修行バカの懺悔道

自分の過去の生き様に反省し、死ぬまで懺悔して生きようと心に決めたら、そこに幸せがあった。 なんだか懺悔しきれないのである。

欲を捨てると得られるもの・・・

快楽という幸せを求める事により
幸せを遠ざけてしまうのが人であり
快楽を求める事で悩み苦しみ
多くを学ぶ事ができるのが
大自然の法則だと思っています。




私の場合は、霊的苦痛から解放されたいがために
霊感を無くそうと、必死に自分と向き合った事で
たまたま、己の未熟さに気づく事ができました。

と言うか、己の幼稚さに愕然とし
大きな過ちを犯し続けてきたと
思わざるを得なくなり、深く反省したものです。^^;)

その戒めと懺悔のしるしとして
己の快楽を優先する生き方を捨てようと決め
死ぬまで徳を積み続ける生き方を選択するしかないのだろう・・と
そう思うようになりました。

当時は、自分の幸せを捨てるつもりで
突き進んだのですが、その行為が幸せになる手段だと知った時には
なんだか・・どこまでも私は愚かで、恥ずかしい生き物だったと
情けなくなったのを記憶しています。w



仏教などで聖職者になる為に『出家する』と言いますが
出家とは、家族との縁を切る事をさします。
家族という守るモノがある以上、全ての人に平等に接する事はできなくなり
家族を守ると言う欲が、真理を知る妨げとなるからでしょう。
と言うか、家族との縁を切らない限り
真理を知る事はできないような気もします。

お布施も『志』とするのは、真理を知っているからだと思います。
供養や祈祷費用をビジネスのように定額でもらうより
その方が、寺も発展しますしね~







欲にも陰陽二通りあると思っております。
どんな人も、求めながら過ごして行くのですが
肝心なのは、何を求めて生きて行くか?という事のような気もします。




ここに、我欲が幸せを遠ざける理由を記しておきます。
あくまでも私が体験から学んだ持論なのでご容赦を!















我欲を捨てれば、恐怖心が薄れてゆく。
失う事を畏れるのが恐怖心なので
失うものがなくなる事で、恐怖心が無くなって行きます。



我欲を捨てれば、全ての人に平等に尽くすことができる。
守るモノがあると、それを優先に考える思考が生まれ
どうしても平等に接する事ができなくなるものです。
『尽くす』という行為でさえ中途半端になりますし
その行為に、見返りを求めている事に気づけなくなったりします。




我欲を捨てれば、与える喜びを手に入れる事ができる。
求めるが故に与える事が出来なくなるもので
求める事を止める事で、与える事が出来る。
与える事を実践する事でしか、その喜びを知る事は出来ないでしょう。





我欲を捨てれば、他人の幸せを願う喜びを手に入れる事ができる。
誰しも、自分の幸せ、家族の幸せを願うものですが
自分の幸せより他人の幸せを優先する事で
はじめて他人の幸せを心深く願う事が出来きます。
この喜びは、体験しないとわからないかも?




我欲を捨てれば、感謝できる喜びを手に入れる事ができる。
深く感謝する為には、深く理解する必要があり
深く理解する為には、自分に必要のないモノを理解する行為が必要不可欠です。
通常は、己の我欲が邪魔をして、利にならない物事を理解しようとはしないものです。






我欲を捨てれば、本当の自分を知る事ができる。
他人を深く理解しようとする事でしか
本当の自分の姿を知る事など出来ないものです。
他人に与える為には、その相手を理解する必要があり
相手に求めている以上、自分を知る事など出来ないでしょう。






我欲を捨てれば、生きる世界が広くなる
我欲を求めている以上、その快楽を満たす為の
情報しか得ようとしないものですが
与えようとする時は、より多くの情報が必要となり
自然と視野が広くなるものです。
物事に対しての興味も変わり
多くを知り学ぶ必要がある事にも気づけます。







我欲を捨てれば、怒りや憎しみが消えてゆく。
怒りや憎しみは、自分の何かを奪われた時に生まれる感情であり
初めから奪われるものがなければ、怒りも憎しみも生まれないものです。
怒りっぽい=欲深いという事になります。







我欲を捨てれば、他人を大切に思う事ができる。
普通は自分が一番で自分が大切なのですが
我欲を捨てる事で、他人を優先するようになり
自然に他人を大切に想う心が生まれるものです。
そして、そんな自分を大切に想う事も出来ます。






我欲を捨てれば、生きる目的を見付ける事ができる。
快楽をいくら手に入れた所で、満たされる事はないでしょう。
満たされないモノをいくら求めて過ごしても
生きる目的にはなりえないと言う事です。





我欲を捨てれば、心の自由を手に入れられる。
我欲を求めると我欲に縛られるようになり
その状態になかなか気づけないものです。
我欲に縛られるが為に、怒り苦しみ悩み孤独になるものですが
行動さえも制限され心の事由も失われるものです。
奉仕したくなる気持ちこそが、心が自由になった証でしょうね。






我欲を捨てれば、快楽と幸せの違いが明確になる
幸せは与える事でしか手に入れる事は出来ず
我欲を求めて生きている以上、どんな人も幸せにはなれないのが
この世の仕組みだと思っています。






我欲を捨てれば、無意味な事がなくなってしまう。
無意味だと感じる時は、求めるモノが手に入らないと
思った時に生まれる感情なので
初めから求めていなければ、無意味な事が無くなってしまいます。







我欲を捨てれば、どうでもいい事の大切さに気づく事ができる。
我欲を捨てると無意味な事がなくなるので
どんな出来事も自分にとって大切な事だと思ってしまうようになる。
また、どんな事にも意味を持たせる事も出来るようになる。






我欲を捨てれば、自分の全てを認め受け入れる事ができる。
嫌な自分、嫌いな自分は、理想の自分を求めるが故に生まれる感情なので
その気持ちがなくなれば、どんな自分も許せるし受け入れる事が出来るようになる。






我欲を捨てれば、ゆるす事がどんどんと増え続ける。
ゆるせないという感情は、自分の欲望を阻害する対象に向けるものです。
我欲を求める行為を止める事で、阻害される対象がなくなりますし
逆に、与えようとするようになります。
与える為には他を理解する必要があり
他を理解する行為が、本当の自分の姿を明確に映し出します。
本当の自分の姿を知る事で、至らない自分を知る事になり
ゆるせない相手と自分自身に同じ一面がある事に気づけるでしょう。






我欲を捨てれば、与える事でしか得られないのがこの世だと知る事ができる。
求めているうちは、与えようとしないので
与える事で得られる仕組みを体験する事さえできない為
そんな法則がある事すら知る事はできないはずです。
与え続ける事を行動すれば、誰でも身をもって体験できます。






我欲を捨てれば、常に与えられている事に気づく事が出来る。
求めているうちは、自分に利のある事しか知ろうとしない為
狭い視野で物事を判断する事になる。
しかも、それが全てだと勘違いしながら過ごしてしまう。
我欲を捨てる事で、視野が広くなり
常に与えられている事に、気付く事ができるでしょう。





我欲を捨てれば、感謝すべき出来事しか起きていない事に気づく事が出来る。
私たちは、快楽を求めるが故に、多くを見失っているのでしょう。
今ある物事が当たり前になり、さらなる快楽を求めるのが人の性であり
便利が当たり前を生み出し、感謝を忘れさせて行くわけです。
ただ、こんな便利な社会でも、我欲を捨てれば
視野が広くなり、様々な便利に感謝できるようになります。
出来事から学ぶ姿勢が生まれ、一つ一つの出来事に感謝するようになるでしょう。






我欲を捨てれば、幸せがいつも自分の中にある事に気づく事が出来る。
求めている快楽が満たされる事が幸せだと思っていれば
どうしても、自分の外側に幸せを探してしまう為
自分の中に幸せがある事に気づけない。
求める事を止めた時、自分を見つめるようになり
どんな状況においても自分が幸せだと思う事が出来るようになる。








まだまだ、書きだしたらいくつもあるのですが
この辺にしておきます~



私自身、奉仕活動の中からこれらを学んだのですが
社会の枠組みの中で生活してる以上
欲を捨てる事で、多くを犠牲にするという事も学びました。


特に家族に、自分の志を理解してもらえないと
不平不満を生み出す行為になります。

他人を大切にする前に家族をもっと大切にしろ!・・
と、言われるわけです。w
でも、困っている人を放置してまで
不自由のない家族を優先できないんですよね~
そんな家族が幸せになれるわけもないですしね。


ただ、その事により自分は多くの人に
支えられている事も知りましたね~
昔より、深く感謝できるようになりました。







ただ、幸せを手にする仕組みを知ったので
私は、死ぬまで幸せでいられますし
いつまでも、幸せ者だと思います。

ありがたいことですね~感謝!(^^)