に
そんな感情に蝕まれるのが、人間という生き物なのでしょう。

経験がない為に、ルールを破る
経験がない為に、自分本位になる
経験がない為に、他人の過ちを責める

過ちを犯し続けるのが人生なので
本来、誰一人、責めていい人など存在せず
誰一人、怒りを向けていい人など存在しない。
これが我々が暮らす世界の理なのですが
人間社会のルールがそれを見えなくしています。


ようするに、人間ルールに囚われた狭い世界しか見ようとせず
狭い世界で物事を見聞きしているが為に
経験が不足し、怒りや否定批判の感情を産み出していると言う事です。
どれだけ年齢を重ねても、経験から学ばなければ
同じ事を繰り返してしまいます。

同じような嫌な出来事が何度も繰り返すのは
学ぶ経験を与えられているからです。
しかしながら、その出来事で学ばなければ
心身が蝕まれてゆく・・
繰り返すその嫌な出来事も、どんどん大きくなる・・


怒りや否定批判、憎しみの感情抱き続ける事は
ただ単に、心が幼いだけなのでしょう。
我々の社会では、一流大学を出て一流企業に就職できれば
立派な大人と言う事になりますが
それは、あくまでも人間が創ったルールの中での事であり
大自然のルールからすれば、全く関係のない事なのです。
自らがどれだけ慈愛の精神を育む事ができるか?が人生の課題であり
そこから遠い精神状態であれば、未熟で幼い心のままだと言う事になります。


他人の過ちに怒りを向ける・・
これは、ただただ慈愛の精神が生まれていない状態なのでしょう。
誰しもが過ちを犯しながら生きている事を
見ようとしないだけなのです。
そんな考え方をしていれば、自分の快楽は満たされませんから
煩悩に囚われている性からすれば仕方のないことなのかもしれません。

自分の過ちに対して、自分を責める必要もないでしょう。
だって、だれしも過ちを犯し続けて生きるしかないのですから・・^^)











前置きが長くなりすぎました・・・^^;)





否定批判の感情や怒りの感情は
抱く度に邪気を産み出します。
その邪気は血肉に刻まれ続けて行きますが
慈愛の感情が生み出すエネルギーにより相殺されます。

ただ、人は過ちを繰り返す仕組みの中にいるので
そうそうこの邪気を相殺できないわけです。


年齢を重ねる度に増え続けますし
自然環境が減ってきた現代社会では
尚更、増幅し続けています。



怒りや否定批判の感情が生み出す
エネルギーは、同調するエネルギーを探し続けますし
それを産み出すような仕組みがあるので
増幅し続けて行きます。
(その逆もしかり・・)

イライラしている人が近くにいるだけで
自分自身もムカムカしてくるのは
他人の邪気に同調しているからです。
(HAPPYな人の近くにいるなんだか楽しくなります。)




このエネルギーを溜め込んでしまうと
否定批判する矛先がないと正常でいられなくなります。
どこかに『悪』がないか?と・・そればかり探してしまいます。

要するに自分に都合の悪い存在を見つけ出し
自分を正当化した上で、その相手を攻撃しないといられなくなるんです。

悪を正す事が人生そのものだ!なんて言い出す人は
すでに、その状態に陥っているでしょう。
悪がないと生きられないわけですからね~

『ゆるせない!』という感情が常にくすぶっているので
ゆせない出来事に対して常にアンテナを張り巡らせて過ごす事になります。
報道での政治批判やネットでのマスコミ批判などは
とても美味しい食事になります。
悪を見つけ出す事で、自分を正しい位置づけにし
やっと自分を保てるわけです。

あくまでも、悪を探して攻撃する事が目的なので
相手が謝罪した所で、その感情は治まりません。
ただただ、次の悪を探し求める事になります。

自分は正しく良い事をしていると・・
善人になったような気持ちになるわけです。
他人から認められたいという
強い欲望がその言動の根底にあります。

誰からも認められない虐げられた現実がそうさせているのですが
そんな現実を受け入れる事が出来ないが為に
悪を生み出し続けているわけです。

そもそも正義や悪など一方的な自分都合の解釈なんですが
自分自身の煩悩がそんな事さえ見えなくなってしまうのです。


周りを理解する事をせず、ただただ求めた結果が引き起こす
自らを崩壊へ導く呪縛・・・のようなものですかね?
怒りの感情は、強く求めなければ生まれませんが
自分が何かを求めているなんて思う事も出来ないはずです。


一度、この状態に陥ってしまうと
極度の苦悩を味合わないと気づけなくなります。
悪を生み出し攻撃した相手の痛みと同等以上の苦悩が襲ってきます。
理解不足に対しての代償を支払う事になるわけです。


ただ、その予備軍の状態であれば、なんとか軌道修正できます。

①他人の悪い所ばかり目につき、良い所を探せない。
②他人の過ちを正したくなる。

まだ、これくらいならまだ軌道修正できるので
怒りの感情を抱いた時、目先の現実に囚われず、なぜ?こうなったか?
どうすれば良いのか?自分に何か出来る事はないか?
と、考える癖をつけると回避できるはずです。
怒りの感情を抱く事は、正常な人間の証なので
それ自体は、気にしなくて大丈夫です。



③自分を否定批判する相手を攻撃したくなる。
④他人や自分の過ちをゆるせない。
⑤怒りの感情を抱くと眠れなくなる。
⑥間違いを正さないと苦しくなる。

この状態まで行くと、すでに悪を探している状態でしょう。
長い間、朝の爽快な寝覚めに縁がないはずです。
残念ながら、すでに極度の苦悩が待ち受けているはずです。

しかし、それを回避する方法があります!^^)

徳を積み続ける事で回避できます。
自らの時間とお金を犠牲にして、ボランティアでもし続ける事で
自分自身の不徳が相殺されてゆきます。

まずは、価値観を変える事が先なので、それが出来ない間は何も変わりませんが
価値観が変る事で、自らの未来が大きく変わり初めて徳を積む事が出来ます。
簡単に出来る事ではないですけどね~・・^^;)


まぁ~極度の苦悩を味わった方が早く前進できるかもしれません。




とりあえず、流行り病のように
悪を生み出す循環が増えてきているのでご注意を!