修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

自己の才能を開花させる方法

毎日、あくせく働き・・
かといって、贅沢ができるわけでもない・・
家のローンに追われ・・
子供たちの学費で貯金が消え・・
不足分を借金し・・
上司に嫌味を言われ・・
近所の目を気にして・・
ちゃんと普通の人でいなきゃ!と・・

なんだかな~・・
煮え切らない毎日・・
自分の未来を想像しても不安しかない・・

これって自分が悪いの??
結構、真面目に生きてきたのに・・
努力だってたくさんしたさ・・
他人に迷惑だってかけていないし・・

何がダメだったのかな?
そもそも自分の何が悪いのか?
何も悪いことなんていないのに・・

こんなんじゃダメだ!・・と
そう思っても、具体的に
どうすればいいのか見当もつかない・・

人生ってなんだろう?
生きる意味ってあるのかな?

なんて、思ってしまう人もいるんじゃないでしょうか?




「悪」を生み出すと自滅する自然の法則があります。
なので、自分が悪いわけでも
社会が悪いわけでも、政府が悪いわけでもないでしょう。

現実に不満があり、その矛先を
社会や政府のせいにすることで
「自分は悪くなかったんだ!」と心が癒され
救われた気持ちになったりします。
感動で涙する人もいるでしょう。
そこに生きる希望を見つける人もいるでしょうね。

とは言え、その行動は
更に自分を追い詰める結果になってしまう・・

自己の苦悩を先祖の因縁や悪霊のせいにする
宗教団体と同じ感じかな?




「生きにくい世の中」なんて言われていますが
贅沢な暮らしができる社会になろうと
悠々自適に過ごす事ができる社会になろうと
借金で苦しまない社会になろうと
毎日、遊んで暮らせる世の中になろうと

自分自身に生きる糧がなければ
「生きにくい世界」から抜け出せないのが
大自然の法則だと、私はそう思っています。

前後の貧しい日本の方が
生きやすい時代だったとも思います。
日本の為に!と、頑張った方々が多かった時代ですしね。




とは言え、生きる糧なんて
簡単に見つかるものではありません。
なぜ?見つからないのか?

豊かな社会で過ごしているのも原因の一つでしょうが
快楽だけを求めて過ごしていれば
生きる目標などなかなか見つからないのは当然でしょう。

なぜならば
我々は、慈愛の心を育むために存在し
文字のごとく助け合い支えあうのが「人」であり
また、それが出来なければ、辛く苦しい現実を
突きつけられる世界で過ごしているからです。


従って、毎日の生活の中で慈愛の心を学び
そして、支えあう人になれるよう努力する事でしか
生きる糧は、見つけることができない。
他人と支えあうことで、自己を成長させる仕組みがある世界で
己の煩悩のみを満たそうとしても
自分の生きる糧が何も見つからないのは当然だと
と、そんな気がしています。


具体的には、世の為人の為に出来ることをする。
ただ、それだけなんでしょうね。


昔の私は、「世の為、人の為」という言葉が
大嫌いでした。すべて偽善に聞こえたからです。
今思えば、そう思うことができない自分の価値観が全て正しく
また、その物差しで、他人を図っていたからでしょうね。
そんな事を言う人を嫌悪したのは
無意識に、そう思えない自分が否定されている感じがしたんでしょう。

欲深い人に限って、認められない言葉なのかもしれません。







若干、話が逸れましたが・・w
世の中に貢献しようと毎日を過ごせば
どんな人も幸せになれる!という
私の持論に基づき、15年くらい色々試してみた結果

誰かの為、何かの為に尽くす行為を繰り返すと
自己の眠っている才能を開花させるという現実を
何度も何度も目のあたりにしました。



具体的に
地域に貢献する・・
社会に貢献する・・
職場では
お客様の為に出来る事
同僚スタッフの為に出来る事
こんな事ばかり考えて行動していると
自分の向き不向きが見えてきて
出来ることが明確になり
そこに向かってゆくと毎日が楽しくなる。




今まで苦手だった事が得意になったりするので
三者として見ていて、面白いなぁ~なんて思ったりしますし
本人が一番実感するでしょう。
家族もびっくりするみたいですよ。

この方法でうつ病が治った人も数人いますしね。



とは言え、これが簡単な
事じゃないのも理解しています。
なぜならば、煩悩が邪魔をするからです。w

これは、与える喜びの体感を繰り返すまで
結構、しんどい行為だったりします。
どんな人も、無意識に多くを利己的に求めていますしね。

相手に喜んでもらいたいと思ってする行為が
喜んでもらえなかったり、嫌がられたりすると
滅入ってしまいます。
理由は、喜んでもらう事を求めているからです。

本来、喜んでもらう事が目的であれば
喜んで貰らえなければ、その原因を探すのですが
相手に自分を認めてもらったり
自分に感謝してもらう事が目的になってしまえば
感謝してくれない事に不満を抱いてしまうのです。

自分と他人の価値観が違うのは当たり前なので
自分が望む結果が毎回得られるはずはないのですが
ついつい求めてしまい、求めたものが得られないので
不満が生まれ、続けられなくなるわけです。


なので、最初は結構しんどいんですよね~
私自身も、嫌々やってましたしw
嫌々やっていれば、嫌なことが続くので
マジで嫌になるんです。w

でも、私は続けましたね~
やってもしんどい、止めてもしんどい・・
どのみちしんどいなら、何かしなきゃ~
って感じでした。w



で、嫌々でも続けていると
徐々に他人の喜ぶ姿が見れるのが嬉しくなります。
初めのうちは、他人の役に立てる自分が嬉しいだけですが
そのうち何というか、他人の喜びを共有している感じがするんです。

もうそこまで来ると、自分の思考が
社会貢献モードなっています。w
欲が薄れてくるので、不平不満がなくなっている
自分にも気づけますね~
同時に過去の自分が恥ずかしくなりますが・・w
利他的な思いが強くなっており
目の前の世界の見え方が大きく変わったことに気付けるしょう。


自分の視野が広くなっており
また、更にチャレンジ精神も生まれてくるので
今まで、自分に出来なかった事が出来るようになります。

私は、母親に「自分の子じゃないみたい」って
言われましたね~w





実際に私は、こんな体験をしたので
周りに進めるのですが
プライベートでやるのは、結構大変なので
仕事の中で、業務の一環としてやってみる事にしました。
なかなかどおして、素晴らしい結果の数々なんですよね~^^)



なので、私は・・
誰しも人より長けた才能を持って生まれてきているのに
自身の煩悩が原因で、その事実に気づけなくなっている
・・・とそう実感しています。


逆を言えば、煩悩の意味を知り
与える喜びの体験を繰り返すことで
自身の眠っている才能が、開花する事になると
そう思うわけです。^^)


その為には、快楽を求めるだけの生活に
終止符を打つ必要があるのではないでしょうか?

人間に快楽は必要だと思うのですが
それだけを求めて生きる事は、自滅の道を歩むことになるんでしょう。


























































私は、どんな人も何かしら長けた才能を持っているとそう思っています。