修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

そもそも簡単に手に入るモノで自分に価値のあるモノなど存在していないのである。

人の価値観は、その人の経験値で異なるモノなのですが
多くの人が、自分の価値観を他人にもそのまま向けて
良い・悪い、正しい・間違い・・などと争ったりするものです。

その争いの中で多くを学ぶのも自然の法則なんでしょうね。



私は、長年相談ボランティアをしているのですが
心が病んできいる人の多くは
欲しいモノが手に入らなくて苦しんでいます。

人それぞれ手に入れたいものが違うわけですが
往々にして心を壊す原因は、他人に求めて手に入らないケースが多いです。

他人から否定されたり、拒否されたりする事で
心に傷を負ってしまうのですが
すなわち『認められたい』『優しくされたい』という事を求めています。

他人から認められたいのであれば
多くの人を認めればいいわけで
他人から優しくされたいのであれば
多くの人に優しくすればいいだけなのですが
善悪の判断に囚われてしまうと
他人を認め優しくする事より
正しくある事を優先してしまい
こんな簡単な事に気づけないものです。

そもそも、その正しさでさえ自分自身の価値観であり
一方通行なモノなんですけどね~


人の煩悩とは、この素晴らしい世界では
必要不可欠なものなんですが
どんな人も、この煩悩によって、もがき苦しむように創られています。


誰しも苦労などしたくないものですし
楽をして、お金が欲しいし
いい家に住みたい・・
美味しいモノを食べたい・・
いい服を着たい・・
いい車に乗りたい・・
贅沢をいたい・・
周りに認められたいし
優しくされたいと願い
それを手にする事が幸せであり
無意識にそこに向かって生きてしまうわけです。


しかしながら
楽をして手に入れたものほど
自分に価値がないのです。

パチンコや競馬で儲けたお金が
湯水のごとく消えて行くのは、自分に価値がないお金だからだと
そう思うわけです。

一日、楽しみながら稼いだ10万円と
日当1万円の土木作業で稼いだ10万円では
自分にとっての価値は全く違うでしょう。

同じ10万円なのに、自分にとっての価値が違うのは
簡単に手に入ったか?苦労して手に入れたか?の違いのはずです。


ようするに、自分自身に価値のあるモノは
最初から簡単には手に入らないのですが
面白い事に、人は楽をしたがるわけです。

苦労せず、何でも手に入るようになった
今の日本社会では、自分に価値のあるモノを
手に入れる事が難しくなっているのかも?しれません。


便利になり、苦労しなくても生きて行ける環境があるので
更なる『楽』を求めてしまう人が増え続け
自分に価値のあるモノどころか
自分自身さえも見失ってしまうわけです。


自分に価値のあるモノがなくなってしまえば
生きる意味さえ、解らなくなるはずです。



精神が病んでいる人の多くは
自分が生きる意味を見失っているのですが
残念ながら『楽をする』という呪縛から逃れられないでいます。

楽をしている以上、自分に価値のあるモノなど
見つかる訳もないのですが、どうしても苦労するのは嫌なようです。w


逆を言えば、『楽をする』事を選択しているので
精神が病んでしまうのかも?しれません。

自分に価値のあるモノを見つけるだけで
人は幸せになれるので苦労すればいいんです。

苦労が嫌だと、無意意識に煩悩が反応しますが
苦労こそが幸せなのが、この世の仕組みののようです。w






農家の方々からすれば
農作物はとても価値のあるモノでしょう。
しかし、スーパーで野菜を購入する方々にとっては
そこまでの思い入れはないわけです。
農作業に関わった事がなければ当然ですよね~


スーパーで並ぶ野菜に自分自身の価値を吹き込む為には
自分で野菜を作ってみれば言いわけです!^^)

私自身、畑を始めた事でスーパーに並ぶ野菜たちが
かわいく見えるようになりました!(←マジです!)
野菜を育てる苦労を体験させて頂いたので
私の中での野菜に対する価値観がアップしたわけです。

たったこれだけの事で、幸せな気持ちになるんですよね~
私の場合、農家の方々の苦労がそれなりに解るようになったので
形のイイ綺麗な野菜がたくさん並んでいるのを見ているだけで
『苦労して作ったんだろうな~ありがたいなぁ~』
なんて思えるようになったわけです。

感謝できるだけで誰でも幸せになれるのですが
『楽をする』生き方を選択している以上
どんどん幸せは、遠くなっていくんでしょう~ね~・・・


ようするに『幸せ』と『苦労』は同義語なんでしょう~(^^)