修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

神仏を信じるより、自分を信じるべきだ!

「アナタハ、神ヲ、シンジマスカ?」
なんて言われた事のある人も多いのでは?

仏教でも
キリスト教でも
「信じる者は救われる」
なんて言いますし
私自身もよく言われました。
神や仏を信じろ!と・・

まぁ~「神」の定義のしかたによって
受け止め方はかなり変わってきますし
この言葉には色々な意味が
あるのでしょうが
色々な宗教を学んでいる時に
ウザイ子供のように質問しまくる私に
よく向けられたのが
神や御仏を信じろという言葉です。w

で・・結果として
私は、神を信じず、自分を信じたから
救われたんだとそう思っております。w

「信じる者は救われる」なんて言われると
何それ?!
神を信じないと救われないの?

と、よく思いましたね~
でも、神を信じない人は救われないと
言い切られてしまいました。w


私の場合、何事も自分で納得したいので
何も考えずに信じる事は出来ませんでした。w

そして
チームワークを乱す奴だ!
集団の輪から外れるな!
と、それがまるで悪い事のような扱いを
良く受けましたね~


私は、陰陽五行の五行説
全く根拠のないでっちあげだと思ってますし
なんとなくカッコよく聞こえるから
世の中に浸透しただけのいい加減な説だと
そう思ってるんです。w

地球上のすべての存在が
これだけ宇宙の影響を受けているのに
五行説は・・
ないわ~・・・
どう考えてもないわ~
と、思ってしまうんです。

どうして誰も疑問に思わないんだ?
と、不思議に思うくらいです。
で、五行説を熱く語る人を見ると
ただの中二病では?と思ってしまうんですよね~w

まぁ~こんな事ばっか言ってるんで
昔から集団の輪にはいれず、孤立するんですが
自分の選択が人生を創っていると思ってるので
後々、後悔したくないんですよね~

と言うか、後悔を繰り返して
こんな歪んだ人格になってしまったのでしょう。w
今は毎日楽しいので、良いんですけどね。




私は「信じる」事は大切だと思っていますが
信じる為の情報や体験は必要だと思うのです。

何の根拠もなく相手を信じる事は
ただの怠慢ですし
自分自身の利己的な欲に振り回されてしまいます。

辛く苦しい現実に直面している時に
その辛く苦しい出来事がなぜ?起きているか?を
全く考えようとせず、己を省みようとせず
神にすがる行為は現実逃避に過ぎないと
そう思ってしまうのです。

神を信じれば救われるのであれば
その根拠を示せ!

と、よく聖職者の方に噛みつきましたね~w

神々を信じると救われるのであれば
自分の人生を生きる意味ないじゃん?
と、よくそう思いました。

目の前にあるデカいお釈迦様の金ぴか像には
きっと、魔物が住み着いているんだ!と・・w
そして、そんな事を口走る私が
魔物扱いされるわけです。w

そして、思うのです。
あぁ~この宗派も神という名の妖魔の巣窟だったんだ・・
と、自己を正当化し完結しておくわけです。w

まぁ~こんな事を繰り返して
もう宗教的な活動は止めようと思っていた時に
日本神道との出会いがあり
日本神道は、神を信じろなんて言いませんでした。
「神人合一」自分も神の一部だと!いうのです。
要するに「自分を信じろ!」
「答えは常に己に中にある!」という事です。


いや~その言葉で、今までいろいろな宗教で
強要された神仏を信じる心の疑問が
吹っ飛びましたよ。
深く納得出来たのを記憶しています。








今のコロナ禍での色々な騒動でも
私は、「疑う心」が自分を活かすと
そう思っています。

コロナ禍の流れで
マスコミの報道がおかしい?と
疑問を持つ人が増え
ネットの情報を拾うと
色々ありすぎて、何を信じていいのか?
全く解らない・・
「誰の言う事を信じればいいの?」
なんてよく聞かれるのですが
私の答えは
自分を信じろ!
です。w



我々の社会では「信じる心=美しい」
「疑う心=醜い」とされているので
他人の言う事をよく信じる人は「良い人」という印象を受けます。
私の場合は、自分で納得できなければ信じる事はできないので
「なんでも疑う心の狭い人」という扱いを受け
集団社会の中に溶け込む事ができませんでした。w


前者は、生きる上での問題を先送りしているので
結局、歳を重ねてから辛く苦しい現実と向き合う事になり
後者は、茨の道を選択しているので、初めから辛く苦しい現実があり
でも、心が鍛えられるので、歳を重ねるにつれ、楽しく過ごす事が出来る。

でも結局、どっちも辛く苦しいんですよね~w
まぁ~人生は心を成長させる為にあり
苦しまないと成長できない世界で過ごしているので
当然の事なんですけどね。
ならば、自然界の法則通り
「疑う=自分を信じる」で過ごした方が良いと
私は、そう思っているんです。


他人の言う事を鵜呑みにすると
脳が退化しますしね~
まして信じていたのに「騙された!」とか
「裏切られた!」とか
己の我欲を満たす事だけを考えて行動し
怠惰にまかせて相手に依存していた自分を
省みる事をせず、相手を責める。
そんな最低な人間に成り下がってしまいます。


なので、マスコミの報道や
新聞や雑誌の記事、ネットの情報などは
あくまでも「情報」として受け止めるべきでしょう。


信じる必要なんてないんです。
どんな情報を得て、自分がどう感じ
何を選択するか?でしか、無いんですよね~


初めから信じていなければ
「騙された!」とか「裏切られた!」とか
思いませんし、あくまでも自分が
予想した結果にならなくても
誤った選択をしたとして、自分を省みる事が出来る。
そして、そんな経験が、次回は誤った選択をしないようにと
努力を促し、自分自身を成長させてくれるわけです。

これ言うと冷たい奴って言われるんですがw
「相手を信じた自分を信じる」って事なんです。
要するにあくまでも「自分」って事です。




私の場合は、様々な情報を吟味する時は
相手の言動の動機に注目するようにしています。
この人は、何のために情報を配信しているのか?と言う動機です。

不味い料理でも
自分の為に一生懸命つくってくれたものなら
ゆるせますが
悪意のある料理は、ムカつきますよね。

情報も同じで、たとえ誤った情報でも
その情報を受け取る人の為を思っての配信か?否か?
が、私にとって重要なんです。



そもそも、言っている事と
思っている事が違うのが人間ですしね~
そして、耳障りの良い言葉には要注意です。

殆どの人が我欲を満たす社会仕組みに
洗脳されているので
無意識に善悪の判断に囚われている為
耳障りの良い言葉は
自己承認欲求に働きかけ
麻薬のように我欲に浸透して行きます。

その言葉は、真実を見えなくしてしまい
結果として、己を苦しめるでしょう。

「信じる」という言葉もそうですが
あたかも「疑う=悪」のように扱い
「信じる人=良い人」という印象を与え
自己承認欲求を満たす方向へと誘導します。


大切なのは、5W1Hなんですよね~
どんな出来事に対し何を信じ
何を疑うのか?なのに
「信じる=良い人」という言葉が
それらを一括りに印象づけ
自分が悪人とされる恐怖心を煽るんです。


先ほどもTVで、「マスクは、相手の為にするモノ」
ってやっていて、マスクをしていると
約80%自分の吐息を抑え込む事ができるので
皆さんマスクをしましょう!という事でした。

私は、そもそも80%自分の吐息を抑え込んで
コロナ感染を抑え込めるのか?ってのが重要じゃね?
とか、思ってしまい・・それを口走ったら
周りから「はぁ?何言ってんだコイツ?
マスクは思いやりって事だよ!」
って目で見られましたね~w

20%で感染するなら思いやりにもならない自己満足ですし
そもそも、ちゃんとマスクしてるんですが
「思いやり」に同調しない=「悪」となるわけです。
まぁ~概ねそんなもんです。w








私のようなこんな判断をしていると
周りの人から、性格が屈折していると
言われるようになります。w

相手が私を「性格が屈折している」と判断しているのは
あくまでも、「自分の性格が屈折していない」とした上での
意見なので、それを指摘すると
往々にして「一般的な、判断だ!」と怒り出します。w

で、「一般的な判断が正しく、それに準ずる自分は正しい」
という判断をしているという事になるので
はて?「一般的な判断とは?」となるんです。

そもそも我々の社会での一般的な判断は
昔からマスコミによる報道操作によるものが多いですし
洗脳教育の上で成り立っています。
まぁ~子供を洗脳するのは大人になり社会の一員となるために
必要不可欠な事なので、問題ないと思っています。
そして、大自然の法則上
利己的な思考で過ごす人が殆どとなるのが
我々の過ごす社会なので
「一般的=利己的な考え方」となります。w

なので、「自分は一般論に染まらずに良かった!」
私の場合、そうなるんです。w

この判断も自分を信じているから出来る事であり
自分を信じる事が出来るのは
自分自身を疑いまくって
自分自身の判断の動機を見つめるからです。
自分の心のありかたを誤魔化さず直視するという事です。

私自身、この先もたくさん誤った判断を沢山するでしょう~
でも、自分の判断に対して
目前の現実という結果が必ず付いてくるので
それが自分を信じた結果であれば
容易に受け入れる事が出来るんです。

どんなに辛く苦しい現実であっても
受け入れる事が出来れば
あとは自己改善するだけすし
その過程で、自分自身が成長できます。



辛く苦しい現実を受け入れられないのは
物事を自分で判断していないからであり
嫌な出来事を何でもかんでも誰かのせい
何かのせいにしてしまうのも
「一般的=正しい」としているからでしょう。
自分のせいではなく、常に
誰か、何かのせいなので、受け入れられないわけです。

何事も自分自身で判断し、自分自身で選択した上でしか
行動する事しかできないのが、この世界でなので
「一般的=正しい」と判断しているのも自分なのですが
それに気付けず、判断を委ねていると思ってしまう為に
辛く苦しい現実に直面すると
周りに不満を抱き否定批判してしまうんです。

例えば「原発反対」
別に反対するのは、問題ないのですが
原発の稼働をゆるす
政府に怒りの感情を向けるのは
今まで自分が原発のある社会を
受け入れ、そう判断していた事に
気付けないからなんです。

自分自身が今まで原発のある社会を
認めてきた事実を認識していれば
政府を批判する前に
どうやったら原発を無くす事ができるのか?を
明確にしたいと思うんですよね~


大自然は常に
自分自身の判断で行動した結果として
目前に現実を突きつけてくるので
「判断できない」「判断を委ねる」という選択は通用せず
一般論に準ずるという事は
「社会に従う判断をした」・・と解釈するわけです。

「社会」とは、どんな目的で創られ
どう言ったものなのか?を全く考えず
ただ、社会の判断に従っていれば大丈夫と
思っていれば、大自然はそう判断し、自分の意思で
そう決断した・・と解釈します。

で、そんな判断をしている人が増え続ければ
社会が崩壊するのは、当然なのですが
「一般的=正しい」と思い込んでいるので
自分の生活に負担が増えたり
思い通りにならない事が増えると
自分の決断をお座なりにして、不平不満を抱くわけです。
で、国の中枢である政府を批判してしまう。

ん~・・
これも、我々の心を進化させる為に
必要な出来事何でしょうね。




何が言いたいかと申しますと
大自然の法則上、自分自身の判断を
他人に委ねる事など不可能な仕組みがあるという事です。

他人に判断を委ねたのはあくまでも自分であり
その結果は自分自身の責任であり
目の前にある現実に対して
誰一人、何ひとつ不平不満を抱くべきではない!
と、言う大自然のルールがあるんです。
そのルールに反してしまうと
嫌な出来事が増え続けるんです。

なので、自分自身の判断を信じて行動し
その結果が目前の現実として現れるので
その都度、改善する所は改善して行けば良いのでしょう。

判断を他人に委ねたなら
「他人に判断を委ねた」という判断を
自分がしている事を自覚する事です。
そうすれば、他人をよく知ろうとする事になり
他人を理解しようと努力する事で
自分自身を知る事にもつながると思います。

自分を知る事ができなければ
自分自身を成長させられませんしね~



この世の仕組みとは
ホントよくできていますね。