修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

霊的存在から学んだ事 その5

山で一人で修行するようになったのは
スピリチュアルビジネスに嫌気がさしたのもありますが
霊的存在への接し方に大きな疑問を抱いたのも原因の一つです。

当時の私は、学ばせて頂いている立場だったので
勝手な事は出来ませんし
指導に従う事しか出来ませんでした。
当然の事なんですが・・
(結果として、全部放棄しましたが・・^^;)


維持費をGETする活動の基本は
人を苦しめる目に見えない存在は『悪』とする事だったので
それ自体が、どうも納得できなかったわけです。
もう、こうなると全てが茶番に見えてしまうんですよね~w

当時の私は、まだ霊障がなくなったわけではないのですが
でも、一向になくならない所をみると
なんか方向性が違うんじゃないのか?と
そう思うようになったわけです。












まだ、一人で修行する前の事です。

ある日、たまたまカミさんが
身体の経絡を示した本を見ていました。
面白そうだなぁ~なんて思ったわけですが
カミさんが、これを勉強していい?
なんて私に聞くわけです。
どこに勉強にいくのか?と聞けば
真〇真理教・・と・・^^;)

とは言え、私も昔、新興宗教をはしごした経験があるし
名古屋から引っ越して友達もいないだろうから
まぁ~いいか・・と思ったわけです。


で、何日か過ぎると
自宅にいっぱい霊がいる日がちょくちょくあるわけです。
まぁ~気にしなければいいだけなんですが
定期的にそんな日があると
何が原因なのか?気になるわけです。

で、霊がたくさん居る日は
カミさんが道場に行っている日と言う事が判明しました。
道場で何をしているのか?と聞くと
『手当』だと言うのです。
まぁ~ヒーリングみたいなものでしょう~


これは、止めさせた方がいいかな?なんて思ったのですが
よくよく考えると、私の場合
ヒーリングというレベルを超えた
強烈な行為をしている事に気づきました!w|;゚ロ゚|w


で、結構激しい除霊なんかをする時に
よくよく振り返ると
私の場合、自宅に霊がいるのではなく
娘が熱を出して寝込んだりするのです。

で、当時は修行をつけて貰っている身なので
その状況を相談すると
『貴方が未熟だから』という返答だけで
何がどう未熟で、何が原因なのか?全くわかりませんでした。

要するに浄化しないからいけないんだ!と言う事なんです。
で、浄化とはどういう事なのか?
どういう状態を浄化と言うのか?
→口では説明できない。との事です。

で、何か答えがあるのでは?と
霊的存在への対処方法を
盗もうと必死になって修行しました。


で、これがきっかけで不信感を抱くようになったわけです。w





私の場合、霊的存在の言葉をまず疑い
その存在のエネルギーをたどるようにしていました。
何か仕組みがあるはずだ!なんて思ってたんです。


例えば、普通の人は五感のみで判断しているので
言葉や態度などで、他人の事を知ります。
イチゴが好きなら、イチゴが好きだと言葉にするか
態度で示す事をしなければ他人には伝わらないのです。

ですが、霊感が強い人は
言葉や態度に示さなくても『イチゴが好き』という
血肉に刻まれたエネルギーを読み取る事が出来ます。
殆どの人が無意識にやってますね~
別に霊感がない人でも、無意識にしているでしょうね。

で、相談に来る人に向かって
『あなたイチゴが好きでしょ』
なんて告げれば
相談者は『え?なんでわかるの?ひょってして神様?』
みたいな事になるわけです。w


で、そんな事を周りから言われつづけるので
霊能者は、『自分は神の化身だ!』『神様からお役目を頂いている!』
なんて勘違いするわけです。w





仮に、亡くなった彼氏と話をしたいと言う事で
彼氏を口寄せして、霊媒者に憑依させ会話させるとします。
そこにいる霊体は本当に彼氏なのか?なんてよく疑ったものですが
実際によくよく監査すると
相談者の思念を霊媒者に憑依させているように見えたりするのです。

で、思うわけです。
『なにこれ?嘘っぱちじゃん?』・・と。w

相談者からすれば、2人だけしか知らない
話題をその霊体が口にするので、本物だと思ってしまうわけです。
本当は、自分の思考と会話しているんですけどね~


よくよく色々な方の除霊行為を観察すると
霊的存在の言葉と、相談者の持つエネルギーと
ごっちゃになってるなぁ~なんて事がわかりました。

要するに相談者の経験の記憶を無意識に読取り
霊的存在に投影してしまう事が多いわけです。


私は、いろんな霊能者と呼ばれる方の
除霊行為を見てきましたが
みなさん同じように感じました。



複数の人が持つ経験値が創り出した様々なエネルギーと
その場にあるエネルギーが混ざり合って
何をどうチョイスしているのか?
人それぞれ、違うわけです。



どこと繋がっているのか?を
明確に証明できる人などいませんでした。
まぁ~それが出来たらスピリチュアルな世界の構造を
科学的に証明できる事になるんですけど・・






また、霊を浄化できた状態を見せて欲しいとお願いすると
みなさん嫌な顔をしましたね~w
実際にこの目で見ても、何が浄化なの?って感じで
天に上げる、地に帰す、くらいのものです。
何をもって天に上げると判断するのか?
地に帰すと判断するのか?を突っ込むと
所詮は思い込みなんだ~という結論に至りました。w


存在を消滅させるなんて言う人もいましたが
その場から消えただけであり
本当に消滅しなのか?は、解らないと言っていましたしね。








そんなこんなで、霊的存在の対処方法に
ますます不信感が募るわけですが
それと同時に、この仕組みを解明したい!という
欲望に駆られるわけです。w



エネルギー自体に注目すると色々な事が見えてきます。
多分、だれでもそんな感覚を持っているんじゃないかな~





その1
まず、上に記した通り
人の経験値を無意識に読み取って言葉で伝えると
その人は、自分を神様扱いしてくれる。w
理由は、殆どの人が五感の世界が全てだと思っているから。
携帯電話やラジオがある時代なんですけどね~





その2
霊的存在は、人が生み出した思念である場合が殆どで
その思念は、人が持つエネルギーと同調するし
自分の思念、他人の思念を簡単に投影する事が出来る。





その3
どんな人も霊を生み出す事ができる。
これは、実験しました。w
霊など所詮は、思念だと言う事でしょう~





その4
霊に憑かれた場合
自分はその霊と同質のエネルギーを持っている。





その5
人に憑く霊を『悪』としている以上
どんどんと強い霊に憑かれる事になる。

また、それを知る為の霊的厄が起きる。
(私の事です。w)






その6
快楽を幸せとしている以上
この霊的対処方法は、なかなか止められない。w





その7
霊に憑かれる=自分の心が生み出すエネルギーと同調する。

霊に憑かれると自身のエネルギーバランスが崩れる

自身のエネルギーバランスが崩れると病気になる。

すなわち『病は気から、気は心から』
と言う事になる。





その8
心を磨けば、霊に憑かれる事はなくなる
⇒健康になる






その9
除霊行為を続けていると
自分が生み出し続けている霊体に気づけなくなり
その霊体に苦しめられる事になる。





その10
自分の肉体からは全ての方角に
エネルギーが放出されているので
常に自分のエネルギーを含んだ存在しか確認できない。
即ち、どんな存在も自分の思念を含んだ状態でしか確認できない。
=自分が生み出した世界の中でしか生きる事が出来ない。




とりあえず、これくらいにしておきます。

ではでは・・^^)










霊的存在から学んだ事 その1 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事、その2 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その3 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その4 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その5 - 修行バカの懺悔道

霊的存在から学んだ事 その4

私が、まだ霊障に苦しんでいる頃
色々な霊能者を訪ねては、相談に乗ってもらう・・
と言う事を繰り返していた時期があります。


まぁ~毎回、祓えない・・と断られるか
除霊を試みても出来ない・・か?のどちらかで
そんでもって、ガッツリお金を払ってくるわけです。w


何度も繰り返せば
いい加減、諦めればいいものの
何とかしてくれる霊能者が必ずいる!と
信じて、そんな人を探していましたね~
私を苦しめる存在は『悪』として
それを疑う事をしなかったのです。

ようするに常に自分が正しくて
己を省みる事をしない・・
といった情けない状態だったわけです。

まぁ~自分を振り返る事が出来れば
霊能者に相談なんかしないですし
自分の人生がうまくいかないのを
誰か何かのせいしたいから
スピリチュアルな世界に走るのが
定番ですしね~w


で、『貴方は34歳で死ぬ!』なんて事を
複数の霊能者に言われたりもして
『もういいや!』なんて半ばあきらめで
信州に引っ越したわけです。

この霊障と一生付き合うなら
せめて空気と水の美味しい所が良い!
なんて思ったんですよね~

引っ越した所で
自分を変えようとしないので
同じだったんですが・・w



で、自分の事なので、やっぱ人に頼ってちゃダメだなぁ~
なんて、思い始め、色々な方について
しっかり修行するようになりました。

特に日本神道との縁は衝撃的で
その教義に心が震えた事を記憶しています。

【全ては神々がなさっている事です。】
と、そんな事を言われたのです。
『なにそれ?え??この霊的苦痛も神様がしてる事なの?』
って思いましたね~
その言葉のおかげで、現実から学ばなくては!
と、思うようになったのですが
でも、実際に、その教義を
教えてくれた方がやっている事は
悪霊退散!だの
土地の鎮魂だの
禊修法だの・・
心霊相談など
え?教義と違うじゃん!と
疑問を抱きながらお手伝いしていました。w

だって、全ては神様がしている事なんで
そこからも、学ぶ事があるでしょ?w

そして神道密教修験道
それぞれ、修行三昧の日々を送るようになりました。





神社や寺を拠点として活動をするんですが
どうしても、その場所を維持費というモノが必要になります。

で、奉仕と言う名の、お金儲けをするわけです。w
当然、私は奉賛会の役員をやらされたり
講をつくらされ講元をしたりする事になるわけです。
心霊相談という奉仕活動という名目の
お金儲けの筆頭もやらされましたね~
修行をさせて頂いているので私は奉仕なのですが
相談料〇万円、除霊供養一体〇万円、祈祷料〇万円・・
と、結構な金額の維持費が集まるわけです。

私に修行を付けてくれた方々は
みなさん初めのウチは質素に活動していたのですが
次第にお金が集まるようになり、その頃には
『神様が〇〇とおっしゃっています。』
『観音様が〇〇とおっしゃっています。』
なんてのが、日常茶判事となり
???と、思うようになった頃には
その言葉を求めて人が集まり
更にお金が集まりはじめました。w


私も霊感があるので
確かに同じ言葉が入るのですが
私の性格が歪んでいる為なのか?
『嘘だろ?その辺の霊が言ってるんちゃう?』
と思う事の方が多かったわけです。w



とは言え、実際に奇跡とも言えるほどの
願いが叶うと、さすがに皆さんのめり込むんですよね~

例えば
相談者『15年務めた会社をリストラされそうなんです!』
霊能者『解りました私が祈祷してあげましょう!』
で、祈祷して2週間後
相談者『ありがとごいざます!リストラされなくなりました!』
ってな事がしょっちゅう起こるわけです。

『はっ?マジか!祈祷のおかげなんか?』
と、普通はそう思うのですが
相談者からすれば、もう存在自体が神様なってしまい
皆さんそう思えないようなんです。


で、『ホントにこれでいいの?
完全に依存してるじゃん!・・アカンでしょ?』
と、日に日にそう思うようになってきたわけです。

そのうち私の知らない所で
100万円の壺とか売り始めてましたしね~w
お金儲けに走りだすと
除霊できるアイテムを扱っている業者とか
怪しい連中が集まってくるんですよね~

家系図を作るのに150万とか
で、クレジット払いもOK!w



もうコレアカンやつでしょ?w





まぁ~お金が集まるわ集まるは・・でしたね~
で、思うんです。

『私って、ひょっとして、この組織の幹部?』・・
『これって、犯罪だろ?』・・
霊感商法で逮捕!なんて新聞に載っちゃうじゃん!』
『ないわ~・・マジでないわ~』w|;゚ロ゚|w

と、思うようになり、一気に全部やめました。w
色々と学ばせて頂いた事には、感謝してるんですけど・・^^;)





それからというモノ
山で一人で修行するようになるのですが
その時、学んだのは
『欲に溺れると自分がおかしくなっている事に気づけない』
と、言う事です。
『世のため、人の為!』なんて、常々口走っていましたね~w
コワイコワイ・・
男でも女でも異性に惚れてしまうと周りが見えなくなってしまうのと
同じなんでしょう~ね~・・欲って怖いです!

相談する側もされる側も、はぁ~?と思うような事を
平気でやってましたしね~
あと『人間は我欲に溺れやすい生き物なんだと言う事も知りました。』


『その判断に進化成長はあるか?!』

と、問いただせば、霊的な事柄なんて
進化成長できる事などほとんどないって事も学ばせて頂きました。

依存!依存!依存!ばかりのような感じがしましたし
冷静になって考えると
現実から学ぼうとしていない行為なので
進化成長を止める行為じゃん!・・と思うに至るわけです。


『全ては神様がしている事です。』なんて言いながら
神様のせいにしてお金儲けは・・ちょっとキツかったかなぁ~^^;)




やっぱ霊的行為でお金など受け取ったらダメなんだろうな~
霊感を、戒めを実践する為の感覚とすれば
お金儲けのツールにしちゃうと戒める事できないし・・

もともと宗教的な行為をお金儲けにしてはダメという
記憶が私の中に刻まれているんですが
こんな体験をすると確信になりましたね~


で、私は組織の中でも心霊相談をしていたので
そこを出て1人修行するようになっても
相談に来る方がいるわけで、私の場合は
自然にボランティアの相談活動になるわけです。

で、いざ本当の奉仕活動を続けていると
この自らの時間とお金と労力を、他人の為に費やす行為は
かけがえのないモノをたくさん私に与えてくれました。

また、その行為をする為には
様々な犠牲を生み出す事も知りました。


現代の社会は、他人に無関心で過ごす事ができますが
誰しも一人では生きる事はできず
『人』という字のごとく
常にだれか、何かに支えられている事も知りましたね~


まさしく!
『陰陽交わりて万物を生ず!』
です。




今まで人について修行させて頂いた事は
人の過ちを見せられたんだ!と思うほどでしたね~
『全ては神様がしている事です。』という言葉通りだと感じました。
かけがえのないモノを学ばせて頂いたように思います。

また、悪徳霊感商法の現場に直面する事で
自分の人生は、自分自身で切り開くものだと実感しました。
霊的行為に溺れる人たちがいるからこそ
それに気付けたわけなので
何だかんだと、必要な出来事しか起きていない事も学びましたね~
『全ては神様がしている事』=『全ては必要不可欠な事』
=誰一人、何一つ、『悪』など、存在していない事を知りました。


人の過ちを責めるのではなく
そこから何を学ぶのか?つう事なんでしょう。
ひとりの人が過ちを犯す事で、多くの人が学ぶ事が出来る訳です。
と言う事は、間違いや過ちは、なくてはならないモノと言う事になります。
人の道を外れた人・・
すぐに悪態をつく人・・
超自分勝手な人・・いなくてはならない存在なんでしょうね。






自らの時間とお金と労力を
誰か何かの為に費やす行為をつづけてみると
どんな人も、目の前の世界が大きく変わるはずです。

だって、それが大自然の法則ですしね~


そんなこんなと、現在進行形で
色々と学ばせて頂いております。^^)










霊的存在から学んだ事 その1 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事、その2 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その3 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その4 - 修行バカの懺悔道
霊的存在から学んだ事 その5 - 修行バカの懺悔道

欲を捨てると得られるもの・・・

快楽という幸せを求める事により
幸せを遠ざけてしまうのが人であり
快楽を求める事で悩み苦しみ
多くを学ぶ事ができるのが
大自然の法則だと思っています。




私の場合は、霊的苦痛から解放されたいがために
霊感を無くそうと、必死に自分と向き合った事で
たまたま、己の未熟さに気づく事ができました。

と言うか、己の幼稚さに愕然とし
大きな過ちを犯し続けてきたと
思わざるを得なくなり、深く反省したものです。^^;)

その戒めと懺悔のしるしとして
己の快楽を優先する生き方を捨てようと決め
死ぬまで徳を積み続ける生き方を選択するしかないのだろう・・と
そう思うようになりました。

当時は、自分の幸せを捨てるつもりで
突き進んだのですが、その行為が幸せになる手段だと知った時には
なんだか・・どこまでも私は愚かで、恥ずかしい生き物だったと
情けなくなったのを記憶しています。w



仏教などで聖職者になる為に『出家する』と言いますが
出家とは、家族との縁を切る事をさします。
家族という守るモノがある以上、全ての人に平等に接する事はできなくなり
家族を守ると言う欲が、真理を知る妨げとなるからでしょう。
と言うか、家族との縁を切らない限り
真理を知る事はできないような気もします。

お布施も『志』とするのは、真理を知っているからだと思います。
供養や祈祷費用をビジネスのように定額でもらうより
その方が、寺も発展しますしね~







欲にも陰陽二通りあると思っております。
どんな人も、求めながら過ごして行くのですが
肝心なのは、何を求めて生きて行くか?という事のような気もします。




ここに、我欲が幸せを遠ざける理由を記しておきます。
あくまでも私が体験から学んだ持論なのでご容赦を!















我欲を捨てれば、恐怖心が薄れてゆく。
失う事を畏れるのが恐怖心なので
失うものがなくなる事で、恐怖心が無くなって行きます。



我欲を捨てれば、全ての人に平等に尽くすことができる。
守るモノがあると、それを優先に考える思考が生まれ
どうしても平等に接する事ができなくなるものです。
『尽くす』という行為でさえ中途半端になりますし
その行為に、見返りを求めている事に気づけなくなったりします。




我欲を捨てれば、与える喜びを手に入れる事ができる。
求めるが故に与える事が出来なくなるもので
求める事を止める事で、与える事が出来る。
与える事を実践する事でしか、その喜びを知る事は出来ないでしょう。





我欲を捨てれば、他人の幸せを願う喜びを手に入れる事ができる。
誰しも、自分の幸せ、家族の幸せを願うものですが
自分の幸せより他人の幸せを優先する事で
はじめて他人の幸せを心深く願う事が出来きます。
この喜びは、体験しないとわからないかも?




我欲を捨てれば、感謝できる喜びを手に入れる事ができる。
深く感謝する為には、深く理解する必要があり
深く理解する為には、自分に必要のないモノを理解する行為が必要不可欠です。
通常は、己の我欲が邪魔をして、利にならない物事を理解しようとはしないものです。






我欲を捨てれば、本当の自分を知る事ができる。
他人を深く理解しようとする事でしか
本当の自分の姿を知る事など出来ないものです。
他人に与える為には、その相手を理解する必要があり
相手に求めている以上、自分を知る事など出来ないでしょう。






我欲を捨てれば、生きる世界が広くなる
我欲を求めている以上、その快楽を満たす為の
情報しか得ようとしないものですが
与えようとする時は、より多くの情報が必要となり
自然と視野が広くなるものです。
物事に対しての興味も変わり
多くを知り学ぶ必要がある事にも気づけます。







我欲を捨てれば、怒りや憎しみが消えてゆく。
怒りや憎しみは、自分の何かを奪われた時に生まれる感情であり
初めから奪われるものがなければ、怒りも憎しみも生まれないものです。
怒りっぽい=欲深いという事になります。







我欲を捨てれば、他人を大切に思う事ができる。
普通は自分が一番で自分が大切なのですが
我欲を捨てる事で、他人を優先するようになり
自然に他人を大切に想う心が生まれるものです。
そして、そんな自分を大切に想う事も出来ます。






我欲を捨てれば、生きる目的を見付ける事ができる。
快楽をいくら手に入れた所で、満たされる事はないでしょう。
満たされないモノをいくら求めて過ごしても
生きる目的にはなりえないと言う事です。





我欲を捨てれば、心の自由を手に入れられる。
我欲を求めると我欲に縛られるようになり
その状態になかなか気づけないものです。
我欲に縛られるが為に、怒り苦しみ悩み孤独になるものですが
行動さえも制限され心の事由も失われるものです。
奉仕したくなる気持ちこそが、心が自由になった証でしょうね。






我欲を捨てれば、快楽と幸せの違いが明確になる
幸せは与える事でしか手に入れる事は出来ず
我欲を求めて生きている以上、どんな人も幸せにはなれないのが
この世の仕組みだと思っています。






我欲を捨てれば、無意味な事がなくなってしまう。
無意味だと感じる時は、求めるモノが手に入らないと
思った時に生まれる感情なので
初めから求めていなければ、無意味な事が無くなってしまいます。







我欲を捨てれば、どうでもいい事の大切さに気づく事ができる。
我欲を捨てると無意味な事がなくなるので
どんな出来事も自分にとって大切な事だと思ってしまうようになる。
また、どんな事にも意味を持たせる事も出来るようになる。






我欲を捨てれば、自分の全てを認め受け入れる事ができる。
嫌な自分、嫌いな自分は、理想の自分を求めるが故に生まれる感情なので
その気持ちがなくなれば、どんな自分も許せるし受け入れる事が出来るようになる。






我欲を捨てれば、ゆるす事がどんどんと増え続ける。
ゆるせないという感情は、自分の欲望を阻害する対象に向けるものです。
我欲を求める行為を止める事で、阻害される対象がなくなりますし
逆に、与えようとするようになります。
与える為には他を理解する必要があり
他を理解する行為が、本当の自分の姿を明確に映し出します。
本当の自分の姿を知る事で、至らない自分を知る事になり
ゆるせない相手と自分自身に同じ一面がある事に気づけるでしょう。






我欲を捨てれば、与える事でしか得られないのがこの世だと知る事ができる。
求めているうちは、与えようとしないので
与える事で得られる仕組みを体験する事さえできない為
そんな法則がある事すら知る事はできないはずです。
与え続ける事を行動すれば、誰でも身をもって体験できます。






我欲を捨てれば、常に与えられている事に気づく事が出来る。
求めているうちは、自分に利のある事しか知ろうとしない為
狭い視野で物事を判断する事になる。
しかも、それが全てだと勘違いしながら過ごしてしまう。
我欲を捨てる事で、視野が広くなり
常に与えられている事に、気付く事ができるでしょう。





我欲を捨てれば、感謝すべき出来事しか起きていない事に気づく事が出来る。
私たちは、快楽を求めるが故に、多くを見失っているのでしょう。
今ある物事が当たり前になり、さらなる快楽を求めるのが人の性であり
便利が当たり前を生み出し、感謝を忘れさせて行くわけです。
ただ、こんな便利な社会でも、我欲を捨てれば
視野が広くなり、様々な便利に感謝できるようになります。
出来事から学ぶ姿勢が生まれ、一つ一つの出来事に感謝するようになるでしょう。






我欲を捨てれば、幸せがいつも自分の中にある事に気づく事が出来る。
求めている快楽が満たされる事が幸せだと思っていれば
どうしても、自分の外側に幸せを探してしまう為
自分の中に幸せがある事に気づけない。
求める事を止めた時、自分を見つめるようになり
どんな状況においても自分が幸せだと思う事が出来るようになる。








まだまだ、書きだしたらいくつもあるのですが
この辺にしておきます~



私自身、奉仕活動の中からこれらを学んだのですが
社会の枠組みの中で生活してる以上
欲を捨てる事で、多くを犠牲にするという事も学びました。


特に家族に、自分の志を理解してもらえないと
不平不満を生み出す行為になります。

他人を大切にする前に家族をもっと大切にしろ!・・
と、言われるわけです。w
でも、困っている人を放置してまで
不自由のない家族を優先できないんですよね~
そんな家族が幸せになれるわけもないですしね。


ただ、その事により自分は多くの人に
支えられている事も知りましたね~
昔より、深く感謝できるようになりました。







ただ、幸せを手にする仕組みを知ったので
私は、死ぬまで幸せでいられますし
いつまでも、幸せ者だと思います。

ありがたいことですね~感謝!(^^)